夏休みの宿題(5)

 見慣れない夜の街並みの中、大地は気まずげに私を見下ろしている。
 頭一つ分の高さから、落ち着きのない視線を向けてくる。
「……夜明かしするったら、例えばカラオケとか、ネカフェとかあるけど」
 そう前置きしつつ、大地は汗でぺたっとなった自分の髪をかき上げた。
「お前は平気か? そういうとこでも」
 平気かと聞かれると微妙なところだ。どちらも宿泊施設ではないし、眠るのに適した場所でもない。朝まで時間を潰すことはできるだろうけど、居心地がいいとは到底思えない。
 もっとも、居心地を気にしている場合でもない。元はと言えば夜明かしする羽目になっているのも私のせいだ。私が忘れ物さえしなければこんな状況に陥ることもなく、大地を巻き込むことだってなかった。
 となると、巻き込まれた格好の大地の意思を優先すべきかもしれない。
「私は大丈夫。大地はどこがいい?」
 聞き返す私の声は散々走り回ったせいでかすれていた。
 既に日が落ちているとは言え、八月に全力疾走なんてするものじゃない。私も汗を掻いていたし、酷く喉が渇いていた。
 質問を返されて、大地は戸惑ったように目を泳がせる。
「や、俺も別に、全然どこでもいいよ。カラオケでも、ネカフェでカップルシートでも」
「そっか……って、カップルシートって何?」
「名前はあれだけどな。要は二人掛けの席ってだけだ。いかがわしい場所じゃねえよ」
「そ、そうなんだ。初めて聞いたから、びっくりしちゃった」
 名前が名前だからちょっと驚いたけど、おかしな場所ではないんだろう。だとしてもちょっと抵抗あるけど。
「やっぱ泊まったりとかはな……変なとこじゃなくてもまずいだろ」
 どこか言いにくそうに大地が話を継ぐ。曖昧にぼかすような言い方がかえって気まずかった。
「別に俺は下心とかねえけどな。そういう意味じゃなくてもその、そういう場所はちょっとな」
 それは確かにまずい。大地を信用してないわけじゃない、だけど私達はまだ高校生だし、やっぱりまずい。
「明日帰ったら、おばさんに詫び入れて説明しないといけないしな。お前を連れ回してすみませんでしたって、どこにいたかレシート見せて」
 大地のその言葉は盲点で、私は更にどすんと落ち込んだ。
 そうだった。電車に乗り遅れたこと、うちの親と大地のご両親に説明しなくちゃいけない。何て言われるだろう。まず、うちのお母さんは怒るだろうな。
「そんな、大地が謝ることないよ。私のせいなんだから」
 私が慌てると、大地は強くかぶりを振った。
「そういうわけにもいかねえだろ。今回誘ったのは俺の方だ、なら俺が『萩子を遅くまで連れ歩いてすみませんでした』って謝んないと」
 大地がそう言い張るのは、優しさからなんだと思う。だけど事実じゃない。わざわざ大地が不利になるような嘘をつくことなんてない。
「変だよそんなの。正直に話したら、うちの親もおじさんおばさんも、絶対私が悪いって言うよ」
 言い返した私に大地が苦笑してみせる。
「いや言うなよ正直に。つかうちの親がお前を悪いとか言うわけねえよ」
「だって私のせいだもん。大地こそ、そんな嘘ついたらおじさんが雷落とすかもしれないよ」
「本物のか? そしたら犬になるだけだよ、問題ねえよ」
「駄目だよ、台無しにしたのは私。今日すごく楽しくて、いい思い出ができたのに……ごめんね」
 今日一日、大地と一緒に過ごして、とっても楽しかったのに。
 私がうっかりしたせいで、最後の最後で台無しになってしまった。ここまで一緒に過ごしてくれた大地にも申し訳ない。
「そっか……。楽しかったって言ってもらえて嬉しいよ。俺は、それだけでいい」
 大地はぽつりとそう言った。
 それから大きな手を伸ばしたかと思うと、私の頬に、親指と人差し指で挟むように触れてきた。俯きそうになる私に上を向かせたかったのかもしれない。逆らわずに顔を上げると、大地は形のいい目でひたむきに私を見つめてきた。
 街の明かりを背負った大地の表情は、影が差しているせいか普段よりも一層大人っぽく映った。私を置いて一足も二足も先に大人になってしまったみたいな顔をしている。私はいつも、大地が笑うとほっとするし、真剣な顔をするとどきっとする。今もそうだった。
「だから台無しなんて言うなよ。悲しくなるだろ」
 大地に悲しい思いはさせたくない。頬に触れる大きな手の感触に戸惑いつつ、私は口を開く。
「ご、ごめん。でも私のせいだし、大地にも迷惑かけたし」
「それはもういいって」
 私の言葉を遮った大地が、不意に、唇の端を吊り上げるように笑んだ。
「なあ。だったら俺に、その台無しになった失敗を挽回させてくれ」
 その物言いはやけに自信に満ち溢れていた。
「どういうこと?」
 やぶからぼうに突拍子もないことを言われて、私は混乱する。
 終電を逃して、これから朝までどうするか、明日帰ったらどう謝るかを考えていたはずだった。その時点でもう既に台無しだ。これを挽回する方法なんてあるだろうか。
 瞬きする私に、大地は吹っ切れたような笑顔で語る。
「上手くいくかどうかわかんねえけど、上手くいけばすぐにでも帰れる方法がある」
「え……それって、まさか」
「台無しにしたくねえんだろ。俺に試させてくれよ、萩子」

 なるべく高い、開けたところがいいと大地は言った。
 それで私達はまだ店を開けているショッピングセンターへ取って返し、駐車場がある屋上に出た。
 午後八時過ぎ、駐車場はがらんとしていた。もう車はほとんど停まっていなくて、広々としたアスファルト敷きの駐車場を月明かりが白く照らしていた。空気は湿気を含んでじっとりと重たい。
「危ねえから、お前は中で待ってろ」
 乗ってきたエレベーターのある塔屋を指差し、大地は私にそう言った。
 私が頷くと、鞄と携帯電話を預けてきた。
「あとこれ持ってて。ケータイ、いかれたら困るし」
「うん」
 私はそれらの荷物を受け取ってからも、すぐに退避はできなかった。どことなくさっぱりした表情の大地を見て、今日はもうこの顔も見納めなんだと思う。
 寂しい、のかもしれない。この顔、この姿じゃなくても大地は大地なんだってわかっているのに。
 大人びた顔立ちを見つめていたら、大地には呆れたように笑われた。
「早くしろよ、萩子。お前に落ちたらシャレになんねえだろ」
「大地こそ、本当に大丈夫? 危なくない?」
「危なくはねえだろ。上手くいくかは怪しいけど、先月のでコツは掴んだ」
 大地は言い切ると、私に退くよう手振りで示した。
 それで私はエレベーターの前へ引き返し、自分の荷物と大地の鞄を抱えたまましばらく待った。大地は監視カメラを避けてか駐車場内を歩き出し、やがて物陰に潜んだのか見えなくなった。駐車場とエレベーターホールを区切る自動ドアが閉まり、大地がいる向こう側から切り離されたような気分になる。
 数分もしないうち、屋上にかっと目を灼くような閃光が走った。
 ちかちかと眩む目を瞬かせながら、私はびりびり振動する自動ドアを開け、雷鳴轟く屋上へ飛び出した。さっきまで月が輝いていた夜空はいつのまにか厚い雲に覆われ、屋上には焦げ臭い煙がうっすら漂っている。でも直に温い夜風が吹いて、雲も煙も初めからなかったみたいに押し流していった。
 そして月の光が戻ってきた屋上に、見覚えのある白い姿が現れた。屋上へ出た私を迎えるように、敏捷な足取りで駆けてくる。
 真っ白い毛皮に覆われ、尻尾が二本ゆらゆらしている、尖った耳をぴんと立てた生き物――雷獣だった。
「怪我して以来だから、一ヶ月ぶりか」
 大地はつぶらな黒い瞳を光らせて、私を見上げた。
「案外あっさりいけたな。やればできるもんだろ」
 大きな口を開ける度、生え揃った牙がちらりと覗いた。
「どうやって変身したの? しかもこんなに早く」
 私ももう慣れたものだ。雷獣が大地の声で喋ることに驚いたりはしない。ただ、思ったより早く雷を呼べたことには驚いていた。
「いや、最近あったむかついたこととか思い出したらどうにかなった」
「それだけで変身できちゃうんだ」
「まあな。俺の記憶力も大したもんだろ」
 感心している私の前で、大地は散らばっていた衣服をちっちゃな前足でかき集め、咥えて持ってきた。全部、人間の姿の大地が着ていたものだった。
「萩子、これ鞄にしまってくれ。人来る前にさっさと出よう」
「う、うん。急ぐね」
 私は大慌てでその服を鞄に押し込む。それから全ての荷物を抱えると、足元に座る大地に合わせて屈み込んだ。
「どこに掴まればいい?」
「首。腕回して、しっかり掴んどけ」
 大地の言葉に私は、真っ白い毛で覆われたふかふかの首にしがみついた。雷獣の身体はそれほど大きくなく、私の腕でも余裕でぐるりと回る。背中に乗っかったら押し潰しちゃわないか心配だったけど、大地は重そうでもなく私の身体を背負ってみせる。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
 雷獣の足が屋上のアスファルトを蹴り上げる。
 ぽうん、と弾き出されるように身体が浮かび上がったかと思うと、私の足はあっさりと地面を離れた。そのままみるみるうちに上昇していく。
 雷獣には翼もないのに、私を背負って夜空へ上っていく。雷獣の足で宙を掻く。犬によく似た、たっぷりした毛皮に白い覆われた四本の脚が、頼もしいくらい懸命に動いてはどんどん空へ駆けていく。次第に加速していくのが、耳元をかすめる温い風の強さでわかる。今日の為に下ろしてきた私の髪が風になびいた。私が顎を置く、大地の後頭部――ちょうど二つの尖った耳がある間でも、白くてふかふかの毛が風を受けて揺れ、くすぐったかった。
 あっという間にショッピングセンターの駐車場が遠くなり、直に振り返っても見えなくなった。眼下に広がる一面の、街の夜景がきれいだった。
「すごい……空飛んでる!」
 私が声を上げると、しがみつく身体の下で返事があった。
「やっぱ飛べたな。やろうと思えばできるんだな、俺」
「すごい、すごいよ大地! 本当に空飛んでる!」
「これが初めてでもねえだろ、そんな興奮すんなよ」
「するよ! だって私は空飛べないもん!」
 大地だって、初めて雷獣になった時は犬みたいにぐるぐる駆け回るほどびっくりしていたくせに、今は妙に落ち着き払って、当たり前みたいな態度で空を飛んでいる。
「でも俺となら飛べるだろ。よかったな、萩子」
 妙に上機嫌の声がしたかと思うと、大地が少しスピードを落とした。
 足元を照らしていた輝く街並みはいつしか途切れ、暗い、こんもりとした野山の景色ばかりが広がっていた。山の中を通る高速道路と併走するみたいに並ぶ線路が見える。二つとも幽谷町の方向までずっと続いていて、これを辿っていけば道に迷うこともなさそうだった。
「せっかくだからゆっくり行こうぜ。ほら、月が出てる」
 人里を離れたからか、大地はそう言って、上空を示すように首を動かした。
 私も視線を上げる。黒みを帯びた深い藍色の空に、空の色を滲ませたように青白い月が浮かんでいた。満月を過ぎて欠け始めた月だった。
「わあ……!」
 私は思わず声を上げた。
 月が青い、と思ったのは初めてかもしれない。いつもは黄色や、白や、時々怖いくらいに赤く見えるものなのに、今夜の月は青みがかっていて、何だか神秘的だ。そして、とてもきれいだ。
「何だか不思議な色。月、きれいだね」
「ああ。満月じゃねえのが惜しいけど」
 空を走り抜けながら、大地は言葉通り残念そうに言った。
 しがみついたまま、その横顔を覗き込んでみる。
「大地、満月が好きなの?」
 犬に似た雷獣の横顔は微動だにせず、内心を窺わせない。
「好きっつうか……何か半端な感じするだろ。満月でもなければ半月でもない月って」
 確かに今の月の形は、欠け始めたばかりで少しばかり歪だ。だからといって今夜の月の美しさが損なわれるというわけでもないと思う。
「この月はね、既望っていうんだって」
「きぼう?」
「そう。既に望んだって書いて、既望。ほら、満月のことを望月っていうじゃない」
「へえ……。なかなか使いどころのない豆知識だな」
 大地が茶化してきたので、私はむっとして、真横からその顔を睨んだ。
 雷獣の目はあまり動かないのに、首を突き出している私が見えるみたいだった。すぐに笑われた。
「拗ねんなよ。お前、夜空見るの好きなのか?」
 拗ねさせたのは誰だ。そう思ったけど、別に本気で怒ったわけじゃない。大地がからかってくるのはいつものことだし、私も笑っておく。
「嫌いじゃないよ。幽谷町は空、きれいだからね」
「田舎だからな」
「うん。何にもないもんね」
 高い建物はないし、街明かりも都会みたいにぎらぎらしていないし、空気も汚れていない。幽谷町は本当に何にもない町だけど、澄み切った空はある。
 夜空を見ていたら、ふと思い出した。
「ねえ。前に会長さんが、皆で星を見ようって言ったこと覚えてる?」
 私が問いかけると、大地は短く唸った。
「んー……それって結構前じゃねえ? それこそ俺が初めて空飛んだ時」
「そうそう。言われてたけど、そういえばやってなかったなあって思ったの」
 と言っても、空を飛べるのが上渡さんだけじゃ実現するのは難しい。いくら大柄な上渡さんでも、同好会の他の四人をいっぺんに空まで連れて行くのは不可能だろう。
「大地が空を飛べるんだったら、皆で空へ行けるじゃない。高いとこで星を見たらきれいだよ。何ならお月見でもいいよね」
 私がまくし立てると、大地は少しの間黙った。賛成しかねると思っているのか、それとも何か考え込んでいるのか、雷獣の顔からは読めなかった。
 少ししてから、空を駆けながら呟いた。
「萩子、俺と二人だけじゃ駄目か?」
「え? 私達だけ?」
「ああ」
 二人きりの夜空は静かだ。私達の声も、深い藍色の空に吸い込まれるように消えていく。
 私が何と言っていいかわからずにいると、大地は抑えたような声音で続けた。
「同好会の皆と一緒にいるのは楽しいよ。会長さんは天然だし、黒川先輩はよく喋ってよく食うし、栄永ちゃんもよく喋ってちょこまか動くし――そしてもちろん、お前がいるし。皆で遊びに行ったり、こないだみたいにザリガニ釣ったり、時々俺達のことで真面目な話したりすんの、悪くねえと思ってるよ」
 相槌を打つのもためらわれて、私は何も言わず大地の首にしがみついていた。
「でも、そういうのは、お前と二人がいい」
 私を乗せて空を飛ぶ、大地の言葉は続く。
「学校でも同好会でもそれ以外の日でも、お前が一緒にいてくれて、嬉しいと思ってる」
 夏の夜の風が私の髪を掬い、たなびかせ、剥き出しになった耳元をかすめていく。心なしか涼しい風になっていた。
「だけど俺はもう、お前と一緒にいるってだけじゃ足りねえんだ」
 抑えた淡々とした声が、逆にとても切実なものに聞こえた。
「例えば、今みたいな時間はお前と二人だけがいい」
 夜空に浮かんだ月が青く、冴え冴えと光っている。
 こんな時間では空を飛ぶ鳥もいなくて、もちろん他に人なんているはずもなくて、私達は本当に二人だけだ。地上の物音は空までは届かず、ここには私達の立てる音だけがある。走る雷獣が巻き上げる風の音と、私達の話し声だけだった。
 そして私達が黙ると、空の上は怖いくらい静かになる。
 私は、大地の言葉に戸惑っていた。もちろん異論があるわけじゃない。私も大地と一緒にいるのは楽しいし、自分から望んで傍にいる。大地は私にとって一番最初の友達で、一番の仲良しだった。
 でも大地がそれを言葉にしたことで、私は、何だか私自身の心を見事に言い当てられたような気がした。
 同好会の皆といるのは楽しい。でも大地と一緒にいる時の『楽しい』とは違う。
 私もこういう時は、例えば空できれいな月を見る時は、大地と二人だけがいい。
 ――どうしてだろう?
「そろそろ着くぞ」
 大地がもう一度声を発した時、既に眼下には見覚えのある景色が広がっていた。
 ぼちぼち明かりの消え始めたアーケードの商店街と、そのすぐ近くにある小高い鎮守の森。辺りを囲む幽谷町の街並みは都会に比べると光も少なく、ひっそりとしていた。

 神社の前に下り立った私達は、百段ちょうどの石段を降り、人目を避けながら歩いた。
「……どうだ、誰かいるか?」
「ううん、いないよ。行こ」
 電柱の陰から辺りを窺いつつ、まるで逃走中の脱獄犯になった気分で影から影へと渡り歩く。今の大地を誰かに見られても『友達から預かった犬です』でごまかせるだろうけど、それでも見られないに越したことはない。用心しながら帰った。
 もっとも、神社から私達の家までは目と鼻の先だ。時間も時間だし、誰ともすれ違わずに辿り着くことができた。私は先に大地の家へ立ち寄り、玄関のドアを開ける。大地が一足先に薄暗い玄関に踏み込んで、私もすぐその後を追い、玄関のドアを閉めた。
 四足歩行の大地は上がり框にちょこんと座り、ドアを背にして立つ私を見上げている。玄関は明かりがついてなくて暗かったけど、その分、真っ白な大地の姿はよく見えた。
「乗せてきてくれてありがとう」
 私は大地の傍に屈み込んで、お礼を言った。
 大地が黒い目を細める。
「何か、車で送ってきたみたいな言い方だな」
「車よりすごいよ。空飛んできたんだからね」
「確かにな。じゃあ送ってきてやったから、ご褒美にあれやって」
 そう言うと、大地はふかふかの毛に覆われた首をうんと伸ばした。
 だから私もそのふかふかのところを、両手で覆うようにして思いきり撫でてあげた。大地は心地よさそうに目をつむる。
「……ん。気持ちいいけどこれ、本格的に犬になった気分」
 雷獣の顔は犬に似ている。目は黒いし耳は尖ってるし鼻はいつも濡れている。でも犬は喋らないし、尻尾は二本もないし、空だって飛べない。
 どんな姿をしていたって、大地は大地だ。私の大切な幼なじみだ。
「本当にありがとう」
 お礼の言葉を繰り返すと、大地は目を開いて私を見た。
「ああ。ちゃんと帰ってこれてよかったな」
 ちょっと疲れているのかもしれない。話し方でわかる。
 大地は難なく空を飛んでいたけど、やっぱり私を乗せてこれだけの距離を飛ぶのは大変なんだろう。
「ごめんね、私が忘れ物したせいで……」
「それはもういいって。電車代も浮いたし、早く帰ってこれたし、いいことずくめだろ」
 人間の時と変わりない、明るい声で言ってくれた。
 すると嬉しいような、切ないような気持ちが込み上げてきて、胸がきゅっと締めつけられた。大地に迷惑をかけて悪いと思っていて、でもそういうふうに明るく、何でもないみたいに言ってくれる大地の気持ちが嬉しい。ここまで私の為に飛んできてくれたことだって嬉しい。今日一日、ずっと一緒にいられたことだって――。
 そういう気持ちが私をたやすく動かして、私は上がり框に膝をつき、真っ白で毛むくじゃらの大地をぎゅっと抱き締めた。
「お、おい、萩子……」
 大地が戸惑った声を上げたけど、ふかふかの身体は抵抗もなく私の腕の中に収まった。温かくて柔らかくてくすぐったくて、夜空を駆けてきたからか、毛皮は夜の空気の匂いがする。
「ありがとう。今日、楽しかった。何もかも大地のお蔭だよ」
 抱き締めながら告げたら、大地は喉をごくりと鳴らした後、こう言った。
「俺も楽しかったよ。やっぱお前といる時が一番いい」
「そっか、よかった。私が貰ってばかりだった気がしたから」
「そんなことねえよ」
 微かな笑いの後、今度は溜息をつく。
「けどお前、こういうのは人間の時にやれよな」
「え?」
「手短いから、やり返せねえだろ。ほら」
 大地が背を反らして前足を上げ、私を――多分、抱き締め返そうとしたんだと思う。だけどその足は私の肩に乗せるのが精一杯で、ちょっとだけおかしかった。
 人間の大地ならこうはならない。私よりずっと背も高いし、手だってすごく大きい。だから私を抱き締めようとしたら簡単にできてしまうだろうし、ちょうど今と正反対で、私が大地の腕の中にすっぽり収まってしまうだろう。
「……私は、大地が人間じゃなくてよかったかも」
 想像してみたら何だか気まずくて、私は正直に打ち明けた。
 大地が私の腕の中で瞬きをする。
「何でだよ」
「だって、人間の大地とこんなことしたら、絶対恥ずかしいよ」
 私達はまだ高校生だけど、それでも小さな頃とは違うんだから、こんなふうに抱き締め合ってたら恥ずかしいに決まっている。大地はすっかり大人っぽくなって、皆が格好いいと言うのも頷けるし、すごく優しくて温かいし、手を握られただけでどきどきするし――。
 ならどうして、今は、雷獣の大地が相手なら、私は平気なんだろう。
 ふとそんな疑問が頭をもたげた時、大地が低い声を立てた。
「そういうふうには思ってくれてるわけか。じゃあ今度、試してみるかな」
「えっ、だ、駄目だよ。恥ずかしいって今言ったよ!」
「知るか。大体、先に恥ずかしいことやってきたのはお前だろ」
「だからってそんな、仕返しみたいなことしなくたって……」
 私が慌てて大地から離れると、大地は立ち上がる私を追うように頭を上げた。黒曜石みたいに真っ黒な大地の目が、少しもぶれずに私を見つめている。表情からは、今の大地が何を考えているのか、よくわからない。
「仕返しじゃねえよ。する時はきっと、今のお前と同じ理由でする」
 表情はわからなくても、声は私が困惑するくらいに優しかった。
 反応に困る私に、大地が尚も言う。
「なあ、萩子」
「え……な、何?」
「お前に話したいことがある。今じゃなくて、でも、近いうちに」
 大地は落ち着き払った口調で、私の記憶に刻み込むように続けた。
「この格好の時は言わねえって決めた。だから次の機会には必ず言う」
「う……うん、わかった」
 完全に気圧された私が頷くと、雷獣の大地は軽く前足を上げた。
「じゃあ、今夜はこれで。締まらない挨拶だけどな」
「そんなことないよ、可愛いよ」
 フォローのつもりで、でも嘘じゃないことを私が言うと、大地は人間の時と同じ声で応じた。
「言ったろ。俺はお前に、格好いいって思ってもらいたいんだよ」

 大地の家を出て、私の家まではほんの数歩で帰ることができる。
 子供の頃は八歩だったかな。今は、もっと少ない歩数で帰れそうだ。
 でも私はまだ家に帰る気になれず、間にある道の真ん中で立ち止まり、ぼんやり空を見上げていた。既望と呼ばれる青い月が浮かぶ夜空は、飛んできた時と変わりなく、私の頭上に広がっている。
 大地は、大地だ。人間の姿をしている時も、雷獣の姿をしていたって、それは変わりないと思っていた。私は大地が初めて雷獣になった時から傍にいて、だからどんな姿の大地を見たって、目の前の相手を大切な幼なじみだと認識することができた。
 なのに、どうしてなんだろう。
 雷獣の大地に対してはできることでも、人間の大地にはできない。
 人間の大地といる時だけ、できないこと、言えないことがたくさんある。
 それって変じゃないかって、頭では思っている。でもそういう変な感覚は随分前から私の中にあって、私を衝き動かしてきた。
「……どうして、なんだろう」
 声に出して呟いても、答えなんて返ってくるはずがなかった。

 夏休みももうすぐ終わるのに、何だか妙な気分だ。
 せっかく宿題を全部終わらせたのに、新たな疑問を抱えてしまったような気がしていた。

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