Tiny garden

私を野球に連れてって

 球場へ足を運んだのは久しぶりだった。
 高校時代こそ吹奏楽部員として応援に駆り出されることはあったけど、卒業して大学生となった今、球場に行く機会なんてずっとなかった。昔よりもずっと野球には詳しくなったけど、個人的に楽しむ域にはまだ辿りつけてない。
 そして今日は、初めて楽器を持たずに球場入りした日でもある。
「初めての球場観戦がバックネット裏かよ」
 隣に座る耕太くんは興奮気味だった。
 約一ヶ月前、耕太くんのおうちで雄太くんの試合を見た時は、まるで自分のことみたいにがちがちに緊張していた。今日もそうかもしれないと思っていたけど、どうやら心配なさそうだ。
「こんなとこ座ったら、もう外野席で見ようって気失せるんじゃねえ?」
「そんなにいい席なの?」
 例によって全然わからない私に、耕太くんは子供みたいにはしゃぎながら教えてくれた。
「ここからなら雄太の球がよく見える。いい席だよ、かなりな」
「そうなんだ……」
「あいつ、結構張り込んだな。気遣うなって言ったのに」
 そう言いつつも耕太くんは嬉しそうだ。
 それで私は周囲を見回し、初めてのドーム球場の雰囲気を確かめる。
 午後四時半の開場と共に、スタンドにはどんどんお客さんが入り始めていた。グラウンドをぐるりと囲む観客席のうち、外野側には特に人が溢れている。熱心なファンの方が多いのか、ユニフォームを着たり、野球帽を被っている人が多く見受けられた。と言ってもこの距離だから色合いで何となくわかるだけだけど。一塁側と三塁側の色が違うのもよくわかる。
 対してこちらのバックネット席は、あまり球場のお客さんっぽくない格好の人達が散見された。スーツの男性やきれいめワンピースの老婦人、そうかと思うとお子さんだけがユニフォームを着た家族連れなども見受けられた。
 私と耕太くんも特定の球団のユニフォームや帽子などは身に着けていない。駅から直接ここまで来たから、傍目にはカジュアルな旅行客くらいに見えているのかもしれなかった。

 雄太くんの投げているところを、一度球場で、直に見てみたい。
 耕太くんがその決意を固めたのはごく最近の話だ。
 それまではおうちのテレビで見るのも無理で、私が付き合って一緒に観戦したのが一ヶ月前のことだった。あの時も耕太くんは辛そうだったけど、どうにか乗り越えられるかもしれない、と決意を固めたようだ。あの時の耕太くんは本当にひどく緊張していたし、何度となくテレビを消したがった。雄太くんの試合を直視できないのだと言っていた。私はそんな耕太くんの隣で手を握って、最後まで一緒に試合を見た。
 そして無事に試合を見届けた耕太くんは、今度は球場まで足を運ぶことに決めた。
 もともと、雄太くんからは何度となく誘われていたそうだ。プロ野球選手として、一軍のマウンドに立つ自分を見て欲しい。それは小さな頃から一緒にいた双子のきょうだいに対する素直な気持ちであり、お願いだったのだと思う。
「球場まで、お前にも一緒に来て欲しい」
 耕太くんは、私にも声をかけてくれた。
「ちょっとした旅行ついでに。まあ、夏休みだしな」
 そんな誘いに、私は快く頷いた。
「もちろん、いいよ。誘ってくれてありがとう」
 二人がとても仲のいい双子だってことは、私だってよく知っている。だから耕太くんがずっと雄太くんの願いに応えたがっていたことも、今回それが叶ってとても嬉しいんだということもよくわかった。ついていきたいって気持ちに嘘はない。
 ただ、耕太くんと二人で旅行をするのは初めてだから、ちょっと緊張はしてる。

 新幹線に乗って、試合があるドーム球場までやってきた。
 試合開始は午後六時、テレビでも放送されるナイターゲームだ。先発はもちろん雄太くんだった。
「時間あるし、ちょっと早いけど弁当食おうぜ」
「そうだね」
 耕太くんの提案に、私もすぐさま頷いた。試合中はきっと食べている余裕なんてないと思う。
 私達は球場で購入したお弁当を開け、のんびり食べ始めた。二人ともヒレカツ弁当なのはもちろん縁起を担いでのことだ。
「こうやってお前とカツ食べてると、思い出すな」
 耕太くんはにやにやしながら口を開いた。
「高校ん時にお前が作ってきてくれた縁起物の弁当。フライだと縁起がいい、とかな」
「ああ、あれ。今思うと結構めちゃくちゃなこと言ってたね」
 あの頃の私は野球のことなんて何にも知らなくて、フライはいいものだと思ってたし、ボールとストライクの違いも全然わからなかった。
「耕太くんに食べさせるなら縁起のいいものにしなくちゃって考えてたんだ」
 私が続けると、耕太くんは笑うのをやめて肩を竦めた。
「お前ってそういうとこあるよな」
「そういうとこって?」
「何つうか……尽くすタイプ、みたいな」
 言いにくそうにぼそぼそ言われたところを見るに、誉めてくれたみたいだ。私は誇らしい気持ちになって、耕太くんの隣で胸を張る。
「そうだよ。私、好きになったらすごいんだから」
「認めるよ。こんなとこまでついてきてくれて、ありがとな」
「どこだって行くよ、耕太くんの誘いなら」
 大学生になった私は、高校生の頃よりは野球に詳しくなった。耕太くんが丁寧に教えてくれるお蔭だ。野球自体が好きかどうか聞かれたら微妙なところではある。私はやっぱり楽器、そして音楽の方が好きだから、他の趣味を持つ余裕はまだない。
 だけど、耕太くんにとって、雄太くんにとって、野球がどれほど特別なものかはわかってる。
 今となっては私にとっても特別だ。
 まさか球場まで足を運んで、楽器も持たずに応援する日が来るなんて思わなかったな――ドームの白い天井を見上げながら、私はしみじみと感慨に耽る。
 グラウンドには整備の人達が出ている。それから観客席に向かって、球団のマスコットキャラクター達がダンスを披露し始めている。皆、身のこなしが軽くて惚れ惚れしてしまう。BGMは私も知っているあの曲だ。"Take Me Out to the Ball Game"――私を野球に連れてって。
 私、耕太くんに連れてきてもらっちゃいました。
「ん? お前、何を一人でにやついてんだよ」
 耕太くんが怪訝そうにしたから、私はあのメロディと球場に立ち込めるざわめきの中、声を張り上げて答えた。
「何だかね、楽しくなってきちゃったんだ!」

 試合開始は予定通りの午後六時だった。
 審判がプレイボールを告げ、一回の表が三者凡退に終わった後、先発投手の雄太くんがマウンド上に立った。
 正直まだ見慣れない、プロ球団のユニフォームを着た雄太くん。こうして直に姿を見るのは久しぶりだった。高校を卒業して、雄太くんがプロになる為に家を出ることになって、耕太くん達と駅まで見送りに行ったあの日以来だ。あれからまだ半年も経っていなかったけど、雄太くんの身体つきはすっかりスポーツ選手らしいものに変わっていた。
「あいつ、脚太くなったな……」
 耕太くんも同じように思ったんだろう。ぼそりと呟いていた。
 もちろんベテラン選手の人達にに比べたら、雄太くんにはまだあどけなさ、少年らしさが残っているようにも見える。
 だけど大きく振りかぶってから放った第一球のスピードには、思わず息を呑んだ。
 速かった。
 思わず仰け反りそうになるほど速かった。
 真っ直ぐにキャッチャーミットへ収まった瞬間、衝撃音が確かに聞こえて、身構えた私の手を耕太くんが握る。
「さすがバックネット裏、球筋がよく見えるな」
 溜息をつく横顔が真剣だ。だけどやっぱり以前とは違い、緊張はしていない様子に見えた。むしろ目を輝かせていて、その表情は球場内からどよめきが起きると同時に一層明るくなった。
「見ろよ、球速百五十二キロ!」
 ドームのオーロラビジョンには、確かにその数字が表示されている。
「速いの?」
「速いよ。初球から飛ばしてやがる」
 耕太くんは興奮した様子で、私の手を強く握り締めた。
 熱いその手を握り返しつつ、私はマウンドの雄太くんに視線を戻す。
 彼はもう次の投球フォームに入っていた。バックネット裏からは、その姿を真正面から捉えることができた。目が合うほどの距離じゃない。だけど昔、高校の野球部の応援をしていた頃から比べたらずっと近い――。
 あの頃、私と耕太くんは音楽で応援をしていた。
 スタンドから雄太くんのいるマウンドまでの距離は途方もなかった。きっと声をどんなに張り上げたって、ひとかたまりの歓声としてしか届かないだろう。だけど私達には音楽がある。楽器がある。雄太くんが精一杯頑張るのなら、私達も精一杯の応援を形にしよう、音にしよう。そう思って奏で続けた。
 今の私と耕太くんは、楽器を持ってきていない。
 この距離からなら、私達の声援は雄太くんに届くだろうか。
 それともやっぱり、ひとかたまりの歓声としてしか届かないだろうか。
 どっちだとしても私達にできることは一つしかない。
 ――やり方は変わっても、耕太くんと一緒に、雄太くんを応援する。
「……よし、バッターアウト!」
 小さく叫んだ耕太くんは、その直後、痛いくらい握り締めていた私の手をぱっと放した。
「あ、悪い。痛かったろ?」
「ううん、大丈夫!」
 歓声に紛れてしまわないよう、私は笑ってかぶりを振る。
 すると耕太くんもほっとした様子で、私の手を黙って繋ぎ直した。パーカッショニスト特有の、少し硬さのある耕太くんの手にどきどきする。
「雄太くん、調子いいのかな」
「いいみたいだな。今日は安心して見てられそうだ」
 耕太くんの言葉通り、雄太くんの立ち上がりは上々のようだ。
 その後あっさりと二奪三振含む三者凡退に抑えて、お客さんでいっぱいのスタンドをどよめかせた。

 私達は雄太くんの試合を最後まで見届けた。
 雄太くんは九回までを無失点で投げ抜き、チームの勝利に貢献した。何本かヒットを打たれてしまって、その度に私の隣で耕太くんが緊張したり、息を詰めたりしていたけど、雄太くんが立て続けに三振を奪った時なんかは誰より嬉しそうに快哉を叫んでいた。
 試合終了後のヒーローインタビューも見た。ホームゲームということで、お立ち台に上がった雄太くんの声が球場いっぱいに響いていた。
『チームの優勝目指して頑張りたいと思います。ご声援よろしくお願いします!』
 あの雄太くんが、そつのないコメントで観客の皆さんにお礼を言っている。見た目だけじゃなく、中身まですっかり大人になったんだなあ、なんて羨ましささえ覚えた。
 耕太くんが来ているのは知っているはずだから、インタビューでは双子のお兄さんについて触れるんじゃないかと思っていた。だけど雄太くんは、家族が来ていることについては何も言わなかった。
「絶対言うなよって念押しといた」
 球場を後にしてホテルに入ってから、耕太くんは私にそう明かした。
 以前、耕太くんと雄太くんのご両親が試合を観戦した時、雄太くんはヒーローインタビューでそのことに触れていた。今日、耕太くんが来ることになった時も雄太くんは言ったのだそうだ。
『じゃあ俺、ヒロイン呼ばれたら耕太のこと言っちゃおっかな。彼女と一緒に来てくれてます! とかさあ!』
 耕太くんはそれを必死で止めさせたという。
「親ならともかく、きょうだいのことまでいちいち言うか? こっちが恥ずかしいだろ」
 本当に恥ずかしそうに嘆いていたので、そういうものなのかもなあ、と思っておく。
 昔、何度か考えたことがある。双子のきょうだいがいるってどんな気持ちなんだろう。自分と同じ日に生まれて、同い年で、だけど自分とは違うものがあって、いつしか違う道を歩み始めてそのまま遠くへ行ってしまった双子のもう一人のことを、耕太くんはどんなふうに見ているんだろう。雄太くんをとても大切に思っていることはわかっている、それでも、耕太くんの中にはいろんな気持ちがあるんだろうとも、思う。
 私は、そんな耕太くんを好きになった。
「いい試合だったね。雄太くん、勝ってよかった」
 ツインルームの片方のベッドに座って、私は耕太くんに笑いかける。
 彼はデスクドレッサーの椅子に後ろ向きに座り、同じように笑い返してきた。
「ああ。もうすっかりプロ野球選手だったな」
「そうだね、インタビューとか大人の受け答えしてた」
「電話だと相変わらずなんだけどな……まあ、俺よりはずっと大人だよ」
 そう言って耕太くんは明るく笑った。雄太くんのことを話す時、耕太くんはいつも、いつよりも素直だった。
 私はその顔に見とれつつ、この部屋の静けさを改めて実感していた。球場はコンサート会場みたいに賑やかで、人で溢れていて、耳には割れんばかりの歓声が残っているようだ。海で潮騒を聴き続けた後みたいに、ざあざあと残響が聴こえてくる。
 対照的に、二人きりのツインルームは静かだ。
 音楽もなく、あるのは私達の声だけだった。
「俺も、早く大人になんねえとな……」
 耕太くんの呟きが溶けるようにかすれる。
 私は沈黙を防ぐつもりで即座に聞き返した。
「耕太くんは、卒業したらどうするの?」
「まだ検討中。やりたいことはあるけど……何の仕事に就いても、音楽は続けてえな」
「うん、私も」
 吹奏楽も野球と同じで、プロになるのはとても難しい。才能も運も努力も、全てがなければその道には進めないだろう。
 だから私は夢を見る。せめて大人になっても、音楽とはかけ離れた仕事に就いても、時々は楽器を奏でられるような自分でありたい。そういう大人になりたい。
「市民楽団とかあるしな。そういうので続けられたらいいよな」
 耕太くんが言ったので、私も楽しい気分で応じる。
「何なら私と耕太くんだけでもいいよ。二人でたまにセッションしようよ」
「パーカスだけのセッションかよ……もうちょい何か欲しくねえ?」
「じゃあそれまでに新しい楽器始めるのもいいかもね」
「まあな。卒業まで、時間もあるしな」
 私達は声を立てて笑いあう。
 そしてひとしきり笑った後で――耕太くんはカーテンの引かれていない大きな窓に目をやった。ナイターゲームの終わった後で、外はもうとっぷり暮れていた。
「ところで、今更だけど……な」
 そこで一瞬言いよどみ、耕太くんがちらりと私を見た。
「お前、よかったのか? 俺と一緒の部屋で」
 今、それを聞いちゃうんだ、と私は面食らう。
 雄太くんもストレートが持ち味の剛腕ピッチャーだけど、耕太くんがごくまれに繰り出すストレートもなかなか強烈だった。
「な、何にも言わないから、てっきりさらっと流すのかと思ってた」
 私がどぎまぎして慌てたからだろう。耕太くんは気まずげに、背もたれの上で頬杖をつく。
「ああ、悪い。そういや聞いてなかったなと……」
「聞かなくていいよ……!」
「わ、悪かったって。じゃあ、もう聞かねえから」
 そう言うと、耕太くんは椅子を立った。
 ベッドに座る私のすぐ隣に腰を下ろし、黙って手を握ってくる。
「今日、一緒に来てくれてよかった。感謝してる」
「うん……私も、楽しかったよ」
「そっか、俺もだ。お前がいると不安とか緊張とか、ちょっとずつだけど飛んでくんだ」
 それから耕太くんは私の顔を覗き込み、真剣な表情で、
「もしよかったら、また来ようぜ」
 と言ってくれたから。
 私は、私の不安や緊張も飛んでいけばいいなと思いながら、できるだけ笑って答えた。
「うん。またいつか、私を野球に連れてって!」
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