Tiny garden

きょうも、あしたも(4)

 残響が、耳の中だけじゃなく、身体中にずっと留まり続けている。
 痺れるような心地良さに漂いながら、私はぼんやりと振り返る。――あの瞬間、私たちは皆で『音楽』になったんだって。
 たくさんの人で埋め尽くされた球場に、全身全霊を込めた音を響かせていた。夏の強すぎる陽射しの下でも、一心にスネアドラムを打ち鳴らしていた。流れ落ちる汗も、喉の渇きも、ひりひりする肌も気にならない。皆の音と、声と、気持ちとが一つになって、グラウンドにいる野球部員たちの背を押し続けた。
 音楽は素敵だ。こうして言葉にしなくても、誰かに気持ちを伝えることが出来る。気持ちを音に乗せて遠くの人まで届けることが出来る。それから、言葉にすればすれ違ってしまうような心を一つにして、その中へ簡単に飛び込んでしまえる。
 賑やかな音楽の中に身を置いて、言葉にならない気持ちを送り続けたあの時間のことを覚えている。ずっと続けばいいのにって思った。ずっとずっと、私たちにとっての夏が続いていけばいいのに。すごく気持ちがよくて、幸せで、どきどきする時間がずっと終わらずにいてくれればいいのに。

 耳の中に残る音以外は、今はとても静かだった。
 すっかり日の暮れた帰り道。いつものように――と、もう言ってしまってもいいと思う――隣には耕太くんがいる。
 私は何だか夢見心地で、ふらふらする足取りで歩いていた。耕太くんに話し掛けることもちっともまとまりがない。同じことばかりを繰り返してしまう。
「楽しかったね」
「まあな」
 耕太くんの答えは素っ気ない。
「本当に、夢みたい……」
 私が呟くと、隣ではわざとらしい溜息が聞こえた。
「お前、さっきからそればっかり」
「だって、本当にそう思うんだもん」
「夢じゃねえから。何なら、つねってやろうか」
「ううん、要らない」
 それは丁重にお断りした。
 でも、知ってるんだ。耕太くんだって素っ気ないそぶりをしているけど、さっきから笑うのを堪えているみたいな顔になってる。うれしくて、幸せで堪らないのを我慢して歩いてるんだ。絶対にそう。
「甲子園で演奏するのって、どんな気分なのかなあ」
 今日応援しに行った球場よりもずっと広くて、人も多いんだろうなと思う。
「きっと、すごく気持ちがいいよね」
 そのスタンドに楽器を持ち込んで、全身全霊を込めて演奏したら、すごくすごく気持ちいいに違いない。早く行ってみたい。
「どうだろうな」
 耕太くんは首を竦めた。笑うのは堪え切れなくなったみたいで、ちょっと口元が綻んでいる。
「まさか甲子園に行けるなんて思ってなかったからな。どんな気分かなんて、今まで考えもしなかった」
「え、嘘。雄太くんのこと、信じてなかったの?」
 その言葉にはびっくりした。だって、何があっても雄太くんのことは信じてるのが耕太くんだと思ってた。甲子園に行けないかもしれない、なんて思うこともあったんだろうか。
「雄太のことはな」
 短く言って、耕太くんは息をつく。その後で、
「あいつは、必ず甲子園へ行くだろうって思ってた。だけど俺は、黙ってても連れてって貰えるもんだって思ってたんだ。あいつに甲子園に連れてって貰うだけで、俺に出来ることなんて何もないって。せいぜい応援してるくらいしかないって考えてた」
 静かな声で呟いた。
 今の、耕太くんの表情は明るい。うれしそうな顔を隠すことも止めたみたいだ。私に向かってはにかむように笑ってみせた。
「けど、雄太に連れてって貰うんじゃなくて、甲子園まで一緒に行くんだって思ったらさ、妙な気分なんだ。吹奏楽やってて、ティンパニやってて本当によかったって、今更みたいに思えてしょうがない。野球の代わりじゃなくて、吹奏楽に出会えたことがうれしいんだ」
 気持ちのこもった口調に、私までほっとする。
 耕太くんは過去を吹っ切ったように見えて、本当はそうじゃなかったのかもしれない。ずっと苦しかったのかもしれないし、雄太くんのことが羨ましかったのかもしれない。そんなこと言ってくれなかったから、私にはわからなかったけど――。
 今の気持ちを聞いて、今の耕太くんのことがわかった。耕太くんがうれしい気持ちでいることも、吹奏楽が、音楽が好きだっていうこともわかった。耕太くんのティンパニの音が耳の奥に蘇って、またあの痺れるような心地良さが戻ってくる。また、音楽になりたい。耕太くんと一緒に、今度は甲子園で。
「勝ってよかったよな」
 耕太くんがそう言ったから、私は強く頷いた。
「夢みたいだよね」
「お前、そればっかり」
「だって本当にそう思うんだもん」
 思わず笑ったら、耕太くんもつられてくれた。一緒になって笑いながら、帰り道を歩く。
 二人だけの帰り道は静かだ。空は一面夕焼けで、ひときわきれいに見える。長く伸びる影も揃えて、ずっと並んで歩いていく。
 長時間の応援で、くたくたに疲れていた。お腹も空いたし、喉も渇いてる。鼻の頭がひりひりしている。だけど早く帰ってしまうのがもったいなくて、少しだけゆっくり歩いていた。
 耕太くんも同じように思ってくれているのかもしれない。いつもよりものんびり歩いてくれてる。
「けど、今日はちょっとはらはらしたな」
 不意に耕太くんが、思いを巡らせるように言った。
「相手の打線に結構打たれてただろ。ほとんどフライになってたけど、そのうち外野の頭飛び越えていくんじゃねえかとか、スタンドに入っちゃうんじゃねえかとか、見てて落ち着かない気分だった」
「そうなんだ」
 私は野球に明るくないから、耕太くんの言うことがわかるような、わからないような。今日の試合を見ていても、打ったか打たなかったかの違いくらいしかわからなかった。でもフライがどういうものかは何となくわかってる。だから、こう言ってみた。
「もしかして、あの掻き揚げのご利益じゃないかな」
 すると耕太くんは横目で私を見て、苦笑いを浮かべた。
「何言ってんだよ、野球わかってない奴が」
「でも、そうかもしれないじゃない。フライになったっていうのはやっぱり、あの掻き揚げのお蔭かもって」
「わかったわかった。俺はそう思っといてやるから、他の奴には言うなよ」
 耕太くんが意地悪そうな口調で言った。
 もしかすると馬鹿にされたのかな。でも、耕太くんとならこういう会話も悪くない。くだらない冗談も、他愛ない世間話も何だって楽しい。
 掻き揚げのことを話題にしたら、そういえばって、思い出したことがあった。
「そういえばね、聞いた話なんだけど」
 私は何気ない調子でそれを切り出してみる。
「耕太くんって、グリンピース嫌いだったんだね」
 だけどそう言った拍子、耕太くんが足を止めてすごくびっくりした顔をしてみせたから、どうしても吹き出さずにはいられなかった。
 呆然とした耕太くんは、私をまじまじと見ながら尋ねてきた。
「お前、その話、誰から聞いた」
「髪が短くて、すごく華奢な女の子からだよ」
 笑いながら私は答える。
「今日ね、偶然話す機会があったの。だから聞いちゃったんだ」
「あいつか……聞くなよ、そんなこと」
 悔しそうな顔をしている耕太くん。やっぱり私に知られたくなかったのかな。私はちっとも気にしなかったのに。
「嫌いなら、そう言ってくれてもよかったのに。我慢して食べてたんじゃない?」
 食べてる時の顔も、無理してるんじゃないかなって感じだったもの。他のおかずを食べてる時と明らかに反応が違っていたし。後で具合悪くなってなかったかなって、心配しちゃった。
「けど……せっかく作って貰ったのに、嫌いだって言うのも悪いだろ」
 何だかしどろもどろになりながら耕太くんは言う。気を遣ってくれたのかな。優しいけど、彼女として無理はして貰いたくない。
「そんなことないよ。私、無理に食べさせたりしないもん」
「いや、だから、そういうことじゃなくて」
「お弁当に入ってたら、いつも雄太くんに食べて貰ってたんだって聞いたよ」
「……そんなことまで聞いたのかよ」
 隣で、忌々しそうな舌打ちが聞こえた。
 私はその顔を見ないようにして、続ける。
「うん、あのね。他にもいろいろ教えて貰う約束してるの」
「いろいろって何を!」
「だから、耕太くんのこと。小さな頃の話とか、あの子はたくさん知ってるみたいだったから」
 グリンピースの話だって、聞いたらすぐに思い出して、おかしそうにしながら教えてくれた。あの子は耕太くんたちのこと、ちゃんと覚えているんだ。そういう話、私ももっと聞いてみたい。
「余計なことをべらべら喋りやがって」
「大事なことだと思うけどなあ。私、耕太くんの嫌いな食べ物も知らなかったんだよ。何にも知らないで耕太くんの苦手なお弁当作ってくるなんて、彼女失格じゃない?」
 そう言ってちらっと視線を向けたら、耕太くんは困ったような顔をしていた。でも何も言ってこなかったから、その顔に尋ねてみる。
「だから他の、耕太くんのことよく知ってる人たちにも、耕太くんのこと聞いてみたいんだ。いいよね?」
 耕太くんは深々と溜息をついた。
「駄目って言ったら、お前は言うこと聞くのかよ」
「……どうかな。もしかしたら逆らっちゃうかもしれない」
 私だって、耕太くんのことを話せる人が欲しかったんだ。耕太くんは校内でも有名だから――私もそう、なりかけてるらしいけど――あんまり人には話せない。耕太くんとのこと、友達にもなかなか言えてない。
 だから耕太くんのことを知っていて、気軽に話してくれるあの子の存在がとってもうれしい。もっとたくさん話せるようになりたいな。耕太くんのことも、それ以外のことも。
「それとも、耕太くんに聞いてもいい? 私の知りたいこと全部、耕太くんにとってはつまらないことでも、私は聞いてみたいんだ。耕太くん、教えてくれる?」
 私は、耕太くんと話したい。言葉は音楽よりも難しいし、気持ちをなかなか表しにくいし、上手く伝わらなくてすれ違ってしまうこともある。だけど耕太くんとはちゃんと言葉で話したい。くだらない冗談も他愛ない世間話も、耕太くんが話したがらない耕太くん自身のことも、全部話したいんだ。
 こうやって耕太くんと話しているのが、どんな時間よりも一番好き。何よりもどきどきするし、ずっとこうしていたいって思う。もしかしたら甲子園に行くよりもずっと、かもしれない。こんな毎日がいつまでも続けばいいなって、思う。
 しばらく立ち止まっていた耕太くんは、やがて顔を顰めた。それでも目は少しだけ笑いながら、私に言ってくれた。
「好きにしろよ」
「本当? 私、好きにしてもいいの?」
「毎日じゃなければな。あいつに喋らせたら、余計な話まで出てきそうだし」
 そうぼやいてから、耕太くんはまた帰り道を歩き出す。オレンジ色のその道を、私は耕太くんの隣に並んで、ついていく。
 見えてきた、耕太くんと雄太くんの家。一緒の帰り道ももうすぐ終わり。ちょっと寂しいけど、悲しく思ったりはしない。
 今日も、明日も、話そうと思えばいつだって話せるんだから。そうだよね、耕太くん。
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