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声だけじゃ足りない

 携帯の留守電に、映子のメッセージが入っていた。
『お仕事お疲れ様。私は今から出勤です。冷蔵庫にドリアが入ってるから、チーズ乗っけてトースターで焼いて食べてね。あと隣にサラダも置いてあるからそれは必ず食べること。絶対だからね!』
 いい大人がガキみたいな口調で喋るもんだな、と思う。彼女の喋り方は高校時代からあまり変わっていない。顔を合わせればそういう幼さが鼻につくこともあったが、こうしてすれ違いの日々を過ごしていれば、むしろありがたいとさえ感じられるから奇妙だ。会えないうちに彼女が変わってしまったとしたら嫌だった。こんな結婚生活を強いているのに、身勝手にも思う。
 最後に映子と会ったのはいつだろう。疲労のせいか記憶が曖昧で、上手く思い出せなかった。家に帰るのは三日ぶりで、次に彼女と休みが合うのは三週間先だっただろうか。それでも彼女は寂しいとは決して口にしないし、そのせいで俺も言う気になれない。
 大体、会えなくなるほど働けるだけ幸運なくらいだ。――高校時代の夢を、そのまま追い駆けている身分としては。
 死ぬ気で稼がなければ映子に申し訳ない。
 俺よりも先に、夢を手放す形になった彼女の為にも。

 役者になりたいと初めて告げた時、親はあまりいい顔をしなかった。
 自分でもわかっている。実力次第で天国にも地獄にも行けるような職業で、給料だって安定していなくて、現に大学を出たばかりの頃は劇団の仲間と一緒に食いはぐれていた。バイトをして糊口をしのいではいたものの、そこまでして目指す夢の無謀さは十分理解していた。それでも、どうしても追い駆けたかった。焦がれる思いは強く、どうしても、諦め切れなかった。
 演劇サークルの先輩が旗揚げした劇団に、映子が名を連ねたことはない。俺も何度か声を掛けたが、意外な頑なさで断られた。彼女は大学の演劇サークルを辞めた後、普通に就活をして、普通に卒業し、OLとしての新生活を始めていた。高校時代の映子を知っている俺としては、その変わり身の早さに唖然としていたが、理由はすぐに知れた。大学を卒業した俺が夢を追う決意を固めた直後、彼女から告げられた。
 ――氷見の仕事が軌道に乗るまで、私が氷見を養ってあげる。
 事実上、その言葉がプロポーズだった。
 ショックを受けた。先に結婚を切り出されたこともそうだが、彼女が演劇から完全に身を引くと決めてしまったことについてもそうだ。元々、脚本家志望の彼女に演技の実力はなかったし、肝心の脚本も相変わらずの夢想家ぶりが続いていた。それでも彼女がこうもすっぱり辞めてしまうとは思わなかったし、その理由が俺にあるのだとわかると余計に、堪えた。
 結局、俺は彼女の申し出を受け入れた。答えを出すまでに二年掛かった。二年考えても夢は諦め切れなかったし、その分の恩は未来で返そうと思うようにもなっていた。俺の夢を応援してくれているのは、演劇仲間を除けば彼女だけだった。そして、そんなぎりぎりの状況下でも俺は、映子を失いたくはなかった。繋ぎ止めていたかった。身勝手だとはわかっている。でもこの夢は、彼女と二人で追い駆けたかった。どうしても。

 疲れた身体と重い荷物を引き摺って、どうにか家に辿り着く。
 ドラマの撮影と劇団の舞台練習が連日続いているせいで、頭が朦朧としていた。真昼の陽射しがきつい。逃げるように鍵を開け、部屋へと滑り込む。
 留守電のメッセージ通り、映子の姿は部屋になかった。親切にもカーテンを引いていってくれたようだ。薄暗い室内と隙間明かりの鋭さとが不釣合いで、漠然とした焦燥を抱いた。学生時代、風邪を引いたふりをして学校をサボった時のような罪悪感。俺はドラムバッグを放り出し、ソファーに身を投げて、ひとまず息をつく。
 脈打つこめかみに指を添えつつ、次第に慣れていく目で辺りを見回す。リビングは三日前と何ら変わらず、物があまりないせいかきれいに片付いている。結婚して半年、この部屋の居心地こそ悪くはないが、映子と二人で過ごした時間はまだ僅かだ。結婚生活なんて名前ばかりで、実質通い婚みたいなものだった。――いや、それよりもっと酷い。時間の開いた時に睡眠と食事と、せいぜい洗濯物を置きに来るくらい。俺はそういう夫だった。よく愛想を尽かされないでいると思う。映子は理解があり過ぎる。
 この間だって、俺の名前が新聞のラテ欄に載ったからと言って、うれしそうに該当箇所を切り抜いていた。載ったと言っても本当に端役で、二時間ドラマだから枠に余裕があって、それで名前を載せてもらえただけに過ぎなかった。それも地元のテレビ局から劇団単位で出演依頼を貰えただけの仕事だ。喜んでもらうにはまだ足りない。でも、映子が切抜きを手ににやにやしていたのを思い浮かべると、少しは幸せにしてやれたのかなとこっちまでうれしく思えてくる。そういえば映子は、昔からロマンで腹の膨れる体質だった。
 もっと幸せにしてやることだって出来るはずなのに。映子がそうしたように、俺だって映子の為に夢を捨てることだって出来るのに、彼女はそれを望まない。ひたすら俺を支えようとしてくれている。その気持ちはもちろんうれしいし、夢を追い駆けていられるのもうれしかった。ただ引け目は当然のようにある。いつか彼女が俺に愛想を尽かして、もっと安定した職業の男に惹かれていかないか、そのことだけが不安だった。こんな結婚生活を強いていても尚、映子を他の男には取られたくないと思う。一方で疑問もある。夢を追うだけで彼女を、本当に繋ぎ止めていられるのだろうか。
 溜息が出た。
「……だったら売れろって話だな」
 自虐的に呟いてから身を起こす。放っていたドラムバッグを足元へ引き寄せ、とりあえず携帯電話を取り出す。今は午前十一時半過ぎ。夕方にはまた出かけなくちゃいけない。劇団の公演が近いし、ドラマの撮影もある。劇団の方はようやく経費諸々を観客の入場料でペイ出来るようになっていた。お蔭で皆の張り切りようと言ったらなく、俺も当然例外ではなかった。映子が観に来てくれるから、最高の芝居をしたいと思う。
 着替えの詰まったバッグの中、捻じ込んできた台本を引き抜いて、ソファーに寝そべりつつページを繰る。こっちは撮影中のテレビドラマの脚本で、地元産業のPRも兼ねた硬派な作品となっていた。お蔭で覚えるべき専門用語が多く、そこにだけは辟易している。テレビに出られるのは光栄なことでもあるのだが――映子が喜んでくれるから、たとえ途中で事故死する役柄だろうとだ。
 台本を読み返していたら瞼が重くなってきた。映子の用意してくれたドリアのことを思い出したが、あまり食欲がない。だから携帯のアラームをセットして、眠ってしまうことにした。

 重く澱んだ意識が、ふと何かの音を聞きつけた。
 アラームの音じゃない。だが、電話の音だった。
 俺は目を開けられないまま、ソファーの背凭れの上に乗せていた携帯電話に手を伸ばす。掴んだ直後に音が止み、思わず舌打ち。それからのろのろとフリップを開いて、誰からの電話か確かめる。
 画面を照らすバックライトが眩しかった。目を眇めて表示を読み取る。――電話の相手は映子だった。そうとわかった瞬間、また舌打ちしたくなった。
 電話、出とけばよかった。
 しばらく顔も見ていないから、せめて声くらいは聞きたかった。もちろん聞けないこともないだろう。彼女はいつも必ず、留守電にメッセージを残していてくれる。ただそれだと会話にはならない。
 時刻は午後一時を回ったところだった。映子は昼休み中だろうか。俺は留守電を再生し、電話を耳元に当てる。
『もう帰ってるかな? 寝てるとこ起こしちゃってたらごめんね。言い忘れてたんだけど、洗濯物あったら洗濯機に突っ込んどいてね。今日持っていく分の服は寝室の机の上に置いてあるよ。それとソファーで寝ないこと。風邪引くからちゃんとベッドに行くんだよ。ご飯も食べてね』
 あいつ、実はこっそり見てるんじゃないだろうか。どこかにカメラでも隠して。俺の行動を読んでいるみたいなメッセージに面映さを覚える。苦笑して、とりあえずソファーから降りた。
 ドラムバッグを引っ掴んで洗濯機の前へ。汚れ物を洗濯機へと言われた通りに突っ込み、軽くなったバッグと共に寝室を目指す。明かりをつけると、机の上にはきちんと畳んである着替えが重ねられていて、俺は映子の家庭的な一面を思い知る。引け目と焦燥をまた嫌というほど味わって、それから――。
 机の引き出しが薄く開いているのに気づく。
 どうして気に留めたのか、自分でもよくわからなかった。その机が映子の、学生時代からずっと使っているものだということは知っていた。彼女の痕跡を求めたのかもしれないし、あるいは本当に意味もなく開ける気になっただけかもしれない。まだ目覚めきっていない頭にぼんやりと操られ、俺はその引き出しを開けた。そして見つけた。
 ルーズリーフの束。そこに記された文章の列。彼女の筆跡。
 胸焼けがするくらいに甘く、芝居がかった台詞。
 手書きの台本だった。
 一瞬、古い台本でも掘り起こしたのかと思った。高校時代、映子と二人で演劇部にいた頃の――でも紙は真新しいし、見覚えのない話だ。大学のサークルで書いたものかもしれないが、一人芝居用の脚本だから多分違うだろう。どちらにせよ演じた記憶はない。
 蛍光灯の明かりの下、しばらく文章を追った。内容は彼女の好きなロマンスもので、主役の男は甘い台詞を吐きながら一人の女を一途に愛し、女は男の言葉によって凍りついた心を溶かしていく、そんなベタな話だった。相変わらずルーズリーフに手書きだった。相変わらず甘ったるくて、夢見がちで、それでいて他人事の話を書いていた。新婚のくせに、自分の生活に甘さを求めない辺りはいかにも映子らしいし、その分を埋め合わせるみたいに甘い台詞を書き連ねているところもまさに、彼女らしかった。
 確証はない。でも、恐らく、このホンを書いたのはつい最近のことだろう。むしろそう思いたかったのかもしれない。映子はまだ、自分の夢を捨てた訳じゃないのだと、そう思っていたいだけなのかもしれない。
 ルーズリーフ数枚に認められた物語を一通り読んだ。
 読み終えた後で、彼女の携帯に電話を掛けた。午後二時前、彼女はもう勤務に戻っていて、電話には出ないだろう。繋がった留守電サービスに、俺はメッセージを残す。
「映子、いろいろとありがとう。これからドリアを食べるよ。夕方には家を出るから、また入れ違いになるな。いつも、ごめん」
 少し間を開けて、続ける。
「机の引き出しに入ってた台本、最近書いた奴? 読んだけど、割と面白かった」
 嘘じゃない。以前は言い慣れなかった甘い台詞が、今なら容易く口に出来そうな気がする。以前よりもずっと現実的な、身近なものとして心のうちにある。
「俺、映子の書く話、結構好きだったのかもしれない」
 少なくとも彼女は、俺の一番の理解者だった。
 顔に似合わないと思っていた、俺の声を好きになってくれた人だ。
「――もし、また新しいのを書く気になったら、是非読ませてくれ。前よりは優しく感想を言うから」
 メッセージはそこで終えた。もう一言、新婚らしい台詞でも添えようかと思ったが、止めておいた。それは会った時にしよう。
 その後で冷蔵庫にあったドリアを出して、トースターで焼いて食べた。言いつけ通りにサラダもちゃんと食べた。ただ、ドリアにチーズを乗せるのを忘れて、焼き上がり直前に慌てて乗せた。それでも普通に美味かった。
 映子の作るものが、美味くないはずがない。

 その夜、撮影の休憩時間中に携帯電話を確かめると、仕事を終えて帰ってきた映子からのメッセージが残されていた。
『見たのー!?』
 いきなり、絶叫で始まっていた。
『あれまだ完成品じゃないんだから見ないでよ! って言うか勝手に見ないで欲しいな、いくら夫婦と言えどこれはプライバシーの侵害です、しかるべきところに訴えてやるー!』
 いつもの映子だな、と声を聞きながら思う。いい大人がガキみたいな物言いをする。
『大体ねえ、男女の仲ってのは簡単にこじれちゃうもんなの! ちょっとしたことで危機を迎えたりするの! ハリウッド映画を見なさい、些細ないざこざで別れるカップルの何と多いことか! そして作中で焼けぼっくいに火が着く確率の何と高いことか!』
 ああ、やっぱり映子だ。って言うか、よりが戻るんだったら別に問題ないだろうに。まあ端から別れるなよとは思うがな。
 俺たちはそうならないようにしたい。一度だって別れるのは嫌だ。
『わかったら今度からは勝手に見ないでね! 書き上がったらちゃんと見せるから!』
 彼女の声がどことなく楽しげに聞こえて、俺もつられるように笑む。
 よかった。彼女はまだ、夢を全て捨ててしまった訳ではないらしい。それでこそ一緒に追い駆ける喜びがあるというものだ。
 俺だって負けてはいられない。引け目なんて背負ってる暇もない。必ず、この夢を叶えてみせる。

 さて。そろそろ声だけじゃ足りなくなってきた。
 次に会えるのは三週間後だったはず。その時は、新婚さんらしいことでもしようか。映子の好きな、胸焼けがするほど甘い台詞で一日中口説き続けてやる。
 必ず幸せにしてやるよ。だから待ってろ、映子。
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