Tiny garden

さよなら、僕の幻

 僕は幻を見ていたのだ。
 小春に対する感情と、自分自身に対する評価、そこには都合のよい幻が長いこと存在していた。

 往々にして僕はろくでもない奴で、可愛い従妹よりも世間体の方にばかり媚び続けていたような男だ。おまけに従妹に対する愛情を履き違えて、時に彼女を傷つけたりもした。これからは同じ過ちを繰り返すことのないよう、真実だけを認めるようにしたい。
 愛とは崇高で、貴いものだ。しかしその貴さは、清濁併せ呑む懐の大きさゆえだった。保護欲も、性欲も、感傷的な恋愛感情も、あるいは相手に対する自己顕示欲も、相手に関わるものへの幼い嫉妬心も、いってしまえば全て愛に繋がり、連なるものだった。だからこそ僕は自分自身の抱く全ての感情を受け止めなくてはならないし、僕のろくでもなさを快く受け止めてくれる小春のことを、深く愛していきたいと思う。

 小春はあれからも、僕のアパートの部屋にいる。
 倫理的に問題のある関係だと、今でも僕は思うのだが――だからと言って彼女を追い出す気にはならない。人目を惹く美貌の持ち主だ、うっかり他の男の毒牙にかかってしまっては一大事。常に傍らに置き、大切に守り続けたいと思う。もっとも、単に彼女と傍にいたいだけという気持ちも、当然なきにしもあらずなのだが。
「恭平さん!」
 大学からの帰り道、夕飯の買い物を済ませてきた彼女と、よく行き会う。そんな時彼女は僕の名前を呼んでくれ、うれしそうにこちらまで駆け寄ってきてくれる。彼女のそぶりが僕もうれしく、幸せに思う。
「小春、今日の夕飯は何?」
「今夜はマカロニグラタンです。恭平さんのお口に合うといいんですけど」
「合わないはずがないよ」
 彼女の提げていた、スーパーの袋を僕が持つ。相変わらず小春は洋食専門だ。そしてとても腕がいい。お蔭で僕はひもじい思いもしていない。彼女がここにいてくれて、本当にありがたい。
 安アパートまでの道を二人で、並んで歩いてみる。そういえば以前は、二人で外を歩くこともあまりなかった。小春と行動を共にするということが滅多になかったし、こうしてのんびり歩くだけの時間に価値を見出したのも最近のことだった。彼女となら、帰り道を辿るだけでもどことなく心が弾んでしまう。
 夕暮れの色は街並みを静かに染めていき、ごみごみした住宅街でも美しく見えた。
「そろそろ恭平さんの帰る頃かと思ってたんです」
 そう言って、小春は表情をほころばせる。
「もし会えなかったら、この辺りで待ち伏せしていようかなって。そしたら恭平さんのお姿が見えたから、うれしかったです」
 笑う彼女はいつものようにきれいだ。一応血の繋がりはあるのに、僕とは似ても似つかない美貌の持ち主は、例によってすれ違う人にたびたび振り向かれている。そんな時僕は、以前は抱かなかった奇妙にざわめく思いを持つのだが、同時に彼女の隣にいられることを誇らしくも思っている。
 陽射しを浴びると、長い睫毛の影が落ちる。柔らかそうな頬は夕陽に赤らみ、彼女を普段よりも少しだけ、あどけない顔に見せていた。僕と二つしか違わない小春は、時に少女のようで、時に大人の女の顔をする。女とは得てしてそういうものなのかもしれないが、僕は小春によってその事実を知った。
「そういえば、恭平さんは近頃、お友達と飲みに行かれないんですね」
 ふと思い出したのか、彼女が言ってきた。
「以前はしょっちゅうお出かけなさってたのに」
「……君といる方がいいんだ。むさ苦しい連中と会うよりはさ」
 これは本当の話だ。今は誰といるよりも、小春と二人きりでいたかった。熱に浮かされたみたいに彼女がいとおしくて、欲しくて、彼女に触れたくて堪らない。僕は自らのそういうろくでもない感情を、素直に肯定することにしている。お蔭で友人たちからはからかい半分、やっかみ半分の言葉を投げつけられる毎日だが、それはそれで悪くないものだ。
「そういう君こそ、たまには友達と出かけてきたらいい」
 僕が告げた、この言葉は多少嘘が混じっている。小春がいなくなれば寂しいに決まっているのに、時々無理をして虚勢を張りたくなる。女友達とならまだいいのだが、男が相手なら余裕のあることも言えなくなるだろう。以前にもそんなことがあったのだし。
 しかし小春は笑って応じる。
「私も、恭平さんといる方がいいんです」
 その言葉で、僕らは今夜も二人きりで過ごすことが決まった。僕らの関係は既に同居ではなく同棲だった。事実はごく僅かな友人たちにしか告げておらず、彼女の父親――つまり伯父には、まだ秘密にしている。
 いつかは、言わなければいけない。
 目の前に長く伸びる道は、僕らだけの夜へと続いている。


 ――正直に言えば、彼女がただの従妹ではなく、僕の恋人になったのだという現実には慣れていない。
 今は当たり前のように、隣にいるけれど。
「最近、カルシウムを多く摂るようにしているんだ」
 ぼそりと言った僕の横で、小春が怪訝そうな声を立てた。
「カルシウム? どうしてですか?」
「骨を丈夫にしようと思ってさ。特に頬骨とか、頭蓋骨辺りを」
 僕は自分の顎の辺りを撫でてみる。少しざらついている。カルシウムの効果は今のところ不明だ。
「君のお父さんに殴られる時が来るだろうから、それに備えてる」
 言い添えたらくすくす笑われた。
「大丈夫ですよ。その時は、私が間に入って恭平さんを庇いますから」
「君に庇われるのは格好悪いなあ」
 思わず、ぼやく。
 格好悪いのなんて今更だろう。でも、むしろだからこそ、僕もたまには格好いいところを見せたいと思うのだ。小春の前で。
「必ず挨拶に行くよ」
 僕は、だから心に決めている。
「君をくださいって、ちゃんと言いに行く」
 伯父は手強い相手だ。たとえ弟の息子でも、狼藉者には容赦しないだろう。何しろこちらは学生風情、うらなりびょうたん、同居しているうちから彼女に手を出したと、気に入られないであろう三拍子が揃っている。せめて一つは解消してから挑みたい、と思うのだが。
 あと、骨も丈夫にしてから。
「恭平さんが相手なら、父だって強くは出られないと思いますけど」
 小春は楽観的な調子で言って、布団からするりと腕を伸ばした。ベッドの枕元に置かれた、目覚まし時計を掴んでセットする。薄暗がりの中、真っ白な二の腕が露わになる。
 彼女の部屋にいる時間にも、まだそれほど慣れていない。いい匂いのする部屋は、僕の部屋とは違って常にきれいに整頓されている。壁際に置かれたシングルベッドは二人で寝るには狭かった。それでも、僕らの夜には欠かせない居場所となっていた。
 僕もこっそりと自室の掃除を始めている。小春に来てもらってもいいように、まずは溜め込んだ書籍の整理から開始した。そのうちに彼女を招けるような部屋にしてみせる。何せ僕の部屋のベッドの方が広いのだ。
 一つのベッドに潜り込む時、小春は必ず脚を絡ませてくる。
「もし恭平さんを殴って、怪我でもさせてしまったら、叔父様に怒られてしまうでしょう?」
「うちの父親は昔から、君のお父さんに頭が上がらないからな。『好きにしてくれ』って差し出そうとさえするかもしれない」
「まさか」
 彼女が笑うと、彼女の脚も少し震える。肌の感触が心地いい。それに、爪先が色づいていないことを、僕は十分に知って、安堵している。
 青は好きじゃないと告げたら、彼女はペディキュアを止めた。代わりに爪をぴかぴかに磨き始めた。僕は彼女の爪の、何も塗らない淡い色が好きだ。時々そこに口づけて、彼女にくすぐったそうに笑われる。
「でもしばらくは、誰も入り込んでこないような恋愛がしたいです」
 小春は言う。僕の胸元に頭を預けて、睫毛を伏せながら言う。
「今のうちだけは二人きりで、ただただひっそりとしていられるような恋がいいと思っています。……ようやく、想いが通じたんですから」
 幼いままだと長らく思い込んできた従妹の、殊勝で、大人びた呟き。僕はそれを聞いてまた、彼女をいとおしいと思う。
 僕もしばらくは小春と二人、密やかに愛を交わしていたい。――決して伯父が怖いからというわけではなく。それも多少はあるものの、ともかく。
 ずっと僕を追いかけてきてくれた小春に、ようやく報いることが出来た。僕はこれから腰を据えて、彼女の想いに向き合い、押し隠してきた自らの想いに向き合い、本当の愛を貫いていきたいと思う。
 本当の愛とは崇高で貴いものだが、愛を貫く人間は押し並べて無様で不格好だ。僕のふるまいの滑稽さと来たらないだろう。無様な心を認められずに、意固地になって従妹への感情を否定してきた。別のものに置き換えようとしてきた。それらを乗り越えて辿り着いた今、僕はどうしたって無様で、不格好で、滑稽で愚かだ。保護欲に酔いしれ、性欲に衝き動かされ、感傷に耽り、自己顕示欲に流され、嫉妬に狂う。恋の病の典型的症例を日々報告している僕を、小春はいつも笑いながら見ている。美貌の従妹はいつでも僕の目を惹き、僕の心を捉えてやまない。
 幸せだと思う。
 ひっそりと密やかでも。無様でも。この先に、殴られる運命が待っていようとも――代わりに僕は小春を、伯父から拝領するつもりでいるから。

 だからさよなら、僕の幻。
 あるいは愛した世間体、及びくだらない自尊心。

 そしてこれからもよろしく、我がいとしの従妹。
 臆病者でろくでもない狼は、君の為にだけ牙を研ぐ。
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