Tiny garden

ピーナッツとクラッカージャック(1)

「――吾妻、耕太?」
 自己紹介をする時、怪訝な顔で聞き返されるのにはもう慣れた。
「って、まさかあの吾妻雄太の……」
「そうです、あいつ弟なんです、双子の」
 後に続く言葉も皆ほとんど同じで、へえ、と驚きの声が上がるのに笑顔さえ浮かべられるようになっていた。似てないなあと笑われるのもどうってことなかった。高校時代と比べて愛想が良くなったもんだと自分で思う。
 言ってしまえば必然的な変化だった。双子の弟が野球部のエースとして甲子園へ行き、それなりの注目を集め、やがてドラフトに掛けられてプロ入りを決めた。そこまでの過程でも俺はうんざりするほど多くの人間から声を掛けられるようになり、そして今までよりずっと行儀良くふるまうことを余儀なくされた。不肖の兄が弟の足を引っ張って、名前に傷をつけるようじゃいけない。俺の行動があいつに及ぼす影響って奴も、高校時代からいろんな人から散々言われてきたし、十分過ぎるほどわかっている。
 そして今。無事にプロ野球選手となった雄太と、普通に大学へ進んだ俺がいる。雄太は家を出て寮生活を始めていたが、俺は安穏とした実家暮らしのままだ。おまけに大学の吹奏楽団に名を連ねて、相変わらず音楽に関わっている。そっちの道に進む腕はないものの、のんびり好きなことを続けていられる生活が楽しい。大学や楽団で会う人会う人に双子の弟の話を持ち出されて、素直に返事が出来るだけの余裕も身についた。
 最近は特に、笑って応対をするよう心がけている。
「吾妻雄太って言えばさ、こないだの初先発、すごかったよなあ」
「見た見た。完封になんなかったのが惜しいよ、途中までいいとこ行ってたのに」
 楽団には野球好きの先輩が何人かいて、雄太の初先発試合もテレビで観戦していたらしい。何回の誰の打席がどうだった、ランナー背負った時はこうだったと克明に語られて、俺は嘘もつけず、しかしあくまで平静を装いつつ応じる。
「実は俺、観てないんですよ」
 今のところ、ほぼ全員に驚かれている。
「ええ!? もったいない、あんなにいい試合だったのに!」
「いや、なんかこう、テレビ越しにあいつを観るのが、ちょっとこそばゆくて」
 俺がそんな風に答えると、皆は腑に落ちないような、でもそういうもんかと納得したがっているような顔つきになる。そりゃあ双子の弟がプロ野球の高卒ルーキーなんて想像しがたい稀な状況に違いないし、俺の気持ちを五割方でも理解出来る奴はあまりいないだろう。
「じゃあ次の登板も観ないのか?」
「多分……。うちの親は球場行って観てくるらしいですけどね」
 次回の登板予定は今週末。両親は三連戦を観戦してくる予定だった。俺も一緒にどうだと言われたし、雄太にも遠慮しないで来いよと誘われたが、こっちはこっちで講義とか練習もあるしと断った。
 本当のところは違う。とてもじゃないが球場でなんて観ていられるはずがなかった。後から誰かに聞かれればへらへら笑って返事をしていられるものの、実際の試合中は、たとえテレビを観ていなくたって気が気じゃなかった。あの初登板試合の間は自分の部屋に閉じこもっていた。親がテレビを点けているから耳栓をして、無事終わるまでただじっとしていた。
 そういう不安は親にも、当の雄太にも打ち明けられなくて、結局、彼女にだけ教えていた。――同じ楽団にいる、今でもパーカッションパートの、だがもうポニーテールではなくなった彼女には。

 進学した俺が愛想とささやかな社交性を身につけたように、彼女は少し大人っぽくなった。髪を少し切って下ろしているようになったり、平日でも化粧をするようになったせいかもしれない。当たり前だが私服姿を目にする機会もぐんと増えて、たまに戸惑う。もっとも中身の方は相変わらずのお節介焼きで、時々そそっかしく、未だに驚くくらい前向きだ。高校時代の俺を知っている奴には、あの子といるから変わったんじゃないのとからかわれた。多分その通りだ。
 さておき、ポニーテールじゃない彼女が二人きりの時に聞いてきた。
「耕太くん、次の試合は観ないの?」
 どことなく気遣わしげな聞き方だったので即答しづらくなる。この間の雄太の初先発試合も、観なかったと言ったら彼女は驚かず、ただ気遣わしそうにしてみせた。
 俺もつい正直に話してしまう。
「恐いから、多分観ない」
「そっか」
 彼女が溜息みたいに呟く。心配してくれているのがわかるから、うれしさと申し訳なさで頭がこんがらがる。
 リトルリーグ時代からずっと、雄太をこの目で見てきていた。俺が野球をやめてからも、吹奏楽を始めてからも、何だかんだでずっと試合を見続けていたし、試合の中での活躍を信じてもいた。あいつならやれる、大丈夫だって思った。俺にはなかった才能が、努力の出来る精神力が、あいつには確かにある。
 でも雄太が家を出た後、あいつの姿をテレビ画面で見た瞬間、無性に恐くなった。手の届かない存在となった双子の弟について、俺より詳しい記者が新聞に書き立てる。テレビのコメンテーターがあれこれ言う。それらは当然のように誉め言葉ばかりじゃない。実況アナウンサーも、解説者も、同じ球団のベテラン選手も、インタビューを受けるファンの人たちも、俺にとっては皆メディア越しにしか見られない相手なのに、そいつらが雄太について実に率直に触れてくるのが堪らなく、恐かった。
 もちろん、それがプロなんだってわかっている。雄太はそういう扱いを受けることも含めて給料を貰っている訳だし、そもそもあいつはもう子どもじゃない、れっきとした大人だ。活躍出来なきゃ叩かれてしまうのだろうし、あいつを打ち崩す為に相手チームは必死になるのだろうし、そうならない為にあいつは今まで以上の努力を重ねているはずだ。それでも打たれる時は打たれる、負ける時は負ける。高校野球とは違う世界だ。負ける雄太を見るのも、否定される雄太を見るのも、恐かった。
「雄太には、球場まで観に来いって言われた。でも球場なんて行ったらそれこそ逃げ場ねえし、あいつがランナー背負いでもしたら腹がきゅーっとするだろうなと思ったら、無理だ」
 考えたくないが、仮に雄太が被弾でもしてみろ、俺は白目を剥いて気絶するんじゃないだろうか。テレビ観戦ならまだましだろうが、それでもまだ決心がつかない。今週末はもう目前だった。
「自分がこんなに心配性だとは知らなかった」
 自嘲気味にぼやく。ましてその心配を、よりにもよって双子の弟に向ける日がやってくるとは思ってもみなかった。俺よりあいつの方がずっとしっかりしているのに、俺が一方的に気に掛けてたって、離れて暮らす今ではしてやれることも何もないのに。
「私にはきょうだいがいないから、耕太くんの気持ち、全部はわからないけど……」
 と前置きした彼女が、
「家族がそういう大舞台に立ってたら、やっぱり心配になるものじゃないかな。耕太くんが恐いって思うのは変じゃないよ」
 微かに笑んで言う。
 全部はわかってもらえなくても、そうやって歩み寄ってくれるのに少しばかり安堵する。打ち明ける相手がいるのはありがたいものだ。雄太のことは、親にも言いにくかったから余計に。
「でも、柄じゃねえな」
「ううん。耕太くんらしいよ、いいお兄さんだよね」
「それはどうだか。雄太に聞かれたら笑われるな、思いっきり」
 彼女が買い被るので気まずく感じる。俺があいつにとっていい兄だったことはないし、そもそも双子の間柄ではどっちが上かを意識する機会も少ない。比較される機会はものすごく、多いのに。
 俺の不安も結局は要らない気持ちなのかもしれない。今更みたいに兄弟らしい心配をしたところで、雄太なら言うだろう。俺は全然大丈夫だから、耕太はまず自分のことをどうにかしろ、と。
 翻って隣を見れば、ポニーテールではなくなった彼女が当たり前みたいに目に留まる。高校時代からの付き合いはほとんど変わりなく現在まで続いていたし、あの頃からこっちの事情で振り回してばかりなのも変わっていない。例えば俺はまだ、親に彼女のことを、存在すら打ち明けていなくて、それはやっぱり雄太の甲子園行き以降、両親にとっても忙しない日々が続いていたからだった。何となく言いそびれたまま現在に至っている、もう一年近い付き合いになるのに、だ。
「あ、そういえば」
 彼女は彼女で考え事をしていたらしい。ふと思いついた様子で言われた。
「お父さんとお母さんが雄太くんの試合を観に行ってる間、耕太くんはご飯、どうするの?」
「適当に買って済ます。留守番も慣れてるし」
 正直に答えると途端にはにかみ笑いになって、提案された。
「じゃあ、何か持っていこうか。お弁当とか」
「いいのか?」
 大変じゃないのかと聞こうとしたが、考えるまでもなく、そう聞いたところで彼女が大変だと言うはずもない。ましてその料理の腕は高校時代からよく知っているから、こっちの遠慮も不発に終わった。
「作ってくれるならありがたいけど……」
「任せて。すごく縁起のいいお弁当にするからね、雄太くんの試合に備えて」
 張り切る彼女の明るい表情。縁起のいい弁当という言い方も懐かしい。それこそ高校生の頃、雄太の試合がある日に作ってもらったことがあった。白星おにぎりとか揚げ物揃いのおかずとか、彼女なりに考えたらしい縁起を担いだラインナップ。その日、野球部は本当に勝利を収め、ご利益があったのかもねとうれしそうにしていた彼女の笑顔をまだ覚えている。あの頃はポニーテールだった。
「ご利益、あるかな」
 ぼんやりそう尋ねた時、彼女はいつも以上の素早さで応じてくれた。
「あるよ。前もあったもん、絶対大丈夫」
「頼もしいな」
 胸裏にかつての笑顔と今の笑顔が重なる。
 思えば当時から、俺は彼女に支えられていたのかもしれない。甲子園出場が掛かった試合では雄太の失投も多くて、少しはらはらしていた。でも縁起を担いだ弁当と、彼女が教えてくれた心構えとが支えになった。
 雄太の試合は、俺にとっても晴れの舞台だった。
 彼女が教えてくれるまで、俺は自分をただの脇役だと思っていた。野球を続けられなくて、応援するだけしか能がなくて、雄太に甲子園へ連れて行ってもらうだけの存在だと思っていた。
 今は。雄太にとっての大舞台を目の当たりにして、俺は。
「……あのさ、雄太の次の登板の日、だけど」
 やがて、恐る恐る切り出してみた。
 ちょっと思いついてみただけだ。彼女と弁当のご利益に縋ったら、案外と平気でいられるんじゃないかとか。恐怖に打ち勝つことも出来るんじゃないか、とか。
「弁当を二人分作ってくるのって、出来るか?」
 俺の聞き方で察したらしく、すかさず問い返してくる。
「一緒に食べようか?」
「ああ、うん。それもそうなんだけどな」
 何だか煮え切らない。未だ迷っている口調になりつつ、実際迷いつつ、でも心を決めてどうにか切り出す。
「よかったら、試合」
「うん」
「その、テレビで、俺と一緒に観てくれないかと思って……」
 彼女が瞬きを止めた。はっとされたのがわかって、慌てて言い添える。
「万が一のことがあったら、途中でチャンネル替えるけどな。いや、試合前からそういうの考えるのもよくないだろうけど、何て言うか、その」
「――いいよ」
 俺の不安と歯切れの悪さを断ち切るような、即答だった。
 にっこり笑ってもくれた。
「久し振りに応援、頑張ろっか」
 髪形が変わっても、大人っぽくなっていても、彼女がいい子なのはちっとも変わっていない。今では双子の弟よりも近いところにいてくれる。その前向きさに僅かながら影響されつつあるのも、多分事実だった。

 大体、試合を見るのが恐いなんて我が事ながら滑稽だ。
 俺だって昔は、卒業文集の将来の夢に『野球選手』と記すくらい、野球が好きだったんだから。
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