化学同好会の連絡網(3)

 ここ何ヶ月かで俺が失くしたものは数多い。
 例えば平和で静かな日常。
 例えば現代日本に生きる人間として、うさんくさい超常現象の類を無闇に信じないという真っ当な精神。
 例えば、今まではろくに考えてこなかったけど、むしろこうなって初めて真面目に向き合わなきゃいけなくなった、進路についての選択肢の幅。
 そして最も深刻な損失が、プライバシーの権利。
 今までは口にでも出さなければ知られることもなかった俺の内心が、おかしな形でわかりやすく、しかもリアルタイムで表れるようになってしまった。もちろんその現象が幽谷町民全員に知られているってわけじゃねえけど、一番ばれたらまずい奴――まずいってか、純粋に気恥ずかしいし気まずいし居たたまれない、他の誰より俺の気分を浮き沈みさせる厄介な相手に知られてるから困る。これが逆だったらよかったのにな。俺じゃなくてあいつのことが手に取るようにわかるようになったら、もうちょっと何か、接し方とか考えられるのに。
 もちろん失くしたものばかりじゃなく、手に入れたものだってある。特に使い道のない妖怪の力はどうでもいいとして、あとは価値のあるものばかりだった。あいつの携帯電話番号と、メールアドレスと、それから誰に隠す必要もなくなった『幼なじみ』っていう立ち位置。だけどそれらは何かと引き換えにして得たものじゃなく、言ってしまえばいつでも手の届く距離にあった。三メートルあるかないかの路地を挟んで真向かいの家に、チャイムを鳴らして押しかける勇気がなかった、それだけのことだ。
 だから、割に合わねえって言ったらおかしいんだろうけど、もっと高望みしたっていいんじゃねえのと思うようになった。いや、願望だけなら前からあったけど、今はそれが実現可能なところまで来ている、ような気がする。思ってたよりいい感じみたいな……これが俺の気のせいだったら死ねるけど。お前どんだけ思わせぶりだよって。
 そういう思惑とタイミングを合わせたみたいに、今年も七月がやってくる。

 九時過ぎに電話をかけてみたところ、萩子は出なかった。
 不思議に思って部屋の窓を開け、真向かいの家を窺えば、二階の東側にあるあいつの部屋は明かりが点いてない。萩子ん家の夕飯はいつも七時くらいだから、居間でテレビでも見てるのか、まさかもう寝たってことはねえよな。小学生じゃあるまいし。
 つか、携帯電話なんだから『携帯』しろよって思う。あいつは時々、部屋に置いてたから鳴ったの気づかなかった、みたいなことを平気で言う。俺なんていつメールが来てもいいように、割と常に持ち歩いてんのに……どうでもいいけど。
 もう少ししてからかけ直そうとしばらくぼんやりしてたら、九時半になって、向こうから電話があった。
『ごめんね、電話出れなくて。何か用だった?』
 萩子の声はいかにも申し訳なさげだった。
 別に俺は、電話が一発で繋がらなかったくらいでいらついてたり、どうしてんのかなって気にしてたり、今日はもう話せねえのかなってがっかりしてたわけじゃねえけど――多少なくもなかったけど、その声を聞いた途端、少しほっとした。
 しかも萩子の方から電話くれるとか、何かいいよな。すげー嬉しい。
「起きてたのか。もう寝てんのかと思った」
 俺が素直にそう言うと、子供みたいな笑い声が聞こえてくる。
『さすがにまだ寝てないよ。テスト前だしね』
「けど、部屋の電気消えてたからさ。てっきり……」
『あ、さっきまでお風呂入ってたんだ。今はもう部屋にいるよ』
 言われたのでもう一度窓の外を確かめる。今度は路地に面した東向きの窓にちゃんと明かりが点いていた。カーテンが閉まっているせいで姿までは見えなかったものの、直線距離にして三メートルと少しのところに萩子がいるんだってことはわかる。
 それだけ近くにいるのに、わざわざ電話なんかしてるのも変な感じがする。もどかしいようでもあり、実際の距離よりもずっと近くにいるような気もして、もっと声が聞きたくなる。
「お前、ばあちゃんみたいに冷え性だもんな。夏でも長湯なんだろ」
『いいじゃん。お風呂でのんびりするの好きなんだもん』
「暑い時の風呂って余計汗かかねえ? 俺は湯船入りたくねえな」
『うーん、あんまり気にならないけど。寒いよりずっといいよ』
 ちっちゃい頃から萩子は寒がりで、冬が苦手だった。気温が下がって身体を冷やすとすぐに風邪を引いてしまう。だから五月までタイツなんか履いてる。今はさすがに生足だけどな。萩子の為にも俺の為にも、夏がずっと続けばいいのに。
 昔から、萩子は夏が好きだって言ってた。他の季節と比べて寒くないし、空も雲の色も緑の田んぼも色鮮やかで、すごくきれいに見えるからって。それに――。
『それで、何で電話くれたの?』
 考え事が脱線しかけていた俺の耳に、萩子の問いかけが聞こえた。
「あ? 何でって……」
 何だったっけ。一瞬、忘れそうになる。
 ――そうだ。連絡網だ。
「ほら、こないだ決めたろ、同好会の連絡網ってやつ」
『電話かける順番だよね』
「そいつ。それでさっき、栄永ちゃんから電話あって。伝えてくれってさ」
『うん、わかった。どんな連絡だった?』
 すぐに聞き返されたから、俺も机の上のメモを引き寄せつつ、一応確認しておく。
「お前、メモとか取んなくて大丈夫か?」
 返事より先に、萩子はシャーペンをかちかち鳴らしてみせた。
『ちょうど机の前にいたから。すぐメモれるよ』
 そう話す萩子がどんな机を使っているのか、俺は知らない。あの東向きの窓がある二階の部屋には七年前の一件以来、入れてもらったことがなかった。知っているのはあの窓にかかるカーテンが白と紺のブロックチェックだってことくらいだった。
 七年前から更新されてない記憶でいいなら、どんな部屋かはまだ覚えてる。入学した時に買ってもらったという、四年生になっても割かし綺麗なままの勉強机と、童話と絵本ばっかりの本棚と、ぬいぐるみをありったけ並べたベッドがあった。机の上には鍵がかかる宝石箱が置いてあって、そこには拾ってきたすべすべの小石とか、ラムネの瓶に入ってたビー玉とか、二人で作ったビーズの指輪とかをしまってたっけ。そういうものが全部残っているのかどうかすら、今の俺にはわからない。
 いつかそういうのも最新の記憶に更新してやりたい。俺は萩子について知らないことがあるのがどうしても嫌だ。こっちの内心があいつには筒抜けなんだから、俺だって萩子のことをいくらでも、好きなだけ知る権利があると思う。
「試験前の部活禁止期間が終わったらまた皆で集まるから、都合つく日を後で会長さんに連絡しろ、だとさ」
 連絡内容を伝えると、萩子はそれを丁寧にメモしたようだった。それからふっと息をつくのが聞こえた。
『何か、時間経つの早いね。こないだ中間終わったと思ったら……』
「もう期末だもんな。うんざりだ」
『部活しばらくないのも寂しいね。テスト明けには何するのかな?』
 そこは俺も気になるところだ。
 プライバシーの侵害は別に空模様に限った話じゃなく、違う部分でも何気に進行していた。同好会を筆頭に、幽谷町中に存在している自治会の人たちはそこそこ密に情報をやり取りしているらしい。そのせいかどうか知らねえけど、例えば商店街の八百屋のおばちゃんとか、肉屋のおっさんとかが俺の一学期中間テストの成績を知ってて、時期が時期だししょうがなかったよね、などとやけに心配してくれた。成績自体はありがた迷惑にも校内に張り出される仕組みだし、そこから漏れててもしょうがねえかなとも思うけど……中間の頃は考えることが多すぎてナーバスになってただけなんで、ぶっちゃけ放っておいて欲しかった。
 そして自治会では当然ながら萩子のこともそこそこ知れ渡ってるらしくて、――気がかりなのは化学同好会の連中が、特に会長さんが萩子について、何か余計な情報を仕入れてんじゃないかって点だった。
 前みたいに会長さんを疑ってるとかじゃねえけど、むしろあの人が仲間意識に篤くていい人らしいとわかったからこそ警戒が必要だった。事情を知ったら『じゃあ皆でお祝いをしよう』とか何とか、いかにも言い出しそうだからな。そして萩子は萩子で、そういうのでも普通に喜びそうな気がするから、どうにかして先手打っとかねえと。
 だったらいっそ、今、言おうか。
 ――いや、でも、それこそテスト前だ。ここでOK貰ったら試験勉強なんて手につかなくなりそうでやばい。もし仮に、万が一断られたりしたら、勉強どころの話じゃねえな……やっぱテスト明けてからにするか。
「栄永ちゃんは遊びに行くだけじゃないかっつってたけど、そのうちわかるだろ」
 とりあえず適当に答えて、それから俺は話題を変えようとした。
 でもその直後、萩子が、
『それもそうだね。じゃあ連絡、次に回すね』
 通話を終えようとしたから慌てた。
「まだ切んなよ、話終わってねえ」
『え? 他にも何か連絡あったの?』
「ねえけど。でも連絡だけで終わりってのも微妙だし、何か……」
 まだ話せるもんだと思ってたから、萩子が電話を切る気でいるのにがっかりした。もっと声が聞きたいのに。
 その気持ちが正直に、口をついて出た。
「ただもう少し、話したいって言うか……」
 言ってから自分で引いた。――うわ。俺、栄永ちゃんと同じこと言ってる。
 女子が言うと可愛い台詞でも、俺が言うと必死な感じがして気持ち悪い。こういうのは男がねだってみるもんじゃねえよな。萩子が言ってくれるようになればいいのにな。
 でも萩子は駄目なとこばっか真面目だから、そういう可愛いことは言わない。
『あんまり遅くなったら、黒川さんが寝ちゃわないかな』
「大丈夫だよ。先輩はネコ科だから夜行性だろ」
『そうかなあ……。昼間でも普通に元気いっぱいだよ』
「つか受験生だから遅くまで勉強してるって言ってたろ。まだ平気だよ」
『あ、それは言ってたね』
「な? 俺もあと五分、いや十分……くらいでいいから。もうちょっとだけ」
 携帯を握る手に汗までかいて、必死すぎるくらい食い下がった俺を、萩子はどう思ったんだろう。
 少し考えるような間があって、
『いいよ。もうちょっと話そうか』
 耳元に囁くみたいな、すごく優しい声が聞こえてきた。
 それで俺は嬉しくて、嬉しすぎて、自分からねだっておきながら何の言葉も出せなくなって、しばらく無様に黙るしかなかった。

 萩子ほどじゃないけど、俺も夏は好きだ。
 暑いのは鬱陶しいし出前行くのも結構辛いし、去年は意味もなく商店街をうろうろしてて危うく熱中症になりかけた。でも夏には、七月には、いい思い出だってたくさんある。
 今年の七月もそういう、いい季節にしたいと思ってる。そうなりそうな予感はしてる。俺の気のせいじゃなければ。