Tiny garden

ラストチャンス

 朝、家を出たら、膝の高さまで雪が降り積もっていた。
 道を遮る雪山を乗り越え、やっとの思いでバス停まで辿り着いた。なのに待てども待てどもバスがやってくる気配はない。
 やっぱりなと思いつつ、私は白い溜息をつく。

 バスを待つのは私、一人きりだった。
 三年生が学校に来なくなった二月の末、それでも毎朝混み合っているはずのバス停は、七時半時を過ぎたというのに訪れる人影もない。準備のいい子はもっと早めに来て、遅れがちなバスに何とか乗り込んでしまえたんだろう。
 白く覆われた景色の中に、まだバスは現れない。目の前の道路を徐行運転の車が時折通り過ぎていくだけだった。このままだと恐らく遅刻だ。だからと言って、除雪のほとんどされていない道を学校まで歩いていく気力はもうなかった。
 また一つ、溜息をつく。
 ただでさえここ数週間はバス通学が憂鬱だったのに。何の面白味もない、唯一の楽しみさえ失われてしまったバスでの登校が、今日はとうとう遅刻の要因になってしまうなんて何ともついてない。事情が事情だからバス会社を責める気にもならないけど、私は学校の先生に怒られてしまうに違いない。もっと早くに家を出てくれば済む話だったのだから。

 憂鬱な気分を持て余していた、その時だった。
「ふう」
 私の代わりに誰かが、深く息をついた。
 その声に聞き覚えはほとんどない。なかったけど、何とはなしの予感があって、私は素早く振り向いた。
 そしてすぐに目を逸らす。
 一瞬だけ真正面から捉えることができた姿は、やっぱりあの人だ。
 三年の、三浦さん。
 同じ高校に通う先輩だった。直接『先輩』と呼べるほどの関係ではないものの。
 男子にしては小柄な三浦さんは、その代わりとても姿勢が良かった。短い清潔感のある髪型と、少し寝惚けたような眼差し。柔らかく、優しい印象のある横顔は、私にとって一瞬見ただけでも捉え切れるほどに鮮烈だった。
 三年生にも普通に授業があった去年頃は、毎朝三浦さんの姿をバス停で見かけていた。バスを待つあの人の姿をそっと覗き見ることが、私の登校時の唯一の楽しみだった。それももう、失われてしまったものと思っていたけど――。
 今日は一体どうしたのだろう。三年生は登校日だったんだろうか。少しぶかぶかのブルゾンを着込んだ三浦さんを横目で見る。
 あの人は雪を纏わせたバス停の時刻表を覗き込み、指でそっと雪を払った後で、自分の腕時計を確かめた。
 それから、おもむろにこちらへ振り返った。
「バス、時間通りに来るかな?」
「えっ」
 声をかけられて、私は言葉を詰まらせる。
 話しかけられたのも初めてなら、目が合ったのも初めてだった。思わず、視線を足元に落とす。
「あの、七時二十分のバスが、まだ来てないから」
 酷く素っ気ない声になった。
「え、そうなんだ。結構遅れてるね」
 三浦さんは私のすげなさを気にした風もなく言った。直後、雪を踏みしめる音が聞こえてきた。
 目の前を黒い影が動き、私のすぐ隣で止まる。
 俯いたままでもわかった。――あの人が、私の隣に立っている。肩の高さが比べられるほどの距離。私よりも少しだけ高い。
 とても冷え込む朝なのに、頬が上気して熱かった。
「こんなに降るって滅多にないから、どこも大変そうだね」
 ごく平然と話し掛けて来る三浦さんの声は、想像していた通りに優しい。
 私はそれにさえ満足に答えられず、頷くばかりだった。

 接点はこのバス停だけだ。
 毎朝見かける三浦さんに、私はいつしか憧れを抱いていた。
 今日まで話したこともなければ、どんな声をしているのかもよく知らなかったし、どんな人柄なのかも知らずにいる。ただあの優しい顔立ちと、引退するまではラケットバッグを持ち歩くテニス部員だったと言うことと、うちの高校の三年生であると言うことぐらいしか知らなかった。
 それともう一つ。
 もうじき三浦さんは高校を卒業してしまい、バス停どころか校内でさえ見かけなくなってしまうだろうということ。それだけは十分過ぎるほどよく理解していた。
 仕方がない。会えなくなるのはどうしようもないことだ。この気持ちもきっと、いつしか忘れてしまえる。そう思って心の整理をつけようとしていたけど、この短いやり取りの間でさえ頬が熱くなったり、動悸が忙しなくなったりしている。たった今初めて口を利いた、まるで知らない人なのに、私は彼に憧れていた。恋愛感情だなんて到底呼べるものでもないけれど、ずっとずっと前から憧れていた。
 きっと、今くらいしかない。ふたりきりで、話し掛けても不自然じゃない状況があって、今はまたとないチャンスなのかもしれない。最初で、恐らくは最後にもなってしまうチャンス。これを逃せば、私は三浦さんとの接点を本当に失ってしまう。だから。
 せめて最後に一言だけは、伝えておきたかった。

「あの」
 私は喉の奥から、強張った声を振り絞る。
 隣で三浦さんが少し身じろぎをするのがわかった。
「ん?」
「えと……今日は、登校日ですか」
 たったそれだけ告げるのに、かなりの労力を要した。口の中はからからで、声は硬い。まるで素っ気ない。
 おまけに三浦さんがどんな顔をしているのか、見ることもできない。
「いいや、違うよ」
 間を置かず、三浦さんが応じる。
「今日は先生のところに挨拶に行こうと思って。進学先、決まったからね」
 と言ってから、ふと気が付いたような声を上げてきた。
「あれ。俺が三年だって、良く知ってるね」
「え、ええとそれは、その、最近、見かけなかったから」
 とっさに私はでまかせを言う。
「ああ、そっか。それもそうだ」
 三浦さんは腑に落ちたらしく、足元の影が頷くのが見えた。
 だけどそれっきり、会話は途切れてしまう。

 上手く話せない。
 初めて交わす言葉が、どうしてか素っ気ないものになってしまう。
 ちゃんと伝えたいのに。
 言いたいことがあるのに、このままじゃ乱暴に投げつけるだけだ。またとないチャンスにも、頬が強張り、唇が震えて、寒さに耐える時のように言葉を口に出来ない。

 逸る思いを抱えつつ、恐る恐り視線を上げた。
 車通りの少ない道を、ぼんやりした視線で見つめている三浦さんの横顔が、ちらと目に飛び込んできた。
 優しい顔。
 穏やかで、柔らかくて、温かそうで――初めて見かけた瞬間、たちまち印象深く記憶に残ってしまった顔立ちが、今までにない近さにある。
 これ以上は近づけなくてもいい。手が届かなくてもいい。せめて、伝えたい言葉を伝えることができたら、それだけで。
 三浦さんの声の優しさを、今、少しだけ分けてもらえたら。
 私が次の言葉を発しようと、頭にその声色を思い浮かべた時だった。
「――ねえ、君」
 不意に三浦さんがこっちを向いた。
 しかも目が合ったのは優しい微笑だ。お蔭で私は、何もかもが吹っ飛んでしまった。口は開けたけど何も出てこない。
 三浦さんは穏やかに続ける。
「バスが遅れてるからって、あまり焦ることはないと思うよ」
 さっき思い浮かべたよりも、ずっと優しい声だった。
「こんな天気だし、先生方もわかってくれてるはずだから、心配しなくていいよ。多分電車も遅れてるだろうし、授業の開始も繰り下げになって、遅刻扱いにはならないよ、きっと」
 向けられた気遣いの言葉。私がバスの遅さに苛立っているように見えたのだろうか。そうじゃないけど、焦っているのはバスのせいじゃないけど、とてもうれしい。
 微笑みかけられても呆然としているだけの私に、三浦さんの口調はあくまでも優しかった。
「だからのんびり待っていようよ。こんな日じゃ、どうせ焦ったってしょうがない」
 はっとさせられるほどに、温かい。

 すぐ隣で聞いた優しい声は、私の声をも解きほぐした。強張っていた頬も、震えていた唇も、寒さが引いた後のように自由に動き始める。
 そして、
「あの」
 呼び掛ける言葉は、驚くほどすんなりと出た。
 急ぐように続ける。
 今なら言える、絶対に言える。
「少し早いですけど、――卒業、おめでとうございます」
 私の告げたお祝いに、ややあって、三浦さんが目を見開いた。
「……え」
「ご進学もおめでとうございます。かなり、早いですけど」
 そう言い添えると、驚きの表情が数秒後、ゆっくりと微笑に変わる。
 三浦さんの笑顔が、私の言葉に応える為の笑顔が、すぐ近くにあった。
「あ、……ありがとう」
「はい」
 私もどうにか微笑んだ。
 きっとぎこちないに違いない、三浦さんの表情に比べたらずっと頼りない笑みだっただろうけれど。
 言いたいことが言えたから、それで十分だった。
「最後だから……」
 後から呟いた私の声は、
「是非、言いたかったんです」
 多分、三浦さんには届かなかった。
 遠くからエンジン音を唸らせて、ようやくバスがやって来たからだ。辺りを覆うようにがなり立てるバスの声に、小さな呟きは儚く掻き消えてしまっただろう。
 でも、本当に十分だった。

 混み合うバスに乗り込んで、私は吊り革に掴まった。
 頬が熱く、動悸が激しい。
 今になって照れて来て、私はそっと唇を結んだ。憧れていたあの人に、言いたかったことをちゃんと言えた。だから、ほんの少しだけ安堵もしていた。
 良かった。
 ラストチャンス、無駄にはならなかった。

 バスのドアが閉まった時、私は思わず溜息をついた。
 だけどほっとしたのも束の間、
「あの、さ」
 バスが走り出したのとほぼ同時に、躊躇いがちに声をかけられた。
 ぎょっとしてそちらを向くと、揺れる車内のすぐ隣に、吊り革を掴んだ三浦さんが立っていた。照れ笑いを浮かべた、私よりちょっとだけ背の高い三浦さんが、肩がぶつかりそうなほど近くにいた。
「せっかくだから言っておきたかったんだけど」
 そう前置きして、三浦さんが言った。
「実は、春から通う大学も、この路線なんだ。このバス乗って通うから」
 私は呆然とそれを聞いている。
「だから最後じゃないよ」
 三浦さんは、優しい声を微かに震わせながら、
「卒業してからも、春からもまたよろしくね」
 呆気に取られている私に向かって、言った。

 ラストチャンスが『ラスト』じゃなくなった瞬間だった。
 私は正直に自覚した。三浦さんが憧れの人から、本当に好きな人に変わってしまうのももう間もなくのことだろう。もしかするともう、恋愛感情に成り代わってしまっているかもしれない。
 頬の熱さも動悸の速さも、何より堪え切れない幸せの笑みも、私の内心をわかりやすく表している。
 いつがラストチャンスになるかなんて、誰にもわかったものじゃない。
 次のチャンスが来た時は、いっそはっきり告げてしまおうか。

 バスがぐらりと大きく揺れて、肩がぶつかった。
 そのタイミングで私は、背の高い三浦さんの耳元に、背伸びをしながら囁いた。
 ――私にもう一度、言いたいことを告げるチャンスをください。
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