Tiny garden

美味しい秘密のフレンチトースト

 減量中にいい食べ物メモ。
 まず基本は高たんぱく、低カロリー。
 三食に必ず野菜を組み込み、食物繊維をしっかり取る。
 炭水化物は上手に取るべし。白米より玄米の方が、パンや全粒粉のものに替えれば腹もちもよく栄養価も高くていい。
 甘いものはストレスがたまらない程度に、ほんのちょっとだけ。

「とは言っても、甘いもの断ちなんて無理だよね」
 私は呟きながら、スーパーの店内を歩く。
 大学の帰り、食料品の買い出しにちょっと寄り道。明日は土曜だから陸くんの部屋に押し掛けるつもりだ。
 そういう時、陸くんのご飯は私が作る。
 講義の復習、もしくは実践ってとこだけど、陸くんは本当に喜んでくれるし、惜しみない誉め言葉もくれる。だから私も作ってて楽しい。

 何度も思ったことだけど、私が栄養士を目指すことになるなんて。
 運命のめぐりあわせってやつなのかな。すごいなってつくづく感動してしまう。
 上京して三ヶ月、一人暮らしも軌道に乗り始めたし大学にも慣れてきた。
 そして陸くんの部屋に通う週末を楽しんでもいる。

 スーパーで乾物のコーナーを物色していたら、携帯電話が震えた。
『一穂、まだ買い物中か?』
 陸くんからだった。
「そうだよ。陸くんは練習終わった?」
『ああ、今上がって帰ってきたとこだ』
「じゃあお部屋で待ってて、私もぼちぼち向かうから」
 きっと疲れてるだろうなと思って告げたら、陸くんはすぐに反論してきた。
『買い物したら荷物あるだろ。迎えに行くから少し待ってろ』
「でも、疲れてるんじゃないの?」
『心配すんな、鍛えてる』
 なんと頼もしいお言葉だろう。
 実際、陸くんの体力は私の三倍以上はある。彼がいいというなら、私も快諾することにした。
「ありがとう。それじゃ待ってるね」
 できるだけ長い時間、一緒にいたいし。
『後でな、一穂』
 陸くんは優しい声で言って、電話が一旦切れた。

 私は大急ぎで買い物を済ませ、スーパーの前で彼が来るのを待つ。
 十分も待っただろうか、やがて道の向こうから陸くんの大柄な姿が現れた。私に気づくとちょっと照れたように笑って片手を挙げる。
「陸くん!」
 私も、大喜びで彼に駆け寄る。
「荷物あんのに走ってくるなよ」
 陸くんは笑いながら、私が提げていた買い物袋を二つとも持っていった。
「じゃ、行くか」
「うん」
 私は彼の横に並び、歩き出しつつその顔を見上げてみる。トレーニングの後にシャワーを浴びたんだろうか、短い髪がしっとり湿っていた。
「髪、だいぶ伸びたね」
 でもそこに触れると、陸くんはちょっと居心地悪そうな顔になる。
「慣れねえよな……」
「そんなことないよ、似合ってるよ」
 高校時代は結局卒業式まで坊主で通した陸くんも、大学に入ってようやく髪を伸ばし始めた。
 三ヶ月も経てば荒涼としていた大地も一面生い茂り、今はさながら芝生のような長さまで生え揃っている。これが撫でるとめちゃくちゃ気持ちいいので時々触らせてもらっている。

 だけど陸くん自身は、髪を伸ばすこと自体にまだ抵抗があるらしい。
 たまにヘアカタログを見ては一人で悶絶している。
「なんだこのスカした髪! こんなのできるか!」
 陸くんの抵抗感とは裏腹に、大学のボクシング部には坊主の部員が一人もいないらしい。
 それでなくても三白眼で強面の陸くんだ。プラス坊主頭だと余計なトラブルも背負い込みかねないということで、恥ずかしい期間を乗り越えようと頑張っている最中だった。
「これもある意味、精神修行ってやつだ」
 真面目な顔で語る陸くんにとって、髪を伸ばす恥ずかしさは修行の一環になり得るようだ。

 私たちはスーパーを離れ、陸くんが暮らすアパートへの道を辿る。
 東京とは言うけど、都心部から遠いこの辺りの街並みはそれほど都会じゃない。高層ビルなんて全然ないし、住宅街にはマンションよりも古い一軒家や二階建てアパートの方がよっぽど多い。道路を走る車も多いというほどじゃなく、至って静かなものだった。

 もっとも、上京してから陸くんの周りは、この街並みほど静かでもない。
 大学でもボクシングを続けている陸くんは、高校時代の実績が認められてオリンピック強化選手に選ばれた。現在はトレーニングに大会に海外遠征にと大忙しの日々を送っていて、それはとても素晴らしいことだし、私まで誇らしいと思っている。
 ただ、二人で過ごす時間は高校時代と比べるとずっと少なくなった。それでなくても違う大学に通ってるから、普段はばったり会うということさえ少ない。こうして二人で過ごす時間は貴重だった。

「陸くん、明日も練習?」
 私は何気なさを装いつつ尋ねた。
「練習。しばらくは土日返上で練習だ」
 陸くんが答える。
 それなら、負担にならないように早く帰った方がよさそうだ。
「そっか。じゃあ朝ご飯の分も作り置きしとくね」
 私はがっかりしたけど、それを悟られないように振る舞うだけの気遣いはある。
 でもその気遣いは、いつもほぼ百パーセントの確率で陸くんに見抜かれてしまう。
「帰るのか? 泊まってってもいいんだぞ」
「えっ、いいの? 負担にならない?」
「一度でも負担だって言ったことあったか?」
 ない。
 陸くんはいつだって優しいし、私といたいって言ってくれる。
 私も、陸くんとはできるだけ長い時間一緒にいたい。平日は離れ離れの時間を過ごしているから尚更だ。
「じゃあ泊まってく!」
 現金な私の返事は食いつきがよすぎた。
 途端に陸くんはふっと笑う。
「そうしろよ。俺も一穂がいてくれたら気が休まる」
 そういうふうに言ってもらえるのって幸せだ。
 ボクシングに打ち込む陸くんにとって、私との時間がひとときの安らぎ的な、気を緩められるものになればいいなって思ってるから。
「さながら、小鳥が羽を休める為の止まり木みたいなね!」
 私が言うと、陸くんは笑ったまま目を剥いた。
「小鳥って柄じゃねえだろ俺」
「そうだね。猛禽類っぽさあるよね」
「言ったな!」
 買い物袋を片手にまとめて持った陸くんが、空いた方の手で私の髪をくしゃくしゃにする。
 それが相変わらずくすぐったくて、ついにやにやしてしまう私がいる。

 上京して三ヶ月目で、陸くんの部屋は既に『通い慣れた第二のマイルーム』みたいになってしまった。
 化粧品に洗顔料、パジャマ代わりのTシャツなんかを運び込んでるから、私もつい気軽に泊まりに来てしまう。気軽にっていうのも変だけど――寝顔を見せたり、寝起きの顔を見せたりするのに慣れたってわけでもないけど、そういう恥ずかしさを上回る勢いで一緒にいたい気持ちが勝ってる。

 迎えた土曜日の朝、私は陸くんの為に朝ご飯を作った。
 牛乳と卵をたっぷり染み込ませたフレンチトーストは二種類。片方はパンの耳つきで、もう片方には耳がない。でも四角く一口サイズに切ってあるのも、こんがりと美味しそうな焦げ目がついているのも同じだ。
「これ、どこが違うんだ?」
 怪訝そうにする陸くんに野菜サラダも添えて出しつつ、私は自慢げに勧めた。
「食べ比べてみてよ」
「わかった。いただきます」
 陸くんは手を合わせてから、フォークでまず耳のある方を突き刺した。メープルシロップを絡めてぱくっと食べる。
 口に入れた途端、満足そうな顔をした。
「うん、すげえ美味い。ふわっふわだ」
 もちろんフレンチトーストは誰が作ったって美味しい。
 だけどもう一つの方には、ちょっとした秘密がある。
「さすが一穂の手料理だ。食べ過ぎないようにしねえとな」
 陸くんのその言葉に私は照れつつ、間髪入れずに促した。
「ありがと。もう一つの方も食べて」
 すると彼はますます不思議そうにする。
「こっちに、何かあるのか?」
「あるよ。とびきり美味しい秘密がね」
「へえ、楽しみだ」
 陸くんは唸った後で、今度は耳のない方を口に運んだ。
 見た目は何も変わらないそのフレンチトーストを、やっぱり目を輝かせて食べてくれた。
「こっちも美味いな。ってかすごいもちもちしてんな、これ」
「でしょ?」
「俺はこっちの方が好みだ」
 そう言って、早くも二切れ目に手を伸ばす。
 それも嬉しそうに食べ終えてから、謎を解くみたいに考え込み始めた。
「でも秘密って何だ? パン生地が違うのか?」
「ううん。それ、パンじゃないんだよ」
 陸くんの反応が予想以上によかったから、私も早々に種明かしをする。
「実はね、高野豆腐でできてるんだ」
「マジかよ! 豆腐!?」
 手品師なら大喜びするであろう、派手なリアクションが返ってきた。

 高野豆腐のフレンチトーストの作り方は簡単だ。
 牛乳に浸して戻した後で、卵液を染み込ませて焼くだけ。
 意外と豆腐の風味はなくて、食パンで作るよりももちもちと弾力がある。そして美味しい。

「陸くんが減量中でも食べられるメニューはないかなって思って」
 まんまとドッキリに成功した私は、意気揚々と語る。
「それで調べてみたらこれに行き当たったんだ。これも講義の復習、あと応用かな」
 大学で学んだことが、そのままこうして日常に生きるのがすごく楽しい。
 お菓子作りやお料理が楽しいと思えるようになるなんて、昔の私じゃ考えられなかったな。
 そして今は、もっともっといろんなことを学びたい、吸収したいって思ってる。さながら高野豆腐のように。
「お前の向上心、すげえな」
 陸くんに感心されるとさすがに恥ずかしくなる。
「いやいや、陸くんほどじゃないよ」
 でもそれに対し、陸くんは優しく目を細めて言った。
「一穂が頑張ってると、俺も頑張ろうって気になるな」
 そう言ってもらえると嬉しいな。
 だって、私も同じように思ってる。

 朝食の後、私たちは一緒に部屋を出た。
 陸くんは予定通り大学でトレーニングを、私は、
「帰って、勉強の続きする」
 ――つもりだ。
 高校時代なら口が曲がっても言えなかったその言葉を、今は当たり前のように口にしている。
「勉強熱心だな、一穂は」
「陸くんほどじゃないってば」
「俺はただのボクシング馬鹿だよ」
「じゃあ私は、陸くん馬鹿だね」
 じゃれ合うようなやり取りの後で一旦別れた。
 夜になったらまた、一緒にご飯を食べようかって声を掛けてみようかと思っている。
 それまではみっちり勉強だ。

 私はもっと食べ物のことを知りたい。
 いろんなお料理を作れるようになりたい。
 もちろんそれは陸くんの為でもあるし、むしろ最初のきっかけはそれだけだった。
 でも今はもっと貪欲に、この知識を仕事にできたらとか、これで毎日をよりよく暮らせるようになったらとか、もちろん陸くんを喜ばせたり、辛い減量を乗り切るお手伝いができたらとも思ってたり――夢はパン生地のようにむくむくと、どこまでもふくらんでいく。

 世界を見据える陸くんの隣で、私は私にできることをしたい。
 その為に、これからも美味しい秘密をたくさん吸収しようと思う。
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