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お迎えに上がりましょう

「私の白馬の王子様!」
 校門の陰から呼びかけたら、氷見は素早く振り向いた。
 私を認めるなり、眼鏡をかけたおりこうさんっぽい顔が訝しそうに歪む。
「学校の前で変なこと言うなよ。通報されるぞ」
「平気平気。私、卒業生だもん」
「卒業してたって不審者は不審者だろ」
 酷い言い種ながらも氷見は、駆け寄る私の為にわざわざ足を止めてくれた。高校三年生になったせいか、あるいは演劇部部長になったおかげか、随分と優しくなったみたいだ。
 私としても、氷見が下校するまで校門傍で待ち構えていた甲斐があったというもの。
 まだかろうじて空が明るい夕暮れ時、母校の制服を着た氷見と会うのは実に三ヶ月ぶりだった。
 
 つまりは私が高校を卒業してからも、きっちり三ヶ月経っているということだ。
 その三ヶ月の間に私は大学生にもなりまして、新しい通学ルートや新しい校舎や新しい人間関係にようやく慣れてきたところだった。
 こうしてかつての母校の佇まいや在校生の制服姿を見ても、さすがにまだ感慨があるってほどじゃない。けど、ちょっと前までここに通ってたんだよなあ、ってことを考えると何か変な感じがする。
 私、制服着忘れてきちゃっただけで、本当はまだここの生徒なんじゃないかって――口に出したら氷見には感傷が過ぎるって鼻で笑われるだろうから、黙っておくけど。

「来るなら来るって連絡しろよ」
 氷見は、唐突に尋ねてきた私に少しはびっくりしてくれたみたいだ。あの素晴らしき美声がほんのちょっと上擦っていた。
 そのくせ顔は不機嫌そうな仏頂面で、驚かされたことを悔しがっているようにも見えた。
「大体、何が王子様だよ。相変わらずロマンで腹が膨れる奴だな、映子は」
「そう言うけど、自分だって呼ばれて速攻振り向いてたじゃん」
 私はすかさずツッコミを入れる。
「自分が王子様だと思ってなかったら、普通振り向かないんじゃないの?」
 からかうつもりでいたけど、これは氷見にはあんまり効果がなかったみたいだ。いかにもくだらなそうに溜息をつかれた。
「単に映子の声がしたから見てみただけだよ。来てるとは思わなかったし」
 その上、私を哀れむような目で見てくる。
「映子こそ、もう大学生だってのにまだそんな台詞言ってるのか」
「大学生が『王子様!』って言っちゃいけない決まりなんてある?」
「普通、女子大生はもっと大人っぽくてしっかりしてるもんだろ。なのに……」
 そこで氷見の視線が私の顔から、私の着ている服装へと移った。
 ファッションチェックを受けるに値する格好をしてきたとは、自分でも思ってない。そもそも女子大生になったからといっていきなり垢抜けるわけがないのだ。Tシャツにジーンズという何の捻りもない私の全身を一瞥してから、氷見はわざとらしく首を竦めた。
「高校時代とちっとも変わってないよな。映子の私服姿」
「うるさいなあ。このくらいの方が汚れ気にしなくていいから好都合なの」
「彼氏に会いに来るんなら、普通もうちょい可愛い格好してくるだろ」
「それは、デートの時はね」
 私だって年がら年中こんな無難な服装をしてるわけじゃない。
 ただ今日は、デートではない。氷見と会う約束もしていなかった。突発的に思い立って、大学の帰りに母校へ立ち寄って、校門前で下校する氷見を待ち伏せてみただけだ。
「今日はちょっと寄ってみただけだから。氷見の声が聞きたくて」
 私はなるべく可愛いふりをしてそう言うと、そろそろ行こうと彼を促す。午後五時過ぎとは言え校門前で立ち話というのも何だし、まして私がもう在校生でもなければ制服も着ていない状況なら尚更だ。
 氷見は急かした私を少し不思議そうに見た。
「映子、これからどこか行くのか?」
「うん」
 歩きながら私は頷く。
「今日はこれからサークルの飲み会なんだ。駅前まで出るから、ついでに寄ってみたの」
「飲み会? 未成年のくせに?」
 ぎろっと氷見がレンズ越しに睨んでくる。
 慌てて私は片手を振った。
「いや、飲まないよ。私はご飯食べてくるだけだよ」
「本当かよ……。大学生ってそういうとこ、だらしない印象しかないけどな」
「そんなことないって。私みたいに模範的で真っ当な大学生もいるんだよ」

 この春から模範的な女子大生になった私は、勉学に励むのはもちろんのこと、大学内の演劇サークルにも参加して精力的に活動を始めていた。
 高校でも三年間、演劇部で活動してはいたけど、やっぱり大学のサークルともなればスケールもクオリティも全然違った。構成人員は五十人近く、そのうち半数以上が役者ではなくスタッフ扱いというところに規模の大きさが窺える。当然、ステージに立てるのは経験を積んだ三、四年生がほとんどで、新入生は当たり前だけど雑用係からのスタートだった。
 もともと裏方希望の私は、スタッフ扱いでも当然構わなかった。次回の公演では衣裳からパンフ作成から、はたまた当日のもぎりまで担当することになっている。どれもお芝居の為に必要な仕事に違いない。だから文句を言うつもりもない。
 今日の飲み会も次回の公演前の壮行会みたいなものらしく、サークルの一年生が幹事を任されている。お店の予約に始まって、集合時の点呼から注文の取りまとめ、酔っ払いの介抱から諸々の後片づけに至るまで、数々の面倒事が私たち一年坊主を待ち構えているわけだ。

「どこでやるんだよ、飲み会って」
 氷見は刑事ドラマさながらの聴取を始めた。
 低い声にどきっとしつつ、私は目を逸らして、駅前にある居酒屋チェーンの名前を挙げる。
「ソフトドリンクもあるところだから」
 我ながら言い訳がましいと思ったけど一応、言い添えておく。大学生のサークルならそういった集まりで居酒屋を使わない方が珍しいだろう。
 でも正直、氷見に拒否反応を示されたのは意外だった。
「そういうのって飲まなきゃ飲まないで、ノリが悪いとか言われるだろ」
 氷見はまるで見たことがあるみたいな物言いだった。よくご存知で、と私は苦笑いを噛み殺す。
「言ってくる人もいるけどね。あんまり気にしてないよ」
 実際、言われたことはある。サークルの先輩の中には一年生に盛り上げ役を期待する向きもいて、ビールのジョッキを押しつけられそうになった経験も一度や二度じゃない。さすがに飲めと強要されることまではなかったものの、やんわり断ったらあからさまにつまらなさそうな顔をされたり、舌打ちをされたりなんていうのも普通にあった。
 とは言えこっちだって、大学生にもなって飲酒で補導なんてみっともないし、シナリオ的にも美しくない。そんな目に遭うくらいなら空気読めない人間扱いの方がまだよくある物語の主人公っぽいし、ましってものだ。
「友達には『映子はいつも酔っ払ってるみたいだから飲まなくてもいけるよ』って言われてるよ」
 私がそう言って笑うと、氷見も納得したような顔になる。
「ああ、それはすごくよくわかる」
「でしょ? だからいいんだよ、飲まなくたって」
「ならいいか。俺も映子にはそういうことして欲しくないし」
 氷見はきっぱりと言い放った。
 別にやましいことがあるわけではないけど、私は何となく口を噤んだ。
 学校からの帰り道、お互いにしばらく無言になる。遠くの空がいよいよ夕焼けの色に染まり、足元からは長い影が斜めに伸びて、私たちの歩みにぴったりついてくる。
 私がまだ高校生だった頃は、この道を通ってよく二人で帰った。同じ部活に入ってたから、部活が終わったら同じ時間に帰れた。氷見はいい声とは裏腹に可愛げのない後輩、そして彼氏だったけど、一緒にいてすごく楽しかった。彼の言う通りにロマンを食べて生きられる私にとって、高校生活はまさに絵に描いたようなロマンの塊だった。
 だからこそ今日はこうして突発的に、氷見に会いに来てしまった。
「……映子」
 久方ぶりに口を開いた時、氷見の声はもったいなくもかすれていた。
 私が顔を上げると、少し冷めたような表情が見える。
「サークル、楽しい?」
 氷見の問いは私にも予想がついていた。だから、頷いた。
「うん、多分」
「多分かよ」
「まだ入ったばっかだもん。これから楽しくなるんだよ」
 高校時代はそりゃ楽しかった。私が一年生の頃から既に演劇部はよく言えば少数精鋭のクラブで、だから皆で好き放題やっていた。私なんかが脚本書きになれたのも少人数だったおかげだろうし、氷見を構って遊んでいられたのも自由があったからだ。
 その代わりないものだって多かったけど――高校生活最後の文化祭は氷見と二人で迎えた。だからステージの設営や照明、音響といった演出は放送部の子たちに手伝ってもらったっけ。そういうのも楽しかったのは確かだけど、氷見の美声、そして名演技に報いるだけのステージにできたかどうかは心残りもあった。
 大学でやる演劇には高校時代のような奔放さはない。サークルの運営は屋台骨がしっかりしていてちょっとやそっとじゃ揺るがない。練習はいつでも細かいタイムスケジュールに則って行われるし、お金をいただいての公演も定期的にあると聞く。適当な気持ちではやっていけないのも当たり前だった。厳しい年功序列の世界でもあって、高校時代のぬるま湯に浸かりきった先輩後輩の付き合い方では通用しないと痛感してもいる。
「好き勝手はできないけど、お芝居ができていくのを傍で見られる……って言うのかな」
 裏方をやってみて思ったことを、私はそっと口にする。
「物語だけ創ればいいんじゃないってわかった感じかな。そういうところから製作に関われるのもいいもんだなって思うよ。少なくとも私は、勉強になってる」
 ロマンに憧れて演劇部に入った私は、だけど目的を見失っていたようにも思う。
 それがサークルに入って、少しはやりたいことが見えてきたような気がしていた。
「ちょっとは現実的なものの見方もできるようになったかも」
 私は氷見に笑いかける。
 氷見はまるで信じていないような目を向けてきたけど、まあいつものことだ。
「私、何でもいいからお芝居に関わりたい。どういうお話でもいいから、とにかくお芝居ができていくのを傍で見ていたい。最近はそう思ってるよ」
 そりゃいつかは、自分で脚本書けるようになりたい。三、四年生になったら少しは融通利くようになってるのかなとも考えたけど、まだそんな自分は想像できないくらい、今の私はちっぽけで無力な雑用係だ。
 だから今は、自分にできることをしようと思ってる。
「映子らしくもないことを」
 氷見からは溜息交じりに言われて、私は拗ねたくなった。
「水差すようなこと言わないの。せっかく前向きになろうとしてんのに」
「そんなの、無理になるようなもんでもないだろ」
 もっともな主張の後、氷見は視線を空へと向ける。
 一面に広がる茜色の空は、きれいだけど何だか物悲しくも映った。一日の終わり、幕引きの時だと思えるからだろうか。夜の帳という言葉の通り、あとはもう緞帳が下りるだけの一時なのかもしれない。
 これが舞台なら、カーテンコールもできるのに。
「戻ってくれば?」
 つられて空を見上げる私に、氷見がふと言った。
「高校に? 出戻りすんの?」
「そう。言ったよな、うちの部には新入部員が入ったんだ。女子ばかり三人も」
 もちろんその話は聞いていた。私は氷見を一人で置いていってしまうことに後ろめたさを抱いていたから、新入部員の皆さんには素直に頭を下げたいと思う。めでたいことだ。
「俺が女の子に囲まれて部活やってたら、映子も気になるだろ?」
「そ、そういう心配はしてませんから! そんな理由で戻れるか!」
 わざと煽るようなことを言うのが可愛くない。そりゃこっちだって気にならないとは言いませんよ。新入部員が女子ばかりっていうところには多少の、何と言うか、複雑怪奇な気持ちを持ったりするとかしないとかだ。氷見を信用してないわけじゃないんだけど、やっぱりね。
 でも私が何を思ったって、今どんな思いを抱いていたって、一度幕が下りたステージには戻れやしない。決して。
「氷見こそ、来てくれるんでしょ?」
 私は逆に、受験生である彼に尋ねた。
 彼は一度瞬きをしてから、じっと私を見下ろす。そうだとも、違うとも言わない。
「私は氷見が来てくれるのを待ってるから。だから別に、どうってことないよ」
「だから『白馬の王子様』?」
 氷見が聞き返してきたから、頷く。
「うん。迎えに来てくれるのを待ってるよ」
「本気でロマン食って生きる気か、映子は」
「いいじゃん。お金のかかんない彼女なんて最高でしょ?」
 思いきり笑いかけてやったら、氷見には恐ろしいスピードで目を逸らされた。
 それで私がむっとすると、彼は相変わらずのつまらなさそうな顔で言う。
「飲み会終わったら連絡して」
「え? いいけど……」
 何で、と聞くより早く、彼から答えがあった。
「心配するからだよ。俺は、映子と違って」
 別に私も心配してないわけじゃないんだけど、ぼそりと言った氷見の声がいい感じに悔しげだったので、ここは黙ってにやついておく。
 ともあれ、お互いに心配なんて要らないのは言うまでもない。私は今から既に、氷見が来てくれるのを待ってるんだから。

 飲み会は概ね平穏に催され、そして無事に終了した。
 今日もせいぜい酔っ払ってコップを割る先輩がいたり、脱ぎ出そうとして一年生一同に取り押さえられた先輩がいたり、その他体調を崩す人、途中でいびきを掻き始める人、解散前にいなくなる人、なぜかお財布を忘れてくる人などがいたくらいで、大きなトラブルもなかった。大学に入って三ヶ月、私の中の辞書にある『平穏』の意味合いが多少変化しているような気がしなくもない。
 二次会に行こうとしつこく絡んでくる先輩たちをかわした後、未成年にして模範的大学生である私は会計を済ませて領収書を受け取り、コップを割ったことを詫びてから店を出た。他の幹事の子ともお店の前で別れ、歩き出しながら氷見に連絡をする。
 時刻はもう午後十時近くで、受験生に電話をするには遅い気がした。だからメールで、今終わったよ、と送っておく。
 それからのろのろと家路に着こうとして――ふと、電話が鳴った。
『映子、今、店の前?』
 氷見からだった。
「うん、さっき出たとこ。ここから歩きで帰るよ」
『じゃあちょっと待ってろ。十五分で行くから』
 聞き間違えたかと思った。
「え? 何、行くって……」
『だから迎えに。今出るから、その辺の明るいとこにいて』
「い、いやいや、いいよ、悪いよ。受験生にさあ……」
『危ないから。すぐ行くから黙って待ってろ』
 私は慌てたけど、氷見は本気のようだった。
 声でわかる。高校時代、耳に焼きつけるほど聞いた彼の声は、表情や言葉よりもずっと伝わりやすく私の心に響いた。
 その必死さに私が押し黙ると、何の断りもなく電話は切れてしまい、結局それ以上反論も遠慮もできなかった。
 そして宣言通りのきっかり十五分後、駅前の居酒屋前に自転車に乗った氷見が現れた。ぜいぜいと息を弾ませ、眼鏡を一旦外して伝う汗を拭う氷見は、それでも黙って待っていた私に気づくとすぐに笑んだ。
「白馬じゃなくて、自転車で悪いけど」
「自転車も、格好いいと思うよ?」
 お世辞ではなく本気でそう思っている。
 氷見は、私の王子様だ。
「王子様って言ってもらったからな。正直、胸焼けのする表現だけど」
 ここまで来ておいて可愛くないことを言いつつも、氷見は眼鏡をかけ直して大きく息をつく。
「迎えに行きたいって思ったんだよ、映子を」
「うん……」
 私は反応に困った。氷見が呼吸を整えているのを見ると罪悪感が募る。別にやましいところがあるわけでは全然ないんだけど、それでも。
「映子は、変わんなくていいよ。ロマンでお腹いっぱいになる映子でいい」
 彼は真面目な顔をして、ようやく落ち着いてきた声で続ける。
「だから、待ってて欲しい。俺がちゃんと迎えに行くから」
 それは一体いつまでだろう。氷見が大学に入るまで? 氷見と私がまた同じサークルに所属するようになるまで? 私が脚本を書いて、氷見にもう一度演じてもらえるようになるまで? それとも――。
 私たちはこれから、どんなお芝居を作り上げていくのだろう。
 大学生になってからというもの現実的だったビジョンは、ここに来てまた夢見がちな甘さを発揮し始めた。いつかまた、氷見の為に素敵な物語を創れるようになれたらって、ふと考えた。そんな日が本当に、雑用係を務め上げた日々の先にでもあったらいい。
「王子様に迎えに来てもらえるとか、すごいね。お姫様になった気分」
 私は照れ隠しにそんなことを言ってみる。
 こんなに急いで来てもらって申し訳なさもあったけど、でもすぐに、じわじわ込み上げる嬉しさの方が勝ってしまった。心配してもらえてるんだな、っていうのがわかって幸せだった。すごく幸せだった。
 それで私がにやにやすると、氷見は自転車を降り、私に向かって手を差し出す。
「いつでもお迎えに上がりますよ、俺のお姫様」
「……わ、私、そんな台詞まだ書いてない……!」
 一言でお腹いっぱいになった私は、でもせっかくだからと彼の手を取った。
 そして、自転車を押して歩く氷見と肩を並べて、のんびり夜道を帰っていった。
 いろいろあってくたびれていたはずなのに、疲れなんて吹っ飛んでしまったみたいだ。おかげで帰り道は、とても楽しい気分で歩くことができた。

 というわけで氷見は、私の白馬の王子様です。
 いつかまた彼の為に、それこそ世界最高の台詞が書けるようになりたい。
 ――少なくとも今夜の氷見の台詞には、負けたくないと思ってる。
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