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酒と涙とピーチババロア(6)

「こうさかかいです。四年生です!」
 向坂さんの妹さんは、私に向かってそう自己紹介をした。
「かいちゃん、って言うんだ。どんな字書くの?」
 私が聞き返すと妹さんは無邪気に笑って、
「海水浴の、かい!」
 元気よく答えてくれた。
 向坂さんの名前が『陸』なのはクラスメイトだから当然知っている。陸と海って、やっぱり意図してつけたのかな。
 それにしても、海ちゃんが四年生というのはびっくりだった。背が高いからもう六年生くらいじゃないかと思ってた。さすが向坂さんの妹さんだ。
 並んで座る仏頂面の向坂さんとは、兄妹だと言われればわからなくもないかな、という程度には似ている。口元の雰囲気とか、鼻の形とか、背が高いところとか。でも三白眼の向坂さんとは違い、海ちゃんは黒目が大きくて子供らしい垂れ目だ。可愛い妹さんで何だか羨ましい。
「お姉ちゃんのお名前は何て言うんですか?」
 次に海ちゃんがそう尋ねてきたので、私も慌てて自己紹介した。
「茅野一穂です。向坂さんとは同じクラスなんだ」
「ちのい……?」
「あ、茅野が名字。名前は一穂。ちょっと変でしょ」
 自分でも常日頃から言いづらいと思ってる名前なんで、聞き返されるのは慣れていた。おまけに漢字の『一』って縦書きの時、バランスよく書くのがすっごく難しい。うちの親もその辺考えて名前つけてくれればよかったのにな。
 すると、そこで向坂さんが表情をほんの少し和らげて言った。
「変じゃねえだろ、いい名前だ」
 すぐにそうやってフォローしてくれる向坂さんは優しい。私も単純なので、好きな人に言われるとこの名前でもいいかな、ってすぐに思えてしまう。
「そ、そっすかね。えへへ」
「ああでも、海もよく男の子みたいな名前って言われるから、変って思うのわかるよ」
 海ちゃんがそう続けると、向坂さんは元の仏頂面に戻ってしまったけど。
「海、お前は少し黙ってろ。どうせ空気読めねえんだから」
「えー、海もお姉ちゃんとお喋りしたいよー!」
「駄目だ。そもそも遊びに行ってたんじゃねえのかよ、何でこんな時間に帰ってきた?」
「遊びに行ったふりをしたんだよ。お兄ちゃんが彼女連れてくるっていうから」
 四年生にしては頭が回るのか、海ちゃんはそこで自慢げに胸を反らした。
 向坂さんが引き気味に海ちゃんを見る。
「何でわかるんだよ、一っ言も言ってねえのに」
「だってインハイから帰ってきたばっかなのにお掃除いっぱいしてたじゃん。カーテンまで洗ってたし本片づけてたし。あれは絶対女の子呼ぶ気だよってお母さんが――」
 その言葉を遮るように向坂さんは、無言のまま大きな手をぼすんと海ちゃんの頭に置いた。
「重い!」
 海ちゃんがその手を跳ね除け、背丈が三十センチは上回るお兄さんを睨んだところで、私はフォローのお返しのつもりで割り込んだ。
「ま、まあまあ……とりあえずババロア食べましょうよ。ね?」

 保冷バッグのお蔭で、ピーチババロアは程よい冷たさを維持していた。
 白桃を乗せたぷるぷるのババロアを、家から持ってきたプラスチックのナイフで切り分ける。お皿は持ってくるのを忘れてしまったので、向坂さんの家のガラス皿を借りた。その上に切ったババロアを盛りつけて、向坂さんの部屋のローテーブルの上に並べると、向坂さんと海ちゃんが揃って声を上げる。
「おお、美味そう」
「本当、美味しそう!」
「味もばっちりっす。お口に合うといいんですけど」
 家で味見は済ませていたから自信があった。私が勧めると、二人はすぐさまスプーンでババロアと白桃の山を切り崩しにかかり、そして口に運んだ後、そっくりの仕種で頷いた。
「うん、美味い。さすがだな、茅野」
「すっごく美味しい! お姉ちゃんってお菓子作り上手だね!」
「いえいえ、それほどでも……練習したからっすよ」
 上手だね、って言われてぎくっとするくらいには上手くない。部長に仕込んでもらったからこそのこの出来映えだ。でも美味しいって言ってもらえるのはやっぱり、嬉しい。向坂さんに喜んでもらいたくて頑張ったんだから。
 向坂さんも海ちゃんも、こっちが嬉しくなるくらい熱心にババロアを食べてくれた。お皿はあっという間に空になり、その空になったお皿を二人が同じタイミングでこちらへ差し出す。
「お替わり」
「私も!」
「海、お前は遠慮しろ。茅野は俺の為に作ってきてくれたんだ」
「えーでも美味しいんだもん。いいでしょ、お姉ちゃん!」
「誰に似てそんなにわがままなんだか……。茅野を困らせんな、わかるだろ」
「お兄ちゃんこそ彼女が来てるんだからあんまり怖い顔しちゃ駄目だよ」
 兄妹のじゃれあいは収拾がつきそうになかったけど、幸いにしてババロアは二十一センチの型を使った大きめのサイズだった。ちゃんと二人にお替わりをあげられるだけの量があったし、私はお腹よりも先に胸がいっぱいになってしまったのでお替わりの必要もなかった。向坂さんの食べっぷりを見ていれば、頑張ってよかったってしみじみ思う。
 緊張もどうにか解け、私はようやく部屋の中を見回す余裕を持つことができた。向坂さんの部屋は意外とシンプルで、勉強机とローテーブル、壁際に寄せたベッドと反対側の壁に積まれたカラーボックスの棚以外に取り立てて目につくものはない。ベッドは向坂さんの体格に合わせてかダブルっぽいサイズだったし、カラーボックスの棚には使い込まれてぼろぼろのグローブやら、水を入れて使うのとは違う本格的っぽいダンベルやら、筋トレやスポーツ医療やもちろんボクシングに関する書籍などが飾るでもなく詰め込まれている。それを見て私は、向坂さんの部屋に来てるんだなあって感慨に耽っては浮かれたくなる。窓には洗いたてらしい深い青色のカーテンが、冷房の風に揺られていた。
 窓の外の日はゆっくりとながらも傾きつつあった。もう午後三時は過ぎた頃だろうか。
 私が時間を気にしたのがわかったのか、向坂さんがふと尋ねてきた。
「茅野。お前、何時までいられる?」
「あ、適当なとこで帰ります。長居しても申し訳ないですし」
 よその家にお邪魔して長々と居座るのも悪い。目的は果たしたし、ババロアが片づいたら帰ろうかと思っていた。あれだけ泣いた後で顔も腫れてるだろうからちょっと恥ずかしい、というのもある。
 私の答えを聞いた向坂さんは、短く溜息をつく。
「そうか……」
 それから隣の海ちゃんをじろりと睨んで、釘を刺すように言った。
「海、それ食べたらおとなしく出てけよ」
「やだ。海もお姉ちゃんとお喋りしたいって言ってるのに」
「茅野は俺の大事なお客さんなんだ。お前の客じゃねえ」
 向坂さんがどきっとするような言い方で諭しにかかると、海ちゃんは私と向坂さんを見比べた後、不服そうに反論した。
「大事なお客さんなのに泣かしてるじゃん、お兄ちゃん」
 さしもの向坂さんもそこで言葉に詰まったようだ。
 そして私もまた腫れぼったい瞼を擦りつつ、気まずい思いで苦笑いするしかなかった。
 海ちゃんにどうして泣いてたのって聞かれたら私はもちろん、向坂さんだって答えにくいだろう。深く突っ込まれる前に、今日のところは退散した方がいいかもしれない。

 午後四時を過ぎた辺りで、私は向坂さんの家を後にした。
「ばいばいお姉ちゃん、また来てねー!」
 海ちゃんには玄関まで見送ってもらい、私は向坂さんと一緒に外へ出る。家まで送ると言ってもらったので、ありがたくお願いすることにした。
 夕方にはまだ少し早い時間帯、きつい日差しの中を二人で歩き始める。
 いくらも進まないうちに向坂さんが言った。
「今日は本当に悪かった。あいつ、わがままだろ。俺も手焼いてんだ」
 その口調が心底から申し訳なさそうだったから、私は大急ぎで首を横に振る。
「そんなことないっすよ。可愛いじゃないすか、妹さん」
「無理しなくていい。正直に言えよ、うるさかったろ」
「いえ、前にも言いましたけど私、一人っ子なんで。結構楽しかったっす」
 妹がいたら、毎日があんな感じなんだろうな。私も小さな頃は何度か、きょうだいがいたらなって思ったりしたから、今日は何だか向坂さん家が羨ましくなった。
「いたらいたで大変だぞ。毎日があんな調子だ」
 向坂さんは私の想像通りのことを言って、肩を竦めた。それで私がちょっと笑うと、つられるように口元をほころばせてみせる。
「あいつ、お前のこと、お姉ちゃんって呼んでたな」
「……そ、そっすね」
 確かに呼んでた。
 呼ばれている間はそこまで深く考えなかったけど、向坂さんが笑うから、何だか妙に意識してしまう。お姉ちゃん、か。実際、海ちゃんからすればそこまで意味のある呼び方じゃなくて、単に七つも歳の離れた相手をどう呼べばいいかわからなかっただけだと思う。けど。
 私は押し黙り、隣を歩く向坂さんは坊主頭をゆっくりと振る。
「まあ、うるせえのはいたけど楽しかったよ、今日。ありがとな」
「あっ、いえ。こちらこそ……」
 お礼への返事すら上手くできない。今更どきどきしてきた。
 今日一日の出来事を振り返るとどうしても、いろんなことを思い出してしまう。向坂さんの顔を見た途端に泣いてしまったこと、向坂さんの部屋で抱き締められたこと、その後でお互いに告げあった内容と、それから――。
「それに美味かった、ババロア。お前が頑張ったのがよくわかった」
 向坂さんは私と違う記憶を振り返っているようだ。その言葉は素直に嬉しかった。
「へへ……それはまあ、喜んでもらいたかったんで」
 ぎくしゃくと照れる私の頭の上、向坂さんの大きな手がぽんと置かれる。
 歩きながら、髪を掻き混ぜるみたいに軽く撫でられた。心地よくて気分が浮き上がる。でも同時に心臓まで飛び跳ねていきそうになる。
「お蔭で俺にとってはいい一日だった」
 向坂さんはそう言って私から手を離した後、思い出したように眉を顰めた。
「ああ、でも、いろいろ途中だったな。話も、それ以外も」
「え!? あ、あの」
 それ以外って何だ。まさかと思うけどそれはつまり、本当にするのかわからないまま未遂と言うか、うやむやに終わったあれのことだったり――。
 うろたえる私をよそに、向坂さんは視線を道の先へと向ける。明るい空からぎらぎらと降り注ぐ午後四時過ぎの日差しは、乾いたアスファルトの道を焦がしかねない強さだった。盛んに鳴いているのはミンミンゼミで、ヒグラシが鳴く時間にはまだ早い。
「言われてみりゃ俺も、お前と同じこと考えてた」
 向坂さんは私をちらりと横目で見た。
「俺も、お前のことが知りたい」
 呟くように言ってから、すごく優しい、柔らかい顔をしてみせた。
「俺がお前にしてもらってるように、俺もお前を喜ばせたり、笑わせたりしたい。その為に何をしたら、お前が一番喜んでくれんのか。今はそれが知りたくてしょうがねえ」
 そして道の途中で足を止めたから、私も合わせて立ち止まった。
 信じがたい思いで、震え上がりながら向坂さんを見上げる。

 私は今、すごく嬉しいことを、すごくすごく好きな人から言われてしまった。
 好きな人と同じ気持ちでいるのも、好きな人を私が喜ばせてあげられているという事実も、好きな人が私を喜ばせたいと思ってくれている現実も――何もかもが幸せに違いなかった。
 だけど私は跳び上がって喜ぶこともできず、笑うこともできないままで向坂さんを見上げている。足が震えていた。心臓が痛いくらいどきどきしていた。
 なぜかって、向坂さんの疑問に答える為には、勇気を振り絞らなければいけないからだ。
 向坂さんが知りたがっていることの答えは、私がまだ言えていない、今日までのすべての行動原理に通じるたった一つの想いで片がつく。
 それを言わなければいけないのが、怖かった。
 剥き出しの肩や首の後ろが、夏の日差しでひりひりした。蝉がまだうるさいくらい鳴いている道の真ん中で、私はごくりと喉を鳴らす。

「茅野、どうした?」
 向坂さんは私を見て怪訝そうにしている。このまま私が黙っていたら、きっと不安に思うに違いなかった。
 だから私は頑張らなくちゃいけない。
 深呼吸して、ぐっと拳を握り固めて、震える足でアスファルトの道を踏みしめながら言った。
「わ、私っ! 向坂さんが好きです!」
 ほとんど絶叫みたいな告白だった。
 言う時はもっと可愛く言おうと思っていたのに、大声コンテストみたいに言ってしまった。
「だからあのっ、向坂さんの喜びが私の喜びって言うか、一緒にいられるだけでいいって言うか、向坂さんが今みたいに思ってくれたっていうだけで全然、本当に嬉しいんで!」
 向坂さんはじっと私を見ている。
 軽く目は瞠っていたけど、それほど驚いているようには見えなかった。どっちかって言うと、納得しているように見えた。
 全部言い終わった私は肩で息をしながら、向坂さんに尋ねる。
「……びっくり、しませんでした? 今の」
「いや。知ってたからな」
 事もなげに答える向坂さんに、私はがっくり項垂れた。
「で、ですよねー……」
 だろうと思ってたんだ。向坂さんは私の気持ちをわかってるんだろうなって。
 その上でこうして会ってくれたり、頭を撫でてくれたり、抱き締めてくれたり……したのかな。それって、ちょっとはいい方に考えていいんだろうか。
 大声コンテストみたいな告白が不発に終わり、次の言葉を必死に探す私に対し、向坂さんは至って落ち着き払った声で言った。
「お互い様だろ。俺もお前が好きだ」
 息ができなくなった。
 私は新鮮な空気を求めるように、はっと面を上げる。
 夏の日差しの真下に立つ向坂さんが、満足に呼吸もできず固まる私を見て、吹き出した。
「まさか、知らなかったのか?」
「し……知らないって言うか……え? ええええ!?」
「好きじゃねえ奴にあんなことすると思うか? 普通に考えて」
 あんなことって何だ。と言うか、どれだ。心当たりがありすぎてわからない。
 わからなくなるくらいには、確かにそれらしい雰囲気はあったような気がする。だけど私はずっと確信なんて持てなくて、期待だけはちょっとしていて、でもなかなか確かめることができなかった。
「でもはっきり言ってみるもんだな。結構幸せで、いい気分だ」
 向坂さんは満足げだ。照れ笑いを浮かべているけど、動揺している様子は微塵もなく、羨ましいくらい堂々としている。私なんてさっきから生まれたての小鹿みたいにぷるぷるしてるのに。
「こ、向坂さん。度胸、すごいっすね……」
「試合にゃ慣れてるからな」
 なるほど。これじゃ勝てる気がしない。
 私はもう限界が近かった。本来ならここは可愛く喜ぶべきところだ。何せ両想いだったんだから! 向坂さんが私を、他でもない私を好きだと言ってくれたんだから!
 でもそれを確かめあったらあったでこの後どうするのかわからない。
 こ、れって、付き合ってる、ってことになるの? 今からそうなるの? 付き合い始めたらやっぱり、何かこう、しなきゃいけないのかな。
 あの、部屋での続きとか。
「向坂さん、あ……あのっ」
「ん? どうした?」
 私の呼びかけに向坂さんが、やはり落ち着いたそぶりで聞き返してくる。
 そのトーンさえ普段とは違う甘いものに聞こえて、私はあっさりと怖気づいた。
「もうそろそろ恥ずかしくて死にそうで限界なんで、今すぐ逃げ帰ってもいいっすか」
 強い日差しで頭のてっぺんが焼け焦げて、煙が出そうだ。私の訴えに、だけど向坂さんは唇を歪めて笑った。
「家まで送るっつったろ。せっかくいい気分なんだ、もうちょい一緒にいさせろよ」
「でもでも何かもういっぱいいっぱいで無理っす! 壊れます! 倒れます!」
「そん時は担いで送り届けてやるよ、何にも心配すんな」
「いや無理ですって! ぶっちゃけ私、見た目以上に超重いんすから!」
「鍛えてんだから平気だよ。何なら今ここで試してやろうか」
「いいですいいですお気持ちだけでっ! うわあああ駄目ですって本当に重いですから!」

 というわけで、私と向坂さんは――両想い、ってことでいいのかな。す、好きって言われちゃったし。何か、いろいろ言ってもらったし。
 どうしよう今夜寝れないかもしれない。いやもう寝るどころじゃないし、家帰ったら何にも手につかない自信あるし。って言うかそうだ部長に報告しないと。何て言おう。からかわれるかなあ。
 そもそも私、今はまだ向坂さんの顔も見れないくらいの精神状態で、がちがちのままだったりする。
「なら、近いうちにまた誘うから、今度は俺に奢らせろよ」
 俯き歩く私の隣を、向坂さんが歩幅を合わせて寄り添ってくれている。
「今日のババロアだって材料費かかっただろ? お返しってことで」
「いえ、それは私が好きでやったことですし別にいいんで!」
 顔を上げずに答えると、限りなく優しい声が頭上から降ってきた。
「俺も好きでやるからいいんだよ。次は今日みたいに邪魔が入らねえとこ行くぞ」
「そそそそ、それって、ど、どんな……!?」
 次は一体どんなデートになってしまうんだろうか。とてもじゃないけど想像つかない。
 それに向坂さんと付き合ったりとか、そうなりたいって願望はあったにもかかわらず現実になったら全然イメージ湧かないしどうしていいのかわからないんだけど、どうしよう。
 でも――。
「どんなのだろうな。ま、どこ行っても楽しいだろ、お前となら」
 そう語る向坂さんの嬉しそうな声と、俯く私の視界の中、どこまでも寄り添って歩いてくれるとても長くて大きな影を見つめていると、嬉しくて幸せで、勝手に目が潤んでくるから困った。
 散々泣いた後にまた嬉し泣きなんて、忙しいなあ、私。
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