夏休みの宿題(2)

 三十分後、私達は口縄川のほとりに立っていた。
 夏雲が広がる青い空の下、口縄川は今日も緩やかに、のんびりと流れている。土手を下りて川岸に立つと、下流にかかる人道橋が揺らめいているのが見えた。
 口縄川の傍らには鬱蒼とした雑木林が続いていて、木々に留まる蝉達の鳴き声がここまで聞こえてくる。一方、川のほとりには日陰なんてどこにもなく、光る川面を見ていると足を浸したくなる衝動に駆られる。
「水、冷たいかな」
 川べりに立って水中を見下ろす私の隣で、大地は早くもスニーカーを脱ごうとしている。二十七センチのスニーカーはびっくりするほど大きく見えた。
「入ればわかるって。試してみようぜ」
「駄目だよ、遊びに来たんじゃないんだから」
「何言ってんだ、お前だって入りたそうな顔してるだろ」
 大地がからかうように言った。もちろん図星だったので、私は誤魔化すように笑う。
「そうだけど。一応、同好会の用で来てるんだよ」
 それから背後を振り返ると、川岸に生い茂る雑草の中に立ち尽くす栄永さんの姿が見えた。見るからにげんなりしていた。
「私達、なんでこんなとこに来てるの!?」
 彼女が叫ぶと、取り囲む伸び放題の草がどよめくように風に揺れた。照りつける八月の日差しを浴びて、川岸には夏の緑の匂いが溢れ、息が詰まりそうだった。
「さっきから何度も説明してるじゃないか」
 上渡さんが額の汗を拭いながら応じる。
「今年度の学園祭は口縄川の水質調査の結果を展示する。その為にここへ来たんだ」
「そういうことじゃなくて!」
 膝まで隠れそうな丈の雑草がみしみしと鳴るほど、栄永さんは地団駄を踏んだ。
「普通、高校の学園祭ったらメイド喫茶とかお化け屋敷とかお芝居とかでしょ。なのにうちはなんでしょぼい出し物なのって聞いてるの!」
「そんな『普通』は幽谷高校にはない」
 上渡さんはいくらか同情的に、だけどきっぱりと断言した。
 我が幽谷高校の学園祭はとても貧相なことで有名だった。メインイベントは学区内を練り歩く低予算での仮装パレード。一応、模擬店も毎年いくつか出てはいるんだけど、飲食系の模擬店を申請できるのは運動部と三年生だけという謎のルールが存在している。文化部は部室を使った、あまり予算と人手を使わない展示をするのが主だった。
「まだ諦めてなかったのかよ、栄永ちゃん」
 川原の石を物色する大地がおかしそうに笑った。やがて適当な石を拾って、川面に向かって低いフォームから回転をつけて投げると、石は水の上を点々と跳ねながら飛んでいく。
「わあ、すごい! 石切り、今でも上手なんだね」
 私が拍手すると大地は満足そうな顔をして、それから栄永さんに向き直った。
「前にも聞いてただろ、幽高の学祭って半端なくしょぼいんだよ」
 栄永さんはむうっとふくれた。
「聞いてたけど諦めきれなかったの! 高校生になって初めての学祭なんだよ!」
「じゃあ尚のこと、希望は今のうちに捨てといた方がいいぜ」
「やだやだ、捨てたくない! 大地先輩だってメイド喫茶に興味くらいあるでしょ?」
 どうしても栄永さんは『普通の』学園祭をやりたいようだ。この場合の普通は、テレビドラマに出てくるような、って意味だろう。もしかしたら都会の高校でもそういうのが普通なのかもしれない。
 話を振られて、大地は顔を顰める。
「メイド喫茶ってテレビでしか見たことねえけど、あれだろ。『お帰りなさいませーご主人様ー』とかいうやつだろ。……おい萩子、笑うなよ」
 裏声で可愛いメイドさんの真似をする大地に、私はつい吹き出してしまった。突っ込まれたので一応フォローしておく。
「ごめん、今のもすごく上手だったから。大地はいいメイドさんになれそう!」
「俺がなってどうすんだよ。客集めるどころかマッハで逃げてくぞ」
「そうだよ萩子先輩! メイドさんになるのは私達!」
 顔を引きつらせる大地の後に続くように、栄永さんが今度は私に言った。
「萩子先輩はどう? メイド服着てみたくない?」
「私? それは……可愛いのだったら着てみたいかなって思うかなあ」
 やっぱり私もテレビでしか見たことないんだけど、メイドさんの服って可愛い。フリルのついたカチューシャとか、エプロン風の前飾りをあしらったスカートとか、まあるいパフスリーブのブラウスとか。幽谷町じゃまずそんな格好をした人なんて見かけないし、そういうお店もないから都会の象徴って感じで憧れる。
 でも自分で着るとなるとさすがに恥ずかしいかな。私が着たら、大地はなんて言うだろう。笑われるかな。
「ほらほら、萩子先輩は着てもいいって言ってるよ! 見てみたいでしょ?」
 栄永さんが畳みかけると、大地は考え事をする時の真剣な顔で私を一瞥した。それから唇を真一文字に結んだ後、首を横に振った。
「駄目だ。俺は反対」
「なんで駄目!? 萩子先輩なら絶対似合うと思うのに!」
 当てが外れたのか、栄永さんはうろたえて聞き返す。
 すると大地は妙に早口になって続けた。
「だってああいうのって変な客がつきそうだろ。この辺も田舎っつったって質の悪いのがいないわけじゃねえし、そういうのがつきまとったらと思うとな……いや、いざとなったら俺が守るけど、始終見張ってられるわけでもないだろ? そういう危険を考えたら――」
「あーはいはいわかった。もういいです」
 脱力した様子で栄永さんが話を遮る。
 それで大地はむっとしていたけど、私が見ているのに気づいて、慌てたように言い添えてくる。
「似合わないって言ってるわけじゃねえからな。最近この辺も何かと物騒だし、な? わかるだろ?」
 大地も私のことを言えないくらい心配性だと思う。
 私はその心配を笑い飛ばそうとしたけど、照れてしまって無理だった。
「そうだね。私も本当に着るとなるとやっぱり抵抗あるし」
「だよな。そういうのは人前で着るもんじゃないって」
 息をつき、大地は胸を撫で下ろしている。
「あーあ、すっごい攻め方間違った感……大地先輩はこの手で行けると思ったのに」
 対照的に栄永さんはがっかりしている。狐の耳があったらしょぼんと垂れていたに違いなかった。すっかり気落ちした様子で上渡さんを見上げて、言った。
「会長は……メイドさんがいいなんてまず言わないよね」
「喫茶店を五人で回すのは不可能だ。やはり展示の方がいい」
 上渡さんの回答は現実的だった。
 そもそも部活動ですらない化学同好会に模擬店の許可が下りるかどうか怪しい。メイド喫茶どころか喫茶店すら難しいのが実情だろうと思う。
「あの猫頭が私の言うことに賛成してくれるはずないし、多数決でも微妙かあ……」
 肩を落とした栄永さんは、すぐに川岸に立つ私達を見回した。
「ところで黒川先輩はまだ来ないの? 何やってんの、あの人」
「コンビニに寄って、買い物するって言ってたよね」
 私も相槌を打つ。
 この川岸には私と大地、栄永さん、上渡さんの四人しかいなかった。

 約三十分前、上渡さんのおうちで行われた話し合いの結果、今年度の学園祭の展示は口縄川の水質調査と決まった。
 決まったと言うか、ほとんど消去法だった。
 上渡さんは他の案として苛性ソーダを使用しての石鹸作り、ペットボトルロケットの打ち上げ、炎色反応実験などを挙げたけど、実際はどれも難しいとのことだった。石鹸作りには二ヶ月以上かかるので今からでは間に合わず展示に不向き、ペットボトルロケットは広い場所で行わなければならないけどグラウンドの使用許可が取れそうにない、炎色反応実験は火の使用という点で難色を示されるかもしれない、とのことだった。
 私は石鹸作りにとても興味があったし、大地や黒川さんはペットボトルロケットの話に目を輝かせていたけど、事情を聞くと妥協せざるを得なかった。それで私達三人は水質調査の展示に賛成したものの、栄永さんだけが納得しておらず現在に至るというわけだ。
 ひとまず上渡さんが栄永さんを宥めつつ、こうして口縄川のほとりまでやってきたんだけど――。
 途中、黒川さんが『コンビニに寄るから先行ってて』と言い出し、今はまだ全員集合していない。

「あいつ遅すぎない? まさか、ばっくれたんじゃないよね」
 栄永さんが疑念を露わにすると、上渡さんがすかさずたしなめた。
「黒川もそこまで不真面目じゃない。恐らくは何か食料でも調達に行ったんだろう」
「俺もそう思う。先輩なら絶対食い物買ってるな」
 大地が頷く。
 あの猫の体格を維持する為なのか、黒川さんは人一倍よく食べるし、すぐにお腹が空いてしまう。どれだけ食べても太る気配がないのは本当に、心底から羨ましい。
 二人の意見を聞いても、栄永さんはまだ怪しんでいるのか細い眉を顰めた。
「わかんないじゃん。水質調査なんてつまんないし、川なんて調べてどうすんのって感じだし」
 それを質問だと受け取ったのか、上渡さんは穏やかに答えた。
「川の水のpH値を測定したり、水生生物を採集したりする。とても勉強になる」
「学祭でまで勉強したくないよ! メイド喫茶が駄目ならお化け屋敷でもいいから!」
 栄永さんは尚も諦めきれない様子で上渡さんに縋りつく。腕を取られてぶんぶん振り回されても上渡さんは微動だにしない。
「お化け屋敷だって、五人でやるには準備や運営が大変だ」
「けどさあ、せっかく妖怪が四人も揃ってるんだよ? どこのお化け屋敷でも本物揃えてるとこなんてまずないよ!」
 もっともらしく栄永さんが胸を張ると、そこでまた大地が笑った。
「本物っつったって犬に天女に猫に狐だろ。見てびびる奴なんていると思うか?」
「犬じゃないよ、雷獣だよ」
 私はとっさに口を挟んだ。自分のことなのに随分ぞんざいに言うんだから、訂正だってしたくなる。
 でも大地は手をひらひら振って、軽く答えた。
「似たようなもんだろ。尻尾が一本か二本かの違いだけだ」
 それだけじゃない。雷獣は空も飛べるし雷だって呼べる。あと、毛並みがきれいでふさふさしてる。あんなにきれいな毛並み、よく手入れされた犬だってそうそう持ってないと思う。
 ただ雷獣がお化け屋敷にいて怖いかって聞かれたら――ちっとも怖くないかな。
「そもそも人を怖がらせるようなことをするのは、幽谷町に生きる妖怪の理念に反する」
 上渡さんは生真面目な口調で諭すように言った。
 栄永さんが、恨めしげな上目遣いで上渡さんを見る。
「怖がらせるったって、お化け屋敷だよ。お遊びでも駄目なの?」
「好ましくはないな」
「お堅いなあ。会長はもっと肩の力抜いて、柔軟に考えてもいいと思うよ」
「それは、一理あるかもしれない」
 どこか納得したように顎を引いた上渡さんが、その時少し疲れた表情に見えた。
 今日の上渡さんはやっぱり元気がないようだ。学祭の話が一段落したので、私はそっと聞いてみた。
「会長さん、調子よくないの? ちょっと元気ないよね」
 上渡さんは呆けたような顔で私を見る。そんなこと、聞かれるとは思わなかったというような顔だった。
 数秒経ってから、思い出したように表情を和らげた。
「……いや、そんなことはないよ」
「そう? 夏バテでもしたのかなって思ってた。違うならいいんだけど」
「気にかけてくれてありがとう」
 丁寧にお礼を言い、上渡さんは続けた。
「受験勉強に根を詰めすぎた。思うように捗らなくて、少し無理をしたのかもしれない」
「そっか、三年生だもんね。大変な時期だよね」
「ああ。もっとも君達も来年は受験生だろうし、お互い様かな。気をつけてくれ、僕みたいにならないように」
 微かに笑いながら脅かす口調で言われたので、どきっとした。他人事だと思っていたわけじゃないけど、夏期講習が終わって気が緩んでいたのかもしれない。確かに私も、それから大地も、来年の今頃は受験生として受験勉強に励んでいなくちゃいけないはずだった。
 思わず大地の方を見やると、同じように私を見た大地が苦々しい顔つきになる。
「残り十日の夏休みくらい、そういうのは忘れとこうぜ」
 その言葉もまた共感できるものではあるんだけど、残り十日の夏休み、一体何をして過ごそうか。
 私が残りわずかな夏休みに思いを馳せた時、土手の上にようやく黒川さんが現れた。私達に向かって手をぶんぶん振りながら声をかけてくる。
「ごめんごめん、遅くなった! 必要な物揃えんのに手間取ってさあ!」
 げらげら楽しそうに笑いながら土手を滑り降りてきた黒川さんは、コンビニの大きなビニール袋を提げていた。それを迎える栄永さんが怪訝そうな顔をする。
「必要な物って何? あんまり遅いから逃げたのかと思ってた」
「なんで逃げる必要あんだよ。ほら、川遊びと言えば、これだよこれ」
 黒川さんは私達全員によく見えるよう、ビニール袋の口を広げてみせた。
 中に入っていたのは煮干しとするめ、そして凧糸だった。
「……酒のつまみ?」
 大地が形のいい眉を顰める。
 途端に黒川さんは吹き出し、
「いや普通に食べてもいいけどさ。こいつでザリガニ釣るんだよ」
 いきなり突拍子もないことを言った。
「口縄川にすんげえいっぱいいるからね。釣れるよー、それはもう馬鹿みたいに釣れるよ」
「そんなの釣ってどうすんの?」
 栄永さんがぽかんとしている。
 その顔を黒川さんも訝しそうに見返して、あっさりと言った。
「楽しいだろ、いっぱい釣れたら」
「楽しくないよ。女子高生はザリガニ釣りなんてしないの! だよね、萩子先輩!」
 同意を求めてくる栄永さんに、私は正直に答えた。
「確かにここ何年かはしてないかな。子供の頃はよく釣ったけど」
「萩子先輩、やったことあるの!?」
「ちっちゃい頃にね。大地と一緒にこの川で遊んだことあるんだ」
 うちのおじいちゃんがまだ生きてた頃、私と大地はよく口縄川まで連れてきてもらった。ザリガニの釣り方も石切りの投げ方もおじいちゃんが教えてくれた。おつまみのするめを餌にしたら、バケツいっぱいはすぐに釣れたっけ。
「えー、何か意外。そういう男の子っぽい遊びしてたんだ」
 栄永さんが言葉通り、意外そうに目を丸くする。
「遊び相手が大地だったからね。やんちゃな男の子みたいな遊びばかりしてたよ」
 私が答えると、大地が間髪入れずに噛みついてきた。
「俺のせいみたいな言い方すんな、お前だって大概暴れん坊だっただろ」
「大地と一緒に遊んでたらそうなるよ。影響されちゃったんだよ」
 子供の頃の写真を見返すと、大地と友達になった幼稚園時代から、私はずっと髪が短かった。長い髪だと遊ぶ時に邪魔になるからだ。一番の仲良しが大地みたいな元気な子なら、そりゃおてんばな子になっちゃうよね。
「じゃあ今日は童心に返って、幼なじみとザリガニ釣りなんてどう?」
 黒川さんはやる気満々で私達を促してきた。
 ザリガニ釣りなんて何年ぶりだろう。子供の頃は面白いように釣れるのが楽しくてしょうがなかったけど、今やっても面白いかな。
「いいな、やろうぜ。釣って釣って釣りまくってこの川原をザリガニまみれにしてやろう」
 大地もめちゃくちゃ乗り気だった。目を輝かせてそんなことを言うものだから、ザリガニが足元にうじゃうじゃいるのを想像してしまって、ちょっとだけ背中の辺りが涼しくなった。
「本気でやんの? 何が楽しいのか全然わかんないんだけど……」
「川には遊びに来たわけじゃないんだぞ。本来の目的を忘れられては困る」
 栄永さんと上渡さんは渋い顔をしていたけど、それも織り込み済みだというように黒川さんはにまっと笑う。
「やんないなら不戦敗ってことで。俺に勝てないと踏んで勝負を避けるのも賢い選択ですからね」
 わかりやすい挑発に栄永さんがあっけなく食いついた。
「勝手に勝負にしないでくれる! たかがザリガニ釣りくらいで余裕ぶって」
「栄永、お前が俺より釣ったらアイス奢ってやるよ。ま、ないだろうけど!」
「むかつく……! アイスの他にカラオケ五時間奢ってくれるなら受けて立つよ!」
「よし、じゃあ決まり。上渡くんはどうすんの? 久々に釣っちゃう?」
 栄永さんが勝負に乗った後、黒川さんは上渡さんの方を見やる。
 躊躇していたように見えた上渡さんも、やがてはこう言った。
「水生生物の採集ということなら、同好会活動の範囲に収まるかもしれない」
「実は釣りたいんだね、上渡くん」
「やるからには展示にも生かそう。一番いいザリガニを学園祭で披露する」
「いいね。ついでに各々の釣果をパネルにして飾るってのはどう?」
 何だかんだで皆、ザリガニを釣りたくて堪らないらしい。
 正直、私はそこまですごく釣ってみたいというほどではなかったんだけど、
「萩子、釣り方覚えてるか? 何なら俺が教えてやるから」
「本当? 実はあんまり覚えてなかったんだ。教えてくれたら嬉しいな」
「じゃあ隣に来いよ、一緒に釣ろうぜ」
 大地が教えてくれるというから、せっかくなので童心に返ってしまうことにした。