Tiny garden

空澄みの日に走る

 今日のツバサは、朝から様子がおかしいと思ってた。
 教室でも気もそぞろって感じで、何話しかけても上の空で、授業中もぼうっとしていて。
 帰りのショートホームルームで先生の話が長引くと、珍しく苛立った様子で上履きの爪先が上下していた。
 思ったよ、――これはきっと何かあるなって。

 ざわめく放課後の生徒玄関、飛び込んで行く背中を追い駆ける。
 いつにないほど敏捷な動きでツバサの手が靴箱の蓋に伸びた。瞬間、私の手は遮るようにそれを押さえた。
 目が合う。
 彼は、私を睨むように見ていた。
「何? こっちは急いでるんだけど」
 鋭い声で尋ねられたので、にやりとしてやる。
「何で急いでるのかな、と思って」
「別に、カナタには面白いことじゃないよ」
 ツバサの手に力が入り、私の手を退けようとする。
 だけど私も一歩も引かない。力を込めて押し戻す。
「その手、退けて」
「やだ。面白いことかどうか、判断するのは私だもん」
 大体、彼がそんなに張り切ることって滅多にない。知ってるんだ。ツバサはツバサの好きなことにしか、こんなに懸命になったりしない。
 だからそれがどんなことでも、きっと私にとっては面白いはず。滅多にない顔が見られるんだから。
「聞いたらきっと『なーんだ』って言うぞ」
 そう言うツバサの声は逸っている。腕時計をちらちら見ている。そろそろタイムリミットかな、と悟った。
「それでもいいよ。教えて」
「……全く」
 重ねて催促すると、諦め顔で溜息をついた。私の手を退けようとしていた力が、ふっと緩む。
 息継ぎもせずに教えてくれた。
「ロケットを見に行くんだ」
「ロケット?」
 私の声が、自然とすっとんきょうに跳ね上がる。そんなものがあるんだ。知らなかった。
 するとツバサも得意げに、
「そう。今日の午後、打ち上げがあるんだ。海の近くに宇宙観測所があるだろ? そこでやる。ニュースでやってたの見なかったのか、あの観測所では初の打ち上げなんだぞ」
 この手の話になるとたちまち生き生きとしてくるツバサ。宇宙とか科学とかそういうのが大好きで、機会があれば私にも熱っぽく語ってくる。私は理科も苦手だし、ツバサほど頭が良くないから、そういう話題にはついていけないんだけど。
 でも、ロケットはすごいな。テレビでしか見たことのないものがこの街にあるんだ。こんな街でも打ち上げをやるようになったんだ。知らなかった。
「見に行くの? 中、入れんの?」
 尋ねてみる。
「いや……今からは無理だと思う。時間ギリギリだし、絶対混んでる」
 答えたツバサはまた腕時計を確かめて、急に早口になった。
「だから臨海公園から見ようと思ってるんだ。あそこ、高台だし」
「ふうん」
「ほら、面白くないことだったろ? じゃあ僕は急ぐから」
 油断していた私の手をさっと払い除けると、勢いよく靴箱を開けた。外靴と上履きが入れ替わって、豪快な音を立てて閉まる。
 私は自分の靴箱に手を伸ばしながら、外靴に履き替えているツバサの、斜め後方の頭に向かって告げた。
「ついてってもいい?」
 さして驚いた風もなく彼は振り返る。
「いいけど、走るよ?」
「平気だよ」
 構わなかった。追い駆けていくのはいつものことだ。
「じゃ、急いで。あまり時間がない」
 言うが早いか玄関を飛び出して行ったツバサに、私は慌てて声を掛ける。
「あ、待ってよ!」
「待てない!」
 ああもう、これだからついて行くのが大変なんだ。
 内心密かに溜息をつきながら、急いで靴を履き替える。そしてまたツバサの後を追い駆けた。

 学校からバス停までの道を走り抜けて、ちょうどやって来たバスに飛び乗る。
 一番後ろの席に座ったツバサの隣に腰を下ろすと、古いバスのドアはがたつきながら閉まった。クラクションひとつ、その後でエンジン音を唸らせバスは走り出す。
 横にいるツバサは肩を上下させていた。額に浮かぶ汗と上気した頬。瞳は落ち着きなく、動き始めた景色を泳ぎ出す。
「間に合うかな……」
 吐く息と一緒に零れる呟き。
「時間、ないの?」
 私は髪と呼吸を整えながら尋ねた。
「言ったろ、ギリギリだって」
 返ってくる答えは素っ気ない。だけど、学校で呼び止めた私を怒っている訳でもないとわかっている。ツバサの目には他のものが映っていないだけだ。今はロケットだけ、それ以外は何も、すぐ隣にいる私でさえも映らない。
「君はロケットとか、そういうの好きだよね」
「まあね」
 話し掛けても、どことなく上の空。
 今日は朝からこうだったっけ。
「宇宙、好きなの?」
「うん」
「将来の夢は宇宙飛行士?」
「うん」
「子どもみたいだね」
「そうかな」
「そうだよ」
「そっか」
 そわそわした声は、車窓の外の景色と一緒に流れてゆく。
 私はまともな会話を諦めて、座席の背凭れに寄り掛かった。放課後に寄り道して、友達とロケットを見に行く。ツバサの勢いに乗せられてここまで来てしまったけど、よくよく考えると愉快な気がする。
 いつか、宇宙にも寄り道出来るようになるかな。
 そしたらツバサは毎日寄り道をして、大好きな宇宙にすっ飛んで行っちゃうだろうな。
「ツバサってさ、ロケットに似てるね」
 呟いてみる。
 視界の端っこで、ツバサが僅かに身動ぎしたのがわかった。
「そう?」
「うん」
 向かう方向へ、とにかく真っ直ぐにすっ飛んで行くところとか。真っ直ぐにしか進めないところとか。これと決めたらわき目も振らず、ひたむきで一途なところとか――。
「似てるよ」
 繰り返した私の言葉を聞いているのか、いないのか。彼はそれきり黙り込んで、バスの中に揺られていた。

「ほら、走るぞ!」
 バスを降りるとツバサは、また道を走り出す。
「待ってってば!」
 私も急いで追い駆ける。声を掛けてくれただけましだと思った。
 バス停から臨海公園までは勾配のきつい上り坂が続いている。舗装された道路の上を跳ねる靴はふたり分、ばたばたと忙しなく、高らかに響く。
 いい天気だった。澄み切った秋晴れに雲がぽつぽつとだけある、見事な青空模様。降り注ぐ陽射しがアスファルトをきらきら輝かせている。きっと今日はロケット日和、打ち上げ日和って奴に違いない。
「急いで!」
 だけどこの光景を楽しむ間もなく、ツバサの声にはっとする。
 坂道の先、いつの間にか彼はぐんと距離を離して、尚も走りながらこちらを振り返っていた。
「もう最終カウントダウンに入ってる!」
「え……うん!」
 私は頷き、手と足を懸命に振り動かした。
 ここまで来ておいて、ロケットを見られないなんていうのも勿体ない。急がなくちゃ。
 先を行く背中を見据えながら、坂道を、弾む呼吸で駆け上る。手にした通学カバンが今はやけに重く感じた。教科書なんて置いてくるんだった。邪魔なだけだ、ツバサを追い駆けるなら何もかも邪魔だった。カバンも結んでない髪も制服のスカートも何もかも。
 目の前でアスファルトの道がすぱっと途切れて、秋空の向こうに後ろ姿が消える。私は奥歯を食い縛り、そこを目指してスピードを上げる。追い駆ける。
 風も重力も振り切って、走る。
 やがて視界の中、真横に平行するアスファルトと空の割合が逆転し、遂にはアスファルトの路面が見えなくなって、辿り着いた坂道のてっぺんで――。
「わあ……!」
 海が見えた。
 ごく簡素で、ごく小さな臨海公園を挟んだ、向こう側に海。水平線。
 空と海の、透明水彩みたいな青さが見えた。
 公園をぐるりと囲む転落防止の柵に、大勢の人がしがみ付いているのも見えた。
 皆、ロケットを見に来たんだ。私はスピードを次第に緩めながら、流れる汗はそのままにツバサを探す。

 すぐに見つけた。
 ツバサは人垣の端っこにいた。
 空を見据えている横顔の真剣さで、すぐにわかった。
「間に合った……?」
 絶え絶えな声を掛けた私に、振り向かずに頷いてみせる。
「ほら、そこ」
 真っ直ぐに伸びた腕が指し示したのは、眼下で湾曲する海岸線。陸続きになったその先にある小高い山だ。遠目にもわかる建造物は、テレビのニュースで見たことがあるような、未来的な形に見えた。いかにもツバサの好きそうな形をしていた。
 さあ、ロケットはどこだろう。私は額を拭って目を凝らした。

 ――光った。
 強く放たれた光が目に焼きつく。直後に轟音がびりりと空気を震わせる。お腹の底から響いてくる。身体中全部震えている。
 そして、空をぐんぐんと上って行く真っ白な噴煙。その先に目映い輝き。雲を突き抜け、澄んだ秋空の向こうへ飛んで行く。わき目も振らず一目散に、ひたむきに、一途に。
「すごい……」
 私の声は、自分の耳にもよく聞こえなかった。
 ただ、臨海公園の人垣のあちらこちらで歓声が漏れたのは聞こえた。
 ロケットは空を走る。重力を振り切って、ぐんぐん遠くなっていく。
 風のない日。真っ直ぐな白い噴煙の筋を残して遠くなる。離れていく。
 そうして遂に見えなくなる。

 デジカメや双眼鏡を覗いている人がちらほらいる中、ツバサはただ空を見上げていた。
 惚けたように、見とれるみたいに。
 ロケット、見られてよかったね。そう声を掛けようか迷ったけど、結局私は黙っていることにした。感動に水を差しちゃ悪い。
 しばらく空から目を離さずにいたツバサは、やがてぽつりとこう呟いた。
「宇宙に行きたいんだ」
 ざわめきの中からその言葉を拾い上げる。そうだろうなと思う。地球から宇宙への距離はどんどん近づいている。こんな街でもロケットが見られるようになったんだから。
 私は深く頷く。
「うん、私も」
 何だかそう言いたくなって、思わず言ってしまった。
「カナタも?」
 横顔にちょっとだけ笑われた。来る前は宇宙なんて興味もなかったくせに、現金な奴だと思われたかな。実際その通りだと自分でも思う。その通りだった。
 でもどうしようもなく、魅せられてしまったんだ。好きになっちゃったんだ。ロケットが。あのひたむきさが、一途さが。
「宇宙に行くのは大変なんだぞ。勉強だってたくさんしなくちゃいけないし、体も丈夫じゃなきゃいけない。選ばれた人しか行けないんだ」
 ツバサは言う。ひたむきに、一途に、その夢を見ている彼が言う。
 だけど私は思う。
「今はそうかもしれないけど、そのうち、そうじゃなくなるよ」
 黙って、彼がこちらを見た。
「そのうち旅行気分で宇宙に行けるような日が来るよ。ツバサみたいな人がたくさん、ひたむきに頑張れば、誰でも気軽に、お散歩行くみたいに宇宙に行けるような日が、この先きっと来るよ」
 だからツバサはロケットだ。
 もしかしたら私を、いつか宇宙にも連れて行ってくれるかもしれない。
「そっか」
 ツバサの瞳がまた空へ向く。
 高い、高い秋澄みの空を真っ直ぐに見上げている。
「そうだよ、きっと」
 私の言葉に彼は、やがてひとつだけ頷いた。
「じゃあそうなったら、必ずカナタも連れて行く。今日みたいに」
 ようし、約束したよ。
 私、絶対忘れないから。
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