Tiny garden

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願わくは、花の笑うように(1)

 コートニーは願う。
 あの日の夢が、本当のものになって、せめてもう一度だけでも訪れてくれたらいいのに、と。

 あれは少し前のこと。ケストナー卿のこの屋敷にて催された舞踏会の夜。宴が終わってしまったその後に、コートニーは金髪の青年と出会った。
 大広間の掃除をするコートニーに声を掛け、踊りに誘ったあの青年は、町の劇場で演奏する楽士だと聞いていた。普段は劇場でフィドルを弾いているのだと。彼のことはそのくらいしか聞いておらず、名前すら尋ねていなかった。再び会うことが叶うとは、コートニーも思っていなかったのだ。
 あの夜の出来事はまさに夢のようだった。いささか頼りなげではあったものの、きれいな顔立ちをした青年に手を取られて、大広間で踊った一時。青年の足取りに合わせて、くるりと回り、こつこつと床に足音を刻んだあの夜のこと。青年の温かな手に引き寄せられて、目を閉じたあの一瞬のことも――。
 全ては夢のようだった。期の短い花が綻ぶように、笑うように開いて、けれどすぐに萎んでしまったような、ほんの短い間の出来事。

 あれ以来、コートニーは時々夢に見る。あの金髪の青年に手を取られ、大広間で踊る自分の姿を。夢の中でのコートニーは豪奢に着飾り、大層美しいいでたちだったけれど、そのことをなぜかちっとも気に留めていない。コートニーには、着ているものも宝石も、大広間に集う人々の羨望の眼差しも不要のもので、ただ一つ、あの温かい手だけがあればいいと思っていたのだ。あの手に手を取られて、もう一度踊りたいと願っていたのだった。
 青年の元を訪ねていくことも、全く不可能ではないのだろう。屋敷を出、丘を下って麓の町へ出て、数多ある劇場の中から彼の楽団を探し当てることが出来れば、もう一度彼に会えるのかもしれない。しかしコートニーは垢抜けない田舎娘だ。町へ一人で出て行くことなど考えもつかなかったし、そもそもケストナー卿の屋敷に住み込みで働く小間使いに、それほどの自由な時間もあるはずがなかった。
 しかしそれでもコートニーは、青年を忘れることが出来なかった。もう一度、せめてもう一度会えたらいいと思った。もう一度だけでも会うことが叶うなら、それこそ夢のようだと思っていた。

 溜息をつきながら、コートニーは花を活ける。
 今朝方、庭で摘み取ったばかりの花々を、陶器の花瓶に活けている。廊下の片隅に置かれた豪奢な花瓶には、水がたっぷり注がれている。だが活けられた花の方は元気がなく、くたりと萎れたようになっていた。
「貴方も元気がないのね」
 指先で柔らかな花びらに触れながら、そっとコートニーは語り掛けた。
 ふと視線を転じれば、廊下の窓から強い陽光が射し込んでいた。まだ夏にも早いのに、今年はいささか暑過ぎた。あまり雨が降らず、大地は乾き、埃っぽい風だけが吹いている。庭の花々はいつになく元気のない様子だった。それでも見栄えのいいものを、選んで摘んできたつもりだったのに、花瓶に活けられた花々はしょげたようにおとなしい。
 雨が降らないかしらと、コートニーも思っていた。かんかん照りの日が続けば、庭の見栄えが悪くなる。砂埃が舞う風の中には、迂闊に洗濯物も干せない。町の方からは、あちらこちらで井戸の水が枯れたという報せも届いていた。この一帯には雨の恵みが必要だったのだ。
 雨は、あの夜以来ずっと降らずにいた。コートニーの夢の中にある、あの夜の後には、一度として。

「おや、きれいに咲いているね」
 ふと、背後で声がした。
 コートニーはその声を聞くと、ぴんと背筋を伸ばした。それから編み上げ靴の踵を鳴らして素早く振り返り、一礼する。
「はい、旦那様」
「やはり花があるのはいいものだ」
 温厚そうな笑みを浮かべているのは、この屋敷の主人、ケストナー卿だ。恰幅のいい初老の貴族は、表情どおりの温厚で、穏やかな性格をしていた。政からは遠ざかり、町からも離れた片田舎に引っ込んでいる。そして狩猟と美術品の収集、それに舞踏会を開くことを趣味として日々を過ごしているのだ。こうして興味の赴くことのみに没頭し、余生を存分に謳歌して生きる卿が、しかし趣味としている美術品に対する審美眼を持ち合わせていないことは、社交界でも笑い種となっていた。もっとも卿はそんな陰口など気にするそぶりもなく、屋敷をきらびやかに飾り立てることを止めなかった。
 コートニーにとっては、卿の評判も趣味もさして関心のないことだった。使用人たちにも温かく穏やかに接し、気さくに声を掛け、働きに応じた給金を惜しまない人物であること。それこそが重要な関心事であった。
「お庭のお花だね」
 卿はコートニーに尋ねた。
 コートニーが控えめに頷き、
「はい、旦那様」
 と答えると、卿は分厚い手を花瓶に伸ばし、活けられていた花の一輪に触れた。
 僅かに、眉を顰める。
「どうも元気のないようだ。庭の花は、皆こうかね?」
「はい、旦那様。なるべくしゃんとしたものを、選んできたつもりだったのですが」
 もう一度頷いたコートニーは、すぐに視線を足元に落とす。
 ケストナー卿にとって屋敷の庭は、自慢の種の一つなのだ。庭の手入れだけは庭師を雇い、彼らに全てを任せていたから、庭は常に屋敷のどこよりも美しく整えられていたのだった。しかしこのところの干ばつで、その美しさも萎れかけている。卿に落胆をさせぬようにと庭師たちも懸命に手を掛けていたが、井戸から汲み上げた水はすぐに干からび、まるで砂漠に水を撒くようだった。
「雨は降り過ぎても困るが、全く降らないというのも困ったものだな」
 卿は独り言のように呟き、深々と嘆息した。
 物憂げな表情の似合わない人だ。横顔を盗み見たコートニーの胸も微かに痛んだ。卿には、温厚で人のいい笑顔の方が良く似合う。
 すると卿は不意に、ぱっと表情を明るくした。
 何かを思いついた様子で、傍らに立つコートニーに対し、
「そうだ、良いものがあるぞ。お前にも見せてあげよう、コートニー」
「良いもの、ですか。何でございましょう、旦那様」
 コートニーはすかさず尋ねたが、卿は笑んだだけでその場では答えず、廊下を先に立って歩き出した。
「ついておいで」
「は……はい」
 慌てて、コートニーは交ぜ織りの服の裾を翻す。磨り減った靴底を鳴らして、ケストナー卿の恰幅のいい背中を追い駆けた。

 卿がコートニーを招き入れたのは、応接間だった。
 絢爛豪華な調度の並ぶ応接間は、コートニーも掃除の時にだけ足を踏み入れている。ケストナー卿の、趣味のあまりいいとは言えない収集癖が、そこかしこに発揮されて、時々眩暈を起こさせた。だがその室内に、昨日までは見当たらなかったものが新たに飾られていたのだ。
 それを見て、コートニーは絶句した。
 一方ケストナー卿は自慢げに、年若い小間使いの反応を眺めやる。
「素晴らしいだろう、この絵は」
 コートニーは、すぐには答えられなかった。例え尊敬する主の言うことであっても、眼前に飾られた絵には、不気味さしか感じ得なかったのだ。
 風変わりな絵だった。のっぺりとした奥行きのない平面的な絵。あまり美しいとは言えないくすんだ色遣いで、何人とも知れぬ男性の顔が描かれている。血色が悪く、ぎょろりとした目付きの男だった。髪がぼうぼうに伸びているのも、コートニーには不快なものにしか映らなかった。
「この絵は、と或る聖人の顔なのだそうだよ」
 と、ケストナー卿は誇らしそうな口調で語る。
 いとおしむように絵画を見上げ、
「厳かで、神聖な雰囲気が良く出ているだろう。私はこの絵に堪らなく惹きつけられてしまって、つい買い付けてしまったのだ」
「そ、そうだったのですか」
 コートニーはようやく、声を出した。
 しかし不気味だ、という思いは追い払えない。あの瞠られた目が今にもこちらに向きそうで、震え上がりたい気分だった。今日からは応接間で掃除をする度、胆の冷える思いがすることだろう。
「この絵には、不思議な伝承があってね」
 ケストナー卿は、コートニーの蒼褪めた顔に気付かない。じっと絵に見入っている。絵を見つめながら、穏やかに言葉を続ける。
「絵の前で、一心に祈りさえすれば、どんな願いでも聞き届けてくださるそうだ。聖人の奇跡が込められた絵なのだと、商人は確かに言っていた。嘘かまことか、定かではないが――」
 そう言って、卿の視線がコートニーへ向く。
 ゆったり笑んで、語り掛けてくる。
「私は信じる気でいるのだ。一つ、叶えたい願い事があってね」
 コートニーは瞬きをする。その合間に卿が語を継ぐ。
「庭の草花のことだ。元気がないのがかわいそうでね、恵みの雨を願っていた。雨が降れば草花も、活気を取り戻すだろうからね。もっとも、叶うかどうかはわからん。叶えて貰えるものなら、ありがたいのだが」
 聖人の肖像はぎょろりと一点を睨んでいる。
 それを背に、卿は振り向き、年若い小間使いに尋ねた。
「コートニー。お前ならどうするだろうね。この絵の言い伝えを信じるかね」

 尋ねられてコートニーは、自然と唇を結んだ。
 こんな不気味な絵を信じる気には到底なれない。聖人と言うならもっと美しい描かれ方をしていてもおかしくないはずなのに、のっぺりとした、見栄えの悪いこの肖像は何だろう。不気味だという思いの方が強い。
 だが、コートニーには叶えたい願いもあった。
 あの雨の夜に出会った、金髪の青年のことだ。
 彼ともう一度出会えたなら、もう一度手を取り合い、踊ることが出来たなら。それはごくささやかな願いだった。だが、叶えようのない願いでもあった。
 平凡な田舎娘のコートニーには、願いの叶わぬ辛さがわかる。やるせなさが、身に染みるほどわかるのだ。叶うものなら叶えばいいと、強く思わずにいられない。
 だから、卿の問いには頷いた。
「旦那様。私は信じます」
 心から思い、そう答えた。
「そうか。お前は優しい子だね、コートニー」
 ケストナー卿はどことなくうれしそうに笑み、その後でもう一度尋ねる。
「ではもしお前なら、この絵には、一体どのようなことを願うのだろうね」
 それには、コートニーは答えなかった。胸裏にある願いを、卿の前で口にするのは、あまりにも出過ぎたことのように思えた。それにいささか、気恥ずかしいことのようにも思えた。
 だがやはり、内心では願わずにいられなかった。
 ――もし叶うなら、あの人ともう一度会いたい。

 聖人の肖像は、コートニーの胸のうちを聞いただろうか。
 相変わらず不気味に、ぎょろりと瞠目していた。


 あくる日の午後、コートニーは荷馬車に乗り込んでいた。
 ケストナー卿の屋敷から町までの道を、硬い御者席の端に腰掛けて、がたごと馬車に揺られていく。風の強い日で、片手で帽子を押さえながらも、浮かれた様子を隠し切れていない。時折景色を見遣っては、心ここにあらずといった様子でぼんやりしている。
 御者席で手綱を取るのは初老の使用人オーランドで、彼はコートニーの顔を横目で見ながら、時折こう零した。
「若いもんは余程、町が好きと見える」
「あら、オーランドは違うの?」
 はっとしたコートニーがすぐさま尋ね返すと、オーランドは筋張った首を竦める。
「誰が好きなもんか、あんな騒がしくて落ち着かんところ。旦那様だって町に嫌気が差したから、田舎に屋敷をお建てになったんだろうさ」
 オーランドは、コートニーが生まれるよりもずっと前からケストナー卿に仕えていたのだと言う。とりわけ他の者よりも忠誠心に篤い男だったが、いささか偏見持ちでもあった。
「町の人間なんてろくなのがおらん」
 そう言って、オーランドは鼻を鳴らす。
「お前だって知っているだろう。旦那様のところへ挙って現れる、あの意地汚い商人どもは皆、町の人間だ。旦那様が美術品に目のないことを知って、価値があるんだかないんだかわからんものを、いかにももったいつけて売りに来るんだ」
 コートニーは押し黙った。オーランドの話は概ね事実に沿っていたが、気持ちが否定したがっている。町の人間が全てそういう、信頼に値しないような者ばかりだとは思いたくなかった。
 それに、あの青年だって町の人間だ。
「わしはまだ見とらんが、酷いらしいじゃないか、応接間の絵」
 ぼやくオーランドが次に槍玉へ上げたのは、例の聖人の肖像だった。
 鼻の頭に皺を寄せて、嫌悪の情を隠さない。
「薄気味悪い男の顔がでんとあって、じろりと瞠られているようで、掃除もしづらいと皆に聞いたぞ。どうなんだね、コートニー」
「ええ……確かに、きれいな絵ではないわ」
 渋々、コートニーは頷いた。
 たちまちオーランドも息をつき、
「旦那様はお優しい方だが、人も好過ぎるんだ。商人どもの魂胆にまんまと引っ掛かって、薦められれば何でも買い込んでしまうんだからな」
 憤懣やる方ない、というようにまくし立てる。
 それでコートニーは帽子を押さえながら、強い風の吹いてくる方角を眺め遣った。
 埃っぽい風の向こうには、黒雲が広がり始めている。太陽が雲に遮られたのも、久方ぶりのことだった。荷馬車が行く街道はからからに乾き切り、あちこちがひび割れている。馬車を弾く栗毛の馬が、蹄を鳴らす音まで乾いていた。雨が降るのを待ち望んでいるのはケストナー卿の庭園だけではなかった。
「今夜辺り、雨になるかもしれないわね」
 コートニーは言い、空を見上げたオーランドが無愛想にああ、と応じると、すかさず語を継いでみせた。
「ねえ、ご存知? 旦那様はあの絵に、雨が降るようお願いなさったのよ」
「あの絵に? 何だってまた」
 オーランドは顔を顰めたが、コートニーは笑んで続ける。
「あの絵は、願い事を叶えてくれる絵なんですって。だから旦那様は、あの絵に雨が降るようお願い事をなさったの。そうしたら今日になって雲が掛かり始めたし、風も出てきたでしょう。あの絵のお蔭よ、きっと」
 まるで自分のことのように誇らしげに話すコートニーを、オーランドは渋い顔で見た。
 その後で一つ嘆息し、
「そんな上手い話があるもんかね」
 と言った。
「いかがわしいもんだよ、商人どもの持ってくる話は。そんなもんに願掛けなんぞされたら、雨どころか嵐になるかもしれんぞ、コートニー」
 とことん色眼鏡を外さないオーランドに、コートニーは言って聞かせるのを諦めた。
 あの絵のいかがわしさはあえて考えずに、ひたすら強い風が吹いてくるのを楽しんでいる。雨の匂いがするような気がして、心を躍らせている。本当に雨が降ればいいのに、と思っていた。そうしたら自分の願いも、もしかすると叶うかもしれない。
 やがて見えてきた町の景色に、胸を弾ませるコートニー。長い時間馬車に揺られて、硬い座席と石頭のオーランドに苦痛を感じつつも、町へ連れてきて貰ったのには、当然の如く理由があった。

 人里離れたところに建つケストナー卿の屋敷には、たびたび美術品を抱えた商人たちがやってきた。しかしそういった者たちが関心を持っているのはあくまで卿の金庫のみで、使用人たちが買い物をするなら、わざわざ町まで出て行かなければならない。給金を貰った次の日には、手の空いている者が皆の分まで買い出しに向かうのが通例となっていた。
 コートニーはこの日の為、自分の仕事を猛然と片付けた。半日不在にしていても十分なように全てこなしておいた。そして今回は自分が町に行きたいのだと、皆にそれとなく訴えた。若い娘の町行きについて、使用人頭はあまりいい顔をしなかったし、同道するオーランドも感心しないといった風ではあった。しかし、乗り心地の決していいとは言えない馬車に長い時間揺られて、騒がしく埃っぽい町まで出て行こうなどという物好きは、コートニーくらいしかいなかったのだ。
 かくしてコートニーは町までやってきた。
 あの不気味な聖人の絵が、たった一つの願いを叶えてくれることを祈りながら。
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