Tiny garden

こころのなまえ

 夕食を終えてすぐ、僕は小春に切り出した。
「小春。君に話がある」
「え、……はい」
 小春が目を瞬かせた後、下げようとした食器を一度置いた。今日の夕飯はスパゲティナポリタン。洋食専門ではあるが、小春の料理の腕はなかなかだ。
「ああ、食器は下げてきてからでもいい」
 僕が慌てて告げると、彼女は怪訝そうにしながら再び食器を取り上げた。そして、腰を浮かせかけていた僕の分の皿まで一緒に持っていってしまった。僕は手持ち無沙汰で床に座り直す。せっかく格好良く切り出そうと思ったのに、いきなりつまづいたような気がした。
 しかし、まあ、今更だ。この期に及んで格好つけている余裕などないはずだった。何しろ今日は、僕らの関係を終焉させる日になるのだから。曖昧で覚束ないこの従兄妹同士の関係を、あえて別の形に作り変えようとしているのだから――僕は覚悟を決めていた。上手くいくかどうか、自信はあまりなかった。
 しばらくして小春は、湯飲みを二つ持って戻ってきた。
「恭平さん、どうぞ」
「……ありがとう」
 湯飲みの中身はほうじ茶だった。どうも、場の空気にはそぐわない。
 それでも僕が面を上げると、小春が表情を引き締めた。居住まいを正して尋ねてくる。
「お話というのは、何でしょうか」
「ああ」
 僕は頷き、ほうじ茶を一口飲もうとした。だが予想以上に熱く、唇を火傷しかけたので、飲むのを断念した。
 湯飲みを置く。
 小春を見つめ、告げてみる。
「これから話すことは、君にとって、いささかショッキングな内容かもしれない」
 そう前置いた途端、小春は不安げに眉を顰めた。
「ショッキング……ですか?」
「そうだと思う。或いは、センセーショナルとでも言おうか」
「何だかよくわかりませんけど、うかがいます」
 どうにかして格好つけたい僕の発言を、彼女はあっさりとかわしてしまう。さすがは僕の従妹、理屈っぽい同居人にも慣れたものだ。
 感心している場合ではなく、僕は決めた覚悟を思い起こした。言うべきを言う。そう心で唱えて、語を継ごうとする。
「実はだ、その……先だってから僕と君の間には、いささか不穏当な衝突と、判然としない空気とが存在していたような気がしている。それについて、僕はあれこれと思案をめぐらせたのだけど、いくら思案したところで、よい解決案は一つきりしか浮かばなかった」
「はあ」
 なぜか、ぽかんとしている小春。湯気の立つ湯飲みを両手で握ったまま、口もつけずに僕を注視している。もしかすると何の話かわかっていないのかもしれない。あまり回りくどくせず、直截的に伝える方がいいだろうな、と思う。
 しかし直截的に伝えるというのも難しい話ではある。何せ告げ方を間違えれば、彼女の逆鱗にも触れかねないのだ。
 僕は嘆息した。
「小春」
 従妹の名を口にする。
 古びたアパートの部屋に不似合いな美貌の持ち主は、いい加減焦れた様子で応じてきた。
「何でしょう、恭平さん」
 このままだと話の内容以前に彼女を怒らせてしまう。僕は慌てて語を継いだ。
「僕らは一緒に住むのを止めるべきだと思うんだ」

 ことん、と微かな音がした。
 何の音かと思ったが、どうやら、小春の手の中の湯飲みが傾いだ音のようだった。
 彼女は大きな瞳をこれ以上は不可能だというほどに見開き、僕を真っ直ぐに注視している。桃色の唇は何か言いかけたような形をしている。しかし声はなかなか出てこない。そうしてしばらく茫然としていた。
 僕は従兄として、いち早く言葉を継ぐべきだと思った。この件についてはきちんと説明も必要だ。
「小春、聞いて欲しいんだ」
 すかさず僕は口を開いたが、それとほぼ同時に、彼女がはっきりした声で言ってきた。
「どうしてですか? 恭平さん、どうして急にそんなことを」
「その……理由は話すと長くなるんだけど」
「私に、出て行けという意味でしょう? 突然言われても困ります!」
「いや、あの、ちょっと落ち着いてくれよ。小春、まずは僕の話を――」
「落ち着いてなんていられません!」
 彼女の一喝に、僕は思わず息を呑む。彼女自身はと言えば、深呼吸を一つして、それから立腹した様子で続ける。
「あんまりです、私を振るんだったらそれだけ言ってくれたらいいのに、あまつさえ一緒に暮らすのを止めようだなんて。そんなに私の顔を見るのが嫌ですか?」
「そういうことじゃないよ」
 機嫌を損ねた、という程度では最早なく、僕は小春の激高ぶりに慌てふためいた。彼女の顔を見るのが嫌だとは一言も言っていないのに。
「私が疎ましくなったんですか?」
 きゅっと、彼女は唇を噛む。
「私が……ここにいたら、恭平さんのご迷惑になりますか?」
 尋ねられて、こちらはかぶりを振るのが精いっぱいだ。
 僕を見据える、大きな瞳がみるみるうちに潤み始める。もうじき雫が零れ落ちそうだった。怒らせただけではなく、彼女を泣かせてしまったとなるといささか堪える。小春は涙の似合う女ではなかった。
「迷惑じゃない」
 とりあえずそれは、言っておく。
 テーブルを挟んだ向こう、瞬きをしない彼女へと告げる。
「迷惑だと言ってるんじゃないんだ。それはわかって欲しい」
「じゃあ、どうしてですか。どうして私はここにいてはいけないんですか?」
 涙が溢れて、小春の白く柔らかそうな頬を伝い落ちていく。形のいい顎まで流れて、卓上にぱたぱたと微かな音を立てた。涙を流す彼女はいつになく弱々しく、庇護すべき生き物のように見えていた。
 逆に言えば彼女は、この瞬間までは、庇護されるべき存在ではなかったのだ。――少なくとも僕のような頼りない男が、一時発揮する保護欲など必要としていなかった。彼女は被保護者ではなく、僕はとうに彼女の保護者ではなかった。
 それなのに僕は、年上の従兄だというたったそれだけの理由で、小春に対し保護者らしくふるまおうとしていた。僕自身の心を、保護欲あるいは義務感によって、型に填めていただけだった。
「小春、聞いてくれ」
 ようやく気付いた僕は、彼女にそのことを告げる。
 僕の心の名前と、それを貫く為にあえて、必要な行動を。
「僕は君を、愛してるんだ」
 何と安っぽく使い古された言い回しだろう。愛という言葉は紛れもなく貴いものであるはずなのに、僕が口にするとたちまち錆びつきくすんでしまうようだった。しかしそれも、言い慣れていないからだと信じたい。
 愛しているのは確かだ。そう、信じたい。
「だから僕は、君と一緒に暮らすわけにはいかない」
「え……?」
 涙を溜め込んだ瞳を瞠って、小春はかすれた声を立てる。
 その瞳を見つめ返し、僕は続ける。愛という貴い理念の下、あえて取る選択を告げる。
「僕は、愛する君と人倫にもとる関係は持ちたくない」
「じ、人倫……?」
「そうだ。君が僕を同じように愛してくれるというなら、僕らはその貴く崇高な感情をもって、人の道を歩んでいくべきだと思うんだ」
 僕は頷き、更に彼女に向かって語る。
「僕はまだ学生風情で、君だってそうだろう。ましてや君はまだ十代、瑞々しくも清らかであらねばならない年頃だ。そんな僕らが一つ屋根の下、共に暮らすというのは倫理的にも問題があるだろう」
「はあ……」
「互いに貞操観念を持つことが必要だ。そうして僕らは混じりけのない貴い愛を貫き通すんだ」
「あの、恭平さん……?」
 彼女が怪訝そうに瞬きをして、その拍子に溜まっていた涙がぽろぽろ落ちた。いつも通りの瞳が、少し濡れた睫毛に縁取られている。
「愛とは、そういうものだと思う」
 僕はやっとのことで、彼女に対する心の名前を見つけていた。
 これは愛だ。単なる恋愛感情とは違う、彼女の為にある心だ。それは感傷的に過ぎてもいけないし、利己的でも即物的でも一方的であってもならない。愛とは崇高なものだ。余計な感情を紛れ込ませては、貫き通せない貴いものだ。
 だから僕は、あえて彼女と距離を置く。
 彼女を愛するがゆえに。
「恭平さん、よろしいですか」
 不意に小春が、おずおずと切り出してきた。
「どうした?」
 僕が尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せる。
「あの、論旨がよくわからなかったのですが」
「そうかな。君なら十分に理解出来る内容だと思ったのに」
「いえ、あまりにも遠回し過ぎるので」
 と言って小春は嘆息する。その後で、
「より直截的な物言いをするなら、――間違いがあってはいけない、ということですか」
 ずばりと問い返され、僕は大いにうろたえた。
「ま、まあ、そういうことかな」
「私と一線を越えてしまうのが、恭平さんからすると人倫にもとるふるまいだと、恭平さんはそう考えているのでしょう?」
「ああ……」
 小春のような美貌の持ち主に、一線を越えるなどと容易く言われてしまうと、何とも心許ないものだった。彼女はそんな言葉――むしろ、その言葉の示すニュアンスなど、よく知り得ないだろうと思っていたのだが。
 がりがりと音を立て、僕は頭を掻いた。
「とにかく、そういうことなんだ。君と一緒にいるのは、君の為によくない」
「どうしてですか?」
 見かけによらず頑固な従妹が食い下がってくる。
「どうしてって……倫理的に問題があるじゃないか」
「そうでしょうか」
「そうだとも。愛する女性と一つ屋根の下で生活をし、隣り合わせの部屋で眠る僕の気持ちをわかってくれ。そんな状態で日々を過ごせば、そのうち愛を貫くことも怪しくなる」
 今までだって、美貌の従妹の存在は意識しないようにしてきた。彼女の部屋には迂闊に立ち入らないようにし、彼女の寝間着姿を見かけてもどうにか目を逸らしてきた。彼女の入浴中などは水音が聞こえぬよう、あえてテレビの音量を上げるようにしていたものだ。
 かつてはそれらの努力を、恋人でもない相手への当然の礼儀だと思っていた。しかし恋人になってしまったならどうだろう。愛をもって耐え忍ぶのも限界がある。ただでさえ愛とは揺らぎ易い。僕は彼女への愛を他の感情及び衝動へすり替えてしまうことだけはしたくなかった。
 そこへふと、
「でも、性欲は愛ですよね?」
 小春の言葉が聞こえてくる。
 涙の気配が過ぎ去った彼女の言葉に、僕は一瞬間を置いてから、この上なく動じた。
「え……な、何だって?」
 僕の狼狽とは対照的に、小春は淀みなく繰り返す。
「少なくとも、ある一人の人間に対してのみ抱く性欲は、愛情と深く繋がっているものだと思います。恭平さんにとっての対象が、私だけだとしたら、の話ですけど」
 もちろん他にあるはずもない。僕はいつでも小春にだけ、あのろくでもない狼めいた性衝動を持ち合わせていた。しかし――。
 彼女の唇がよもや、そんな単語を口にするとは。
 そして彼女の言葉は真実だろうか。性欲は、果たして愛なのか。
「私も、そうです」
 僅かなためらいが見えたような気がした。それでもその後は途切れさせずに、小春が続けた。
「私も、他の人にはこれっぽっちも興味がありません。恭平さんだけです。こうして追いかけてこようと思ったのは」
 頬には涙の跡が残っている。彼女は、今は少し笑んでいる。
「普通なら、男の人と一つ屋根の下で暮らそうなんて思いもしません。それがどんなに危なっかしいことか、私だって十分理解していますから。でも、恭平さんならいいと思ったんです。恭平さんには、何をされても」
 小春の声と瞳の色が、僕の心をぐらりと揺さぶる。
 貴く崇高であるはずの心は、既に別の感情に侵されようとしている。僕はどうにかそれを振り払いたいと思いつつ、しかし彼女の言葉の真偽を確かめてみたい気にもなっている。狼が牙を研ぎ始めている。たった一人にしか使わない、使う気の起こらない鋭い牙を。
「私を大切にしてくれているのはわかっています」
 更に、小春は言う。
「恭平さんは私に、とても優しいです。優し過ぎてかえって傷つくこともありましたし、ちょっと及び腰だとも思いますけど」
 及び腰。いや、違う。それこそが愛じゃないのか。それこそ、違うのか?
「でも、私に対する感情に蓋をして、目を背けて、触れないようにと遠くへ追い遣ってしまう行為が正しいとは、私は決して思いません。それが愛だとも思いません」
「そう……だろうか。でも、僕は」
 僕は、愛とは貴いものだと思っていた。
 貴くある為には目を背け、それから逃げて、あえて距離を置くことだって正しいのではないだろうか。それも、違うのか。
 だとしたら、愛とは一体なんだろう。
「小春、君に聞きたい」
 思い余って僕は尋ねた。
「愛とは、一体どんなものだと思う?」
 すると彼女は迷わずに、微かに笑んで答えを口にした。
「私は、愛とは全てを受け止めることだと思っています。自信はありませんけど」
「全てを……」
 僕は彼女の答えを反芻する。一語一語、噛み締める。
「いとしい人が向けてくれる感情と、いとしい人に対する自分自身の持つ感情。それらを全て受け止めることが、愛なのだと思います」
 そう言ってから、小春は首を竦めた。ふふっと声を漏らす。
「なんて、まるで恭平さんみたいな理屈っぽい言い回しですね」
「確かにそうだ」
 つられて僕も笑った後、ようやく理解出来たような気がした。

 愛とは全てを受け止めるもの。
 その内には、保護欲も、性欲も、感傷的な恋愛感情も全て含まれるのだろう。清濁併せ呑む心の名前が、愛。
 僕が小春に対して抱いてきた様々な感情も、きっと皆が愛だったのだろうと思う。そうと気付くまでには時間も掛かったし、気付いた後も見栄を張り、ろくでもない感情を排除しようとした。僕は相変わらず世間体を気にしている。
 けれど、世間体がどれほど大切だろう。それは僕を愛してはくれないし、僕をこんなにも強く受け止めてもくれない。僕を追いかけてきてもくれないだろうし、僕の為にスパゲティナポリタンを作ってくれることもないだろう。僕の愛が報われることはなく、そうして僕の方も、世間体に対して保護欲やら性欲やら、感傷的な恋愛感情やらを抱くこともあり得ない。
 その対象はかねてからたった一人だ。
 今、目の前にいる従妹だけだった。

「小春」
 改めて。
 僕は愛を込めて、いとおしい名前を呼ぶ。
「愛してる」
 今更の告白も後に続けて。
 小春は控えめに笑んで、ほんのり頬を赤くした。桃色の唇がゆっくり動いて、僕への言葉を紡ぎ出す。
「私もです、恭平さん。誰よりも愛してます」
「……そうか」
 ちらと彼女の父親、伯父の顔が脳裏を過ぎる。どうやら確実に怒りを買いそうだ。誰よりもなどと彼女が言えば、まず間違いなく殴られる。
 しかし、まあ、しょうがない。そういった事実も受け止めるのが愛だ。お互いに。
「私、出て行ったほうがいいですか」
 彼女が尋ねてきた。僕は思考を、再び彼女へと戻す。
 濡れた色の長い睫毛。上目遣いの視線を受け、心が揺らぐ。狼が牙をぎらりと光らせる。
「いや、その……どうだろう。倫理上の問題はともかく、僕は君が思うほど優しい人間じゃない」
 僕は内心、動揺しながらも答える。
「優しいですよ」
 小春は言う。笑いながら。
「でもお願いですから、優しいのは私だけにしてください。他の人のことなんて考えないで。私も恭平さんのこと、誰にも負けないくらい愛しますから」
 彼女の愛がどれほどのものかは知っている。何せここまで追いかけてきたくらいだ。むげにするつもりは、僕にもなかった。
「男は皆、狼だよ。特に好みの女の前では。……それでもいい?」
「よくなければ、そもそもここにはいません」
 彼女の答えを聞いて、僕は大きく息をつく。飼い馴らされた狼の、臆病さだけを追い出す為に。それから彼女の元へ歩み寄り、黙って肩を抱き寄せた。

 彼女の入れてくれたほうじ茶は、結局手付かずのままだった。あれから時間を掛けてゆっくりと冷めていったようだ。翌朝気付いて、少し笑った。
 次に入れてもらう時はもうちょっと、温めにしてもらおうと思う。機会はこの先ずっと、何度でもあるだろうから。
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