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夏休みの宿題(4)

 ショッピングセンターは魔法の国みたいだ。
 学校の校舎よりも大きな建物の中にどんなお店でも入ってる。幽谷町では買えないような可愛い服を置いているお店もあれば、すごくいい匂いを漂わせているコーヒーショップもある。美容室も外観からしてすごくおしゃれで気後れするほどだし、本屋さんの品揃えの豊富さと言ったら、我が町の図書館よりもすごいんじゃないかって思えるほどだ。
 商店街がまるまる収まったようなだだっ広いショッピングセンターを、私は大地と一緒に歩いた。

「何でもいいからプレゼントを買わせろ」
 歩きながら、大地は命令するみたいに偉そうな態度で言った。
「もう貰ったってば」
 私が反論するとむっとしたそぶりで睨んでくる。
「ちょっとだけだろ。ってか厳密には貰ってないのと同じだろ」
「貰ったってば。ちゃんと。誕生日に」
「あれっきりじゃねえか。貰ったって言うならずうっと手元に置いとけよ」
「そんな、大地は家に持ち帰れないじゃない。無理だよ」
 駄々っ子みたいな理屈だと呆れる私に、大地は深い溜息をつく。
「だったら代わりに持ち帰れるような物でも買うとか、あるだろそういうの」
「私はあれで十分なんだけどなあ」
「お前は変なとこ頑固だよな。俺があげたいっつってんだから、何でも買わせりゃいいんだよ」
「うーん……そこまで言うなら、何か考えてみるけど」
 大地が梃子でも動かない意思を見せたので、私は諦めて何か考えることにした。
 プレゼントかあ。正直、大地がくれるんだったら何だって嬉しいんだけどな。
「やっぱこういう時の定番は、アクセサリーとかだよな」
 考え込む私に決断を促そうとしてか、大地は次々と意見を挙げる。
「あとは香水とか、化粧品とかもアリだよな。校則違反? そんなの学校につけてかなきゃいいだけだろ。何なら服とか靴でもいいぜ。ちょうど秋物売り出してる頃だし、見に行くか?」
 どれも欲しくないわけじゃないけど、決して安くはない物ばかりだ。気持ちは確かに嬉しいんだけど、大地にたくさんお金を使わせるのは抵抗があった。そのお金が、大地がお店のお手伝いをして貯めたものだと知っているから尚更だった。
 そういえば夏休み前は、文房具にしようって思ってたっけ。安いし、大地もそういうの見るの好きだし、二人で一緒に使えるかもしれないから。
「……ペンとか、そういうのがいいな」
 考えた末に欲しい物を口にしたら、大地が片方の眉だけを上げた。
「は? そんなんでいいのかよ」
「うん。ペンでも制服のポケットに差しとけば、いつでも手元に置いとけるよ」
 アクセサリーとかは、私にはまだちょっと早い気がする。そう思って言ったのに、大地は半笑いだった。
「いいけど……お前のチョイスはお子様っつうか、色気がねえよな」
「いいじゃん、十七歳だもん。そんなのないよ」
「あった方が嬉しいけどな、俺としては」
 大地は首を竦めると、すぐに大きな手で私の手を掴んだ。
「とりあえず、行くぞ。文具の店でいいんだよな?」
「あ……うん。確か、本屋さんの隣だよ」
 また何にも聞かないで手を繋がれた。
 別に嫌じゃないけど、なんで大地は平然としてるんだろう。
 ショッピングセンターは一部に吹き抜けのガラス天井があるけど、大体は外が見えないようになっている。だから空模様がわかりにくくて、大地が今どんな気分でいるのかを知るには大地自身を見ているしかない。目当てのお店まで歩いていく時は楽しそうにしていた。私の手を引いて、機嫌のいい時にそうするみたいに笑っているのを隠そうとしつつも隠しきれてない顔をしていた。
 本屋さんの隣にある文房具コーナーで、私達はペンを選んだ。できるだけ可愛いのがいいなと思ったから、選ぶ品も自然とキャラクター物になった。
 真っ先に目についたのは犬の模様がついたボールペンだ。機能は本当にごく普通の、ノック式三色ボールペンなんだけど、持ち手部分に白い犬の模様が点々と飛んでいて、更にクリップ部分にボールチェーンで繋がれた小さな犬の飾りがぶら下がっている。こちらももちろん真っ白い犬で、硬いプラスチックでできていた。
「これ、大地に似てない?」
 私がそのペンを手に取ってかちかち鳴らすと、繋がれた犬が身体を揺するみたいにぷらぷら揺れた。
 隣に立って手元を覗き込んでくる大地が、その犬を見るなり眉を顰めた。
「こんな間抜けな顔してるか? 俺」
「愛嬌があるじゃない。結構似てるよ」
「どっちかっつうと親父似じゃね? この危機感のない面構え」
 大地とおじさんは結構そっくりだったんだけど――と言うか大きさが違うだけに見えたんだけど、これは黙っててあげた方がいいかな。うん。
「にしても萩子、今でも犬好きなんだな」
 そう言って、大地がぶら下がった犬を人差し指でつついてくる。小さな犬は振り子時計みたいな軌道を描いて揺れ続けた。
「好きだよ。可愛いし、耳が尖ってるし、ふかふかしてるし」
「ペンギンよりも?」
「うん。ペンギンもいいけど、犬はやっぱり特別かな」
「……そっか」
 私の答えを聞いた大地は、見るからに満足げだった。この間も言っていたけど、自分のことを本当に犬だと思っているのかもしれない。
 私は小さな頃から犬が好きだった。でも最近になって、子供の頃以上に好きになったように思う。
「これがいいな。これ買って、一緒に使おうよ、大地」
 ねだってみたところ、大地は変な顔をした。
「一緒に使うって? これをか?」
「何か、二人で使えるような文房具がいいなって思ってたの」
 ただプレゼントしてもらうだけっていうのはやっぱり気が引ける。大地もこういう文房具が好きだから、一緒に使えたらより特別な、誕生日のプレゼントって感じがするかなって。
「いや、貸し借りすんならともかく一本のペンを共有とか、みみっちいだろ」
 大地は私の意見をあっさり却下すると、軽く鼻を鳴らす。
「それだったら、同じの二本買った方が早い」
 でもその言葉は、私にとってはちょっと意外だった。自分では思いつかなかったというのもあるし、そういうの、大地がいいって言い出すとも思ってなかったからだ。
 何でもないふうを装いつつ聞き返してみる。
「同じの、買う? お揃いになっちゃうけど……」
 途端、大地がじとっと私を睨む。聞き返すのがおかしい、みたいな目つきだった。
「別にいいだろ、そういうのも。嫌なのかよ」
 嫌なはずがない。私は大急ぎで首を横に振る。
「私は嫌じゃないよ、全然。子供の頃みたいでいいよね」
 ちっちゃな頃に大地から動物の消しゴムを分けてもらったり、一ダースの鉛筆を分け合ったりしたことを思い出す。お揃いの物を持とうと意識したわけじゃないけど、そんな感じで同じ文具を使ってること、結構あったな。
 大きくなってから同じことをしようとすると、何だか妙に照れるけど。
「じゃあ買うか。同じやつ」
「うんっ!」
 私は大きく頷いた。何だか思っていた以上に素敵な誕生日プレゼントになって、嬉しくて堪らなかった。
 大地は白いプラスチックの犬が揺れるペンを二本、レジまで持っていってお会計を済ませてくれた。ペンは一本ずつ細い紙袋にしまわれて、片方だけにきれいなピンク色のリボンが飾られた。
 お店を出てから、大地はリボンをかけた紙袋の方を私に差し出し、少しはにかみながら言った。
「遅くなったけど、誕生日おめでとう。失くすなよ」
 すごく優しい声で、そう言ってもらった。
「絶対失くさない。ありがとう、これも大切にするからね」
 私は紙袋を両手で受け取った。そのまますぐにバッグへしまってもよかったんだけど、中を覗いてみたい誘惑にかられて、ちょっとだけ袋を開けてみた。細い紙袋の小さな口の中、ボールチェーンに繋がれた白い犬が黒い目でこっちを見ていた。
「こんなに素敵なプレゼント貰えて、すっごく嬉しいよ」
 落とさないように袋の口を丁寧に閉じ、バッグにしまってから、私はしみじみと言った。
 プレゼントは要らないってあんなに言い張ってたくせに、現金かな。でも本当に嬉しかった。大地とお揃いのペン、何だか特別な感じがして、どきどきする。
「どうしよう。もったいなくて使えないかも」
「使えよ。何の為のペンだよ」
「だって大切にしたいから。大地は平気で使えちゃう?」
「そりゃそうだろ。毎日持ち歩くから、お前もそうしろよ」
 迷いなく、大地は言い切った。
 せっかく貰ったんだから、やっぱりその方がいいよね。ちょっともったいないけど、大地は私にも持ち歩いて欲しいみたいだから。
「じゃあ私も持ち歩く。こんなに可愛いペン持ってたら、毎日楽しくなりそうだよね」
 勉強もより捗るかもしれないし、ちょっと疲れた時にこの犬を構って気分転換するのも楽しそう。そう思う私を、大地が瞬きをやめてじっと見つめてきた。
 少ししてから表情が自然と緩んだようにふっと笑んで、息をつきながら言った。
「確かに可愛いな」
 何が、と言われたわけじゃないのに、その一言になぜかどきっとした。

 それから私達はフードコートへ異動して、少し遅めのお昼ご飯を食べた。
 夏休み中だからなのか、フードコートには幽谷高校の全校生徒並みに大勢のお客さんがいた。私と大地は席を確保するのも一苦労だったけど、どうにか横並びのカウンターに滑り込んだ。その後で大地がハンバーガーのセットを買ってきてくれて、二人で肩を並べてそれを食べた。
「やっぱり都会っていいよね。ハンバーガーが気軽に食べれるんだもん」
 ここのフードコートには幽谷町にはない、テレビCMでしか見たことのないようなチェーン店のテナントがいっぱい入っている。ハンバーガー屋さんもドーナツ屋さんもアイス屋さんもある。しかもどれもそれなりに安くて、注文するとすぐに出てくるのがいい。
「幽谷町のハンバーガーったら、コーヒーつき千円とかだもんな」
 大地がぼやいた後、大きく口を開けてハンバーガーにかぶりつく。
 一応、幽谷町でもハンバーガーが食べられないわけじゃない。喫茶店に行けばメニューにあって、注文すると上からピックを刺して留めてある数段重ねの分厚いハンバーガーが出てくるらしい。らしい、というのは私も大地も話に聞いただけで、食べてみるどころか件のお店にも入ったことがないからだ。昭和レトロって感じのその喫茶店は明らかに高校生お断りの雰囲気を漂わせており、実際に幽高の制服を着ていくと門前払いされるという噂だった。
 その点、ここのハンバーガーは私達でも買えるし、テレビで見た通りに紙で包んである。味つけはちょっと濃い目だけど、たまに食べるなら美味しいと思う。
「こういうとこに住んだら、毎日ご飯を何にするかで迷いそうだね」
 ポテトをつまみながら私が言うと、大地は少し考えるようなそぶりを見せた。
「まあな。でも案外、すぐに飽きるんじゃねえか」
「そうかなあ。だってたくさんメニューあるし、お店の種類だってたくさんだよ?」
「本当に美味くて毎日でも食い続けられるものって、そんなに多くねえよ」
 大地がそう言い切ったのにはびっくりした。さすがラーメン屋さんだけあって、舌が肥えてるのかな。
「雷光軒のラーメンは毎日でもいいよね」
 私は大地の反応を窺おうと、そんなふうに言ってみた。
 ちらっと私の顔を見た大地が鼻の頭に皺を寄せる。
「どんな都会に行ったって、うちの店のラーメンは食えねえからな」
「そうだね。幽谷町名物だね」
「出前に行ける距離にも限りがあるしな」
 ぽつりとそう呟いてから、大地はもう残り一口になったハンバーガーを口に押し込んだ。もぐもぐとそれを飲み込んでから、ストローを差した紙コップに手を伸ばしつつ、口を開く。
「なあ、萩子」
「何?」
「お前、大学どこ行くのか決めたのか」
「ううん、まだ。こないだも言ったけど」
 進学先は決めかねていた。選択肢の一つとして県外の大学も視野に入れていたけど、そうなると家からは通えない。うちの両親は私にまだ家を出て欲しくないと言っていたし、私としても生まれ育った幽谷町やそこに暮らす親しい人達、そしてもちろん大地と離れるのが寂しいと思っていた。
 都会への憧れは正直ある。それに、寂しいという気持ちだけで進学先を決めるのもどうかと思う。でも――。
「俺は幽谷町から出ない、っつうか出られねえから」
 大地はストローを咥えながら呟く。
「お前がどっか遠くに行くなら、寂しくなるよな」
「……うん」
 私もジュースの紙コップを両手で握り、それを見下ろすように俯いた。店内には涼しすぎるほど冷房が効いていたけど、紙コップは汗を掻いていて手のひらが濡れた。
 大地と離れるのは嫌だ。ずっとそう思っていたけど、今は特に強く思う。せっかく一緒にいられるようになったのに、一緒にいてこんなに楽しくて幸せで嬉しいのに、また離れることになるなんて絶対に嫌だった。だけどそういう気持ちだけで進路を決めたら、不真面目だって先生には怒られてしまうだろう。
 上渡さんが言っていたように、来年の今頃は私も大地も受験生だ。迷っている時間もあまりない。
「まだ、しばらくは迷いそう。何か決めかねちゃって」
「お前は選択肢多いもんな、そりゃ迷うよな」
 大地はおじさんに、幽谷町を離れない方がいいと言われたらしい。それは多分、まだ不安定な雷獣の力を案じてのことなんだろう。大地はまだ自由に変身できるわけではないようだし、気分次第で雷雲を勝手に呼んでしまう。
 私が幽谷町を、大地の傍を離れたくないのは、そんな大地が心配だから、見守っていたいからでもあった。
「決まったら教えろよ。何だったら相談にも乗る」
「ありがとう、大地」
 温かい言葉に私がお礼を言うと、大地は気分を変えるように大きく首を竦めた。そして一転して笑顔になり、言った。
「ところで萩子、昼飯食ってる時に言うのも何だけど、お前晩飯どうする?」
「もしかしたらこっちで食べてくるかなと思ってた。どうしよっか」
 お母さんには、晩ご飯要らないって言ってある。大地と出かけると告げたら何かにやにやされたけど、そこは無視しておいた。
「じゃあうちで食ってかねえ? 毎日食っても飽きないラーメンを」
「いいの? 夜だとお店、忙しくないかな」
「ああ、それは平気だろ。お前の分だって言ったら親父も喜んで作るって」
 私を誘いながら、大地はどこかそわそわしていた。
「けど店で食うとあいつらうるせえから、俺の部屋で食おうぜ」
「うん、いいよ」
 おじさんもおばさんも別にうるさくはないけど、私のお母さんと同じですぐ大地をからかおうとする。昔みたいにそういうからかいが嫌だということはないし、それよりも大地と一緒にいられることの方がずっと嬉しいんだけど、落ち着かない気分になるのは確かだ。
 だからと言って一緒にいない、なんて選択肢はない。晩ご飯にも誘ってもらえて、すごく嬉しかった。今日はずっと一緒にいられるんだ。
「……よかった」
 大地はほっとしたように呟くと、晴れやかな表情になって続ける。
「さ、昼飯食ったらまた見て歩こうぜ」
「うん」
 私も頷いて、滅多に食べられないハンバーガーの残りを頬張った。
 これも美味しかったけど、雷光軒の山椒入りラーメンの方が好きかな、確かに。

 それから私達は本屋さんで参考書を買ったり、雑貨屋さんを冷やかしたり、ゲームコーナーで遊んだりして過ごした。ゲームコーナーには見たことない最新のゲームがいっぱいあって、私も大地も大地もすっかり夢中になってしまった。
 終電の時間までたっぷり遊んで、ショッピングセンターを出たのは午後七時少し前。駅までは徒歩で十五分近い距離があるけど、余裕を見て出発したつもりだった。
 ところが、日が暮れた街並みの向こうに大きな駅舎が見えてきた時、
「あっ、本屋さんの袋がない!」
 私は荷物が一つ足りないことに気づいて、声を上げた。本屋さんで買った参考書を入れた、ビニール袋が一つない。バッグに入らなかったからそのまま持ち歩いていた、はずなんだけど――どこで落としただろう。私はあたふたと記憶を辿る。
 大地も立ち止まり、心配そうな顔をした。
「どっかにしまったとかじゃねえのか?」
「ううん、バッグに入らなかったから……多分ゲームコーナーだと思う」
 ゲームに夢中になってる時に、どこかに置いてきちゃったんだ。途中までは確かに持ってた記憶がある。ぬいぐるみを取るクレーンゲームで遊んでた辺りからその記憶が曖昧になっているから、多分――。
「今から走って戻れば間に合うよね。私、取ってくる」
 私がそう言うと大地は顔を顰め、語気を強めて言った。
「一人で戻る気かよ。俺も行く」
「いいよ、大地は駅で待ってて。忘れたの私なんだし」
「何言ってんだ。ほら行くぞ、萩子」
 ためらう私を急かし立てて、一足先に来た道を戻り始めた。私も慌てて追いかけて、さっきまで過ごしていたショッピングセンターに駆け込む。
 息を切らしながら辿り着いたゲームコーナー、私達は真っ直ぐにプライズのフロアを覗いた。二人で遊んだクレーンゲームの辺りをうろうろ探し回ったけど、参考書が入った袋は見当たらなかった。いよいよ焦った私達が店員さんを捕まえて尋ねたところ、その忘れ物はついさっき届けられて、ショッピングセンターのサービスカウンターへ回されたとのことだった。
 広いショッピングセンターを今度はサービスカウンターまで走った。そこで無事に参考書を引き取り、二人揃って頭を下げて、もう一度ショッピングセンターを出た。その時点で終電の時刻まではぎりぎりで、私達は戻ってくる時以上に急がなければいけなかったのに、日頃の運動不足が祟ってか、私はすっかりばてていた。
「萩子、大丈夫か?」
 大地が何度か立ち止まって、気遣うように声をかけてくれるのが心苦しかった。
「ごめ……も、大地、先行っていいから……」
「馬鹿言うな。お前置いて帰れるかよ」
 そして大地に励まされ、並んで走りながら、ようやく駅舎が見えてきたところで――駅舎の背後で左右に伸びる高架線路の上、見慣れた一両編成の電車が音を立てて走り出すのを見た。
「あっ」
 思わず声が出たし、私の隣では大地が足を止めていた。
「今の、終電だよな……」
 荒い呼吸で呟いた後、大地が携帯電話で現在の時刻を確かめる。
 すぐに溜息をついていた。
「時間、だった?」
 嫌な予感を抱きながらも聞いてみたら、大地は脱力したように頷く。
「ああ、今のが終電。ぎりぎり間に合わなかったな」
 どうしよう、幽谷町に帰れなくなってしまった。私は途方に暮れたけど、それ以上に大地を巻き込んでしまったことに後悔していた。やっぱりあの時、忘れ物に気づいた時、私一人で戻ればよかった。
 でも大地なら、私が何と言ったってついてきてくれただろうけど。
「ご、ごめん……! 私が忘れ物なんてしたから」
 まだ呼吸が整わなくて、私はぜいぜい言いながら詫びた。立ち止まったせいか、頑張ったのに電車を逃がしてしまったせいか、途端に足が動かなくなってその場にうずくまるしかなかった。
 大地はそんな私の背中を擦りながら、場違いなくらい明るく笑って、こう言った。
「そんな気に病むなよ。俺は気にしてねえし、こういう可能性も考えてたし」
「本当? でも、ごめんね。巻き込んじゃって」
「だから謝るなって。こうなったら割り切って、どうやって朝まで待つか考えようぜ」
 さすが、大地は切り替えが早い。
 私が肩で息をしながら感心していると、大地は急にはっとして、慌てたように言い添えた。
「だからって、終電逃してよかったとか嬉しいとか、そういうふうには思ってねえからな」
「え? ……う、うん。わかってるよ、そんなの」
 言われなくてもわかってる。
 むしろそういうふうに言われてしまうと、これからどうしようかという現実的な問題に直面して、かえって戸惑ってしまう。
 私達は終電を逃してしまった。幽谷町へ帰るには、朝一番の電車が出るまで待たなければならない。それまでの約十二時間、夜から朝までの時間を、この町で過ごさなくちゃいけない。
「それで……どうしよっか。朝まで」
 ようやく呼吸が落ち着いてきて、私は恐る恐る、大地に尋ねた。
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