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或る天才の愛と生涯/後編

 ――拍手が聞こえて、はっとした。
 我に返ると既に、ステージの幕は下りていた。その向こうからは割れんばかりの拍手がまだ続いている。舞台に倒れていた氷見は起き上がり、肩を上下させながら舞台袖へと戻ってくる。汗だくだった。
「お疲れ様」
 私は告げて、いつしか握り締めていた台本を床に置いた。代わりにタオルを取ってきて、呼吸を整えようとしている氷見に差し出す。ありがとう、と吐息交じりの声が聞こえた。
 汗を拭いてから、氷見が目の端で私を見た。
「どうだった?」
 問われて私は正直に答える。
「素敵だったよ、氷見」
 最後の舞台に相応しい、いいお芝居が観られた。――その言葉は後に続かなかった。上手く言えそうになくて黙っていた。実感が込み上げてくる。これで最後、本当に最後なんだって。
 氷見はじっと私を見た。怪訝そうでも、気遣わしげでもある視線。私は居心地の悪さを覚え、唇を引き結ぶ。
 幕の向こうで徐々に弱く、小さくなっていく拍手。それが完全に鳴り止む前に、私を見つめたままでぽつり、言った。
「まだ泣かれた方がましだった」
 笑えない私に、氷見はそれでも笑ってくれる。タオルを放り、肩を叩いてこう言ってくれる。
「とりあえず、ステージ片そう。後片付けまでが演劇だ」
 頷きながら私は思う。
 きっと氷見は、いい先輩になれる。

 放送部の皆にお礼を言い、部室に戻ってきてからも、私たちは互いに言葉少なだった。
 何を言っていいのかわからない。何か、言うべきだとは思う。氷見とはこれでお別れという訳ではないけれど、演劇部員として一緒にいられるのはこれで最後だ。覚悟はしていたつもりだったのに、堪らなく寂しかった。
 寂しい? それは、ちょっと違うのかもしれない。むしろ悔やんでいるんだろう。氷見の前で、最後まで先輩らしくいられなかった自分を。
 氷見は天才だった。今日の舞台を観ていてもわかった。彼には才能がある。人を惹きつけ、楽しませ、そして自分ではない別の人間の生涯を演じるだけの才能が。
 私には才能がなかった。何もなかった。今日の舞台が拍手喝采で幕を閉じたのは、氷見の才能のお蔭。私が書いたホンはその才能への、何の手助けにもならなかった。
 約束したのに、出来なかった。
 世界最高の台詞を捧げるって、私、言ったのに。
「……だから、そんな顔するなって」
 魅惑のセクシーボイスが、そうぼやいた。
 視線を上げれば、頬杖をつく氷見の顔が見える。二人で椅子を引き、机を挟んで差し向かいに座っている。昼休みを一緒に過ごす時と同じスタイル。
 まだ着替えも済ませていない伊達男は、私を睨むように見据えていた。
「舞台、上手くいっただろ。まあ細かい反省点はあるけど……一人芝居にしちゃ反応は上々だった。十分笑ってられる結果だろ」
「うん、そうだけど」
「俺の演技と映子の脚本とで掴んだ結果だ」
 きっぱり、彼は言い切った。
 でも私はわかってる。すぐにかぶりを振って応じた。
「それは……違うよ。全部氷見のお蔭。私は何にもしてないじゃない」
「何にもしてなくはないよ。ホン書いたの映子だろ?」
「そうだけど。でもあんなの、違うものでもよかったんだから」
 スランプを乗り切った末、やっとの思いで仕上げた脚本。でも、あれじゃなくてもよかった。違う話だってよかった。私の書いたものじゃなくても全く構わなかった。氷見なら何だって見事に演じ切ってくれるだろうから。
「でも、何にもないところからは演技なんて出来ない」
 氷見がそう言った。
 レンズ越しじゃない眼差しは鋭過ぎた。怯みそうになりつつ言い返す。
「即興とかあるでしょ。氷見だって、普段やらないだけでアドリブくらい楽勝なんじゃないの?」
「ワンシーンだけならともかく、長丁場を全部即興でなんて無理だよ。演劇は一人でやるものじゃない。ストーリーも作ってもらわなきゃ演じられない。それに照明も、音響も、全部一人で受け持つなんて出来ないんだ。今日の拍手は、今日の舞台に関わった人間全員に貰ったものだよ。違うか?」
 彼の言い分に反論出来なかった。
 私は答えに窮し、氷見からは呆れたような溜息を貰う。
「最後くらい、笑って終わればいいのに」
 もっともだ。疲れているらしい顔を目の当たりにして、そうしておくべきだったなと思う。私はともかく、氷見はものすごく頑張ってくれたんだから。
 でも、これで最後だ。
「最後だから、もっといいものを書くべきだったとも思ってる」
 正直に打ち明けた。
「私、やっぱり駄目だった。氷見の為に世界最高の台詞を書くって約束したのに、出来なかった」
 それはやり遂げたかった。この声に最も相応しい台詞を書いて、捧げたいと思っていた。今回の脚本だって精一杯書いたけど、世界最高の台詞には到底辿り着けなかった。
「もっといいものが書けるようになりたかった。せめて、氷見の実力に見合うくらいになりたかったんだ」
 そう言ってから、もう一言添えた。これも正直に。
「私、虜になってたよ。今日の舞台に」
 氷見は天才だと思った。でも私は天才にはなれないし、そうそう容易く追いつけるものでもないと自覚している。最後まで手すら届かないなんて、悔しい。
 目の前の天才は、ゆっくりと瞬きを繰り返している。
「一人にしてごめんね、氷見」
 彼の瞳に私は告げた。
「何にも残してゆけない先輩で、ごめん」

 何か一つでも残せたらよかった。
 新入部員でも、我が部の代表作と言えそうな脚本でも、或いは三年間で培ってきたノウハウなんかでもよかった。そういったものを何一つとして残せないままで私はこの演劇部を、それからこの学校を去る。
 どうしても、悔しい。力のない、才能のない自分が。

「――でも」
 私の思考に、氷見の声が割り込んでくる。
「俺は、映子の虜になってるよ。とっくの昔に」
 この声に言われて、どきっとしないはずがない。思わず息を呑んだ私に、彼は複雑そうな表情をひらめかせた。
「映子の作品に、ではないけどな」
 自覚はしてるんだけど、強調されるとやっぱむかつく。
「……どういうこと」
「だから、俺は映子がいなきゃ、文化祭で一人芝居なんて冒険はしなかったってことだよ。映子が俺の為に書いてくれたホンだから、やってやろうって気になったんだ」
 氷見はそう言って、首を竦める。
「ちゃんと残ってるよ、俺の中には。映子の頑張りも、映子のくれた言葉も。映子がいなかったら今日の舞台だってなかった。今は、それで十分じゃないか」
 改めて、私は氷見の顔を見つめた。おりこうさんの顔立ちは伊達男の服装でもよく似合った。あの中に私が、私のしてきたことがちゃんと残っている。そうなのだとしたら。
 私は、氷見の先輩として、先輩らしくいられたんだろうか。
「それに、これで最後じゃないだろ」
 彼は柔らかい口調で継いだ。
「大学行ってもやるんだろ? 演劇」
「まあ、受かったら。あとサークルの雰囲気次第で」
「続けた方がいいよ。映子の脚本、需要はあると思う。俺も続けたいと思ってるから、またいつか一緒にやろう。趣味にしたって一生出来るものなんだから、だったら二人で、一生続けよう」
 一生と来ましたか。氷見が随分と大きく出たので、私はやや戸惑う。
 だけど、一生懸けてもいい趣味であるのは間違いない。そして氷見の為なら、まだまだ頑張れると思う。機会があるなら。氷見の為に、私が専属作家でいられるなら。
「私なんかでいいの?」
 恐る恐る、私は尋ねる。
 氷見の方はあからさまにおかしそうにしてみせた。
「当たり前だろ。映子がいい」
「でも、私の作品は好みじゃないんでしょ? 本当にいいの?」
「別にいいよ。映子がいてくれるなら多少は我慢する」
 我慢かよ。生意気な、可愛くないやつめ。
 ……可愛くないのはお互い様か。仮にも彼氏に『お前の虜だ』と言われて、そのことに不満を唱えるのは贅沢だ。演劇では氷見の才能には敵わない。だけどその天才を虜にしてしまえた私は、脚本書きの才能も演劇の才能もないけど、他の側面では有能なのかもしれない。
 今のところ、どう活かすのかもわからない、自覚のない才能だけど。
「じゃあ、続ける」
 ふくれっつらでも作ってやろうかと思ったけど、無理だった。多分あんまり可愛くないだろう、にやにや笑いで言ってみる。
「覚えててよね。近い将来、氷見が演じたくて演じたくて堪らなくなるようなホンを書いてみせるんだから!」
「楽しみにしてるよ」
 さらりと応じた氷見が、その後で呟いた。
「やっと笑ってくれた」
 不意を突く言葉に、またどきっとした。私が笑うのを待っていてくれたんだろうか。そこはかとなく、くすぐったくなる。
 机を挟んだ割と近距離、氷見も優しい表情をしている。演技じゃないかと思うくらいに穏やかで、大人びた顔つき。
 そしてその表情のまま、
「映子も、笑った顔の方がいいよ。笑って、俺のいとしい人」
 彼が続けた台詞には、最早心臓が、いかれてしまった。
「な……ななな何言ってんの!」
「何って、映子の書いた台詞だろ」
「でも私宛ての台詞じゃないもの! 私、別にヒロインじゃないし!」
 つい立ち上がり叫んでしまう。動揺してるの、ばればれかもしれない。でも自分で書いた台詞を自分宛てに言われるのは何と言うかもう……! どぎまぎする!
「俺にとってはヒロインだよ」
 まだ言うか! 氷見の悪趣味! よりどりみどりのくせに!
 歯の浮くような台詞を立て続けに放ったセクシーボイスの伊達男。手に負えない。
 こちらが慌てふためいているのを見るや、彼は笑みを深めた。そしておもむろに声を落とす。
「ところでさ、映子」
「……今度は何っ」
「約束、忘れてないよな?」
「約束? さっきの、世界最高の台詞じゃなくて?」
 その約束はまだ果たせてない。でも、いつか必ず。私には、私と氷見の生涯分の時間があるんだもの。いつか必ず、書けると思ってる!
「そっちじゃなくて」
 氷見は燃え上がる私の闘志を軽くあしらい、更に言った。
「文化祭の舞台、上手くいったらご褒美くれるって約束してたろ」
「ああ、そういえばそうだっけ」
 そんな話もあったな。うん、何となく覚えてる。
 ご褒美かあ。ま、しょうがないか。今回一番頑張ってくれたのは氷見だし、元気付けてもらったお礼もしたいしね。確か、前もってお小遣い少ないからねとは言っておいたはずだから、氷見もその辺りはわかってくれるはずだ。よし。
「で、何がいいの? 今ならまだ模擬店出てるから、ひとっ走り行って買ってくるよ」
 私はポケットから小銭入れを取り出し、氷見の方を向いて尋ねた。
 その時、冷たい指に顎を掴まれた。
 すぐにぐいと引き寄せられて、唇に柔らかいものが触れるまでほんの一秒。あっさりと目を閉じてしまう自分が嫌だ。ヒロインなんて柄でもないくせに、本気で恋をしているあたり。
 好きだな、と思う。氷見のことが。声だけじゃなくて、口の悪さの割りに案外優しいところとか。あと年下のくせに、妙に頼もしくて、生意気で、確固たる考え方を持っているところとか。
 この人の生涯が観たいな、と思う。どこまで行けるんだろう。役者になるのかなれないのか。趣味のままで終わるのか、それとも大きく花開くのか。わからないけど、私はそれを見守っていきたい。心底、惚れ込んでるのかもしれない。

 唇が離れた時、眩暈のように頭が揺れた。
 ゆっくり目を開けると、至近距離に氷見の、やけに挑戦的な笑みが映った。
「今のが、ご褒美?」
 私は普通に尋ねたつもりでいたけど、声が上擦っていたみたいだ。対して氷見は、いつも通りの口調で答えた。
「いや、今のは前哨戦」
「ぜんしょう……せん?」
「むしろ利子回収、かな。ここまで散々焦らされたからな」
「りし……って、何が?」
 急に訳のわからないことを。いぶかしく思う私に向かって、彼は機嫌よく語を継いだ。
「映子、これから空いてるだろ? 俺の家に来いよ」
「え? 別にいいけど……」
「今日は運よく、家族が誰もいないんだ」
「――ちょ、ちょっと待って。それって」
 氷見の笑顔が決まっていて、余計に警戒感を覚えた。これはもしかすると。
「だから、ご褒美だろ。まさかキスだけで終わりなんて言わないよな?」
「お……おお!? 終わりに決まってるでしょ何言ってんの!」
「ハリウッド女優じゃないくせに。映子のキスの価値はそんなに高い訳?」
「高くはないけど! ないけど、でも……――ああもう好きにすればっ!」

 何でいつもいつも、こういう局面には余裕綽々なんだろう。本当に憎らしい奴。後輩のくせに。
 だけどその後輩に、まんまと虜にされてるのも事実。しょうがないよね。先輩よりしっかりしてるし、度胸も据わってる後輩なんだもの。
 とりあえず、約束だ。家には行ってやろう。後のことは雰囲気次第。でも腹筋は鍛えておいたので、いざって時はダッシュで逃げようと思う。

 ……なんて、あの声に殺されたなら逃げられるはずもないのにね。
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