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ホップ、ステップ、ミルクレープ(4)

 練習の後の陸くんと一緒に下校した。
 いつの間にか日が落ちるのが早くなったみたいで、まだ六時前だというのに空には夕焼けが広がっていた。夏の間はあんなにうるさかったヒグラシも、気がつけばすっかり鳴かなくなっていた。そんな九月の帰り道、並んで歩きながら話すことはもちろん、家庭部で、部の皆の前でした挨拶についてだ。
「どうにか挨拶してきたよ」
 私の報告を聞いた陸くんは、初めからわかっていたというように満足げな顔をする。
「そうだろ。お前ならできると思ってた」
「え、そうかな……へへ」
 私は照れたけど、誉められたからといって調子に乗ってちゃいけないとも思う。
 本当に大事なのはこれからだ。私には部長としてやるべきことがたくさんある。当たり前みたいに成功させなきゃならないことだってある。
「何か、結構大きく出ちゃった感あるからどうかな、とも思うんだけどね」
「『大きく出た』って?」
 陸くんが聞き返してきたので、恥じ入りながら答えた。
「大船に乗ったつもりでついてきて! みたいなこと言っちゃった」
「お、いいじゃねえか。格好いい」
「いや、それで有言実行できたら格好いいんだけどね……」
「だよな。有言実行すりゃ問題ねえ話だ」
 相変わらず陸くんは気持ちいいくらいあっさりと言い切る。
 そうなると私も『できないかも』なんて言えっこない。陸くんみたいに胸を張っていたいと、隣を歩きながら改めて思う。
「それで今度はね、次の部活で何作るか考えなきゃいけないんだ」
「お菓子か」
「うん。今の部長を筆頭に三年生が皆引退しちゃうから、少人数でもできるやつにしようと思って」
「お前んとこの部活にも引退ってあんのか」
 そこで陸くんは吹き出した。
 まあ家庭部に引退って単語は不似合いかもしれない。どちらかというと自主休部って感じなんだけど。
「一応、あるよ。在籍はしてるけど皆、受験控えてるから来れなくなっちゃうの」
 三年生達がいなくなると、家庭部の総勢は十人を切ってしまう。今の部長をはじめ、三年生達は皆お菓子作りの経験も豊富だから、そういう先輩達が抜けてしまうのは大きな痛手だ。次期部長の責任だって重大だ。
「だから少人数でも簡単にできて、なおかつ皆でわいわい楽しく作れるようなお菓子はないかなって、今から探すとこ」
 私は次期部長らしく生真面目な顔を作って語った。
 今の部長も私に、相談に乗るよと言ってくれた。でもこれまで散々お世話になったし、部長になってすぐに先代のお力を借りてしまうというのもちょっと格好がつかない。お気持ちだけはありがたくちょうだいして、今回は部長に頼らず頑張ってみようと思っている。
「皆で楽しく、か。結構難しいテーマだな」
 陸くんが私の言葉を繰り返す。
「やっぱそうかな……。最初だからあんまり失敗したくないんだ」
 いくら挨拶で格好いいこと言っても、ここで失敗したら皆を不安にさせてしまう。ついていっても大丈夫な部長だって皆に思ってもらいたい。そりゃ今までは頼りないどころの話じゃない私だったけど、夏の間に成長したんだってところを部の皆にも見せたかった。
 私が内心自分自身を奮い立たせている横で、
「逆にそこで上手くいけば、更なる自信に繋がるな」
 どこまでも前向きな言葉を、陸くんは口にしてくれた。

 それで私は隣を歩く陸くんの顔を見上げる。
 通学路の景色と同じように、陸くんの横顔も夕焼けのオレンジ色に染まっている。でも顔つきはきりっとしていて、陸くんらしい凛々しさだ。迷いのないその表情が眩しかった。
 憧れだった『向坂さん』とこうして二人で歩くようになるなんて、夏休み前は考えもしなかった。
 でもそれは私が幸運だったからじゃない。頑張ったからだ。隣を歩く権利を何もしないで棚からぼたもちみたいに手に入れたんじゃない。自信を持っていいはずだった。
 私も、陸くんみたいになろう。
 高い壁にぶつかった時、ただ不安になるんじゃなくて、壁を乗り越えた後のことまで考えられるようになろう。
 だって陸くんは格好いい。真似したくなるような格好よさだ。それにもし私が陸くんみたいになれたら、誰もが認めるお似合いのカップルにもなれそうな気がする。

 歩きながらしばらくその横顔に見とれていると、陸くんがふと何かを思いついたようにこちらを向いた。
「……ミルクレープって、作ったことあるか?」
「え? ううん、作り方は何となくわかるけど」
 唐突な問いかけに戸惑いつつ答える。
 ミルクレープは薄く焼いたクレープを、間にクリームを挟みながら何枚も重ねていくケーキだ。お店で売られている一カットだと、その折り重なったクレープとクリームの階層が美しくて、そしてとても美味しそうに見える。しっとり柔らかくて、食べごたえもあって、私も好きなケーキの一つだった。
「俺は作ったことがある」
 更に陸くんがそう続けて、私はものすごくびっくりした。
「作ったことあるの!?」
 ミルクレープを陸くんが!
 坊主頭も凛々しい彼がパティシエの服装で、ナイフを使ってクレープ生地に手際よくクリームを塗る姿を想像してみると、それはそれで意外と似合うかもしれない。そういえば文化祭でもベビーカステラを焼いていたし、実はお菓子作りに抵抗がなかったりするのかな。
「まあな。って言っても本格的なもんじゃねえぞ」
 陸くんは照れたように頬を掻いている。
「昔、どうしても甘いもん食いたくなってな。かと言って食べたい分だけ買う為の金もなくて、海と二人で作った。生地はホットケーキミックスを思いっきり牛乳で伸ばしたやつだし、生クリームもスーパーで売ってるもうできあがってるやつを使った。生地を薄く焼くのが難しくってな、何枚かただのホットケーキみてえになっちまって」
 陸くんの指が一センチ弱の厚さを示した。確かにそれだとクレープじゃなくて、ホットケーキだ。
 でもきょうだいでお菓子作りなんてすごく可愛い、憧れる。私もケーキ焼いてくれるお兄ちゃんが欲しかったな。陸くんは本当に海ちゃんと仲がいいんだなあって、羨ましくもなった。
「いいなあ。私も陸くんのミルクレープ、食べてみたい!」
 そう告げたら陸くんは困ったように苦笑する。
「そんな美味いもんじゃねえし、お前ならもっと美味く作れるだろ」
 どうかな。私は首を傾げかけたけど、彼は私の頭にぽんと手を置いて言った。
「ただ、皆で作る菓子って言われてふと思い出したんだよ。俺も海と替わりばんこに生地焼いたなって。手抜きとは言え小学生と一緒に作れるようなもんなんだから、慣れてる奴なら楽しんで作れんじゃねえか、とかな」
「あ……」
 そうか、ミルクレープ!
 陸くんと海ちゃんが二人でも作れたくらいだ、少人数でも問題なく完成させられそうだ。それでいて皆でわいわい生地焼いたり、クリーム塗ったり、生地重ねたりできる。きっと楽しく作れるし、できあがったケーキの見栄えだって申し分ない。
「すごい、すごいよ陸くん! ナイスアイディアだよ!」
 私は思わず立ち止まり、私の頭を撫でている陸くんを見上げる。
 ちょっとだけ得意そうに笑う顔が、夕焼けの光の中で私を見下ろしていた。その温かい眼差しに、私の胸の奥までほんのり温かくなる。
 陸くん、考えてくれてたんだ。私が悩んでたから、一緒に――そういう優しいところも、本当に好きだ。大好きだ。
「すっごく助かった! ありがとう陸くん!」
 飛びつきたくなる気持ちを抑えてお礼だけ言うと、陸くんは私と視線を合わせ、頷いた。
「手助けになれたなら何よりだ」
「もう手助けなんてもんじゃないよ! 救世主だよ! まさにナウシカだよ!」
「ナウシカ……? って、ミルクレープと何か関係あったか?」
「ううん、ないけど。前にクラスの子が陸くんのことそう言ってたんだ」
 それは陸くんが教室に紛れ込んだ蜂を誘導して、窓の外へ追い出したからというのが所以だった。
 あの頃からずっと、陸くんは優しくて勇敢で格好いい。私はあの頃からそう思ってた。
「とにかく、本当にありがとう! これで部活も上手くいきそうだよ!」
「気にすんな。実はちょっと食べたくなって、それで言ってみたんだ」
 お礼を言ったらそんな返事が返ってきて、やっぱり陸くんは甘いお菓子が好きなんだなあって思う。
 すかさず私は提案した。
「じゃあ国体が終わったら陸くんの分も作ろっか。それまでに上手くなっておくから」
 もちろん、陸くんの為に作るんだったら中途半端な出来では許されない。何せミルクレープは陸くんが自分でも作ったことがあるお菓子でもあるし、食べたくなって作ろうとする辺り、相当舌が肥えていると見て間違いない。美味しいのを作らなければ!
「ああ、頼む」
 陸くんが私の頭を大きな手でがしがしと撫でた。そうして撫でてもらうと、心臓の忙しないどきどきと眠気にも似た妙に安らかな気分、相反する二つの感覚が同時に押し寄せてくる。不思議だった。
 私が思わずぼうっとすると、陸くんは私から手を離して豪快に笑う。
「お前がご褒美を用意してくれたら嬉しい。余計に頑張れそうだ」
 ご褒美――そうか、そうだった。
 水族館で陸くんが言っていた。私そのものが、陸くんにとってはご褒美だって。
 陸くんは現金な私とは違って、自分一人でも頑張れる人だ。でもそんな彼が私といて、今まで取り逃してきたものも、手に入れられなかったものも全部貰えたって言ってた。でもご褒美っていうのはもっとすごくて、特別で、頑張ったからこそもらえるものでなくちゃいけない。だから私は陸くんの為に、もっとすごいものを用意しておくべきかもしれない。
「普通のミルクレープだけで足りるかな、ご褒美」
 尋ねた私に、陸くんは軽く目を見開いて聞き返してくる。
「何か他にくれんのか、ご褒美」
「他にって言うか……あんま思いつかないけど、ミルクレープの上に何か乗っける? チョコプレートとか」
 もし陸くんが国体で優勝できたら、チョコペンで『優勝おめでとう』って書いたりして。
「あるいはイチゴとか乗っけても美味しそうだけど……ちょっと季節外れかなあ」
 買おうと思えば年中買える果物ではあるものの、やっぱ旬は意識したいところだ。自分で言っておきながら眉間に皺を寄せたくなる私を、陸くんはじっと見つめている。
 次第に日が落ち暗くなっていく空の下、ふとその表情から笑いが消えたように見えた。
「じゃあ、俺が勝ったら。ミルクレープをホールでくれ」
 真剣な顔つきで言われて、私はその表情と要求内容のミスマッチさを笑っていいのかどうか迷った。
 結局、笑わずに頷いたけど。
「いいよ。どーんと作って持ってくから」
「ああ。そしたらそいつを二人で食おうぜ。祝勝会だ」
 陸くんはそう言ってから、恥ずかしそうに首を竦める。
「……って、こんなこと試合前に言うのも気が早いか。柄にもねえな」
「そんなことないよ。って言うか、ご褒美があったら頑張れるんだよ。私だってそうだもん」
 私は今度こそ笑った。
 おかしいからじゃなくて、陸くんの勝利を願っているからだ。信じているって言えるほど陸くんの強さを知っているわけじゃない。でも陸くんには勝って欲しいって思う。大好きな甘い物も控えて、日々トレーニングを頑張ってる陸くんに、勝利を掴み取って欲しい。努力の後には勝利があってしかるべきだ。
 もちろん、陸くんがもし勝てなくたってご褒美なしってわけじゃない。頑張ったご褒美に、っていうのも全然ありだと思うし、本音を言えば私は陸くんが無事に帰ってきてくれたらそれだけでも十分喜んで、お祝いしたくなるだろう。だけどそんなことを口にするのは陸くんに失礼だろうから、今は言わない。今は、陸くんの勝利をただただ願うだけだ。
「だから私が陸くんにご褒美をあげる。すっごいの用意しとくから、頑張って!」
 そしてすぐ傍にあった陸くんの大きな手を、自分から握りに行ってみた。
 分厚くてざらっとした彼の手は、練習の後だからか今日も温かかった。軽く力を込めて握ってみたら、陸くんが優しく笑いかけてきたので今更のようにはにかみたくなった。顔が緩んで、にやにやしてしまって、いまいち可愛く決まらない。
 でもそれが私らしいと言えばそうなのかもしれない。
 陸くんもそう思っているのか、にやにやする私を目を細め、幸せそうに眺めている。
「手、繋ぎたいのか」
 そう問われると私はいよいよ照れて、恐る恐る聞いてみた。
「うん……へ、変かな。私から手繋いだら」
「そんなことねえよ、嬉しい」
 陸くんが手を握り返してくる。温かくて、力強くて、でも優しい繋ぎ方だった。
「やっぱり、俺のご褒美はお前だ」
 心から嬉しそうに、陸くんは言う。
 だから私も深く頷いて、そうありたいなと思う。
「なら、私とミルクレープがセットでダブルご褒美だね」
「そうだな。期待していいのか」
「もっちろん! 頑張るよ、私も!」
 それから私達は手を繋いだまま、すっかり日も暮れた帰り道をなるべくゆっくりと辿った。
 少しずつ涼しくなってきたけど繋いだ手は温かくて、夏が終わったことを惜しいとは思わなかった。代わりに勝負の十月がひたひたと近づいてきていたけど、私も陸くんもむしろその時を楽しみにしていた。

 そして迎えた十月、陸くんは一足先に勝負の時を迎えていた。
 国体の為に学校を欠席した陸くんは、私に日々メールを送ってくれた。そのお蔭で私は試合結果を知ることができたけど、直接試合を見ていなくても十分はらはらしたし、毎日何だか落ち着かない気分だった。あんまり落ち着きなくそわそわしていたから、クラスメイトにはそれなりにからかわれた。
「そんなに気になるなら、茅野さん、くっついていけばよかったのに」
 実際はボクシング部員でもない私が授業を休んでついていく、なんてできっこないんだけど、仮に行ったら行ったで試合をまともに観戦できたかどうかわからない。でもクラスの子によれば、プロのボクサーの試合にはよく奥さんが見に来ているもので、リングサイドから声援を送ったりしているのが普通らしいので、別に陸くんの奥さんになりたいとかそういう気の早いことを考えているわけじゃないけど何と言うか――いつかは試合を間近で見るようになるのかもしれない、と思う。
 先のことなんてわからないけど、陸くんはあんなにボクシングが好きなんだから。
 私も同じように、いつかボクシングを好きになりたい。

 大好きなボクシングの試合に挑んだ陸くんは、国体でも決勝に進んだそうだ。
 決勝の相手はくしくもインターハイの決勝で対戦し、陸くんを打ち負かした選手だったそうだけど、陸くんは見事勝利を収めてリベンジを果たした。
『ご褒美がかかってるからな。頑張れた』
 試合後、まだ帰ってくる前の陸くんが、私に電話をくれてそう言った。
『ただ、勝ってもあれだ、多少顔に怪我してる』
「えっ!? だ、大丈夫!?」
『大丈夫だって、いつものことだからな。びっくりさせねえように先に言っとく』
 陸くんは、前に私が泣いてしまったことを覚えていて、気遣ってくれたみたいだ。
 私は気恥ずかしく思いながら、でもそれ以上に陸くんの無事と勝利が本当に嬉しくて嬉しくてしょうがなくて、やっぱりにやにやと緩む表情で言った。
「ありがとう。お祝いするから、陸くんの帰りを待ってるね!」
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