夏休みの宿題(1)

 いつの間にやら、夏休みも残り十日となっていた。
 この日、ほぼ三週間ぶりに化学同好会の召集があり、私達は上渡さんのおうちに集合した。
 夏休みに入り、辰巳さんの件が片づいてからも、皆で集まろうという話は何度かあった。だけど大地の怪我がよくなるまでは遊びにも行けないということで、今日まで延び延びになっていた。

 蝉の鳴き声が聞こえる午後、風通しのいい居間で、久々に五人が顔を合わせた。
 上座には会長である上渡さんが座り、そこから時計回りに黒川さんと栄永さんが並んで座り、大きな座卓を挟んで向かい側に私、そして大地が肩を並べている。私達は程度の差こそあれどそれなりに日に焼けていて、充実した夏休みを過ごしてきたことを各々が窺わせていた。
「今回はお盆休みを挟んで、久々の集合だ」
 いつものように生真面目に、上渡さんが切り出した。
「そこで何か変わったことはなかったか、一人一人報告していってもらおうと思う」
「はいはい、俺ある! すんごい報告あるよ!」
 すると一番手の黒川さんが待ってましたというように挙手をして、ポケットから財布を取り出した。そこから何かを抜き出したかと思うと、私達に向かって高々とかざしてみせる。
「刮目して見よ! 俺、免許取りましたー!」
 黒川さんが日に焼けた手で持っているのは運転免許証だった。青背景の顔写真は確かにとてもいい顔をした黒川さんのものだったし、名前もちゃんと記されている。
 私はお父さんの免許証なら見たことがあるけど、こうして身近な、歳も近い人の免許証を見るのは初めてだった。実際、夏休み中という短い期間に試験を受けて合格するって、すごいことなんじゃないかな。
「すごーい黒川さん!」
「本気で夏休み中に取ったのかよ……先輩、夏期講習だってあっただろ」
 拍手する私の隣で、大地が目を瞬かせている。
 それで黒川さんは誇らしげに胸を反らした。
「いやあ、本気になればこんなもんですよ。俺はやればできる男ですからね」
 見るからに得意そうにしてる。でも、自慢したくなる気持ちもわかるかも。 
「意外とやるじゃん。じゃあさ先輩、今度どっか乗せてってよ!」
 栄永さんが可愛くねだった途端、黒川さんは渋い顔つきで眉を顰めた。
「馬鹿言うんじゃないよ。俺の助手席には可愛い女の子しか乗せないって決めてんだよ」
「え、だったら私で文句ないじゃない。どこからどう見たって可愛いよ」
「どこがだ。大体、乗せたら乗せたでガソリン代も高速代も出さない気だろお前は」
「可愛い女の子からお金取るの? そんなんだから彼女できないんだよ先輩は」
 二人がいつものように睨み合い、一触即発の空気が流れかけたところで、進行役の上渡さんが咳払いをする。
「久々に会ったのに口喧嘩から始めることもない。……次、栄永の報告は?」
「あ、はいはい。私もあるよー!」
 ころっと笑顔に戻った栄永さんは、持ってきたかごバッグの中から携帯電話を取り出した。ラインストーンできらきらにデコってある、とっても可愛い電話だ。
 そのディスプレイを、ちょうどさっきの黒川さんみたいに、私達に向けて掲げた。
「なんと! 辰巳さんが遂に自分の名前を書けるようになりましたー!」
「おおー」
 誰からともなく、感嘆の声が漏れた。
 携帯電話の画面にはその画像が映っている。黒いペンで大きく、やや個性的なかなくぎ文字で『辰巳』と書かれた紙を、人間の姿をした辰巳さんが掲げているものだ。辰巳さんはきれいな顔立ちにとろけるような笑みを浮かべていて、写真を撮られるのがすごく嬉しいみたいだった。
「辰巳さん、もう漢字を書けるようになったの?」
 私が尋ねると、栄永さんは自分のことみたいにうきうきと頷いた。
「そうなの! すごいでしょ、夏休みの間ずーっと特訓してたんだから」
「確かにすげえな。こないだまでひらがながやっとだったのに」
 大地もいたく感心している。
 辰巳さんの新生活は目下順調かつ平穏なようだ。私も商店街でよく顔を合わせていたけど、住み込んでいる八百屋さんでお手伝いをしたり、近くを散歩したりする辰巳さんはいつもにこにこしていて、楽しそうだった。大地も出前や何かで辰巳さんと行き会ったりすることがあって、あとで私にその話を聞かせてくれて、二人で安心していたところだった。
 それと栄永さんの頑張りも、結構上手くいってるのかななんて思ったりして。
「この分だと幽谷町にも早く馴染めそうで、よかった」
 上渡さんが胸を撫で下ろすと、栄永さんはそこで思い出したように口を開いた。
「あ、でもね。一個だけ困ってることがあって」
「辰巳さんがか? 一体どうしたんだ」
「ほら、辰巳さんって名前だけじゃん。人に名前聞かれた時、名字がないと困るんだって」
 言われてみれば。
 辰巳さんから名前を教えてもらって以来、私達は抵抗なくその名前で彼を呼んできたけど、考えてみればずっとファーストネームで呼んでたってことになるんだ。
 名前は個人につけられるものだけど、名字は親やそれ以前のご先祖様から受け継ぐものだ。名前が一人ひとりの存在を示すだとすると、名字は家族との血の繋がりを示すものなのかもしれない。自然の中で百年以上、人や他の妖怪と関わらずに生きてきた辰巳さんには、誰かから名字を受け継ぐ機会も、必要もなかったんだろう。
 だけどこれからは、幽谷町で暮らす以上は、そういうわけにはいかないんだろうな。
「それで何か名字でもつけよっかって話になってんの。まだ考え中なんだけど」
 栄永さんが明るい口調で続けた。
 名前をつけた後で名字をつけるっていうのもちょっと面白いかもしれない。私も楽しくなって口を挟む。
「辰巳さんはどんな名字がいいって言ってるの?」
「それがさあ、全然決まんないの。本人は『よかったら栄永さんがつけてください』って言うんだけど、ペットに名前つけるんじゃないんだし、そうそう思いつかなくない?」
 なんと、栄永さんは名づけ親まで頼まれているみたいだ。辰巳さんに屈託なくせがまれて、困り果てる栄永さんの姿が想像できるようだった。
 と、そこで黒川さんが、栄永さんを肘でつついた。
「馬鹿だな栄永、それはいわゆる一つのチャンスってやつだろ」
「はあ? 先輩に馬鹿とか言われたくないんですけど」
「まあ聞けって。いいか、辰巳さんにこう言うんだよ。『だったら私と一緒の名字になりましょう』ってな。逆プロポーズだよ」
 そこまで言われると栄永さんは耳まで真っ赤になって、その場に勢いよく立ち上がった。
「ちょっ、先輩!? いきなり変なこと言わないでくれる!」
「辰巳さんがお前ん家に婿入りすれば名字もできるし、お前も幸せだしで丸く収まるだろ?」
「わああ馬鹿馬鹿猫頭! それ以上言ったら殴る! て言うか毟る!」
「毟んな女狐! てかやめて、本当にやめて! 俺の貴重なキューティクルが!」
 栄永さんが黒川さんの癖のある髪をわしっと掴んだところで、またしても上渡さんが咳払いをした。
「しつこいようだが、喧嘩はよそう。今のは黒川が悪い」
 たちまち栄永さんと黒川さんが顔を見合わせ、栄永さんは赤い顔のままむすっとして座り直す。黒川さんは乱れた髪を手ぐしで直しながら呻いた。
「俺への頭髪暴行罪は適用されないの?」
「お前が栄永をからかうからいけないんだ」
 上渡さんはきっぱりと言って、不満そうな黒川さんを黙らせた。
 それから私の方を見て、少し苦笑気味に続ける。
「次は、片野さん。何か報告はあるかな」
「ええと、私の報告ではないんだけど……」
 そう前置きして、私は隣に座っている大地を見やる。
 今日は午前中にお店の手伝いをしてきたから、オレンジの雷光軒Tシャツを着ている。その左肩に、もう白い包帯が見えないことに私は何よりほっとしていた。
「ついに先日、大地の包帯が取れました!」
 だから胸を張って報告すると、また誰からともなく感嘆の声が上がった。
 当の大地は呆れたように私を見てきたけど。
「それ、お前が言うのかよ。どっちかっつうと俺の報告だろ」
「だって私は特にないし……それにいいニュースだから、早く言わないと」
「そもそも見りゃわかることなんだから言わなくていいんだって」
 と可愛くないことを言いつつも、大地も内心ではほっとしてるんだと思う。口元に浮かぶ笑みを隠し切れていなかった。

 夏休みの最初に大地が怪我をして、言葉では言い表せないほどショックだった。
 大地がいなくなっちゃったらどうしようってすごく怖かったし、その心配がないとわかってからも、白い包帯を巻いて居心地悪そうにしている大地を見る度に胸が痛んだ。早く治って欲しくて、無茶をしないように毎日傍で見守ってたら、本人には『心配しすぎ』って笑われた。でも心配して当然だと思う。
 私の心配を笑う大地は、それでも結構気を遣っていたんだと思う。私や大地のおじさん、おばさんが心配しすぎないように、そして辰巳さんが気に病まないように、あえて平然と振る舞っていたみたいだった。そういう経緯もあったから、無事に包帯が取れた日は私もほっとしたけど、大地自身もやっぱりすごくほっとしていたようだった。
 私達の夏休みは始まりこそ大変で、毎日ずっと落ち着かなかったけど――最近になってようやく平和で、穏やかで、そして心置きなく笑っていられる日々が戻ってきた。
 だからこれが一番の報告。そして最高にいいニュースだ。

「そっかそっか、うん。それは本当によかった」
 黒川さんが垂れがちな目を細めて、しきりに頷いている。
「稲多くんがよくなったのはもちろんだけど、片野さんだってめちゃくちゃ気にしてたもんな。治って本当によかったよ」
 心配してたのは事実だけど、人からそれを言われると何だか無性に恥ずかしかった。
「本当だよね。萩子先輩、おめでとう!」
「よかったな、片野さん。君の心もさぞかし軽くなったことだろう」
 栄永さんからも、上渡さんからも笑顔で言われて、嬉しいんだけどますます恥ずかしくなる。皆からそこまで言われるほど、私、心配してたように見えたのかな。大地の言う『心配しすぎ』っていうのも、あながち間違いじゃなかったのかもしれない。
 一方で、大地は釈然としない顔をしていた。
「なんで皆して萩子にばかり言うんだよ。包帯取れたのは俺なんだけど」
「そりゃ普通は、一番心配してた人を労わないとって思うじゃん」
 栄永さんがさも当然という口ぶりで答える。
 その横で黒川さんも腕組みをして、もっともらしく語を継いだ。
「そうそう。君の心配は片野さんが一手に引き受けて、彼女の心配は俺らが労う。完璧な分業だよ」
「……何か、納得いかねえな」
 大地は不服そうに首を捻っている。
 だけどその後でちらっと私の顔を見て、気を取り直したように表情を緩めた。
「まあいいか。心配かけたのは事実だもんな」
 そう言われてしまうと、私としても頷いていいのか否定していいのかわからなくなる。
 とりあえず安心したのもまた事実ではあるから、照れつつも笑っておいた。
「治ってよかったね、大地」
「おう」
 若干はにかんで答えた大地は、すぐにそわそわした様子で上渡さんに視線を戻す。
「で、何の話だっけ。夏休みの報告だよな?」
「ああ。君の方からも、何かあれば」
 上渡さんが微笑んで促すと、大地は天井を仰いで唸った。
「って言っても、包帯取れた話は萩子が言ってるし、他に何もねえよな……」
「えっ、ないの? 何にも?」
 すかさず黒川さんが突っ込んだ。
 大地はそれでも一生懸命考えたみたいだった。しばらくしてから、捻り出すようにゆっくりと言った。
「強いて言うなら、夏休みの宿題が今日の段階で全部済んでるってことくらいだな」
 確認を取るように私の方を見てきたから、私も保証した。
「そうだね。勉強する時間、いっぱいあったもんね」
 怪我をしている間の大地は遊びにも行けなかったし、お店の手伝いだってできなかった。でも利き手は無事だったから夏期講習には通えて、勉強に集中できたみたいだ。それとおばさんが『治るまでに宿題済ませちゃいなさい』と言ったから、私も手伝って、一緒に毎日宿題をやった。勉強するだけじゃ肩が凝るから、時々商店街を歩き回ってアイス食べたり、コンビニで飲み物買って神社まで散歩したりもした。だから私も大地も、遊びには行けなかったけど程よく日に焼けている。
 そして勉強を頑張ったお蔭で私も大地も宿題が片づき、残り十日の夏休み、まさに後顧の憂いなしという状況だった。
「もしかして、二人でずうっと一緒に宿題やってたの?」
「そうだよ」
 栄永さんの問いに私は頷く。
 大地の肩の包帯が取れるまで、ほぼ毎日のように顔を合わせていた。都合がつけば家を訪ねて大地の部屋で一緒に勉強していたし、時々は雷光軒でお昼もごちそうになった。そういうのも楽しい夏休みの過ごし方だった。
「相変わらず超仲いいよね、先輩がたは」
 ふうっと溜息をついた栄永さんは、私と大地を見比べるようにしてに続ける。
「でも仲いい割に、ずっと一緒にいたって言う割に、全っ然何にも変わってないよね」
 変わってない。本当にそうだろうか。
 私は先月で十七歳になったし、大地は包帯が取れた。二人揃ってそこそこ日にも焼けた。夏休み前と比べてみたって、変わってないはずがない。
「全くだよ。四十日間の夏休みの四分の三を宿題と夏期講習だけに費やして、空しくなんない?」
 栄永さんの言葉に同意した黒川さんが、呆れたように大地へ尋ねた。
 当然、大地は困惑したように応じる。
「しょうがねえだろ、ずっと怪我してたんだから」
「しょうがないって、そうこうしてる間にも既にカウントダウンは始まってんだよ稲多くん」
「カウントダウンって何のだよ」
「君を『へたれ野郎』と呼ぶカウントダウンだ」
 黒川さんが得意げに言い切る隣で、栄永さんは『むしろもう呼んじゃっても問題ないんじゃないの』なんて言い出した。
 私は、大地がどうしてそんな不名誉な呼び方をされなければならないのかぴんと来なかったけど――あれ、でも、黒川さんが『へたれ野郎』なんて乱暴なことを言ったのって、これが初めてじゃないような。前はいつ聞いたんだっけ。大分昔のことのような気がする。
 あやふやな記憶を手繰り寄せようとする私をよそに、大地はなぜかめちゃくちゃ慌てていた。
「人を変な呼び方で呼ぶな! ってか先輩には関係ねえだろ!」
「親切心で言ってんだよ。そう呼ばれたくなかったらもうちょいしっかりしやがれ」
「そうだそうだー。ぼやぼやしてると夏休み終わっちゃうよ、先輩!」
 こういう時だけ、黒川さんと栄永さんは妙に気が合うみたいだ。
 大地がぐっと言葉に詰まったようなので、私が話題でも変えようかと口を開きかけた時、それよりも早く上渡さんが言った。
「稲多くんを糾弾する集まりでもない。今日は平和的に行こう」
「ええー。会長はいいの? 大地先輩が煮え切らない態度でも」
 栄永さんの反論に、上渡さんは優しく微笑んで答えた。
「宿題を既に終えているのは素晴らしいことだ。稲多くんは十分しっかりしていると僕は思うよ」
 私もそう思う。宿題が済んだということはこのまま二学期を迎えてしまっても差し支えないということだし、残り十日の夏休みを心置きなく満喫できるということでもあるはずだ。この夏休み、大地にとっては不自由も不満もたくさんあっただろうけど、夏休みらしい思い出を作るのならこれからだって全然遅くない。
 例えば今日だって、久々に五人で集まったことだし。
 どういう理由で集まったのかはまだ聞いていないけど、楽しくなりそうな予感はしてる。私だって宿題終わったし、大地の怪我も完治して、何の不安もないからだ。
「では、一通り報告も済んだところで――」
 上渡さんが次の話題に移ろうとした。
 そこで大地が訝しそうにして、
「あれ、会長さんは報告とかねえの?」
 と声を上げると、上渡さんは思いがけないといった様子で目を瞠った。
「僕は……ああ、そういえば何も考えてなかったな」
「会長は夏休み何してたの? 私の宿題見る以外で」
 栄永さんが尋ねる。
 それで上渡さんは困ったように考え込んだ。
「今年の夏休みは……栄永の宿題を見て、家の手伝いをして、受験勉強をした。そのくらいだな」
「えっ、何それ超空しい! じゃあ日に焼けてるのも畑に出てたから?」
「ああ。遊びに行く気もしなかったし、暇な時間はぼうっとして過ごしていた」
「おじいちゃんみたいな過ごし方だね、会長……」
 栄永さんは呆れていたようだったけど、私は上渡さんの様子が気になっていた。
 今日は何だかいつもより口数が少ないような気がする。心なしか元気もないようだし、そして今の夏休みの過ごし方だ。夏バテでもしたんじゃないかと心配になった。
 見た目は普段と変わりなく、精悍な顔つきをしているけど。
「まあ上渡くんが老け顔なのは今に始まったことじゃないからね」
 黒川さんが混ぜ返すように言った。
 すると上渡さんはそちらを軽く睨んで、
「顔の話はしていない。ひとまず報告は以上だ、本題に移ろう」
 仕切り直そうとしてか、大きく息をつきながら言った。
「本日は、来月行われる学園祭において、我が化学同好会が何をするかについて話し合おうと思う」
 幽谷高校の学園祭は毎年九月に催される。
 今年の八月と夏休みも、いよいよ残り十日だった。  

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