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アリサは遠い故郷を奏でる

 アリサが布包みを開くと、古ぼけたフィドルと弓が現れた。
「あんた、楽器なんて弾くの?」
 寮で同室のレルフィナが、それを見て目を丸くする。
 もっとも度重なる実戦訓練のせいで、彼女の瞼はすっかり腫れ上がっている。瞠目するのさえ辛そうだった。
 アリサも既に満身創痍で、口を開くと唇の右端がずきずき痛んだ。それでも、ここでの数少ない友人の問いに答える。
「村にいた頃はよく弾いたの」
「ふうん……けど、騎士になるって人の趣味じゃないよ」
「かもね」
 アリサは頷くと、フィドルを手に部屋を出ていこうとした。
「ちょっと、外で弾いてくるね」
 するとレルフィナは寝台の上に身を起こし、背中越しに声をかけてくる。
「消灯までに戻っておいでよ。寮監が新しい鞭を手に入れたって」
「わかってる」
 友人の助言に、アリサは痛みを堪えて微笑んだ。

 少女アリサは騎士を志し、田舎から出てきたばかりだった。
 幼い頃から体格に恵まれたアリサは、銅色の髪の愛らしい娘ぶりとは裏腹に、十代半ばには村一番の剣士となった。
 立身出世を夢見て故郷を離れ、帝国騎士団に加わったのはつい数ヶ月前のことだ。広い領土を統治する帝国は戦乱の火種に事欠かず、騎士団の扉は広く開かれて、田舎娘のアリサをもすんなりと受け入れてくれた。
 だが騎士見習いとなったアリサを待っていたのは、厳しい訓練に次ぐ訓練の日々だった。
 故郷の村でこそ敵う者のないアリサだったが、騎士団にはアリサ程度の才能は珍しくもない。そして教導官も驕れる若者の扱いには慣れているようで、騎士見習いたちを容赦なくしごき抜いた。もちろんそこに男女の区別はなく、アリサもレルフィナも娘らしい顔や手足に生傷の絶えない日々を送っている。
 そして訓練の他にはろくな楽しみもない。帝都は田舎育ちの娘には人が多すぎたし、わずかばかりの給金では贅沢もできない。寮での暮らしは窮屈で、三度の食事には不満も多く、おまけに寮監による厳格な監視制度が敷かれている。
 アリサがフィドルを弾きたくなったのも、そういう殺伐とした暮らしに疲れたせいかもしれない。

 月光が差す宿舎の裏手まで来ると、アリサはフィドルを構えた。
 左肩と顎で挟んで支え、左手でフィドルを持つ。右手には弓を持ち、静かに弦の上を滑らせる。宿舎の中ではうるさがられるから弾けないが、ここでなら気兼ねなく音を鳴らすことができる。
 奏でる曲は懐かしい、村の祭りの祝歌だ。軽妙に弾む旋律は楽しげで、月の浮かぶ静かな夜には不似合いだったが、アリサは楽しい気分でフィドルを奏でた。毎日剣を握り続けている手には肉刺ができていて、演奏中にも時々痛んだ。だがその痛みすら忘れるほど、アリサは懐かしい故郷の音楽に酔いしれていた。
 だから、かもしれない。
「ごめん、ちょっといいか」
 すぐ近くで声をかけられるまで、他人の気配に気づかなかった。
「えっ」
 とっさにアリサは手を止めて、驚きつつも振り返る。
 黒髪の見知らぬ青年が、いつしか背後に立っていた。
 痩せこけた身体つきの、物憂い雰囲気を漂わせた青年だった。細い目とやつれた顔立ち、象牙色の肌をした彼は、黒い瞳を爛々と光らせてアリサを――いや、アリサが持つフィドルを見ている。痩躯がまとう服はアリサと同じ騎士団の制服だが、アリサより十は年上に見える。上官かもしれない、そう思ったアリサは背筋を伸ばす。
「はっ。何かご用でしょうか」
「今の演奏は、君が? そのヴァイオリンは君のなのか?」
 青年が前のめりに尋ねてきたので、アリサは不審に思いながら頷いた。
「演奏していたのは自分であります。この楽器は仰るものではなく、フィドルでありますが」
 ヴァイオリンなど、聞いたこともない名前だ。アリサの反論に、青年は怪訝そうにする。
「同じものだろ」
「同じ……?」
「いや、通じないならいい。にしても、ここにもヴァイオリンがあったなんて……」
 青年は訳のわからぬことを言った後、食い入るようにアリサのフィドルに見入った。
 その眼差しに居心地の悪さを覚えたアリサだったが、次の瞬間、思わず息を呑む。
 青年の黒い瞳から、大粒の涙が零れ落ちたからだ。
「ああ、ごめん……。懐かしくて、つい」
 呆然とするアリサの前で、彼は涙を拭いながら詫びてくる。
「俺の故郷にもあるんだ、この楽器。それで、酷く恋しくなって……」
 どうやら彼は懐郷病に罹っているようだ。年上には見えたが、実はアリサと同じで田舎から出てきたばかりなのかもしれない。今年入った騎士見習いは三桁近くいるそうで、アリサにとって見知らぬこの青年が、同じ見習いである可能性もなくはないだろう。
 そう思うと、アリサは彼に共感を覚えた。
「もしかして、あなたも騎士見習いでは?」
 アリサの問いに、彼は涙の残る目を瞬かせる。
「見習い……ああ、まあ、そういうものかな」
「やっぱり! 私もそうなの」
 同士への気安さから、アリサは唇の痛みも忘れて破顔した。
 それからうって変わっていきいきと話し始めた。
「私も故郷が恋しくなって、それで今夜はフィドルを弾きに」
「君も、遠くから来たのか?」
 そう尋ねた時、青年はどこか探るような、慎重な口ぶりだった。
 アリサは頷き、
「田舎者なの、私。帝都の暮らしにはまだ慣れなくて」
「……そっか」
 青年はその言葉に弱々しく唸る。
 それから一度だけためらい、その後でアリサに言った。
「よかったら、もう一曲聴きたい」
「もちろん、いいよ」
 乞われたアリサは、快くフィドルを構え直した。
 それから自己紹介がまだだったことに気づいて、彼に名乗る。
「私、アリサ・ジオリック。あなたは?」
 黒髪の青年は一瞬言いよどんでから、答えた。
「俺は……リヒト。リヒト・サウラだ」
「見習い同士よろしくね、リヒト」
 そしてアリサが微笑むのを見て、どこかほっとしたように頷いてみせた。
「ああ、よろしく」

 アリサはリヒトの為に、故郷に伝わる祭りの歌を奏でた。
 彼の故郷がどこかは知らない。だが祭りの歌はきっとどこでも似たようなものだろう。晴れの日を祝い、踊り歌う為の明るい旋律を、アリサは巧みな弓捌きで弾いてみせた。
 リヒトは曲に似合わぬ真剣な面持ちで聴き入っていたが、弾き終わったアリサが一礼すると、温かい拍手をくれた。
「上手いな。君は素晴らしい演奏家になれる」
「楽士になりたいなんて言ったら、家を出してもらえなかったよ」
 この国では、音楽は軽薄な趣味として軽んじられていた。楽士の辿る道は金持ちを捕まえて飼われるか、そうでなければ吟遊詩人として街角で小銭を稼ぐかだ。アリサが祝歌しか弾けないのも、そういう場でしか音楽を奏でる機会がなかったからだった。
「もっと聴きたい。駄目かな」
 リヒトがせがんできたが、そろそろ消灯の時間だと月の傾きが知らせている。
「もう戻らないと。寮監に怒られたくないもの」
 かぶりを振るアリサに、リヒトは切実な眼差しで食い下がった。
「じゃあ、また会えるか?」
「当たり前じゃない。騎士見習いは訓練も、宿舎だって一緒でしょう?」
 会えるも何も、今まで知り合いにならなかったことの方が不思議なくらいだ。アリサは笑ったが、リヒトは笑わなかった。
「そうじゃない。ここで、って意味だ」
「え……?」
「もっとアリサの演奏を聴きたい。できればまた会って欲しい」
 縋るような彼の口調に、アリサは困惑した。
 それほどに自分の演奏を気に入ってくれたのなら光栄な話だが、リヒトの懇願ぶりは不思議なくらいの必死さに見える。アリサのように、単に故郷を離れ、恋しがっているというだけではないような――気のせいだろうか。
 もっとも、弾き手として求められること自体は悪い気がしない。少し考えて、アリサは快諾した。
「いいよ。私も、また聴いてもらえたら嬉しいな」
「ありがとう。じゃあ明日も、月夜だったらここで会おう」
 リヒトは安堵したのだろう。そこで初めて表情を解いた。
 こけた頬を緩ませて笑んだリヒトに、アリサは驚かされていた。やつれた顔が浮かべた微笑は、それまで漂っていた物憂さを吹き飛ばすように穏やかだ。血気盛んな若者の集団に身を置くアリサにとって、リヒトはあまり接したことのない類の人間だった。
「そ、そろそろ戻ろうか?」
 なぜかどぎまぎしながら、アリサは彼に告げた。
 ところがリヒトは首を横に振り、
「先に戻れよ、アリサ。一緒に戻ったら誤解されるだろ」
「……それもそうだね。うん」
 アリサは慌てふためきつつ、その言葉に従った。
 幸いにも消灯までに部屋に帰りつくことができ、寮監から新しい鞭を試されることもなかったが――その夜は、すぐには寝つけなかった。

 翌朝、アリサはリヒトの姿を探していた。
 宿舎の食堂で朝食を食べる時も、午前の訓練の間も、暇があると視線を巡らせては彼がいないか探していた。
 だがいくら見回しても、騎士見習いたちの中に昨夜会った青年の姿はなかった。
「何をきょろきょろしてんの?」
 レルフィナが怪訝そうにしたが、アリサは曖昧に答えるしかない。
「ううん、何でもない……」
 騎士見習いの中にいないのなら、昨夜の彼は一体何者だったのだろう。まさか身元不確かな相手と通じてしまったのではないだろうか。見習いの身分で知り得た情報など大したものではないが、昨夜の会話を振り返ってアリサは一抹の不安に駆られた。

 その時、騎士見習いがひしめく訓練場に、突如どよめきが起こった。
 訓練場を望む物見台、そこでは護衛の侍従騎士をつけた要人が、見習いたちを見下ろしていた。
 騎士団の制服をまとってはいるが騎士にしては痩せていて、髪の色は黒。肌の色は象牙色で、瞳は黒々としている。そして辺りに視線を巡らせながら、誰かを探しているようだ。やつれた顔に浮かぶ物憂い表情には、見覚えがあった――。

「軍師様だよ、アリサ!」
 周囲の動揺に感化されたように、レルフィナがアリサに囁いた。
 だがアリサはその場に凍りつき、おうむ返しに応えるのが精一杯だ。
「軍師様って……」
「噂になってたじゃない。外つ国から引き抜かれてきた軍師様、その知略と奇策で常に勝利を収められてるんだって!」
 確かに、噂で聞いたことはあった。帝国が抱える若き天才軍師。彼が騎士団に来てからというもの、帝国に敗退の文字はないとのことだ。だがその軍師がどこの国から来たのかは、誰も知らないという話だった。
 ましてや彼の名が、リヒト・サウラであることなど、末端の騎士見習いアリサは知る由もなかった。
「軍師様がお見えだ!」
 教導官がここぞとばかりに声を張り上げる。
「騎士を志す見習いたちよ、その力を軍師様の前で示せ! 我こそは騎士位をもぎ取ってやると、その腕で軍師様に誓え!」
「……うわあ。教導官、張り切っちゃってるよ」
 レルフィナが嘆くのも無理はない。
 今の言葉はつまるところ、相対稽古の催促だ。派手な擬戦をやれば、天才と名高き軍師の覚えもめでたいだろうと考えたのかもしれない。
 アリサもいつもなら顔を顰めつつ愚痴を零すところだが、今はすっかり言葉を失っていた。呆然と物見台を見上げていれば、やがて誰かが名を呼んだ。
「アリサ・ジオリック! お前との腐った因縁、軍師様の前で晴らしてやる!」
 鼻息も荒く呼びつけたのは、同じ騎士見習いのディオンだった。
 そばかすが目立つ金髪の小男で、かつてアリサに組手で投げ飛ばされて以来、アリサを仇敵として付け狙っているのだ。おまけに口も悪く、宿舎ですれ違いざまに『のっぽ』『田舎の女』と罵ってくるので、アリサはこいつが大嫌いだった。
「さあ来い、のっぽの田舎女! このディオン・アムニスが相手だ!」
「アリサ、お願い! あの屑野郎をもう一度ぶっ飛ばして!」
 ディオンに挑発されレルフィナに応援され、アリサは仕方なく前に進み出た。
 体術の構えを取るディオンと相対しつつ、しかし目はどうしても物見台の方へ向いてしまう。
 やはり、彼は昨夜の青年――リヒトだ。黒い瞳は今、訓練場の中央に立つアリサを見ている。探し物をようやく見つけたというように、強い眼差しで。
 射竦められたアリサが息を呑む。
「よそ見をしたな!」
 途端にディオンが嬉々として掴みかかり、体格で勝るアリサの足をすくった。
 隙を突かれたアリサはひとたまりもなく地面に転び、次いで顎に容赦のない蹴りを貰う。口の中に血の味が広がり、思わず怒りが込み上げた。
「痛いんだよ小男!」
 アリサはディオンの次の蹴りを肘で留めると、もう片方の手で足首を掴み、渾身の力を込めて捻じり上げた。
「ぐあっ」
 今度はディオンが地面に転がり、痛みに低い呻きを上げる。
 訓練場が喝采に沸いた。さっきの仕返しとばかりにその腹を踏みつけようとしたアリサは、しかし、そこで視線を感じて動きを止める。
 物見台のリヒトは、欄干に身を乗り出してこちらを見ていた。
 その顔が不安に強張っているのを見て取ると、アリサの復讐心もたちまち萎んだ。掴んでいたディオンの足首を放り投げると、脇腹に軽い蹴りだけ入れて、あとは教導官に声をかける。
「終わりでいいですか、教導官」
 教導官も、地面に転がったディオンも、彼がこてんぱんにされることを望んでいたレルフィナも、他の見習いたちも、皆が呆気に取られてアリサを見ていた。
 だがアリサは、全く乗り気になれなかったのだ。

 その夜も、やはり月の美しい夜だった。
 アリサはフィドルを手に宿舎の裏手へ行き、そこでまた、リヒトと出会った。
 先に来ていたのは彼の方で、アリサを見るなり心配そうに眉を顰めた。
「アリサ、大丈夫だったのか? 酷く蹴られていたようだったけど」
「ご心配には及びません」
 背筋を伸ばしてアリサは答える。
 それから、恐々と聞き返した。
「あなたは、軍師様だったのですね」
「ここでは一応、そう呼ばれてる」
 曖昧に答えたリヒトが苦い笑みを浮かべる。
「そうとは知らず、昨夜はとんだご無礼を働きました」
 昼間の勇猛さが嘘のように、アリサは今、怯えていた。
 帝国が誇る天才軍師に軽々しく口を利いてしまったばかりか、随分と馴れ馴れしく、無礼なことまで言ってしまったように思う。そもそも彼を自分のような騎士見習いだと誤解したこと自体、教導官に知られれば懲罰ものだ。
「どうかお許しください、軍師様」
 ひざまずいて許しを請うアリサに、リヒトは悲しそうにかぶりを振った。
「やめてくれ、アリサ。黙っていたことは謝る、でもそれは君と分け隔てなく話したかったからだ」
 異国の人間だからだろうか。彼の言うことはアリサからすれば常識外れも甚だしい。
「ですが、軍師様――」
「リヒトでいい。そして頼むから、普通に話してくれ」
「ご命令であっても、それは……」
「命令じゃない。同好の士として頼んでるんだ」
 リヒトはそう言うと、アリサが手にしたフィドルをじっと見つめた。
「今夜も君の演奏が聴きたい。弾きに来てくれたんだろ?」
「はい、あの、仰る通りです」
 アリサが頷くと、彼は細い目を一層細める。
「ここでの俺は観客で、君は偉大なる演奏家だ。君の方が俺に敬語を使うなんて変じゃないか」
 リヒトの言い分には納得できかねる部分も多かったが、要は無粋だと言いたいのだろう。このまま抗議を続けて軍師の機嫌を損ねるのも恐ろしいし、アリサはやがて意を決した。
「私があなたをお名前で呼ぶこと、教導官には黙っていていただけますか」
 するとリヒトは嬉しそうに頷き、
「もちろん。俺と君だけの秘密だ」
 その言葉にアリサは、なぜか頬が火照るのを感じた。

 アリサは今夜もリヒトの為に、フィドルを奏でた。
 ディオンに蹴られた顎は痛かったが、それでも心を込めて演奏をした。曲目はやはり祭りの祝い歌だ。それ以外の曲をアリサはまだ知らない。
「とてもよかったよ、アリサ」
 弾き終えると、リヒトは昨夜と同じように温かい拍手と賛辞をくれた。
「君のような演奏家が、音楽の道に進まないなんて惜しいな」
 それからほんの少し表情を曇らせ、
「でも、君はいい騎士にもなるんだろうな。今日の戦いぶりを見て思った」
 と続ける。
 アリサにとって騎士になることは夢であり、目標でもある。その単純な憧れだけで故郷を飛び出してきたほどだ。
 だがフィドルの腕を誉められることも、それはそれでとても嬉しいのだった。
「誉めてくれてありがとう、リヒト」
 言いにくいその名を呼ぶと、リヒトもほっとした様子を見せる。
「もしよかったら、また聴かせてくれ。君が弾きたい時でいいから」
 そう言って、彼はアリサの手を取った。
「俺にできることはあまりないけど……何か、礼もする。必ず」
 彼の手はアリサとは違い、肉刺もなければ傷だってない。体躯と同じように痩せ細った手は、それでも指がすらりと長く、美しかった。アリサは自分の傷だらけの手を恥じ、そしてリヒトの手の美しさに更なる恥ずかしさを覚えた。
「礼なんて。聴いてもらえるだけで光栄だよ」
 アリサが俯いて答えると、リヒトがその手を少しだけ力を込めて握った。
「ありがとう。じゃあまた、月の出ている夜に」

 こうして、騎士見習いアリサと軍師リヒトの密かな演奏会が始まった。
 二人が会うのはよく晴れた月夜、場所は決まって宿舎の裏手だ。消灯前のわずかな自由時間に、アリサはフィドルで曲を奏で、リヒトはそれに聴き入った。初めのうちは本当にそれだけの関係で、二人の間にも余分な会話はなかった。
 だが、何夜目かでリヒトが切り出してきた。
「アリサ、例えばだけど、俺が歌を歌ったらその通りに弾けるか?」
「できると思う、多分」
 アリサが答えると、リヒトは嬉しそうに破顔した。
「じゃあ、頼む。これは俺の故郷でよく弾かれる曲だ」
 そう言って歌い始めた彼の声は美しく、アリサはうっかり聴き惚れてしまった。歌い終えたリヒトが唇を閉ざした後、はっと我に返った。
「えっと、ごめんなさい。もう一回だけ」
「いいよ」
 リヒトの歌声も、アリサのフィドルに負けず劣らず素晴らしかった。
 聴き入ってしまわぬよう苦心しながら覚え、その通りに奏でてみせると、リヒトは大喜びで誉めてくれた。
「すごいな、アリサ。この曲をここで聴けると思わなかったよ、ありがとう」
「リヒトの歌が上手かったからだよ……」
 アリサは照れたが、誉められるのはやはり嬉しい。つい緩む口元を隠しながら、聞き返した。
「今の曲、リヒトの故郷ではどんな時に弾く曲なの?」
 村の祭りの祝い歌とは違い、美しくも繊細な旋律の曲だった。演奏に当たり、アリサは激しい弓捌きを要求されたが、だからといって激情をぶつけるような曲ではなかった。何かの始まりを予感させるように、静かに掻き立ててくるような――。
「演奏会では定番の曲だ」
 リヒトはそう答えた後、何か悪戯を思いついたような顔で言い添えた。
「曲名も教えてあげよう。アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
「あいね……くらいね?」
 耳慣れない言葉を一息に言われ、アリサは戸惑う。
 だがリヒトの方も釈然としない顔で、自らの唇に指で触れた。
「そうか……これは翻訳されないのか」
「どうしたの、リヒト」
「何でもない。俺の国の言葉では『一つの小さな夜の曲』という」
「小さな夜の曲、か。ぴったりだね」
 アリサは呟き、空の月を見上げた。
 月明かりの下、人気のない騎士団宿舎の裏、リヒトと二人で過ごす時間――そういう時に奏でるような曲、なのかもしれない。
「でもあまり、夜らしくない曲に聴こえたけど」
 率直な感想も呟けば、リヒトがおかしそうに吹き出した。
「ああ、俺の国でもよく言われてるよ」
 やつれた顔に浮かぶ明るい笑顔を見るのが、いつしかアリサの喜びになっていた。

 だからアリサは、リヒトが歌う故郷の曲を心を込めて奏でた。
 それがどんなに難しい旋律でも、一度では覚えられなくても、リヒトが喜んでくれるなら、そして誉めてくれるならと弾けるようになるまで教わった。
 リヒトもそんなアリサに惜しみない拍手や賛辞をくれ、そして時々、お礼だと言ってお菓子の包みをくれた。
「夕食で出されるんだけど、俺は食べないから」
 どうやら軍師の食事は、末端の騎士見習いとは比べものにならないほど豪華なものらしい。果物のタルトや砂糖漬けを詰め込んだパイ、カラメルのケーキなどを持ってきては、アリサに食べさせてくれた。
 アリサも演奏の後で、それをありがたくいただいた。そしてその間、二人で並んで座りながら、ぽつぽつと話をするようになった。
「リヒトの故郷は音楽が盛んなんだね」
「そうだな。少なくとも、君たちの国よりは」
 彼はたくさんの歌を知っていた。パッヘルベルのカノン、愛の挨拶、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ――長い曲を歌で根気よく教えてくれるリヒトは、故郷の音楽にも精通しているようだった。
「俺は、故郷では指揮者をやっていたんだ」
 リヒトがそんなことを言い出した時、アリサはそれを戦術指揮のことだと思い、
「じゃあ。リヒトは自分の国でも騎士団にいたの?」
 そう聞き返して、彼に怪訝な顔をされてしまった。
 後になって彼は、笑いながら教えてくれた。
「指揮っていうのは、音楽の指揮だ。俺は楽団にいたんだ」
 それからその長い指を、宙に絵を描くように美しく振ってみせた。
 説明されてもアリサはなかなか理解しがたかったが、実際に彼の指の動きに合わせてフィドルを鳴らすと、まるで彼の手に導かれるようになめらかな演奏ができた。
「本当は、軍師になりたかったわけじゃない」
 リヒトは、声を潜めてそんなふうに零した。
「俺の国にはそういう――戦乱なんてなかったから。人の命を預かって指揮をするのは正直、怖いよ」
 並んで座ると、アリサとリヒトの肩はちょうど同じ高さに並ぶ。彼の骨張った肩が震えているのを見て、だがアリサは、何もできなかった。
「でも、軍師様の辣腕ぶりは評判だよ。あなたがいたから内乱をいくつも抑えられたって」
 励ますつもりでアリサが言うと、リヒトは力なくかぶりを振る。
「俺は定石を披露しているだけだ。付け焼刃の知識もいつまで持つか……」
 やつれた顔には焦燥の色が浮かんでいた。
「もし策が通じなくなったら、俺は、用済みだと思われるかもしれない」
「そんなことない!」
「いや、あるよ。俺はもともと、この国に拾ってもらった身だからな」
 異邦人のリヒトは、荒野を彷徨っているところを帝国に保護されたそうだ。彼の知識の数々は帝国に存在しなかったもので、彼は騎士団に召し上げられ、その知識を生かすべく軍師の地位を与えられた。
 だが彼は軍師を辞めたがっているようだと、アリサも言外に察していた。
「リヒトは、故郷に帰るつもりはないの?」
 そう尋ねたのは、帰って欲しいからではない。
 むしろ帰って欲しくなかったからこそだった。
 リヒトはその問いに苦く微笑むと、
「帰れないんだ。遠くまで来すぎてしまったのかもな」
 諦念を滲ませる声で答えた。
 アリサは彼の様子に胸を痛めたが、できることと言えば自分のフィドルで彼の心を慰めることだけだ。せめて彼に喜ばれる演奏をしようと熱が入るうち、いつしかアリサ自身もフィドルを弾く楽しさに目覚めていった。

 二人が密かに会うようになってから、半年が過ぎていた。
 アリサが騎士見習いでいる時間が、いよいよ終わろうとしていた。

 この時期になると騎士見習いたちは一様にそわそわし始める。
 晴れて騎士位を得た彼らは、それぞれ適性に見合った部署へと配属されることとなる。いわば異動の時期だ。
「私、どこに希望出そうかな」
 レルフィナはどうにも決めあぐねているらしく、近頃はその話ばかりだ。
「最初は市警隊がいいなと思ってたんだけど、ディオンが行くって話じゃない。だからやめたの」
 彼女の言う通り、あのディオン・アムニスは帝都の市警隊を希望しているらしい。帝都育ちらしい選択だった。
 そして彼はつい先日、らしくもなく真面目な顔でアリサを呼び出し、自分と同じ市警隊に希望を出すよう言ってきたのだが――アリサはそれをきっぱりと断っていた。
「ねえ、アリサはどこにしたの?」
 レルフィナの問いに、アリサはためらってから答える。
「……侍従隊」
「えっ! 冗談でしょ、アリサ!」
 彼女が驚くのも無理はない。侍従隊と言えば王城護衛の兵、その一番隊は皇帝陛下の御身を守る騎士だ。当然ながら成績優秀かつ品行方正、身元も確かでなければなれるものではなく、田舎育ちのアリサが選ばれる可能性はなきに等しい。希望を出した時、厳格な教導官は大声で笑い、しかしアリサが本気だとわかると心配のあまり、熱心に説き伏せようとしたほどだった。
 アリサが侍従騎士を希望したのは、そうすれば、もしかしたらリヒトの傍にいられるのではないかと思ったからだ。
 そしてもし、リヒトの身に危険が迫った時には――自分の持ちうる全ての力で彼を守り抜き、できることなら故郷へ送り届けてあげたい。そう思っての希望だった。
「一緒に辺境警備に希望出そうよ。運がよければ南方でのんびりできるよ」
 レルフィナの誘いにも、アリサは笑って、きっぱりと答えた。
「もう決めたから。それに北方に回されたら、寒くて嫌だし」
 辺境に飛ばされようものなら、リヒトを守るどころか、彼の為にフィドルを弾くことさえ叶わなくなる。
 アリサの決意は固かった。

 だが、精鋭ばかりを集めた侍従隊への配属が、やはり叶うはずもなく。
「アリサ・ジオリック。貴殿を騎士団軍楽隊に任命する」
 訓練場で行われた任命式において、教導官が告げたのは、全く聞き慣れない部隊への配属だった。
「ぐ、ぐんがくたい……?」
 そんな部隊が存在していたことすら初耳だった。アリサは思わず聞き返そうとして、教導官の一睨みで慌てて口を噤んだ。
 もちろん他の騎士見習いたちにとっても、それは知らない名称のようだ。訓練場に集められた彼らの間に、たちまち動揺のさざなみが広がった。
「ちょっと、アリサ。どこに行けって?」
 レルフィナが小声で尋ねてきたが、当たり前だが答えられない。
 自分は一体どこへ飛ばされたのだろう。アリサは不安に駆られたまま、任命式を落ち着かない気分でやり過ごした。

 そして任命式の後で訪ねた軍楽隊執務室にて、アリサを待っていたのは、
「日が出ているうちに会うのは久し振りだな、アリサ」
 穏やかな面持ちのリヒトだった。
 黒い髪をきれいに撫でつけ、騎士団の制服に真新しい徽章をつけた彼は、呆気に取られるアリサにこう告げた。
「新設された騎士団軍楽隊へようこそ。まだ俺と君しかいないけど」
「軍楽隊……もしかして、あなたが?」
「そう。俺がここの楽長になった」
 彼が言うには、軍師を辞める代わりに、騎士たちの士気を高める楽隊の設立を進言したらしい。もちろん簡単なことではなかったようだが、聞き入れられなければ出ていくつもりだった、と造作もなく語ってみせた。
「騎士見習いに優れた演奏家がいる。そう言ったら、どうにか通ったよ」
 軽く肩を竦めるその動作に、言葉以上の苦労が垣間見えた。
 恐らく、この軍楽隊の先行きが、彼の命運そのものを左右することになるのだろう。
 それなら、彼を守りたいと願うアリサも、取るべき行動は一つしかない。
「楽隊に人員を集めなくちゃならない。その時はまず、君に声をかけようと思っていた。君こそがコンサートミストレスにふさわしい」
 憑き物が落ちたように晴れやかな笑顔で、リヒトは言う。
「これからも俺と音楽を奏でてくれ、アリサ」
 彼の言葉の全てを理解したわけではなく、また呑み込めたわけでもなかったが、アリサは迷いなく頷いた。
「あなたのお役に立てるなら、喜んで」
 自分のフィドルがリヒトを救うことができるなら。
 そして彼の傍にいられるのなら、これ以上の喜びはない。そう思った。
「ありがとう」
 上官となったリヒトは、感謝の言葉の後でふと、面映そうに続けた。
「それと……公私混同と言われそうだけど。仕事以外の時間にも、また俺の為にフィドルを弾いて欲しい」
 やつれた顔に浮かぶ照れ笑いは、彼を少年のように瑞々しく見せている。
 アリサはどぎまぎしながら、やはり迷わず首肯した。
「あなたに聴いてもらえるなら……いつでも、誘ってください」

 かくしてアリサは騎士団軍楽隊の一員となった。
 最初は二人きりだった。そこから少しずつ勧誘を始めて隊員を増やし、同時に活動の周知に努めた。何しろ音楽への理解が薄い国だ、軍楽隊の活動にはいい顔をされないことも多かった。それでもリヒトの指揮でアリサが奏でるフィドルの音は、少しずつだが騎士たちの心を掴み始めているようだ。
 アリサにとってはこの仕事こそがリヒトを守ることに繋がる。だから決して諦めるつもりはない。どこまでも、彼についていくつもりだ。

 そして二人の夜の演奏会も、変わらずそのまま続いていた。
 リヒトは私室にアリサを招くようになり、アリサはそこで彼の為だけにフィドルを奏でた。そうして二人で会うことを何と呼ぶのか、田舎娘のアリサにもわかってはいたが、まだ言葉にはできなかった。
 今でもリヒトはたくさんの歌を知っていて、その一つ一つを丁寧に、優しく教えてくれた。それを習うにつれて、アリサの中で彼の故郷に対する興味も次第に募っていった。
「いつか、リヒトの故郷を見てみたいな」
 アリサの言葉に、彼はすっかり明るい表情で応じる。
「そうだな。もし帰れる日が来たら、一緒に来るか、アリサ」
「えっ、あ、あの」
 真っ直ぐな返答に、アリサの方が慌ててしまう。決してそういうつもりで言ったわけではなかったのだが――リヒトの黒い瞳は真剣だ。笑ってごまかすような問いではない。
 だから、答えた。
「うん。その時は、必ず私も連れていって」
 頬を赤く染めながら、でも精一杯の想いを込めて答えた。

 その約束が叶うかどうか、今の二人はまだ知らない。
 それでも耳を傾けてくれるリヒトの為に、そして約束を忘れないように。
 アリサはフィドルを手に取って、今夜も遠い故郷を奏でる。
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