Tiny garden

吾妻雄太と話したい?(1)

 生徒玄関で靴を履き替えていたら、ふと、足元に影が落ちた。
 視線を隣へ動かすと、にっこり笑う日焼けした顔が見える。あたしを覗き込んでいる見覚えのある顔。
 思わず息を呑む。
「久し振り……って、そもそも俺のこと、覚えてっかな?」
 むちゃくちゃ気安い口調で言ってきた彼を、あたしは当然知っていた。何せ我が校の有名人だ。県大会の出場を決めた野球部を引っ張る豪腕エース。校内の人気者。そして、双子の吾妻兄弟の、楽天的な弟の方。ここいらで彼のことを知らない子なんていないだろう。
 ただ、あたしの知っていることは、それらの情報よりももう少し多めだ。もっと昔のことまで知っている。吾妻雄太と、吾妻耕太の、ちっちゃい頃の話まで覚えている。
「ほら、お前の兄ちゃんと、リトルリーグで一緒だっただろ」
 雄太がそう言ったから、あたしも渋々答えてあげた。
「覚えてる。小学校もずっと同じクラスだったよね、あたしたち」
 すると雄太はほっとしたように笑って、
「そうそう!」
 大きく頷く。
 それから、まるで長い付き合いの友達に話し掛けるみたいに、陽気な声で続けた。
「こないだから廊下で見かけててさ、あれ、お前じゃねえかなーって思ってたんだよ。何か見たことある顔だなって。まさか同じ高校だったとはなー。しかも三年になるまで気付かなかったなんて!」
 何がおかしいのか、雄太は辺りも憚らずに笑い出した。
 あたしはと言えば、気が気じゃなかった。放課後の玄関にはそれでなくても人が多い。今も隣のクラスの女の子が、すれ違いざまにあたしを睨んでいった。
 何だって今頃になって話し掛けてきたんだろう、雄太は。小学校の頃の友達なんて、気が付かないままでもいいのに。知らないままで三年間終えてくれた方が、こっちとしては余程気が楽なのに。
「お前の兄ちゃん、まだ野球やってんの?」
 平然と話を続ける雄太。
「ううん」
 あたしはもう靴を履き終えていて、上靴をしまってみせたけど、雄太の話が終わりそうにないので帰れない。早く帰りたい。特に用事もないんだけど。
「へえ、そうなんだ。もったいねえな、上手い人だったのに」
「そうでもなかったよ。うちの兄、練習嫌いだもん」
 才能もなかったしね。――心の中で付け加える。兄ちゃんは、今じゃただの高校野球ファンだ。吾妻雄太とは全然違う。
 雄太はちっちゃい頃から物怖じしない性格で、友達も多かった。底抜けに明るくて、リトルリーグでも誰より一番練習に励んでいたのを知っている。二番目に熱心だったのは耕太だけど――高校に入ってから知った。耕太が野球を辞めたこと、人が変わったみたいにとっつきにくい、無愛想な奴になってしまったこと。それとは対照的に雄太は昔のまんまで、野球はとびきり上手くなってて、今じゃドラフトの候補に挙がってるって噂まである。校内の人気者、女の子たちの注目の的。
 吾妻兄弟とは小学校六年間だけクラスが一緒だった。中学は別になってしまって、高校でまた一緒になってしまったあたしには、吾妻雄太も吾妻耕太も、どちらも話し掛けにくい存在になっていた。当然、向こうがあたしを覚えてるなんて思わなかったし、話し掛けられる日が来るとも思ってなかった。雄太も耕太も違うクラスだし、遠い人のままで高校生活三年間を終えるんだと思ってた。
 ところが今になって、三年目の夏になって、話す機会が訪れるなんて、間の悪いことこの上ない。
「お前、結構変わったよな。同じ高校にいるって、すぐに気付けなかったくらいだもんなあ」
 雄太はあたしの顔をしげしげと見ている。昔から誰とでもすぐ友達になってしまう子だった。だけど雄太の馴れ馴れしい口調が、今は迷惑でしょうがなかった。それでなくても今、隣に立つ雄太との距離はやけに近い。いやでも目に入ってしまう日焼けした顔やがっちりとした腕、白いユニフォームと満面の笑み。 ――人気が出るのもわかる気がする。
「そう?」
 あたしはわざと素っ気なく答えて、それから聞き返した。
「吾妻、野球部の練習あるんじゃないの? こんなとこで油売ってていいの?」
 言外に、話し掛けないで、というニュアンスを込めたつもりだった。あちこちから視線が痛い。ファンの女の子たちにとってはあたしなんて、ノーマークだったに違いない。高校に入ってから雄太と口を利いたのは、今が初めてなんだから。
「わかってる。こんな大事な時期にサボんないって」
 だけど何もわかってないらしい雄太は、いたって明るく答えた。
 そして、
「ところでさ、お前に頼みたいことあるんだけど」
 と言うから、ますます気が滅入った。
 これ以上関わり合いたくないって言うのに。
「……頼みたいこと?」
 しょうがなく聞き返すと、雄太は頷いて、続けた。
「ほら、小学校の時の卒業文集あるだろ。クラスで作った奴。あれ、まだ持ってる?」
「そりゃ持ってるけど。まさか雄太――」
 名前で呼びそうになって、あたしは慌てて言い直した。
「吾妻、文集なくしちゃったの?」
「うん」
 恥ずかしげもなく答える雄太。何やってんだか。
「つーかさ、俺はどっかやっちゃってて、耕太の奴は持ってるらしいんだけど。何か、封印してるから絶対見せたくねえって言うんだ。よっぽど恥ずかしいこと書いたんだろうなーって思ったら、見てみたくなってさ。よかったら貸して?」
 しかも遠慮もせずにそう言うか。
 耕太もお兄さんなんだから、文集くらい見せてあげればいいのに。よっぽど恥ずかしいこと書いてたんだろうか。あたしは全然覚えてないけど。
「駄目?」
 雄太が笑顔で尋ねてくる。昔のままの、明るい顔。眩しくなって、あたしは目を逸らしておいた。
 だけど、断る理由が浮かんでこない。
「まあ、いいけど……」
「マジで! やった! ありがとう!」
 ガッツポーズを決めた雄太は、あたしに向かって笑いながら、くるりと踵を返した。
「じゃ、持ってきたら声掛けて。休み時間とかでいいからさ」
「え? ――ち、ちょっと!」
「急がなくていいからな!」
 あたしの制止なんて聞きもしないで、雄太は生徒玄関から駆け出していく。その素早いこと、ユニフォーム姿の決まってることと言ったら。居合わせた生徒たちの視線を集めて、夏のグラウンドへと消えていく。
 そして残されたあたしは、好奇と非難の視線に晒され、ひたすら途方に暮れる訳だ。
 残り少ない高校生活、波風立てずに過ごしたかったのに。

 家に帰ってから文集を捜した。
 小学校の頃の卒業文集。吾妻雄太と違って物持ちのいいあたしは、すぐに見つけることが出来た。ブルーの表紙の字がくすんでいるけど、割かしきれいなままだった。
 クラスのページを探してみる。小学校の頃の集合写真は子どもの顔ばかりが揃ってて、誰が誰だか見分けがつかない。そんな中でも吾妻兄弟だけはそっくりだからすぐわかる。――そうだ。この頃は二人ともそっくりだったんだ。同じように日焼けして、同じように明るい顔をしていた。それでもあたしにはしっかり見分けがついていた。
 自己紹介を載せるページには、吾妻耕太と吾妻雄太が並んでいた。二人とも作文に記した将来の夢は『野球選手』だ。何てわかり易い。
 まあ、あたしだってわかり易さじゃ人のことは言えない。将来の夢のところ、ケーキ屋さんだなんて書いてる。あの頃は甘い物、大好きだったからなあ。今じゃ体型が気になって、滅多に食べなくなったけど。
 変わっちゃったんだな。当たり前だけど、あたしは昔とは全然違う。雄太が言ってた通り、ぱっと見てわかんないくらいに変わったんだと思う。自分でも思う。
 そして耕太も変わってしまった。昔、元気のいい野球少年だった頃の面影はどこにもない。今は吹奏楽をやってるらしいけど、昔みたいに日に焼けてない。笑った顔も見かけない。多分あたしのことも覚えちゃいないだろう。
 雄太は、――あいつだけがあまり変わってないのかもしれない。元気のいいまま、日焼けしたままで今も野球を続けている。それはそれで貴重なことなんだろうけど、昔みたいに話し掛けられるとやっぱり、戸惑う。
 だってあたしは昔のままじゃない。小学校の頃とは違うんだ。
 雄太も、雄太は変わんないままかもしれないけど、雄太のいる環境は変わってしまった。ちっちゃなリトルリーグじゃなく、県大会まで進めるような高校の野球部にいる。小学校の時の友達じゃなく、今や遠い人になってる。そしてあの頃、物好きな子はあたしくらいだと思っていたのに、今や何人いるのかわからない。雄太のことを好きな子は、きっとたくさんいるんだろう。

 次の日、幸いにも荷物の少ない日だったから、あたしは文集を持って登校した。
 こういう面倒なことは早く済ませてしまいたくて、一時限目の休み時間に雄太のクラスへと向かった。雄太は廊下に一人でいて、あたしの手間を省いてくれた。まさかクラスの子に、『吾妻雄太、いる?』なんて聞けないとびくびくしていたから、その点だけはほっとした。
 雄太はあたしを見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「文集、持ってきてくれた?」
「うん」
 あたしは低い声で答えて、わざとぶっきらぼうに文集を差し出す。
 だけど雄太は気付かなかったらしく、上機嫌で卒業文集を受け取るが早いか、中を開いた。そしてページをめくって自分のところに行き着くと、げらげら笑い始めた。
「何だこれ! 酷い作文書いてんなあ、俺!」
 楽しそうでいいな、と思う。こっちはそれどころじゃないってのに。
 雄太が文集を読み始めたから、あたしはすかさず早口で言った。
「それ、返すのはいつでもいいから。じゃあ――」
「あ、ちょっと待った」
 だけど背を向ける前に雄太には呼び止められた。
 渋々と足を止めれば、相変わらず陽気そうな雄太が、
「読み終わったら、お前ん家まで返しに行くから。ケーキ持って」
 周囲を気にしない声で言ったから、今度は心臓が跳び上がった。
 何言ってんの、こいつ! 廊下には他の生徒もいるのに!
「駄目、要らない。そんなの全然要らないから」
 慌てて声を潜めると、むしろ怪訝そうに返される。
「何で? お前ケーキ好きだったろ。あの駅前のケーキ屋の」
 たかが小学校のクラスメイトのこと、よく覚えてるもんだと思う。そんなこと覚えてなくてもいいのに。あたしの好きなものも、家の場所も、あたしの存在すら全部忘れてくれてた方がよかったのに。
「昔はね。今はそうでもないの。って言うか、家までなんて来なくていいから!」
「けど、もうすぐ夏休みだし。俺これからしばらく予定あるから、いつ返せるかわかんねえし。家知ってんだから直接返しに行った方が早いじゃん」
 雄太の予定って言うのは、やっぱり甲子園行きなんだろうか。とりあえず県大会は夏休み直前にあるし、これからは忙しくなるんだろう。そんな雄太の手を煩わせたりしたら、ファンの子たちから何を言われるかわかったもんじゃない。
 あたしは、だからかぶりを振った。
「いいってば。返すのは夏休みの後でもいいし。文集なら靴箱にでも突っ込んどいてくれたらそれで」
「けど、それだと礼が出来ないだろ」
「しなくていい。じゃあね」
 きっぱりと言ってやる。そんなもの要らない。身の安全の方が大事。
 雄太がきょとんとした隙に、今度こそあたしは背を向けた。その後は一目散に自分の教室へ逃げ帰った。廊下に居合わせた子たちの視線、気にしないようにしていた。
 心臓がどきどき言っていたけど、今はそれよりも、息苦しさの方が強かった。嫌な予感がした。あんなに長く雄太と話していたこと、絶対後悔すると思った。
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