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私が髪を切る理由

 ほんの一時期だけ、髪を短くしていたことがある。
 具体的には小学一年生から四年生まで。だから最後の七五三の写真は短い髪で写ってて、お母さんは今でもそのことを残念がっている。
 でも私は短くしたかった。長いままだと、わんぱくな大地と遊ぶのに差し障りがあったからだ。

 家が向かい同士で、同い年。
 私と大地がお互い初めてのお友達になるのに、それ以外の理由はいらなかった。
 最初にどっちから『遊ぼう』って声をかけたか、どんなふうに仲良くなったかはあんまり覚えていない。気がつけば毎日遊ぶようになっていて、一緒にいるのが当たり前だった。最初の友達ってそういうものなんじゃないかな。
 大地は昔からやんちゃな子で、外で遊ぶのが好きな子だった。幼稚園の頃は家の近くで遊ぶことが多かったけど、小学校に上がると近くの山で遊んでいいとお許しが出て、それからは毎日のように山へ通った。
 お休みの日になると朝のうちから私を呼びに来る。
「はぎこー、あーそーぼっ」
 呼ばれて玄関まで下りていけば、虫捕り網とカゴと水筒で完璧に装備を揃えた大地が私を待っている。ふわふわした柔らかい髪を短く刈り込んでいた小さな大地は、記憶にある限りごく普通の男の子だった。
「いいよ、遊ぼう!」
 私はいつも大地の誘いに乗っていた。遊ぼうって言われて断ったことなんてなかった。この頃の私は今と変わらず、ただの人間の女の子だった。
 お出かけ前にはいつもお母さんに髪を結んでもらっていた。生まれてからずっと伸ばし続けてきた髪はこの頃背中くらいまであって、両親曰く七五三で着物を着る為に伸ばしていたのだそうだ。私自身もお母さんがしてくれる三つ編みが大のお気に入りだった。
 その日も長い三つ編みにしてもらって、青いリボンも結んでもらった後、大地と一緒に家を飛び出した。
「大地、何して遊ぶ?」
「えっと、まずじゃんけんで階段上る。それから虫捕りして――」
「探検ごっこもする?」
「する! 俺おやつ持ってきたから!」
 そう言って大地がズボンのポケットから取り出すのはおせんべいとか、クッキーとか、きっと大地のおうちで買い置きしているであろう個包装のお菓子だ。大地はいつも私の分までおやつを持ってきてくれた。ポケットに押し込んでいるせいで粉々に砕けてたけど、美味しかった。

 木が鬱蒼と茂る鎮守の森は、小さな頃の私達にとって格好の遊び場だった。
 鳥居へ通じる百段ちょうどの階段は、じゃんけんしながら上る。てっぺんに着いたら拝殿の周りの森で、網を振り回して虫捕り。くたびれたら石段まで戻ってきて座り、おやつ食べながら休憩する。神社には神主さんもいないし、普段から人がほとんど来ないから、何をしても怒られるということはなかった。
 ただ帰りの時間だけは守るよう、大地のおじさんから言い聞かされていた。五時の鐘が鳴ったら帰らないと駄目。なぜってこの山には昔から、化け猫や化け狐や化け狸がいるそうだから――私達にたくさんの怪談を聞かせてくれたおじさんだけど、そういえば『雷獣がいるよ』とだけは言わなかった。
「萩子、今日はあっち行ってみようぜ!」
 おやつを食べたら元気を取り戻した大地が、立ち上がって拝殿の裏手に広がる森を指差す。
「何探すの?」
「お宝! 俺絶対あの岩怪しいと思う!」
 拝殿の裏には磐座がある。どこかから転がり出てきたみたいな大きな岩にぐるりと注連縄が巻かれている。子供の頃の私達にとって、あの磐座もまた興味の対象だった。どうして岩があるんだろう、どうしてあんな大事な物みたいに飾ってあるんだろうっていつも不思議に思っていた。
 でも、そこへ行くまでには道のない森の中を進んでいかなくてはならない。
 小さな子供にとってはジャングルみたいな森の中を、私達はしっかりと手を繋いで歩いた。大地はいつも森の中へ入る時、私と手を繋いでくれた。私も大地の手を縋るように握っていれば、日の光が届かない森に入っても怖くなかった。どこからか聞こえる知らない鳥の不気味な声も、木々の間に張られた蜘蛛の巣も、草むらが揺れるがさがさいう音も、ちっとも怖くなかった。
「いたっ」
 隣り合って伸びる細い木々の間を通り抜けようとした時、私は頭に痛みを覚えた。
 まるで誰かが私の三つ編みを掴んで引っ張っているような痛さだった。ぎょっとして振り向くと、私の三つ編みの片方が尖った木の枝に引っかかっているのが見えた。枝から私の頭までまるでロープみたいにぴんと張られている。頭を動かしたくらいじゃ外れなくて、それどころか髪が抜けそうですごく痛かった。
 大地が私の手を引いたまま振り返る。
「どした、萩子」
「髪が……」
 泣きそうになりながら訴えると、大地も私の背後を見て事態を把握したようだった。
「枝に引っかかってる!」
 声を上げるなり飛んできて、
「待ってろ、今取るから!」
 小さな手で私の髪を枝から外そうとした。
 だけどよほど酷い絡まりようだったのか、枝からすぐには外れなかった。それどころか時々強く引っ張られて、その度に私の頭には悲鳴を上げたくなるような痛みが走った。
「痛い、痛いよ!」
「わ、わかってるって。もうちょっと我慢してろよ」
「だって……」
 大地が頑張ってくれてるのはわかってる。でも三つ編みを引っ張られるのは本当に痛かった。我慢なんかできなかった。ぷちぷちと音を立てて何本か抜けた時、その痛みの鋭さに私は思わず声を上げて泣いてしまった。
「泣くなって! ほら、外した!」
 私が泣くと大地は一層慌てて、ようやく私の髪を枝から外してくれた。
 せっかく結んでもらった髪はリボンが解け、三つ編みもぼろぼろで酷い有り様だった。それを見たら悲しくて仕方がなくて、もう遊ぶどころではなくなってしまった。
「ごめん……」
 大地は泣いていなかった。でも私と同じくらいしょげ返っていた。
「ごめん、萩子。俺が探検しようって言ったから……」
 繰り返し謝られたけど、もちろん大地はちっとも悪くない。それどころか私を助けてくれたはずなのに、私はお礼を言うこともできないまま俯いてぽろぽろ泣いた。
 結局その日は泣きながら家へ帰った。大地も虫捕り網を引きずりながらついてきて、『また明日』の約束もしないまま家の前で別れた。

 家に着いた後、ぼろぼろの三つ編みで泣き顔の私を見て、お母さんはびっくりしていたようだった。
 しゃくり上げながら事情を話すと、
「そんなことで泣かないの、大地くんだって困ってたでしょう」
 そう言って私を宥めた後、髪を解いてきれいに結い直し、もう一度リボンを結んでくれた。
 現金な私はそれだけでたちどころに機嫌が直ってしまったけど、その途端に大地のことが思い浮かんだ。
 大地は落ち込んでいた。痛い目に遭ったのも泣いたのも私だったのに、自分のことみたいに悲しそうだった。明日会ったらいつもみたいに笑ってくれるかな、また一緒に遊んでくれるかな。子供心に心配になった。
 それからお母さんに直してもらったばかりの自分の三つ編みをつまんで、見下ろしてみた。長くてきれいで、よく『お人形さんみたいね』って言われる自慢の髪だった。七五三の日が来たらこの髪を結い上げて着物を着せるんだってお母さんも張り切っていた。
 でも、この髪のままじゃ森の中で遊ぶ時に邪魔になる。また枝に引っかかったら痛い思いをするだろうし、それは嫌だった。大地と遊べなくなるのはもっと嫌だった。
 だから大地みたいにすればいいと思った。
 大地みたいに短い髪をしてたら、また一緒に山で遊べる。
 今思うとすごく単純で短絡的な発想だけど、あの時の私はこれしかないと思っていた。
「お母さん、私、髪切りたい」
 思いついたことをすぐお母さんに打ち明けたら、私が泣いて帰ってきた時よりもびっくりされた。
「大地みたいに短くしたいの。じゃないと一緒に遊べなくなっちゃう」
 私がそう訴えても、お母さんはなかなかいいとは言ってくれなかった。七五三はまだ終わってなかったし、今日まで頑張って伸ばしてきたのも事実だったからだ。でも私がしつこくしつこくお願いしたら、やがて諦めたように溜息をついた。
「そこまで言うなら……」
 昼間は天気がよかったのに、いつの間にか今にも降り出しそうな空模様になっていた。だから大急ぎで家のお庭に新聞紙を敷いて、台所の椅子を一脚持っていった。私がそこに座るとお母さんは三つ編みを解き、櫛で丁寧に梳いてから、はさみでぱちぱち切り始めた。新聞紙の上には切られた私の髪が山と積もった。
 全部終わって鏡を覗くと、そこには初めて出会う女の子がいた。私の髪は少し癖があって、顎のラインで切り揃えた髪は毛先がちょっと波打っている。大地みたいにふわふわでさらさらの髪じゃないのは残念だったけど、初めての短い髪に私はすっかり興奮していた。
「大地に見せてくる!」
 言うなり私は家を飛び出し、お向かいまで飛んでいった。髪を切ったら頭が、身体が、羽が生えたみたいに軽くなって、本当にいい気分だった。誰よりも早く、一刻も早く大地に見せたくてしょうがなかった。
 玄関のチャイムを鳴らすと、大地は薄くドアを開け、恐る恐る顔を出した。私がまだ泣いていると思ったのかもしれない。
 でも私を見て、あっと声を上げると大きくドアを開け放って、慌てて外へ飛び出してきた。
「萩子! 頭どした!?」
「切った!」
 得意になって笑う私を、大地は目を丸くして見ていた。
「あのね、大地みたいにしてって言ったらお母さんが切ってくれた!」
「え……」
「だって伸ばしてたらまた木に引っかかっちゃうし、そしたら山で遊べなくなるもん」
 ためらいはなかった。自慢の髪を切ることよりも、大地と遊べなくなることの方が嫌だった。そして切ってみたらすごくすっきりした。
「これでまた山で遊べるよ。明日も遊ぼうね、大地」
 私は大地にそう言った。
 大地がしばらくの間呆然と私を見ていたけど、やがてほっとしたように表情を崩して笑ってくれた。
「うん! 明日も遊ぶ!」
 それから大地は私の周りをぐるぐる回って、切りたての髪を眺めたり、ちっちゃな手でさらさらと撫でたりした。
「萩子、短いのも似合う!」
「本当?」
「うん、本当! 何か格好いい!」
 大地が大はしゃぎで誉めてくれるのが、その時、すごく嬉しかった。

 私が髪を短くしていたのは小学四年の秋までだった。
 大地と遊ばなくなってからは髪を伸ばすようになった。五年生に進級する頃には結べる長さまで伸びていた。以来、高校二年生の現在まで私は髪を短く切ったことがない。
 今、また大地と一緒にいるようになったけど、私の髪は長いままだ。

 今日はデートだから、あと私の誕生日だから、結ばずに下ろしてきた。
「あん時はマジでびっくりした。あんなに長かったのに切っちゃうんだからな」
 あの頃の面影はほとんどない今の大地が、私の隣でアルバムを見ながら唸る。
「いいのかよ、って思った。そりゃまあ、嬉しくなくもなかったけどな」
 稲多家秘蔵のアルバムには小さな頃の大地と私の写真がたくさん収められていて、私達はそれを居間で眺めながら誕生日を過ごしていた。私と大地は初めてのお友達だったから、小さな頃の思い出にはいつもお互いがいるし、写真だって二人一緒に移っているものばかりだ。
「今でもお母さんには言われるよ、『七五三の為に伸ばしてたのに』って」
 そう打ち明けると大地は、すっかり大人になった顔で笑った。
「今でもかよ。そりゃ一生言われるパターンだな」
「そうかも」
 別に言われて困ることじゃない。あの頃の私も、大地をとても大切な友達だと思っていた、というだけの話だ。お母さんが言うと冷やかされているみたいでちょっと居心地悪いけど、事実だからしょうがない。
「けど、短いのも結構似合ってたよな」
 短い髪の私の写真を、怪我していない方の手で大地が指差す。
 そこには小さな頃の私達が手を繋いで、屈託のない笑顔で写っている。ちょうど今と同じように大地の家の居間で、床に並んで座ってカメラに向かってピースサインを送っている。撮ったのはおじさんだろうか、それともおばさんだろうか。
「そう? ずっと長いままだから、今も似合うかわかんないけど」
「今も似合うだろ」
「そうかな……」
 大地がそう言うなら、久しぶりに短くしてみるのもいいかな。もっとも三年後の成人式にはやっぱり着物を着せてもらう予定でいるから、あんまり短くするとお母さんにまた言われそうだけど。
 それから私は思い立って、隣に座る大地に尋ねた。
「大地は長い髪と短い髪、どっちが好き?」
 すると大地は驚いたように涼しげな目で何度か瞬きをした。
 その後、逆にこっちが息を呑むほど真剣な顔になって言う。
「お前それ、どういう意味で聞いてんの」
「……どういうって?」
「俺がどっちか好きって言ったら、その通りにするのかよ」
 冗談には聞こえない声だった。
 大地が今の質問の答えを、とても知りたがっているのがわかった。
 それならそれで思った通りのことを答えればいいのに、どういうわけか私は言葉に詰まってしまった。他愛ない質問のつもりだった。そうするかもしれないし、しないかもしれない。そう思っていたはずなのに、急に頭の中が真っ白になってしまう。
 多分、大地が思いのほか真剣な顔をしているせいだ。
 もしくは居間が静かで、私達しかいないせいかもしれない。
 考えてみれば今の私が髪を短くする必要なんてない。大地とは一緒にいるけど、もう山で遊ぶ歳でもなくなった。同好会活動にも支障はないし、私自身長い髪に慣れちゃってるし、何より髪を切ったらいろいろ変に勘繰られそうだし。
 だから、もし髪を切るとしたら、
「大地が、そっちの方がいいって言ったら切る……かもしれない」
 随分かかってから、私はそんなふうに答えを出した。
「だって大地は誉めてくれるし……今日も、そうだったから……」
 口にするのは少し恥ずかしかった。私、本当に誉めてもらいたがりだ。現金なのは小さな頃から全然変わってないみたいだった。
 私の答えを聞いた大地は、困ったように自分のおでこを手で押さえた。
「かえってわかりづれーよ……。だからどういう意味なんだよ」
「べ、別に変な意味じゃないよ、そのままだよ!」
「お前の『そのまま』が難解だっつってんだ」
「そんな難しいこと言ってないってば!」
 難解どころか思った通りのことしか言ってないのに、大地が困っているのはどうしてだろう。こっちも恥ずかしいのを我慢して言ったんだけどな。
 それよりも、私の質問には答えてもらってない。
「で、大地はどっちが好きなの? 長いのと短いの」
 改めて聞き直してみる。
 すると大地は眉を顰めて私を睨み、ぼそりと答えた。
「どっちって言うか……俺にとっては『何で』の方が大事なんだけど」
「え? それこそ、どういう意味?」
「だから、お前が何で髪型変えんのかってこと。昔だってそうだったろ」
 昔の私は、大地と遊びたいから髪を切った。
 今の私は、大地が誉めてくれるから切るかもしれないと思っている。
 何でっていうのは、そういうことだろうか。
「とりあえず、今は切んなくていいと思う」
「そう? やっぱり、長い方が好きだから?」
「何て言うか、たまに下ろしてきてくれるのも嬉しいからいい」
 照れた口調で言った後、大地は釘を刺すように続ける。
「あ、同好会の時は下ろしてくんなよ。何か、もったいねえから」
 それこそどういう意味って聞こうと思った時、大地の手が昔みたいに私の髪を撫でた。
 でも昔とは違う大きな、もう子供じゃない手になっていて、私はまたしても言葉に詰まり、結局黙って撫でられていた。

 昔も今も、髪型を変えたくなる理由が大地にあるのは同じだ。同じはずだ。
 だけど微妙に違う気がするのは、どうしてだろう。
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