Tiny garden

聖域

 いつの間にやら、冬が終わろうとしていた。
 四月が来れば私は晴れて三年生、最上級生だ。うちの高校にももうじき新入生がやってくる。果たして今年は、何人の新入部員が我が演劇部に来てくれるだろう。

「別に来なくてもいいんだけど」
 と、生意気な後輩の氷見は言う。氷見ももうすぐ二年生になるっていうのに、生意気ぶりは相変わらず。むしろふてぶてしさだけなら上級生並みだった。
「何でそんなこと言うの」
 二人きりの部室の気まずさはまだ続いていて、自分の声がきつく響くと、自分でどきっとしてしまう。もっとも、氷見の声が響いた時は違う意味でどきっとするから、困ったものだった。
 広い部室のその中で、一つの机を挟んで向き合う私たち。明らかに空間と備品の無駄遣いだ。いつ新入部員が入ってきてもいいくらいの空きスペースがここにはある。
「他の連中に、土足でここに踏み込まれるのが嫌なんだ」
 氷見は首を竦めて、それから小さく笑ってみせる。
「せっかく映子と二人きりでいられるのに、もったいないだろ?」
「……先輩って言いなさいってば」
 近頃じゃすっかり、私のことを敬意をもって呼ばなくなった。生意気すぎる。注意したって聞く耳持たずで本当、困った奴。
 呼ばれる方はその度に、動悸と息切れで死にそうになるのに。
「後輩が来てくれた方がうれしいでしょ? 氷見だって『先輩』って呼ばれたいんじゃないの?」
 呼吸を乱しながら私が言えば、氷見は事もなげに応じてくる。
「別に。そう呼ばれたって大してうれしくないし」
「可愛くない奴。でも、人数が多い方が絶対に楽しいってば」
「俺は映子と二人でも十分楽しいよ」
「……先輩って呼ぶように。それに、私が卒業したら、氷見は一人になっちゃうじゃない。そうなったら絶対寂しいと思うけど」
 こればかりはしょうがない。私は氷見よりも先に卒業するし、氷見を置き去りにしてしまう。一つ違いの年の差はやっぱり大きい。とてつもなく大きい。
「そしたら、OGとして部活だけ参加すれば?」
 でも氷見は平然とそう言って、私を心底呆れさせた。
「OGって……何すんの? 文化祭とか出ろって言うの?」
「だって映子、どうせ芝居はやりたがらないだろ? ホンだけの参加ならOGでも出来る」
「ホンが書けたら、の話でしょ」
 その前提からして、今の私じゃ難しい。
 例のスランプは一向によくならず、あれから何も書けない状態が続いていた。氷見との関係がややこしくなればなるほど、どんどんと悪化していくような気がした。もう昔みたいな文章は書けないように思う。私、どうやって脚本を書いてたんだろう? ちっとも思い出せない。
「書けるよ、いつかまた」
 氷見はこの件に関してだけは優しく言葉を掛けてくれる。甘い声の励ましは、だけど私の焦りを募らせるばかりだった。この声に言わせたい台詞、たくさんあったはずなのにな。
「まあ、ね」
 私は頬杖をついて、嘆息した。
「今の状態なら新入部員なんて呼び込めないよね。最上級生がこんな調子じゃ」
 別に、私がスランプに入っていようとも演劇部的には困らないんだ。脚本なんてもっと本格的な奴からいくらでも揃えられるし、私が昔書いたものを再利用する手だってある。私が書こうが書かまいが、演劇部は続いていくし、誰も困りはしない。
 ただそうなると、私の存在意義が危うくなる。演技もろくに出来ず、ホンも書けない奴が何で演劇部員なんだと聞かれたら、答えられなくなってしまう。そりゃ裏方の仕事だって大事だし、必要不可欠なものだけど、そもそも私は脚本書きがやりたくて入部したんだから――それが出来ないとなると、何だか支えを失ってしまったみたいで心苦しい。
「あんまり考え込むなよ」
 またも優しく言って、氷見は机越しに手を伸ばしてきた。そっと私の髪を撫でてくれる。
 普段はその生意気さに手を焼いているけど、こうして優しくされるのは、正直言って悪くない。……どんどん深みに嵌っているような気がしなくもないけど。
「いざとなったら、映子も演技やればいいよ。俺が教えてやるからさ」
「氷見が教えてくれるの?」
「そう。手取り足取り懇切丁寧に教えてやる」
 氷見が言うと、微妙にやらしい。本当にあちこち取られそうだ。そんな演技指導、あってたまるか。
「俺も、映子が相手ならどんな気障な台詞でも言えそうだしな。そっちの方が楽しそうだ」
 気障っぷりにも磨きが掛かってきた氷見。昔は私の書いた台詞に、ああだこうだと文句ばかり言ってたくせに。人間こうも変わってしまうものなのか。声には合ってるけどね。
 とは言え、それは私の実力が追い着かなさそうなので却下。
「いくら氷見が上手くても、相手役が大根じゃ醒めるからやだ」
 正直に答えたら、氷見はふっと破顔した。
「何だか惚気合ってるみたいな言い方だな、今の」
 そんなんじゃないです。何で私が、氷見のことを惚気なきゃならないんだ。

 だけど実際、私と氷見の関係は複雑極まりないところまで来ていた。相手の気持ちは知ってるし、私の気持ちだって単なる部活仲間、或いはファン意識とは言い切れないだろう。そんな単純な気持ちしかなかったら、とっくに突き放しているはずなんだから。
 二度も、強引にキスされたし――こっちの意思確認もせず、許可も取らずに。これは刑法に引っ掛かるんじゃないの? そりゃ訴える気もないし、今更嫌だったなんて言うつもりもないけど。嫌だった訳でもない……多少はね。
 氷見の声が好きだった。表情も、演技も、たまにだけ見せてくれる優しさも好きだった。年下のくせに、鮮烈に見せつけられた色気と大人っぽさにも惹かれていた。全てではないにせよ、そこまで好きになっておいて、私は最後の一歩を踏み出せない。そこへ飛び出していく為の、覚悟がまだ出来てない。
 だって、約束、果たせそうにないもの。
 氷見に世界最高の名台詞を書く、という約束を。

「前に氷見が言ってたこと、ちょっとわかったような気がする」
 ふと、そんな思いが口をついて出た。
 怪訝そうな氷見が、私の顔を覗き込んでくる。
「俺が? 何て言ったっけ」
「ほら、もっとシンプルな芝居をやりたかったんだって」
 私が教えてあげると、ああ、と思い出したような顔になる。
 あの時、氷見は言った。――何でもないような人間が主人公の、ごく日常的な劇。どこにでもいそうな、ありふれた人間の役を演じてみたいって思っている、って。少し熱っぽい口調で語ってくれた。その時はわからなかったけど、今ならわかる。あれは氷見の本音だったんだ。
 でも、後に違う言葉も続いた。
「どこにでもいるような平凡な人間でも、ある局面では歯の浮くような台詞を吐いたり、飾り立てた言葉を口にすることもあるんじゃないだろうかって、そんなことを言ってたよね。私の書く台詞の気障さに頼らなければならない時もあるのかもしれないって」
「覚えてる」
 氷見が頷く。ちゃんと覚えていてくれた。
 私も顎を引いて、その後で語を継いだ。
「言われた瞬間はぴんと来なかったんだけど、今なら、ちょっとわかるんだ。気障でロマンチックな台詞って、確かに必要な時もある。だけど裏を返せば、日常で当たり前のように使うものでもないし、平凡でありふれた人生を描く時に必要なものでも、自然なものでもないんだ」
 多分、なければなくても生きていけるようなもの、なんじゃないだろうか。
 それこそ蜂蜜みたいなものだ。あればあったで少し楽しくなったり、幸せになれたりするかもしれないけど、なくても大して困らない。
「そう思ったらね、何だか……今までみたいな台詞を書く気が失せちゃったんだ。別になくてもいいものを書くことなんてないよなあって」
 必要不可欠なものだと思っていた。お芝居に、気障な台詞はなくてはならないもの。名台詞がなければ演劇じゃない、とまで思っていた。
 でも人生はそれほどロマンチックでも、ドラマチックでもない。名台詞のない日、言わない時間の方が圧倒的に多いに決まっている。蜂蜜漬けの台詞なんてそうそう使いはしないし、非現実的だし、時代錯誤だ。
 そういうものを全て省いてしまったら、私には何も残らないんだけど。
「落ち込む時って、こんなもんだよね」
 溜息も出る。
「考え過ぎだってわかってるんだけどね。でも改めて自分の書いたものを顧みたら、やっぱおかしいよなって思えてきたんだ」
 今までは部外者だったから、どんな仰々しい台詞でも書けた。でも当事者となればそんなの、気恥ずかしいばかりだ。自分が言われるものだと意識し始めた途端、どう書いていいのかわからなくなった。どんな台詞も、私みたいに平々凡々な女の子には相応しくないような気がした。気障で甘ったるい蜂蜜漬けの台詞は、私の人生にもそぐわないような気がした。
「俺のせい?」
 眼鏡の奥の氷見の眼差しが、微かに強さを増した。
「うん」
 それは端からその通り。そもそものきっかけも氷見だもの。私が思いっ切り頷くと、氷見は喉の奥で笑った。
「はっきり答えるな。まあ、それならそれで責任は取るけど」
 どうやって? 尋ねる前に、彼は自ら語を継いだ。
「でもさ、映子。なきゃないでいいものなんて、それこそ無限にあると思うんだけどな」
「そう? ……例えば?」
「芝居だってそうだろ。なくなったって誰も生きてけないって訳じゃない。でも芝居好きな人がたくさんいるから、劇場もあるし、映画もあるし、演劇部だってある。俺たちも、好きだから演劇をやってる」
 なくてもいいもの。でも好きだから、好きな人がいるから存在し続けているもの。確かに演劇も、そうなのかもしれない。
「たくさんあるよ、絶対に必要って訳じゃないものなんて。なくても構わないけど、あればあったですごくうれしいものなんて。そういうものがあるからこそ、平凡な人間でも、ありふれた人生でも、それなりに楽しく過ごしていけるんじゃないかと思う」
 そう語る氷見は、平凡な人間なんだろうか。こんなに素敵な声の持ち主なのに、この先、ありふれた人生を過ごしていくことになるんだろうか。私にはスターに見えるけど、これからその甘い声をいかした人生を辿れるかどうかなんて誰にも、氷見自身にもわからない。ただもしも、この先がどんなにありふれた人生になっても、氷見のその甘い声と芝居が好きっていう気持ちは、ほんのちょっとでも氷見を幸せにしていくのかもしれない。蜂蜜みたいに甘く、なければなくてもいいものだけど、あればあったで楽しく、うれしくしてくれるのかもしれない。
 そしてそれは多分、私にとっても同じことだ。
「前は散々言ったけど」
 氷見の甘い声が、笑うように響いた。
「俺、映子の書く台詞は才能あるなって思ってた。いや、俺が読まされるとなると話は別だったけど。でもよくこんなに、甘ったるくて気障な台詞が書けるもんだって思ってたよ」
 誉められてるのかな。私が表情の選択に迷っていれば、氷見の方が先に笑んだ。
「それにそういう台詞がなかったら、俺は映子のこと、殺せなかったもんな。声だけじゃ殺せないってはっきりわかったから、やっぱあってくれた方がいい。そういう、時代錯誤で非現実的な台詞もさ」
 人生のある局面においては、必要となるかもしれないもの――そっか。確かに、そうなんだ。
 気障な台詞がなかったら、私も氷見の声の魅力に気付けないまま、こんなに惹きつけられることもなかったかもしれない。その時はその時でなかなか平穏な高校生活になっていたかも、だけど。
「今だから言うけど、俺、自分の声ってあんまり好きじゃなかった」
 ふと、トーンを落として氷見が言った。
 意外な言葉にはっとする。思わず視線を上げたら、机を挟んで、苦笑いの表情を見つけた。
「ずっと、顔に似合わない声だって思ってたからさ。からかわれたこともあったし、声変わりしてからは一時、人前で喋るのも憂鬱だった。先輩が――映子が、俺の声で人を殺せるって言ってた頃も正直半信半疑だった」
 そういえば激しく否定してたっけ。まるで私が馬鹿なことを言ってるみたいな反応だった。氷見の顔は男の子にしては可愛く見えて、確かに甘い声の持ち主には見えない、かな。でも一度スイッチが切り替われば、やけに大人びても見える、不思議な奴。
「でも、そんな風に声を好きになってもらえたことは、うれしかったんだ。そんな風に認めてもらえることもあるのかって思った。そう言ってくれる物好きで貴重な相手を、試しに、この声で殺してみたいと思った」
 それで私は、まんまと殺されかけた訳だ。何か、悔しいな。氷見のきっかけになれたことは、よかったのかもしれないけど。
 次は氷見が、私のきっかけになるだろうか。今度こそスイッチを切り替えて、辿り着けるだろうか。今まで、手の届かなかったところへ。
「だからさ」
 氷見がもう一度、私の髪を撫でた。
「映子もいつかきっと、スランプ乗り越えられるよ。才能、一応認めてやってる奴がここにいるんだし。いつかまた、映子の書く脚本を見てみたい。映子好みの台詞をもう一度くらいは、読んでみたい。待ってるから、いつかまた書いてくれよ」
 そこまで言われても、まだ私は、書けるようになれる気がしていなかった。もうあの頃の勘は戻らないんじゃないかって、そう思えていた。なくてもいいものには違いない、私ごときのどうでもいい、ちっぽけな才能なんて。
 でも、書けるようになりたい、とは思った。氷見の為に。氷見が読んでみたいって、私の書いた台詞を演じてみたいって思ってくれているうちに。
 氷見の声に、きっと誰よりも惹かれていた。その声に見合う世界最高の台詞、書いてみたい。いつになるかはわからないけど、いつかは。

 いつかは。
「すごく、待たせることになるかもしれないよ」
 私の口にした声は、からからに乾いて聞こえた。久し振りに口を開いた。私の声なんて、氷見の声に比べたらやっぱり、どうでもいい。
 でも言葉にしなくちゃ伝わらない。今は、いい言葉を選んでいる余裕もない。
「待っててくれる?」
 そう尋ねた私に、意外なほど素早く、あっさりと氷見は頷く。
「いいよ。待っててやる」
「本当に? 今度は急かしたりしない?」
「しない。俺、進学してからも演劇続けたいって思ってるから。高校でだってあと二年、その先も、まだまだ時間はたっぷりあるよ。待っててやるから、いつか、世界最高の台詞を俺にくれ」
 氷見は自信ありげに笑んで、更に続けた。
「例え映子が卒業したって、一人になったって、俺はこの部を続けていくから。その間もずっと、待ってる」
「……頼もしいなあ」
 私はちょっと感嘆した。今の状況じゃ新入部員も呼び込めるかどうかわかったものじゃない。けど、そうなっても氷見は立派にやってくれるみたいだ。
 私もうかうかしていられない。スランプだからって落ち込んでばかりもいられない。いい加減、年上らしいところを見せないと。
「頑張るよ」
 だから、そう言った。
「少しずつでも、頑張ってみる。ありふれた言葉からでも始めて、たくさん書けるようになりたい。時間は掛かってしまうだろうけど、いつか本当に、氷見の為の世界最高の名台詞が書けるようになれるかもしれない」
 それこそが私の夢だったから。
 ずっと手の届かなかったそこに、頑張ればいつかは辿り着けるって、信じたかった。
「頑張れよ、映子」
 氷見が優しい声で言ってくれた。
 それもまた甘くて、蜂蜜の溶けているような声だった。頭がぼうっと熱くなるような声。私は面映くなって、照れ隠しで言った。
「先輩って呼びなさいって」
 すぐさま氷見には言い返された。
「ずっと、注意し忘れてたくせに」
 そう、なんだけどね。いつの間にやら馴染んでしまったのかもしれない。むしろ、心地良くさえなってきたのかもしれない。そう呼ばれること、その甘さに。
 だって、悪くない。ちっとも悪くないんだもの。

 私、やっぱり、氷見のことが好きなのかな。
 その声はもちろんだけど、それ以外も。可愛い顔つきも、眼鏡の奥の眼差しも、意外な大人っぽさと色気も。時々見せる優しさと、気遣いと、よく目にする生意気さと、強気さも。余裕のある時もない時も、氷見の演技も本当の顔も、全部好きなのかもしれない。
 でもそれを伝えるのは難しい。今の私にはいい言葉を選んでいる余裕もないし、熱せられて干上がったままの頭には何も浮かんでこないみたいだ。そこに何かを取り戻すにはまだまだ時間が掛かりそうだった。
 氷見は、待っててくれると言っている。
 だから私も、今はいい台詞を焦ることなく、ただ感謝の意を伝えられたらいいなと思った。

 ふと、椅子から腰を浮かせた。
 怪訝そうにする氷見の、頬をめがけて口づける。
 軽く、一度だけ。柔らかかった。繰り返す余裕はなかったし、その後に何か、芝居がかった言葉を続けることも出来なかった。
 ただありふれた言葉を告げた。
「いろいろ、ありがとう」
 小声でそう言ってから、やっぱり照れた。この上なく照れた。
 氷見の方はと言えば、眼鏡の端で私を見てから、おもむろに指で自分の唇を示す。
「こっち」
「……何が?」
「するなら、頬っぺたじゃなくて」
 無茶言うな。こっちはそんなに慣れてないんだから。
「映子って普段は年上ぶるくせに、こういう時だけ子どもなんだもんな」
 呆れたように氷見が言ってくる。
「ずるいよ、映子」
 ずるいのは氷見の方じゃない。私にちっとも年上ぶらせてくれない。私よりも大人びていて、少なくとも私よりは余裕があって、私を殺せそうないい声をしていて、演技も出来て。たくさんのものを持ちすぎだ。本当に、ずるい。
 でも私は今なら、そんな氷見のところへ飛び込んでいけそうな気がしていた。辿り着く為の最後の一歩は、もう踏み出していたみたいだ。
「氷見」
 私が名前を呼んだら、氷見は相好を崩して応じてきた。
「どうしたの、映子」
 その声は相変わらず蜂蜜みたいに甘い。空気の中に溶け込んで、どんどん濃度を増していく。二人きりの部室は蜂蜜みたいな空気で満たされていた。
 ただ呼び合うだけでも、まるで惚気合ってるみたいだ。
 こんな空気じゃ誰も、踏み込んでは来られないだろうな。そう思ったから、私の方から甘くしてやるのはなるべく控えようと思った。そういう時はここじゃなく、他の場所ですればいい。
 これからは部室以外でも、会ってみてもいいかな、と思うしね。生意気な奴が調子に乗るだろうから、まだ言ってやらないけど。

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