リースベット姫は生きているか
北方の公爵令嬢リースベットは、十九の冬に病死した。治癒術の使い手として領民を救ってきた彼女だったが、自らが流行り病にかかった時、その癒しの力は何の役にも立たなかった。公爵と夫人をはじめとする多くの人々の祈りも空しく、臥せってからほんの数日でこの世を去った――はずだった。
死の二日後、リースベットは息を吹き返した。
宮廷魔術師のスヴェンが、禁忌の秘術を使った為だ。
瞼の向こうの眩しさに、リースベットは目を開いた。
ぼやける視界の中に誰かの影があり、自分をじっと見つめているのがわかる。
リースベットが目を凝らすと、その影は荒い呼吸に肩を上下させていた。眩しい銀髪に目が留まり、リースベットは彼の名を呼ぶ。
「スヴェン……?」
リースベットが知る限り、この城で銀色の髪をしているのは宮廷魔術師のスヴェンだけだ。渇いた喉が震え、引きつるような声を立てると、傍らのスヴェンがはっと息を呑む。
「姫様!」
「わたくしは……」
「姫様姫様姫様っ! 気がつかれましたか!」
たちまちスヴェンは縋りついてきて、リースベットの手を握る。
彼の分厚い手のひらはしっとりと汗ばんでおり、額にも銀色の髪が張りついていた。だがそれに構うことなく、顔をくしゃくしゃにしてスヴェンは続けた。
「ああ、その翠玉の瞳にもう一度見つめていただけるとは! ご安心ください、姫様のお命はこのスヴェンが縫い止めました!」
彼はいたく感激した様子で、リースベットの手に頬擦りをする。
だがリースベットは事態が飲み込めていない。頭に霞がかかったように、記憶を手繰ることができない。自分は――ずっと、眠っていたのだろうか。
酷く喉が渇いていた。硬い寝台に横たえられているようだが、身体がいやに重く、起き上がる力もなかった。
「縫い止めた、とは?」
その言葉が引っかかり、リースベットはぎこちなく尋ねる。
するとスヴェンは荒い息を吐き出し、
「お心を確かにお聞きください。姫様は病で臥せっておいででしたが、一昨日の朝、一度息を引き取られたのでございます」
と言った。
当然ながら、すぐに理解できるはずもなかった。
「息を……引き取った? わたくしが?」
「さようでございます、姫様」
スヴェンは頷き、尚も続ける。
「そのことで公爵閣下及び奥様は大変お嘆きになられました。そして私めに、死霊術の使用を命ぜられたのです」
「死霊術!」
リースベットは思わず声を上げ、すぐにむせて咳込んだ。
スヴェンはそんなリースベットをそっと起き上がらせると、背中を優しくさすってくれた。
「驚かれるのも無理はございません。ですがこれも、閣下と奥様の姫様への深い情愛あってのこと」
「そんな、でも、死霊術だなんて……」
呆然と、リースベットは自らを見下ろした。
絹のローブを身に着けた華奢な身体は、一見して不審な点はない。
溜息をつけば唇から温かな息が吐き出され、胸に手を当てれば確かな鼓動を感じられた。手足には血が通い、手のひらは薔薇色をしている。
この生命の営みが、禁忌の秘術によってもたらされたものだとは思えなかった。
リースベットも治癒術の使い手、それゆえに死霊術が何かも知っている。生き物が持つ生きる力を最大限に引き出し、活性化させるのが治癒術なら、死者の魂を無理やり呼び覚まし、朽ちゆく身体に縛りつけるのが死霊術だ。人の世の理を外れた死霊術は忌むべきものとされており、この国でも例外ではないはずだった。
「わたくしは、生ける屍になったということ?」
震える声で尋ねたリースベットに、スヴェンは真心からの笑みで応じる。
「いいえ、姫様は確かに生きておられます」
「嘘……。死霊術を使われた者が生きているなんて、あるはずが――」
「生きておられます、姫様」
そう繰り返したスヴェンは、リースベットの金色の髪を撫でる。
「今日からまた、姫様の身体は元通りに動き始めました。お水もお食事も必要となりましょうし、この美しい御髪もしなやかに伸びることでしょう。何一つ、心煩うことなどございません」
リースベットの胸には不安しかなかったが、スヴェンの優しさにはほんのわずかに心が和んだ。
温かい手の感触に思わず目を伏せると、微かな笑い声の後にスヴェンは言った。
「では、そろそろ閣下をお呼びしましょう」
そう言うとスヴェンは部屋の奥にある閉ざされた扉に呼びかける。
「閣下! 姫様が目を覚まされました!」
たちまち扉は破られるような勢いで開き、公爵ヴィルマルとその妻フェリシア、そしてリースベットの妹シーグリッドが飛び込んできた。三人とも酷くやつれた顔をしていたが、半身を起こしたリースベットに気づくと驚愕の表情を浮かべた。
「おお……本当に上手くいくとは……!」
ヴィルマルが呆然と呻く横で、フェリシアはわっと泣き伏せる。
「リースベット! 戻ってきてくれたのね!」
幼いシーグリッドはまだ信じられぬ様子で、おずおずと口を開いた。
「お姉様、生きていらっしゃるのですか? 本当に?」
「……ええ」
リースベットは頷いたが、今の自分が『生きている』のかどうか、自分でも判断つきかねていた。
だが娘の困惑をよそに、公爵夫妻は泣きながらリースベットに駆け寄ってくる。臥せっていた頃から娘を案じ、そして蘇ったことを喜ぶ両親の姿に、リースベットもほんの少し気持ちが和らぐようだった。
リースベットの傍らでは、スヴェンが未だにその繊手を握り締めている。
ひとしきり泣いた後でヴィルマルが気づき、ようやく宮廷魔術師を労った。
「この度はご苦労だった、スヴェン。後で何なりと褒美を取らせる、下がってよい」
しかし、スヴェンはそこで微笑んだ。
「お言葉ですが、閣下。私は姫様のお傍を離れることはできません」
「お前がリースベットをことさら案じていることは知っている。だが、今は親子だけにしてもらいたい」
ヴィルマルが重ねて告げても、魔術師はかぶりを振るばかりだ。
「いかに閣下のご命令と言えど、不可能なのでございます」
「不可能とな? 理由を申せ」
「姫様の魂をそのお身体に縫い止める為には、私の持ちうる全ての魔力が必要となります」
スヴェンがそっと、握った手に力を込める。
「私がお傍を離れれば、姫様の魂はたちまちそのお身体を離れてしまいます。ご理解いただけますか」
問われたヴィルマルが実際に理解するまでには、数瞬の時を要した。
「つまり……それは、リースベットの命はお前が傍におる限りということか」
「さようでございます、閣下」
「片時も離れられんということか」
「さようでございます、閣下」
リースベットもまた、その会話を愕然と聞いていた。
禁忌の秘術に代償がないはずもない。世の理を外れた以上、その命を繋ぐには何かを支払わなければならない。だが――。
「これで私とあなたは、生涯離れられなくなりました」
スヴェンが至福の笑みを浮かべ、リースベットに流し目を送る。
その輝く笑顔と、両親が見せる困惑の表情を見比べて、リースベットは混乱の只中にあった。
「……生涯?」
「その通りでございます、姫様」
スヴェン曰く、人ひとりを蘇らせるのに必要な魔力は甚大なものだという。
若くして宮廷魔術師となったスヴェンでさえ、その魔力の全てを捧げなくてはリースベットの魂を維持できぬという話だ。公爵にも語った通り、スヴェンがリースベットの傍らを離れれば、縫い止められていた魂もたちまち身体を離れてしまうとのことだった。
「ですので、私はこれより常に姫様のお傍におります」
二十代半ばのスヴェンは、その凛々しさに似合わぬ屈託のない笑顔で語る。
「閣下のお許しはいただきました。宮廷魔術師にも急ぎ後任を探してくださるそうです」
「では、あなたのお仕事は?」
リースベットが尋ねると、スヴェンは何でもない調子で答えた。
「今の私には、姫様の魂を縫い止める以外の魔術は使えません。宮廷魔術師でいる資格もございません」
「そんな、あなたにそこまでしてもらうのは――」
思わず声を上げたリースベットを、彼は軽く手を挙げて制する。
「これは私が望んだこと。この生涯を姫様に捧げられるなら本望でございます」
「だけど、それではスヴェンが……」
「私は幸福でございます、姫様」
スヴェンは言葉通りの明るい表情をしている。
リースベットにとってのスヴェンは、兄のように慕ってきた存在だった。彼が宮廷魔術師になったのはもう五年も前のことだが、出会った頃から彼はリースベットに優しかった。仕事の合間に訪ねてきては魔術で育てた花をくれたり、蝶を指に止まらせてくれたりした。だからこそ彼の言い分には首肯しがたい。
「わたくしは、あなたを犠牲にしてまで生きたいとは思いません」
必死になって訴えても、スヴェンは頑なにかぶりを振った。
「姫様のいらっしゃらない世界の方が、私にとって地獄でございます」
「どうして、そこまで」
これまでとは違う彼の優しさに、リースベットは困惑していた。
だがもっと困惑したのは、スヴェンが決して辛そうではなく、むしろ上機嫌でいることだった。
「さあ姫様、このお話はおしまいにいたしましょう」
そう言うとスヴェンは寝台のリースベットを抱き上げた。
「あっ、やだ、自分で歩けます!」
「ご無理をなさらずに。姫様は病み上がりでございます」
恥じらうリースベットの抗議の声を意に介さず、隣室に設えた食卓まで運んでいく。そして足で自ら椅子を引いたかと思うと、スヴェンはリースベットごと腰を下ろした。
匙を手に取ったスヴェンが、膝の上のリースベットに声をかける。
「ではお食事といたします。しばらくは重湯になさった方がよろしいでしょう」
「あ、あの、スヴェン……」
「お口を開けてください、姫様」
耳元で囁かれ、戸惑いながらも口を開ければ、匙で掬った重湯が流し込まれる。適度に冷まされた重湯は長らく食事を取っていなかった舌に甘く、空っぽの胃には染み込むようだった。
「美味しゅうございますか」
問われてぎこちなく頷いた後、リースベットはおずおずと言い添える。
「ですが、自分で食べられます。下ろしてください」
「近くでないと、あなたの魂がお身体から離れてしまいます」
「こんなにも近くでなければならないのですか?」
そう聞き返すと、スヴェンは目を瞬かせた。
それからまた笑んで答える。
「この方が都合がよいのは確かです」
「そう、ですか……それなら仕方がありません」
釈然としないながらも、リースベットは現状を受け入れた。
蘇った自分が不安定な存在であることはわかっていたから、スヴェンの言葉に従うのは正しいのだろう。恥ずかしささえ我慢できれば、苦ではない。
「私はどんな食事より、姫様がお戻りになったという事実を味わいたいと存じます」
スヴェンはリースベットの腰を抱き、噛み締めるように呟いた。
こうして二人の奇妙な生活が始まった。
リースベットはスヴェンの言葉に従い、彼と寝食を共にした。三度の食事は必ず彼の膝の上で取り、眠る時も同じ寝台で、手を繋いで眠った。
「少し、風に当たりたいのです」
復調してきたリースベットが散歩をしたがると、
「お供いたします、姫様」
スヴェンも必ずついてきて、雪降り積もる城の庭を共に歩いてくれた。
ヴィルマル公は蘇ったリースベットに城から出ることを禁じた。それは臥せる前のリースベットがたびたび城下町に出かけていたからだ。流行り病を貰ったのも病人と接触したからだと言われていた。
「治癒術の心得がありながら、病に倒れるなんておかしなことです」
ある時、庭を散歩しながら、リースベットはスヴェンに語った。
リースベットには生まれながらに治癒術の才能があった。幼い頃からその力を領民の為に使い、多くの人々がそれによって苦しみから救われていた。
だが自らが病に倒れた時、多くの人を救ってきた治癒の力を使うことはできなかった。
「姫様は高い熱に魘されておいででした」
その記憶を辿る時だけ、スヴェンは酷く辛そうにしてみせる。
「ですからご自身を癒せなかったのも、無理はございません」
「いいえ、違います。それが神より授かりし運命であったからでしょう」
リースベットにはわかっていた。
十九歳で迎えた冬、あの日こそが自らの定命の日であったと。だからこそ多くの人々を救ってきた癒しの力は、リースベット自身には働かなかった。
「わたくしはまだ、現状を受け止めきれてはいないのです」
黙りこくるスヴェンを、リースベットは真っ直ぐに見つめる。
「定命に逆らってまで生きる意味があるのでしょうか。いえ、わたくしは、本当に生きているのかさえ……」
蘇ってからずっと、不安を打ち払えずにいた。禁忌の秘術を用い、スヴェンから全ての魔力を奪ってまで生き永らえることに意味はあるのだろうか。父親が自分を蘇らせようとしてくれたこと、スヴェンがその通りに蘇らせてくれたことに感謝すべきなのだとわかっていても、どうしても飲み込みがたいものがあった。
スヴェンはリースベットの言葉には答えなかった。その金髪に舞い降りた雪を手でそっと払った後、寒さに赤らむ頬に触れ、こう切り出した。
「お身体が冷えたようです、姫様。お風呂へ参りましょうか」
「え……」
その言葉を聞くと、リースベットは気恥ずかしさに目を逸らした。
「め、目隠しはしてもらいますけど、よろしいですか」
「無論、承知の上でございます」
この北方では、風呂と言えば熱した石に水をかける蒸し風呂を指す。蒸気で身体を温め、浮かんだ汗と汚れは石鹸で洗う。だがそんな時間でさえ、リースベットはスヴェンを傍らに置かなくてはならない。
二人は身体を布で覆い、スヴェンだけは目隠しをされた状態で、蒸し風呂の中に並んで座った。
しかし滲む汗のせいで時々目隠しがずれるようで、リースベットは気が気でない。
「目隠しを外さないでください」
「承知しております、姫様」
「目隠し越しに見るのも駄目です、目をつむって!」
「つむっております、姫様」
スヴェンはその都度、粛々と返答をした。彼の態度は堂々たるもので、隣に半裸のリースベットがいようとうろたえたりはしない。
それどころか、堂々と要求もする。
「目を覆われているので、私の身体は姫様が洗っていただけますか」
「わ……わかりました」
嫁入り前のリースベットは羞恥に赤面しながら、スヴェンの全身を丁寧に清めた。
その時、スヴェンは実に幸福そうだった。
「姫様の御手が私に触れる度、生きていらっしゃるのだと実感いたします」
浴室に彼の満足げな溜息が響く度、リースベットはいろんな意味で落ち着かない気分になった。
だが、二人の暮らしが穏やかであったのは、ほんの数日間だけだった。
リースベットの復活は、直に現実的な問題をもたらした。
そもそも彼女の死は、公式には伏せられていた。公爵令嬢にして癒しの力を持つリースベットを欲しがる者は多く、領内の有力者が挙って息子を婿にと望んでいたからだ。ヴィルマル公も領内の安定の為に娘の婿を取ろうとしており、だがスヴェンによってそれが阻まれた格好だった。
「本当にどうにもならんのか」
ヴィルマルは何度となくスヴェンに尋ねた。
「どうにもなりません、閣下」
「だが、このままではリースベットは結婚もできん。あまりにも不憫だ」
公爵はスヴェンの隣に寄り添う娘を気遣わしげに眺め、更に夫人フェリシアが同調する。
「今のリースベットは、まるであなたの人形のようではありませんか」
夫妻は蘇った娘を腫れ物に触るように扱っており、リースベットは肩身の狭い思いを抱いていた。
俯く彼女を見かねてか、スヴェンは尚も反論した。
「姫様は生きていらっしゃいます。代償があることは先にご説明いたしました」
「リースベットは婿を取らなくてはならんのだ。何とかならんか」
「残念ながら、ご期待に添えそうにはありません」
「不可能を可能にするのが魔術師だろう」
「お言葉ですが、魔術も所詮人のなすこと。限界はございます」
ヴィルマル公の再三の問いに対し、スヴェンの答えはいつも同じだった。
「しかしそれでは、リースベットは真に生きていると言えるのか」
次第に公爵は苛立ちを隠さなくなっていた。
有能な宮廷魔術師を失い、更に娘の政略結婚が潰れようとしているのでは無理もない話だった。
「城の中にはリースベットを怖がり、近づかぬ者も現れた。スヴェン、一刻も早く娘を元の生ける者に戻せ。でなければ娘は疎まれる一方だ」
ヴィルマルの言葉通り、城内では蘇ったリースベットを恐れる者が多かった。
生前のリースベットは気立てがよく、誰からも好かれる令嬢だったが、今となっては侍女さえ寄りつかず、身の回りをするのはスヴェン一人きりだった。
そして最もリースベットに恐怖を抱いていたのは、他ならぬ妹のシーグリッドであった。
「お姉様……」
城内で顔を合わせる度、シーグリッドは酷く怯え、その小さな身を竦ませた。
リースベットは妹をとても可愛がっていたから、以前のように優しく呼び続ければその恐怖も解きほぐせると信じていた。
「シーグ、怖がらないで」
だがシーグリッドはかぶりを振って、尋ねてきた。
「お姉様は、本当に生きていらっしゃるの?」
そしてリースベットが言葉に詰まると、声を震わせてまくし立てた。
「わたくしは、お姉様の呼吸が止まったのを確かに見ておりました。なのにお父様もお母様もスヴェンも、その運命を捻じ曲げてまでお姉様を……それで本当に、生きていらっしゃると言えるのですか?」
リースベットには、もはや言い返すこともできなかった。
それを見たシーグリッドは逃げるように踵を返し、怯える侍女たちがその後に続いた。
「わたくしは何の為に生きているのでしょう」
ある日、二人きりの部屋の中で、リースベットはスヴェンに零した。
「皆に怖がられ、父の為に結婚もできず、果てはあなたから全ての力と宮廷魔術師の地位を奪ってしまった。わたくしに生きている意味などあるのでしょうか」
そう呟いてからふと、その言葉にすら自信が持てなくなって、涙混じりに語を継ぐ。
「いえ……シーグの言う通り、わたくしは本当に生きているのでしょうか」
「姫様は生きていらっしゃいます」
間髪入れず、スヴェンは答えた。
そしてリースベットが流す温かい涙を、そっと指で拭ってくれた。
「それに、私はこの力をあなたに捧げたこと、後悔はしておりません。姫様さえいてくだされば、他に望むものもございません」
だが、その言葉こそがリースベットにはずっと疑問だった。
どうして彼は自らの力と生涯を、何の迷いもなく――むしろ幸せそうに捧げてくれるのだろう。
「あなたはなぜ、そこまでしてくれるのですか」
リースベットが尋ねると、スヴェンはその繊手をしっかりと握った。
そしていとおしげに微笑みながら語る。
「姫様がかつて町で癒された人々の中に、私がおりました。もう十年も昔になります」
リースベットの癒しの力は、大勢の領民を苦しみから救ってきた。
その中に銀髪の少年がいたことも、あったのかもしれない。
「あれから私は、お城に上がり、姫様のご恩に報いる為だけに魔術の勉強をいたしました。そして念願叶って宮廷魔術師となり、姫様のお傍にいられるようになりました」
スヴェンはリースベットの手に頬擦りをする。
「ですから、これでよいのです。姫様の為に生きられれば、それだけで」
「スヴェン……」
リースベットは呆然と彼の名を呼び、そして別の言葉を続けようとした。
だが次に声を発したのは、部屋に駆け込んできた伝令だった。
「閣下がお呼びです、スヴェン殿。城下で反乱が起きました!」
血相を変えた伝令が語るには、かねてより不穏な動きのあった有力者の一派が、遂に蜂起したという。
彼らはかねてよりリースベットの婿に一族の者をと進言していたが、公爵が煮え切らぬ態度を取るようになったことで不信を募らせたようだ。一派のうちの血気盛んな者どもが、公爵とその令嬢に直談判すると乗り込んでくるとのことだった。彼らは武器や火を手にしており、一触即発の事態であることを伝令は訴えた。
「スヴェン殿にはこれより前線へ出て、その反乱を抑え込めとのご命令です」
「私はもう、宮廷魔術師ではない」
スヴェンは愕然とかぶりを振ったが、伝令も悲痛に反論する。
「この事態をできる限り穏便に収束するには、スヴェン殿の魔術が必要なのでございます。姫様のお命が大切なのはもちろんです。ですが、あなたにはもっと多くの命を救うお力があります」
「では、姫様のことは、どうなさるようにと?」
「それは……時に非情な判断も必要であると……」
「閣下は姫様をお見捨てになるのか!」
声を荒げるスヴェンを目の当たりにして、リースベットは思わず彼の腕に縋りついた。
「父の判断をわたくしは正しく思います。どうかその通りにしてください」
「姫様!」
スヴェンが愕然とする。
だがリースベットは気丈に諭した。
「あなたは私の恩に報いる為に魔術を学んだのでしょう。ではどうかその力で、誰も傷つかぬように事態を収めてください」
諭すごとに、スヴェンの凛々しい顔から血の気が引いていく。
「ご冗談を……ご命令に従えば、あなたの魂を手放してしまう!」
「わたくしは構いません。どうせ、あの日に一度尽きた命です」
自分一人の命と、これから救えるかもしれない多くの命。どちらが大事かは天秤にかけるまでもない。父ヴィルマルもこの時ばかりは施政者として正しい判断をしたはずだった。
「ですが私は……」
声を震わせながら、スヴェンはリースベットを抱き締める。
華奢な身体に込められた強い腕の力に、リースベットは苦しげな吐息を漏らした。だがそれでも、スヴェンは離そうとしなかった。
「私も、姫様の呼吸が止まる瞬間を確かに見ておりました」
その時の記憶が蘇ったように、スヴェンは悲嘆の声で語った。
「姫様が息を引き取られるご様子、もう二度と見たくはありません……もう二度と!」
彼を禁忌の秘術に駆り立てたものが何か、リースベットにはもうわかっている。
何もかも擲っても自分を生かそうとしてくれた彼の想いに、思わず笑んで、囁いた。
「お願いです。どうか父と、皆を救ってください」
スヴェンが息を呑むのが聞こえて、リースベットは言葉を続ける。
「そして全てが終わったらその時は、あなたが決めてください、スヴェン。もし、あなたの生涯にわたくしが必要だと望んでくれたなら――」
「必ず、お迎えに参ります」
涙を拭い、スヴェンは即答した。
それからリースベットを抱き上げ、寝台に横たえると、その髪を一度撫でてから部屋を出ていく。
リースベットは伝令と共に去っていくスヴェンの背中を見送ったが――そこで意識は再び途切れた。
次にリースベットが目を覚ました時、そこは真っ白な雪原だった。
薄雲の向こうに眩しい日が差しており、今は朝方のようだ。リースベットを見下ろすスヴェンの髪も、きらきらと美しく光っている。
「よかった……気がつかれましたか」
額に汗を浮かべたスヴェンが、弾む呼吸と共に言った。
そして腕の中のリースベットを抱き締め、深い安堵の息をつく。
「仰せの通りにいたしました。宮廷魔術師として最後の務めを終え、姫様をお迎えに上がりました」
「スヴェン……では、皆は……」
リースベットがかすれた声で尋ねれば、スヴェンはその翠玉の瞳に頷いてくれた。
「城も、町も、そして閣下らもご無事です」
「そう、よかった……」
胸を撫で下ろしたリースベットは、スヴェンの手を借りて身を起こす。
二人がいるのは公爵の居城を遠くに望む、雪に覆われた小高い丘だった。目覚めたばかりのリースベットは肌寒さに身を震わせたが、それを毛布とスヴェンの腕が暖かく包んでくれた。
「だけどどうして、お城の外に?」
リースベットの次の問いに、彼は恥ずかしそうに笑んで応じた。
「お許しください、姫様。私はあなたを攫ってきてしまいました」
「まあ……!」
「宮廷魔術師の職を辞し、あなたと共に生きる為にはこうするしかなかったのです」
恐らくヴィルマル公は、見事な働きで反乱を退けたスヴェンを慰留しようとしたのだろう。
だがスヴェンはその地位よりも、リースベットを選んでくれた。
「私の生涯にはあなたが必要です、姫様」
城を飛び出してきたらしいスヴェンが、いとおしげにリースベットを見下ろしている。
「これからはどうか、私の為に生きてくださいませんか」
リースベットの答えはとうに決まっていた。
手を伸ばし、スヴェンの頬に触れながら告げる。
「もちろんです。二度も私を連れ戻してくれて、ありがとう」
彼の傍でなら生きられると思っていた。
もちろんそれはただ息をしているということではない。彼だけが自分を生者として、ただのリースベットとして必要としてくれた。今のリースベットにはそのことがとても嬉しいのだった。
答えを聞いたスヴェンは、至福に顔をとろけさせた。
「では、死が二人を別つまで。ずっと一緒です、姫様」
だがその言葉に、リースベットは思わず笑う。
「あなたは死にさえ、その力で抗った。わたくしが死んだところで離さなかったではありませんか」
「そういえば、仰る通りです」
一切の迷いが見えぬ瞳で、スヴェンは改めていとしい人を見つめた。
「何を犠牲にしても、何度でもあなたを蘇らせてみせます。どこまでもご一緒いたしましょう」
その冬、リースベットは宮廷魔術師と共に城から消えた。
政略結婚の駒にもならぬ姫君と、姫の命を繋ぐことしかできぬ魔術師には、おざなりな追手が差し向けられた。だが当然、発見されることはなかった。
同じ頃、更に北の山向こうの小さな集落に、若い夫婦が住みついた。
仲睦まじいその夫婦は、慣れぬ畑仕事の間も、村人に学問を教える時も、片時も離れず寄り添い合っているという。まだ新婚なのか、銀髪の夫は妻の名を呼ぶ時、それはそれはぎこちなく、だが幸福そうに口にするのだそうだ――リース、と、彼女の名を。
つまり、リースベット姫は確かに生きている。
愛する人の傍に寄り添い、穏やかに日々を過ごす。ごくありふれた生き方を、誰にも咎められることなく味わっている最中だった。