ケーキの謎が解けたなら
玄関のドアを開けると、何やら甘い匂いが漂っていた。ただいまを言う前に足元を見る。母さんのスリッポンの横にもう一足、見慣れた小さなローファーがある。
来てるのか、と思うのと同時に足音が近づいてきて、リビングに続くドアが開いた。
「凜くん、お帰り!」
顔を覗かせた琴葉はほっぺたを真っ赤にして、ポニテにした髪をバンダナで覆っている。おまけにエプロンまで着けていた。
そしてこの匂い、うちに来てまで何やってたかはすぐわかる。
「またお菓子作ってたのか?」
「うん、凜くんのお母さんに教わったの」
「へえ……」
「ちょうど焼きたてだから美味しいよ。早く、早く来て!」
琴葉が俺の手を掴んで引っ張るから、俺は待て待てと宥めて靴を脱いだ。
そして得意げな笑顔に連れられ、いい匂いのするリビングへ向かった。
手を洗ってからリビングのテーブル前に座る。
差し向かいにはバンダナを取った琴葉と、うちの母さんが並んで座った。
そして間のテーブル上には、琴葉が焼いたというケーキが置かれている。大きさはフライパンくらい、丸いケーキの上に薄切りのリンゴが花びらみたいな放射状に並んでいる。リンゴは火が通ってつやのある黄金色に変わり、見るからにみずみずしく美味しそうだ。
「リンゴのケーキか」
「そうだよ」
俺の呟きに琴葉は頷き、隣で母さんがにこにこしている。
「琴ちゃんはお菓子作りが本当に上手ね。おばさんも教え甲斐あるなあ」
もともと母さんもお菓子作りが好きな人で、誕生日なんかにはいつもケーキを焼いてくれる。
できれば自分の子にもお菓子作りをさせたいと思っていたそうだが、あいにく俺は食べるの専門だった。そんな母さんにとって、隣の家の琴葉は絶好の弟子になったみたいだ。
琴葉がうちの隣に引っ越してきたのは俺が七つの時で、もう六年以上の付き合いになる。
琴葉の家は共働きだから、おばさんに残業が入った時はうちで面倒を見ることもあった。そうじゃなくても母さんはお菓子作りを教えるのが好きだし、琴葉もやたら習いたがるしでちょくちょく遊びに来ていた。
俺としてもお菓子が食べられるのはうれしいし、琴葉にねだられれば中学に入った今でも一緒に遊んだりする。といっても相手は女子、ゲームも可愛いのしかやりたがらないし、俺の大好きなホラー漫画を怖がるしでそこら辺はちょっとめんどい。でもまあ、いい子だ。可愛いとは思ってる。
客観的に見れば、俺たちもいわゆる『幼なじみ』って間柄になるんだろう。
その琴葉が焼いた本日のケーキを早速いただく。
リンゴは甘酸っぱくジューシーで、しゃきしゃきと歯ごたえもある。リンゴから染み出た水分を吸ったケーキ生地はしっとりしていて、焼き加減も文句なしでとても美味しかった。
「美味しいな、これ。もう一切れ」
あっという間に食べ終えた俺がお替わりを頼むと、琴葉と母さんはぱちんと手を叩き合う。
「やった! 凜くんに喜んでもらえた!」
「琴ちゃん、凜乃介に食べさせたいからって頑張ったんだもんね。よかったねえ」
母さんが言うと、琴葉は照れたようにえへへと笑った。
そして俺の為に、二切れ目を大きく切り分けてくれる。
「たくさん食べてね。凜くんの為に作ったんだから」
「ああ、ありがと……」
ストレートに言われるとこっちまで照れる。
歯切れの悪い俺を見て、母さんは冷やかすように微笑んだ。
「琴ちゃんはきっといいお嫁さんになるね!」
すると琴葉はまたえへへと笑い、俺は黙って二切れ目のケーキを頬張る。
この件に関してはノーコメントを貫くのが賢いとわかっている。うちの母さんはすぐあれを言うから厄介だ。
「ね、凜くん」
そこで琴葉が俺を呼び、
「実はね、このケーキには名前があるの。何だかわかる?」
顔を上げた途端、ぱっちりした目を輝かせて尋ねた。
「名前? ケーキのか?」
「うん。当ててくれたら、また美味しいケーキを作ってあげる!」
にこにこしている琴葉の隣で、母さんも含んだような顔をしている。
俺はと言えば、当然戸惑った。
ケーキの名前を当てろっていきなりにも程がある。そりゃ俺は甘いもの好きだけど、そこまで詳しいわけじゃない。
「『リンゴのケーキ』、なんて安直な名前じゃないよな?」
「もちろん!」
「じゃあ、リンゴの……『花びらケーキ』とか?」
「はずれー」
「あ、もしかして英語か? ブロッサムケーキとか!」
「それもはずれー」
違ったか。
この見た目から他に思いつく名前なんてない。でも実はこじゃれた正式名称があったりするんだろうか。
「これ、当てられなかったらどうなる?」
念のために尋ねたら、琴葉はうーんと首をかしげる。ポニテの先がその動きに合わせて揺れた。
「わかんなかったら、凜くんにはがっかりするかも……」
「え!?」
「もうケーキ作ってあげたくなくなるかなあ……」
「わ、ちょ、待て! 当てる! 必ず当てるから!」
こんなことで失望までされるのは辛い。俺が慌てると、琴葉はくすくすと大人びた笑い声を立てた。
「ヒントをあげるね。ケーキの名前は英語、そこは合ってたよ」
それだけのヒントで当てられたら苦労はない。
結局何も思いつかず、しょうがないので数日の猶予をもらった。
「何日か時間をくれ、じっくり考えるから!」
「いいよ。わかったら教えてね」
琴葉と指切りで約束はしたものの、特に手掛かりがあるわけでもなく。
次の日、俺は学校でクラスの友達に聞きまくった。
「ケーキの名前を知りたいんだよ。昨日家帰ったらうちの幼なじみが作って待っててさ、ケーキの名前当てろって言うんだ。一周はフライパンくらいの大きさで、上にこう、花びらみたいにリンゴがぎっしり載せられてて、生地は普通のスポンジっぽくて、リンゴの水分を吸ってしっとりしてて美味しくて――」
だけど有力な手掛かりはほとんどなかった。
それどころか、クラスの男どもからは思わぬ形で集中砲火を受けた。
「秋田お前、幼なじみの手作りケーキとか自慢か? あ?」
「かわいい幼なじみがいる奴とは口利かないって家訓あるんでー」
「どうせ小さな頃におもちゃの指輪で結婚の約束してんだろ!」
「つかマジむかつく、リア充滅せよ」
揃ってやっかみ全開の顔で言ってきた。
琴葉は確かに幼なじみだけど全然そういうんじゃないし、結婚の約束なんてしてないし、そもそも俺リア充でもないし――っつってもみんなして聞く耳持たず。八方ふさがりだ。
そもそもケーキの名前って店頭でもけっこう曖昧だったりする。同じチョコのケーキでも『チョコレートケーキ』だったり『ガトーショコラ』だったり『オペラ』なんて名前がついてるのもあったり。
だからこれはもう、候補の名前をたくさん仕入れてって物量で圧倒する以外に策はないんじゃないか?
その日の終わりにはそんなことを考え始めてさえいた。
だけど更に次の日、悩める俺に声を掛けてきた奴がいた。
「秋田くん、ちょっといい?」
昼休みの図書室で、ケーキのレシピ本を開こうとしていた俺は、手を止め顔を上げる。
俺の椅子の傍らに立っていたのは、同じクラスの男子だった。
ええと、名前は確か――。
「……田渕」
奴の名前を、もしかしたら俺は初めて口にしたかもしれない。
田渕――下の名前は覚えてない。クラスではあまりしゃべらず影が薄いと見せかけて、その薄さから逆に目立ってるタイプの人間だ。仲のいい友達もいないらしくいつも一人で昼飯食べてるけど、それを気にしているのかいないのか、よくわからない。
多分、田渕の方も俺に声を掛けたのは初めてだろう。親しみも緊張も嫌悪感もゼロの、実にフラットな表情で言った。
「昨日話してたケーキの名前の件、解決したかなと思って」
ぎょっとした。
ケーキの話を田渕にはしていない。ただ教室であれだけ叩かれればクラスメイトの耳に入るのは当然なわけで、そこは別に驚きじゃない。
驚いたのは、俺が未だにその難問の渦中から抜け出せずにいたからだ。
「い、いや、全然だ」
俺は首を横に振る。
すると田渕は一度だけまばたきをした。
「僕はその答えを持ってる」
「マジか!」
思わず声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。
貸出カウンターの図書委員にじろりと睨まれ、俺は声を落とした。
「あれだけの説明でわかったのか?」
「うん」
田渕は静かに答える。
「秋田くんの事情はわからないけど、答えが必要なら提供できるよ」
それは願ってもない申し出だ。一も二もなく飛びついた。
「頼む、ぜひ教えてくれ」
俺は頭を下げた後、田渕の為に隣の椅子を引いてやる。
田渕は長居する気がなかったのか、座るのを一瞬だけためらった。
だがすぐに思い直したようで、俺の隣に腰を下ろす。
「名前は、『アップサイドダウンケーキ』だよ」
もったいつけずに、拍子抜けするほどあっさりと切り出した。
「あっぷ……何だって?」
「アップサイドダウンケーキ。"upside down"はひっくり返すって意味だ」
ひっくり返す?
意味がわからず困惑する俺に、田渕は尚も淡々と、
「リンゴがケーキの上に、花びらみたいに並んでるって言ってただろ? でも焼いている間は逆なんだ。まずリンゴを並べて、その上から生地を流し込んで焼く。皿に載せる時にひっくり返すと、きれいに並んだリンゴがケーキの上に来る」
「なるほど……!」
それでアップサイドダウンケーキか、腑に落ちた。
「秋田くん、『フライパンくらいの大きさで』って言ってたけど、実際フライパンで作ったんじゃないかって」
可能性はある。母さんはやたらどでかいオーブンを持ってるけど、琴葉にはまだ危ないからってあまり使わせたがらない。
なるほどな。琴葉はそのひっくり返す工程が面白く思えて、それで俺に謎かけをしたのかもしれない。
「すげえな田渕、ありがとな」
俺が礼を言うと、田渕はちょっとだけ唇を動かした。
笑ったんだろう。多分。
「お前ケーキ詳しいの?」
ついでに尋ねてみたら、今度はその顔がにわかに緊張したように見えた。
あ、聞かれたくないことなのか。
そう思って撤回しかけた俺に、奴は言う。
「違う。僕は秋田くんの話が不思議に思えて、持ち帰っただけ」
持ち帰ったってどういうことだ。
怪訝に思っていれば、田渕は肩をすくめた。
「実はこれ、ある人がしてくれた推理なんだ」
「ある人って誰だよ。名探偵の知り合いでもいるとか?」
俺は半ば冗談のつもりだった。
でも、田渕の表情は複雑な変化を見せた。言おうか言うまいか迷ったんだろう、少しの躊躇の後で続ける。
「そう、だね。僕にも幼なじみがいて――」
躊躇した割に、次の言葉が誇らしげに見えたのは気のせいだろうか。
「その人は、名探偵なんだ」
名探偵――なんて魅力的な響きだ。
田渕の意外なカミングアウトは、俺の中二マインドをぞくぞくするほど揺るがしてくれた。
「え、それってどんな人? 私立探偵とかいうやつ? やっぱパイプ吸ってんの? 紹介してくれよ!」
俺が思わず詰め寄ると田渕はちょっと迷惑そうにして、何も答えてはくれなかった。
代わりに図書委員が眉を吊り上げたので、俺たちは図書室をこそこそ退出した。
でも気になるな、名探偵。あの田渕にそんな知り合いがいたとは。
まあそれについては追々聞けばいいとして。
答えを得た日の放課後、俺は家に帰る途中で偶然にも琴葉と行き会った。
「あっ、凜くん!」
歩道橋の上から俺を見つけて、琴葉は足取りも軽く駆け下りてくる。
俺はその真下で見守りつつ出迎えた。
「琴葉も今帰りか? ずいぶん遅かったな」
「今日、委員会あったから」
琴葉は俺の隣に並ぶと、うれしそうにこちらを見上げた。
「でもおかげで凜くんと会えた! ね、一緒に帰ろうよ」
「もちろん」
俺の方も琴葉に用があった。ようやくあのケーキの謎が解けたんだ。
夕暮れ色の通学路を、琴葉の歩幅に合わせてゆっくり歩き出す。
「ケーキの名前、わかったよ」
そしてそう切り出すと、ポニテの先がぴょこんと跳ねた。
「えっ、本当?」
「ああ」
俺はうなづき、田渕に教わったとおりの名前を告げる。
「『アップサイドダウンケーキ』。合ってるか?」
たちまち琴葉の目が輝き、俺の腕に飛びついてきた。
「そう! すごいよ凜くん、ちゃんとわかってくれたんだ!」
いや、ちゃんとと言われるとかなり微妙だ。
なにせこっちはカンニングしたようなものだからな。
琴葉をがっかりさせて申し訳ないけど、こっちも嘘をつくのは心苦しい。
それで、正直に言った。
「実は俺、自力じゃ解けなくてさ。同じクラスの奴に教えてもらったんだ」
「凜くんの学校の子?」
「厳密には違うか。そいつの幼なじみが名探偵なんだって」
「名探偵!?」
やはりこのフレーズは琴葉の心にも響いたようだった。
仕方ない。子供はみんな名探偵が好きだ。
「それって本物? どんな人? やっぱり鹿撃ち帽かぶってる?」
「わ、ちょっと待て、落ち着けよ」
矢継ぎ早の質問を宥めてから、俺は琴葉の疑問に答えた。
といっても俺が知ってる情報なんてわずかだから、大したことは話せない。田渕が俺の話を持ち帰り、名探偵だという幼なじみに打ち明けた。その幼なじみは見事にケーキの名前を言い当てて、田渕がそれを俺に教えに来てくれた――それだけだ。
「じゃあその人、安楽椅子探偵なんだね」
それでも琴葉は好奇心に目をきらきらさせていた。
「そうなるな。すごいよな、推理力」
「どんな人なんだろうね。凜くん、何も聞いてないの?」
「全然。あんまり言いたくなさそうにも見えたし」
「そっか……」
少し残念そうにした琴葉が、その後で俺の顔を覗き込む。
「でもね、私ちょっとわかるかも」
「何を?」
「名探偵、女の人だよ。それに、田渕さんの彼女じゃないかな」
俺たちの影がスクールゾーンの標識をかすめ、撫でていく。いくら日が傾こうが琴葉の影は俺より短い。
にもかかわらず、琴葉は妙に自信ありげだった。
「女? その発想はなかったわ……名探偵だろ?」
半信半疑の俺が呻くと、逆に信じがたいという顔をされる。
「名探偵が女の人じゃおかしい?」
「そんなことないけどさ……」
逆に女だったら、そして彼女だったら、普通もうちょい匂わしてくるんじゃないかと思う。
でも田渕の『普通』なんてわからんか。あんまり喋ったことないし。
そう思った時だった。
街灯が点りはじめた道の向こう、赤信号とびゅんびゅん走る車で遮られた横断歩道の先に、見知った顔が歩いていた。
「あ、田渕」
噂をすればあいつだ。俺と同じ制服姿で、誰かと一緒に歩いてる。
オレンジ色の陽射しの下、俺は何となく足を止め、目を凝らした。
田渕が――笑っているのが見えたからだ。
図書室で俺に見せた曖昧な表情とは違う、この距離でもはっきりとわかる笑顔だ。
そして奴の隣には知らない人がいた。女性だ。黒いワンピースの上に薄いグレーのカーディガンを羽織っている。背中まである長い黒髪がカーディガンの裾と一緒に風をはらんで、少しもたつきながら歩いていた。
けっこう美人じゃん、と思った。
しかも年上のお姉さんかよ、と思った。
高校生、下手すると大学生くらいじゃないか。眼鏡の似合うきれいな人だ。田渕が笑うのに対し、そのお姉さんは少しむくれたような顔をしていて、二人の間の空気から間違いないと確信できた。
あの人が、田渕の幼なじみだ。
「じゃあ、一緒にいる人が名探偵さんかな」
琴葉も俺の隣で立ち止まり、二人の様子を眺めている。
二人はこちらに気付くことなく横断歩道の前を通り過ぎ、そのまま別の路地に入って見えなくなった。
「マジかよ」
俺は愕然と呟いた。
「年上のお姉さんとか、聞いてないんだけど……」
田渕なら言わない、言うわけがない。それはわかる。
だけどあまりに恵まれすぎてやしないか。美人で年上の幼なじみがそれに加えて名探偵とか!
「うらやま……」
思わず本音が漏れた俺の袖を、琴葉がぐいっと引っ張った。
力の強さに不機嫌さを悟ってそちらを向けば、予想に反して琴葉は笑顔だった。
「凜くん、こないだのケーキの名前、覚えてる?」
「え? ああ、アップサイドダウン、だよな」
俺が覚えた通りに答えれば、琴葉は俺の袖を握り締めたままで続ける。
「そう! また作るから、楽しみにしててね!」
その言い方は、どことなく必死に聞こえた。
でもまあ、例のケーキは実際美味しかったから、楽しみにしてるよと俺は答えた。
後日、俺は昼休みに田渕を廊下へ呼び出し、問い質した。
「お前の幼なじみ、めっちゃ美人のお姉さんかよ」
「……なんで知ってるの?」
田渕は別段驚いたふうもなく、ただただ怪訝そうに聞き返してくる。
「こないだ一緒に歩いてるとこ見かけた。あの人が名探偵なんだろ? 幼なじみが年上のお姉さんとか、どんだけ恵まれた人生送ってんだよ」
俺が羨望も込めてまくし立てると、田渕は一層不思議そうにする。
「秋田くんだって幼なじみがいるだろ」
「いるけど……俺の場合は年上じゃないし」
「小学生、なんだよね」
田渕が、言い当てた。
いや、違う。言い当てたのはきっと名探偵の方だ。
「それもわかるのか」
「うん。秋田くんが帰った時にケーキがもうできてたなら、帰りの時間が違いすぎる。それにきみは帰宅部だしね。幼なじみは違う学校の、きみよりずっと帰宅時間が早い子ってことになる。高学年じゃないだろうって言ってたよ」
「すごいな、当たってる」
琴葉は小学四年生だ。初めて会った時、あいつはたったの四歳だった。
だから、何と言うか、幼なじみではあるけどずっと妹みたいに思ってるわけで。
「『名探偵』が言ってたんだけど――」
田渕がそこで、ほんのちょっとだけ口元を緩めた。
この間よりはわかりやすい、でもまだぎこちない笑顔だった。
「だから"upside down"なんだろうって」
そして、そう言われた。
「……何がだ?」
とっさに聞き返しても田渕は答えず、そろそろ戻るねと言い残して教室へ引き返す。
呼び止める暇もなく、俺は一人で廊下に取り残された。
ほとんど流れで、必然的に、田渕の置いていった言葉を考える。
"upside down"
――ひっくり返す。
ひとつの予感が胸を過ぎった。
「まさかな」
琴葉は小四だ、そんなこと考えてるわけがない。俺に対する感情だって、近所のお兄ちゃんに対する根拠もない憧れとか、懐いてるだけとか、そんなものに違いない。
でも。
『わかんなかったら、凜くんにはがっかりするかも……』
そこまで言った琴葉の必死さが、そういう理由だと妙に腑に落ちる。
「ませてんな、あいつ……」
呻いてはみたものの、この落ち着かない気持ちはどうしようもない。
でも、琴葉とはこれからも顔を合わせるだろう。この間みたいに下校途中にばったり会うこともあれば、うちに来て、母さんからお菓子作りを習うことだってあるはずだ。
こんなメッセージを叩きつけられて、これから一体どんな顔を合わせろっていうんだ。
ケーキの謎が解けたなら、さぞかしすっきりするだろうと思ってた。
名探偵が現れて、華麗に謎を解き明かしてくれたっていうのに――真相がわかった方がもやもやするなんて、難しいな。