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甘い台詞にご用心

「ねえ、そこの彼女」
 聞き慣れない声がふと耳に入って、がっかりした。
 氷見の声じゃない。こんな声、拾ったってしょうがないのに。

 声に惚れ込んでいるせいか、それとももっと単純に、恋の魔力という奴なのか。私の耳は氷見の声だけを特別に拾い集められるようになっていた。魅惑の甘いセクシーボイス。普段は小生意気な後輩だけど、声はすごい年下の、一応彼氏。
 私は氷見の先輩だから、交際においても年上らしい態度でいようと心がけていた。年下に主導権握られるなんて癪だ。実質一つしか違わないんだけど、その一つが大きな意味を持つ。待ち合わせ場所では余裕の態度で本を読んでいた。駅前の噴水広場、水音と雑踏の中でこっそり耳をそばだてつつ――氷見の声が聞こえたら、すぐにでも気付けるように。平然としてるのが年上の余裕だ。さっきからそわそわし過ぎて、本の内容がちっとも頭に入ってきてないけど、それはさておき。

 文庫本のページを繰りながら、暑さのあまり溜息をつく。氷見の奴、遅いなあ。せっかくのデートだって言うのに。やっぱり待ち合わせ時刻よりも二十分早めに来たのは失敗だったかな。妙に張り切ってる自分に気付いて、余計にそわそわしてくる。
「ねえってば」
 もう一度、声がした。さっきの声の人、かな。
 誰に呼びかけてるんだろう。すぐ傍で聞こえている、軽そうな声だった。私は当たり前だけど、氷見の声の方が好きだ。
「ね。君、聞いてる?」
 更にもう一つ呼びかけるのが聞こえて、直後、肩を叩かれた。
 思わずびくっとする。何? 一体何? 氷見なの? あの声はしなかったけど、まさか――。
 嫌な予感に視線を上げれば、逆光の中で佇む知らない姿の男がいた。夏の陽射しを透かした髪の、軽薄そうな明るさがわかる。おりこうさん顔の氷見とは全然違うタイプの人。
 その人はやけに親しげな笑顔を向けてきた。私より年上かなととっさに思う。大学生くらい、だろうか。
「ようやくこっち見てくれた。ねえ君、一人?」
 ええと。
 ……どちら様?
「よかったら俺と一緒に遊びに行かない?」
 これまた軽薄そうな台詞を投げかけられて、私はぽかんとしてしまう。
 まさかこれって、いわゆる一つのナンパって奴だろうか。
「退屈はさせないからさ。暇なら付き合ってよ、ね?」
 どうやら、やっぱり、そういうことみたい。

 生まれて初めてだ、ナンパなんてされたの。下手すれば一生ご縁のないことかと思ってた。なくてもいいけど、私には氷見がいるから。
 だけど、ふうん、まさかねえ。私みたいなのに声掛けてくる物好きが氷見以外にいるなんて、世界は案外広いんだなあ。すごいね。ワンダフルだね。
 っていうかこれは脚本のネタになりそうじゃない? ようし、台詞とシチュエーション覚えとこう。軽薄な男が身を持ち崩して人生の坂を転げ落ちていく悲喜劇っていうのでどうかな。もちろん主役のナンパ男は氷見だ。声はいいのに態度が軽過ぎて袖にされまくる男のスラップスティックコメディ。あ、何だか書けそうな気がしてきた。スランプ脱却の燃料になるかも!

「――ねえ。無視しないで欲しいんだけどな」
 また肩を叩かれて、私は想像の世界から引き戻される。
 例のナンパ男氏は苦笑いを浮かべながら、私の顔を覗き込んできた。あ、距離が近い。
「もしかして、こういうの初めて?」
「へ? こういうのっておっしゃいますと……」
「声掛けられるの。慣れてなさそうな感じがするから」
 初めてですとも。初めてだけど、そんなこと関係ないでしょうが。
 思わずむっとした私を、ナンパ男氏はおかしそうに見ている。
「大丈夫、キャッチとかじゃないからさ。一緒に遊びに行こうって言ってるだけだよ。どう?」
 ちっとも大丈夫じゃない。誰が出会ってすぐの男と遊びになんて行くものか。氷見とだって、四ヶ月付き合ってきてようやく念願の初デートだっていうのに!
「あいにくですけど私、待ち合わせしてるんで」
 思い切り突っ撥ねてやろうと思って、私は言った。気分は映画の中のヒロイン、男を切り捨てて自立する系のキャリアウーマンだ。もちろんニューヨーク在住。
 しかしたちの悪い男は得てしてしつこいものなのだ。追いすがってくる。
「待ち合わせの相手って女の子? だったらこっちももう一人呼ぶからさ」
 いや本当、マジでしつこい。見ず知らずの相手とダブルデートとかする訳ないでしょうが。友達なんて誰も紹介したくないね、こんな男には。
 だけど私が言い返そうとした拍子、ナンパ野郎は腕を掴んできて、
「ちょっ、離してください!」
「君が焦らしすぎるのが悪いんだろ? で、どうなの。付き合ってくれるの?」
「誰が……」
 知らない人の手の感触に、剥き出しの二の腕がぞわぞわしてくる。嫌だ。振り解くか、振りほどく前に弁慶でも蹴り飛ばしてやろうか。そんなことを思っていたら――。
「――俺の彼女に何してんだ」
 耳が、そんな声を拾った。
 たちまちのうちに頭の中に流れ込んで、全身が心臓になったようにどきどきしてくるあの声。人を殺せそうな甘い声。魅惑のセクシーボイスは、こんなタイミングで私の心に割り込んできた。

 振り向くと、確かにそこに氷見がいた。
「氷見!」
 私は自分でもよくわからない衝動でその名前を呼ぶ。だけど氷見は、おりこうさんの顔を険しく顰めて、ただ真っ直ぐにナンパ野郎の方を見ていた。ナンパ野郎が訝しそうにしている。
「とっとと手、離せよ。他人の彼女に手出そうってのか?」
 氷見の声は今は低く、深く、そう告げてきた。
 さしづめマフィアか、企業の子飼いのヒットマンみたいな雰囲気だった。今の氷見なら、声以外でも殺してしまえそうだ。知らず知らず、背筋がぞくりとする。
 それで私の二の腕は解放された。解き放たれた腕はだらんと落ちる。氷見の姿をじろじろ眺めた後、ナンパ野郎が息をつく。
「何だ、彼氏持ちか。だったら初めからそう言えよなあ」
 負け惜しみみたいな言葉が、噴水広場に残された。
 軽薄そうな髪のその男は、何事もなかったみたいに足早に立ち去っていく。一度も振り向かず、すぐに雑踏の中、見えなくなった。
 そして私と氷見は、ようやく向き合うことが出来た。
「ありがとう、助けてくれて」
 私は心底感謝していた。最中にはちっとも気付かなかったけど、案外びびってたらしい。今になって急に震えが来た。声までぶるぶる震えていた。こんなに暑い日だっていうのに。
「当たり前だろ」
 事もなげに氷見は言う。まだしかめっつらだった。眼鏡のレンズが陽射しを跳ね返してきて、少し眩しい。
「大体、映子も悪いんだからな」
「えー! 何で? 何で私が悪いの?」
 氷見の口ぶりに思わず言い返すと、甘い声が更に倍返しにしてきた。
「普通ああいう時は真っ先に、彼氏がいるからって言うもんだろ。何で言わなかったんだよ」
 ぎろりと睨まれる。
 そういえば、何でだっけ……聞かれなかったからか。ああでも確かに言われてみれば、そう言っとくのが手っ取り早かったのかもしれない。待ち合わせをしてるとは言ったんだけどね。氷見のことは言ってなかった。
「ああいう手合いは、映子みたいに優柔不断でいかにも誘いを断れなさそうな女を狙ってくるんだからな。おまけに夢見がちで、運命の出会いなんて言葉でも本気で信じてそうなタイプも狙い目に違いないよ。映子みたいなぼんやりしたのはすぐ引っ掛かりそうだもんな。全く、年上の癖に頼りなくて危なっかしいんだから」
 一息にまくし立てられて、ちょっとへこんだ。
「う……そこまで言わなくてもいいんじゃない?」
「事実だろ」
 ばっさりと切り捨てた氷見が、その後で小さく続けた。
「ほら見ろ、年上男なんてろくなもんじゃない」
「は?」
 何のことかと思ってそちらを向けば、苦虫を噛み潰した顔の氷見が更にぼそりと、
「映子みたいなのには年下の方が合ってるんだよ。一歳差くらいがちょうどいいって」

 私はどうしたものか、反応に困った。
 そもそもこっちだって、氷見が年下だから付き合ってるんじゃないもの。あくまで氷見だから、だ。先輩でも後輩でもあんまり関係なかった。
 ……もし仮に氷見が年上だったら、私のところには一切主導権が回って来なかっただろうから、年下の方が都合がいいんだけど。

 でも、ちょっと反省した。
 氷見のこと、不安がらせちゃったかな。ただでさえ日頃から、たった一つの年の差を気にしているみたいだし。せっかくのデートなのにそんな気持ちにさせて、悪いことしちゃった。
「そうだ。さっきのお礼に、アイスクリーム奢ったげる」
 ふと思いついて私は言った。今日は暑いし、気分を切り替える為にもひんやりしたアイスクリームはちょうどいい。駅前通りに美味しいお店があるの、知ってるんだ。
 私の提案に、氷見は眉を顰めた。
「映子はデリカシーがあるんだかないんだか」
「うるさいなあ。お詫びのつもりでもあるんだから、素直に受け取っときなさい!」
「じゃあ俺、トリプルね」
 すかさず氷見が言い出して、思わず、呆気に取られた。
「え……遠慮しなさいよ、ちょっとは!」
 デリカシーがないのはどっちだ。食べる気満々じゃないの!
 抗議の声なんか聞き流した氷見が、ちらっと私を見る。やっと笑った。さっき掴まれた腕を見て、こう言った。
「映子、腕組んで」
「えー! この暑いのに!?」
 っていうか腕を組むのも初めてだよもちろん。初デートでそこまでって進んでない? 腕なんて組んだらきっと、暑くて暑くてしょうがなくなるだろうに。
「お礼とお詫びの気持ちがあるなら、普通従うよな?」
 生意気な口調で氷見が言うから、私はむっとした。歯軋りした。舌打ちもしてしまった。心の中で地団太も踏んだ。それでもどうしようもなくて、結局――。
「ちょ、ちょっと、腕組んだ上に手繋ぐってどうなの!」
「何かおかしい?」
「しかも恋人繋ぎじゃない!」
「いいだろ別に、恋人同士なんだから」
 気障に聞こえる台詞も、氷見の声だととびきり甘く聞こえるから困ったものだ。全身でどきどきしてしまう。お蔭で主導権なんてどっかに飛んでいっちゃった。相変わらず、年上の私が押されてる。
「覚えてなさい。今度、ものすっごく恥ずかしい台詞を書いて、演じさせてやるんだから!」
 悔し紛れに言った私の手を、ぎゅっと握り返してくる氷見。歩き出しながら、なぜかとてもうれしそうに見えた。
「へえ、スランプ治りそうなんだ?」
「治す! 意地でも治してやる!」
 これから始まる初めてのデートより、ずっとずっと甘い、世界最高の台詞を書き上げてやる。
 いつか、絶対に。
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