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ラストステージ×リーサルウェポン

 卒業式をもう明日に控えた、三月の初めのこと。
 時刻は正午を過ぎた辺り。卒業式の練習を終え、既に校舎内は静まり返っている。部活動の中では唯一吹奏楽部だけが残って練習をしているらしく、遠くで『威風堂々』のメロディが聞こえる。
 そんな中で私は、三年間を過ごした演劇部の部室にいた。
 部室といってもいわゆるただの空き教室なわけで、室内の造りは教室とほぼ変わりがなかった。黒板の使用機会が滅法少ないことと、机や椅子が余った分しか置かれていないことくらいしか違いがない。当然、窓際の景色も各教室と同じで、大きなガラス窓を突き抜けてくる日差しが眩しかった。冬の終わりを匂わせる、霞ががった青い空。
 私は陽だまりのちょうど手前、昼頃の白っぽい光を浴びなくて済むぎりぎりのところまで進み出て、足を止める。そして荷物を提げたままで待つ、彼がやってくるのを。
 見慣れた部室も、辺りが静かで光に溢れていれば、どことなくロマンチックに見える。
 おあつらえ向きのステージだと思う、――例えば、愛の告白をする場合とか。

 やがて足音が近づいてきて、訳もなくほっとする。
 彼が来てくれるのはわかっていたけど、こういう約束をすっぽかすような奴でもないけど、何しろらしくもないことをしてるのは私の方だ。演劇部の部室で待ってる、なんてメールを送りつけてはみたものの、電話で返事をされたらムードもへったくれもあったものじゃない。だから返事をするより早く、彼がここへ来てくれたことに安心した。今のところはすごくロマンチックな流れ。
 足音は私の背後、部室の多分戸口辺りで止まった。窓の方を向いたままの私に、まず溜息。それから彼は、
「どうしたんだよ、こんなところに呼び出して」
 笑い半分、でも残り半分に優しさを覗かせながらそう言った。
 我が演劇部が誇るセクシーボイス。そんな短い台詞でさえもとろけるように響いてしまう。思わず目を閉じて聞き入ると、彼が部室に入ってくる足音が聞こえた。それからもう一つ、質問があった。
「何で黙ってる?」
「あ、ごめん。ちょっと聞き惚れてた」
「……馬鹿」
 うれしそうに笑う。そんな口調で『馬鹿』は反則だ。
 しつこいくらいに何度も何度も何度も感じたことではあるけど、私は本当にこの声が好き。
 もちろん、今となっては声だけじゃない。中身の方だって、時々生意気に思えてむかついたり、やり込められてむかついたり、正直すぎる物言いにむかついたりするものの、でも私は彼の性格だって好きだった。演劇にはひたむきで一途な奴だから。それと結構、私にも一途というか、ひねくれ一途だった。何か矛盾した表現かもしれないけどそうとしか言いようがない。
「急に呼び出したりして、ごめんね」
 私は古今東西の学園青春ドラマでお馴染みの、そんな台詞を口にする。
「いやいいけど」
 氷見はといえば、どことなく訝しげに返事をしてから、
「ところで映子、何でこっち向かない?」
 ストレートに疑問をぶつけてきたので、もうちょいムードを保った聞き方は出来ないものかと思いながらも私は、背を向けたまま正直に答える。
「ラストステージだから」
「はあ?」
「だって私、明日で卒業だもん。明日は部室に寄る暇ないだろうし、ここで話せるチャンスも、今日が最後かなって」
 今日が、今が、演劇部員としての私のラストステージ。最後くらいロマンチックかつ劇的にやらせてくれたっていいと思う。だからこそ氷見を、こんな形で呼び出してみたわけで。
「別に、卒業してからも顔出せばいいだろ。映子のことだ、OG訪問なんて名乗りながら手土産もなく無遠慮にずかずか遊びに来る気なんじゃないのか?」
「何か手ぶらじゃ駄目だって遠回しに言われてるような気が……」
 プレッシャーを感じて呟けば、背中越しに氷見がにやつく声で、
「俺はいいけど、後輩が入ってきてたら考えては欲しいよな」
 やっぱりそんなもんですか。
「う、わかった。高いものは無理だけど、考えるようにする。……OGも辛いなあ」
 OGと現役部員はやっぱり立場からして違うものだし。遊びに来ることは出来たとしても、もうここで氷見の演技を眺めて暮らす素晴らしい学園生活も終わってしまう。振り返ってみればなんて贅沢な日々だっただろう、毎日がセクシーボイスの貸切ワンマンライブだった。時々聞きたくない台詞もあったりはしたけど。
 私自身が彼の声や言葉に、思いきり悩まされてたこともあったけど。
「で、こんなとこに呼び出しといて、どういう用件なんだ」
 一向に振り向かない私にしびれを切らしてか、氷見がもう少し近づいてきた。背中に気配を感じてしまう。もう触れられるくらいには近くにいるんだろうか。少なくともあの声は、つむじ辺りにびしっと響いた。
 やっぱり、好きだ。
「あのね、最後だから、お願いがあるの」
 室内が完全に静かになる前に、私はそう切り出した。
「最後?」
 妙にうんざりした調子の氷見は、そこで何か察したように短く笑う。
「ああ、ボタンなら無理だからな。俺はまだ一年あるし」
「えっ、ボタン? そっかそういうのもあったね! くれるの?」
 ブレザーなんで念頭になかったけど、言われてみればそういうのもありかも。明日の卒業式にはボタンのない男子生徒がいっぱい現れるんだろうか。氷見は二年生だからボタンなかったら目立つだろうな。
「無理だって言ったばかり。来年からボタンなしの制服でどうするんだよ」
「んーじゃあ私の制服もう着ないし、代わりのボタンあげるから。交換しようよ、それもロマンチックじゃない?」
「やだよ面倒くさい。映子が全部付け替えてくれるなら考えてやる」
「――確かにめんどいね」
 ボタン付けって結構手間かかるしね。ロマンもそういう手間の前にはあっさり潰えてしまうものだ。お腹だって膨れない。
「それにそんなものなくたって、俺たちはどうってことないだろ」
 混ぜっ返すみたいに氷見が言った。
「さっきから聞いてりゃ最後だ最後だって言うけど、映子が卒業したからって俺たちがそれっきりってことはないんだからな」
 これも青春ドラマにはありがちな台詞。卒業してもずっと一緒、離れても一緒、なんて誰もが願うことだろうし、個人的にはそんなに難しいことでもないと思ってる。氷見とこれで最後だなんて、考えたくもないしね。
 ただ、
「ないよ。ないけど、今までみたいには会えなくなるじゃない」
 今までは毎日だった顔を合わせる機会が、大学と高校に分かれたらぐんと減ってしまうのは間違いない。この声をもう毎日のように楽しめなくなるんだと思うと、寂しい。
「へえ、寂しがってるのか」
 氷見はそこでまたうれしそうにして、背後からぽんと肩に手を置いてきた。
「映子も案外可愛いとこあるんだな。二年間一緒にいたけど、全く知らなかったよ」
「……私のお願い、聞いてくれるの? くれないの?」
 最後だからこそ、叶えて欲しいからこそ、可愛さロマンチックさを演出してこうしてお願いに来たっていうのに。案外って何だ失礼な、可愛さも知らないような相手とあんた付き合ってんのか――という言葉はぐっと呑み込んで、窓を見つめたまま尋ねる。そろそろ提げてる荷物が重くなってきたので早くして欲しい。
「一応、聞いてやるよ。聞くだけはな」
 そう言うなり、氷見は私の肩に乗せた手に力を込める。多分振り向かせようとしたんだろうけど、その力は途中で不自然に止まり、私は寝違えた人みたいに首を曲げて、背後に立つ氷見の顰めた眉だけを見上げる格好になった。
「何だ、それ」
 氷見が訝しそうに指し示したのは、私が鞄と一緒に提げていた、レトロとは言えないただただ時代遅れの嵩張るラジカセだった。細かな傷だらけの黒いボディの側面には、テプラで高校名と演劇部の備品であることがしっかり記されている。持ち手のすぐ下に輪ゴムで束ねたコードがあり、先端には網目のへこんだマイクがついている。このへこみは先々代の部長がとある英国ロックバンドを真似た挙句に作ったものだとされているが、真偽のほどは不明である。でもまあ十中八九真実ではないかと。
 閑話休題。
「何って、ラジカセだよ。うちの部の」
「いつも見てるからわかる。そうじゃなくて、俺が聞きたいのは」
「餞別に、氷見の声を録音していきたいの」
 それが私のお願い事。
「この先、大学と高校で離れてしまう時間も増えるから、せめて氷見の声だけは連れていきたいの。……駄目?」
 私は今度こそちゃんと彼に向き直って、おずおずとラジカセを掲げてみた。恥ずかしげに顔を背けてみたりして。青春ドラマっぽく。
「駄目」
 対する返事はにべもなく、しかめっつらで切り捨てられた。いい声に浸る暇もないほど短い答え。ラストステージはまさかの幕切れか。
「えー! どうして駄目?」
「どうしても何もないよ。声くらい電話でも何でも聞けるだろ、わざわざ録音とか」
「でも電話代って馬鹿にならないじゃない。テープなら何回でも聞けるし」
「大体このご時勢にラジカセって。テープなんてすぐ伸びて劣化するのに」
「そ、それはそうだけど、予算下りなかったから備品はこれしかないし……」
「私欲で部の備品を使うな。今の部長は俺なんだから」
 氷見は演劇部の新部長だ。他に部員はいない。
「そんなこと言ったって、私まだ卒業してないし、退部届も出さなかったから一応まだ演劇部員だもん」
 私の反論はいまいち弱い。私欲で備品を使ってるのは確かだし、テープの劣化が早いのも知ってる。いくら氷見の声が素敵でも、伸び伸びになっちゃえばきっとえらいことになるだろう。
 でもやっぱり、氷見の声が欲しい。
「これからは毎日聞けなくなるから。今までみたいに学校へ行ったら会えるってこともなくなるし、演劇部に遊びに行くったって頻繁には無理だろうし。土日だけじゃきっと、足りないだろうし……」
 ぼそぼそと尚も言い返せば、氷見はあからさまに鼻で笑った。年下とは思えない憐れみの表情を浮かべて、まるで駄々っ子をあやすように言う。
「そんなに離れてられない?」
「うっ……だ、だって、学校離れちゃうのは初めてだから!」
 癪だけど、はっきり言おう。離れるのが寂しい。
 氷見と毎日会えなくなるのが寂しくて寂しくて堪らない。
 それでもせめて声が聞けたら、あのいい声だけでも毎日堪能出来たら、少しは気が紛れるはず。そう思って私は彼をここに呼び出し、備品のラジカセをこっそり持ち出してこのラストステージに臨んだ。全ては究極のアイテム、『氷見の声入りお宝カセット』を入手する為に――って何だかステージの意味合いが変わりつつあるような気がするけど、とにかくだ!
「寂しいなら普通に言えばいいのに」
 不意に氷見の手が、私の両手に添えられた。
 自然に肩がびくっとする。
「な、何?」
「録音したテープなんかで我慢出来るのか、映子」
 いい声ではっきりと、でも心なしか偉そうに名前を呼ばれて、私はその偉そうな、傲慢そうな感じに惹きつけられてしまう。手を軽く握られて、あ、抱き寄せられるのかな、と予感した直後、彼は私からラジカセをもぎ取るようにして奪い、邪魔にならない辺りの床に置いた。
 その間、僅か数秒。
「あー! ラジカセ取られた!」
「反応遅い。というよりこれは元々うちの部のだ」
「だから私だって演劇部員!」
「今の部長は俺だよ。そうだよな、元部長?」
 見上げた氷見の顔に浮かぶのは、馬鹿にしたような笑い方。
「手間を惜しむなよ」
「え」
 ボタンのことを思い出して私はどきっとしたけど、氷見が言いたいのはそのことばかりじゃないみたいだ。稀代のセクシーボイスは諭すように柔らかく私に告げる。
「俺の声が聞きたいならちゃんと時間を作って俺と会えばいい。録音したやつで済ませようなんて楽はするべきじゃない。手間を惜しまず努力もして、会えない時間も相手のことを考えるからこそ、離れても続けていけるんじゃないのか。これからは俺たち、そういう努力も必要になるよ」
 年下なのに、後輩なのに、氷見の言うことは時々ものすごくもっともだ。
 これから始まる離れ離れの時間を、私は早速怠ける気でいた。氷見の声さえ連れていけたら、会えなくても耐えられるなんて思ってた。だけどそれはただの誤魔化しで、本当に続けていく為にはちゃんと会って、話もして、氷見のことを考えて、常に繋がっていなくちゃいけない。会えない時間にするべきは、録音した氷見の声に浸ることではないはず。そのくらいは私にもわかった。
 離れるのは辛いけど。毎日会えなくなるのは寂しいけど。でも私、この人の為なら頑張れる。
 だけど――情けないなあ。ラストステージでも私、氷見に敵わなかった。
「それに、どうせ聞くなら生の方がいいだろ?」
 氷見がまた笑う。今はさっきよりもずっと優しく、でもほんの少し、『しょうがない奴』って言いたげに。
 そしてその言葉に、私は大きく大きく頷く。
「うん。どうせなら生ワンマンライブがいい」
「……何、その、ワンマンライブって」
「もちろん貸切でね! 台詞も考えておくから!」
「馬鹿。お前と会うのに演技なんかしないよ」
 デートの度に私だけの氷見オンステージになったら素敵なのに――という願望は、セクシーボイスのたしなめ一つで呆気なく吹き飛んでしまう。
 うん、私も、氷見に何か演じて欲しいなんて思わないかも。もちろん彼の演技も好きだけど、一ファンとしても彼のこの先をずっと見ていたいけど、それはそれとして私、生の氷見も好きなんだ。ものすごく。
 氷見は今度こそ私の手を引いて、そっと抱き寄せてくれた。
「俺だって、生の映子の方がいい」
 そして私の心を読んだみたいに言うから、とってもくすぐったい気分になる。今日が最後だなんてもったいないくらい、いい空気。いつもこんな感じでいたら、私の学園生活はもう少しロマンチックだったのかなあ。それはそれで心臓持たなかったかな。
 ともあれ滅多にないムードに背を押されて、青春ドラマのノリを引きずったままで聞いてみる。
「ねえ氷見、……私のどこが好き?」
「滑稽なところ」
 即答された。しかもとびきりの笑顔で。
「こ、ここ、滑稽って! 普通可愛いとか何とか、百歩譲っても『面白い』で留めとくべきじゃない!?」
「いや、映子のは既に面白いのレベルを超えてるよ。滑稽としか言いようがない」
「好かれてるのがそこだけなんていくら私でも傷つくんですけど」
「他にもあるって。俺の声に心底惚れ込んでるところ」
 自信に満ちたその物言いにはちょっとむかついた。心底惚れ込んでるのは紛れもない事実だし、今まで私も公言してきたことなんだけどね、勝ち誇ったように言われるとちょっと悔しい。それを氷見自身がわかってて、ここぞって時の必殺技みたいに使われてるっていうのもむちゃくちゃ悔しい。
「それだけの条件なら、別に私じゃなくてもいいんじゃないの?」
 仕返しにもならないことをぶつけてみた私に、氷見は唇を寄せながら言う。
「でも、俺は俺の声が武器になるなんて知らなかった。それを教えてくれたのは映子だ」
 温く滑らかな唇が触れて、冬の終わりを感じ取る。

 ラストステージでも結局、私はあの声にまんまと落とされてしまった。用意したラジカセは床に置きっ放しで使うことはなく、究極のアイテムも手に入らなかった。だけど代わりに、もっと大切な心構えってやつを貰った。
 これから先、私と氷見がどこまで夢を追っていられるか、わからないけど――あの声の為なら、この人の為なら、結構頑張れるんじゃないかなって思う。
「ところで映子、この後は空いてるよな?」
「空いてるけど……ななな、何で、机に座らせるの?」
「明日は卒業式で忙しいんだろ。今日くらいしかチャンスないよな」
「ちょっ、どうしてブレザー脱がすの!」
「高校生活最後のステージが部室っていうのも悪くないと思ってさ」
「うわー変態! その顔と声で変態! そんなギャップは正直要らない!」
「あ、こら! 待てよ映子!」
 私は机に押し倒されかけたところを液体金属のようにすり抜けて逃げ出したものの、三月の空の下にブレザーなしでは太刀打ち出来ず、生徒玄関にすごすご引き上げたところを追い駆けてきた氷見に見つかり、涙ぐむほど笑われた。
「映子、滑稽さをそこまで体現することないだろ!」
「な、この、こんな寒い思いしたの誰のせいだと思ってんの!?」
「わかった、悪かったよ。帰りに何か奢ってやるから機嫌直して。この後、空いてるんだよな?」
「空いてるけど身の危険を感じるので帰りたいですー」
「駄目。帰さない」
「……うっ」
 その声でその台詞は反則だ。
 無様極まりないラストステージ、カーテンコールに突入の模様。私は氷見に手を引かれて、歓声代わりの日差しの中をのたのた歩き出す。
 心底惚れ込んでる人に連れていかれるんだから、幸せじゃないはずがない。あの声は最強の武器だし、敵わないって十分わかってるしね。あとは性格さえ普通ならなと思うんだけど――ま、私じゃ氷見のこと言えないか。
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