Tiny garden

きょうも、あしたも(3)

 お昼ご飯の後は、いよいよ応援の舞台へ移動。
 吹奏楽部は楽器を積み込んで、他の生徒たちよりも一足先に球場入りすることになっている。いろいろとセッティングしなくちゃいけないし、音合わせだってしておかないといけない。
 耕太くんにはああ言われたけど、私は、やっぱりどきどきしてしょうがなかった。だって決勝戦での応援なんて、本当に限られた人たちにしか行けない舞台だ。しかもそこで終わりじゃなくて、その先にもまだずっと長くて、限られた人にしか辿り着けないような晴れ舞台が続いているんだと思うと、すごくどきどきしてしまう。
 私たちはその長い道程の、どの辺りまで辿り着けるんだろう。ずっと先まで皆で行ける? 雄太くんたちと、学校中の皆とで夏の一番終点まで行けるだろうか。誰よりも長い夏が、私たち皆のものになるといい。本当にそう思う。その為に今日も全力で応援したい。

 陽射しのきつく差し込む校門前。暑さにふうふう言いながらトラックに自分のスネアドラムを積み込んだ。それから後輩たちの積み込み作業を手伝っていると、不意に耕太くんが私を呼んだ。
 どうしてか困ったような顔をしている耕太くん。何かあったんだろうか。私が駆け寄るなり、彼は早口になって言ってきた。
「譜面台の余り、準備室にあったよな。俺の奴、どうも調子が悪いんだ」
 耕太くんの手には、少し錆び付いた譜面台が握られている。年季の入った譜面台は私達が入学するよりもずっと前からある備品で、時々ねじの調子の悪いものがあった。耕太くんの譜面台もねじが留まらなくなっているらしく、高さの調節が利かなくなっている。
「大丈夫、たくさんあったよ。私、取ってくる」
 すぐに私は答えた。実際、使っていない譜面台が音楽準備室にあるのを知っていた。もっとも、古さの点ではどれも大して変わらないけど――でもそれは皆の使ってるのだって同じだ。どれか一つくらいは、まだちゃんと使えるのもあるはず。
「何でこんなタイミングで壊れんだか……」
 耕太くんがぼやく。
「きっと譜面台も緊張しちゃったんだよ」
「そんなことがあるかよ。急になんて参るよな」
 私が冗談を言ってみても、耕太くんの表情は硬いまま。やっぱりちょっと緊張してるんだろうか。こんな些細なこと、いつもなら笑い飛ばせる耕太くんなのに。
 楽器の積み込み作業はまだ途中だった。出発までにはもう少し時間がある。校門前に停められたトラックを横目で見てから、私は言った。
「今すぐ行けば間に合うから、取りに行ってくるね。待ってて」
「いいって。俺が行く」
 耕太くんは首を横に振ったけど、音楽準備室は戸締りしてある。だから顧問の先生に鍵を貰わなくちゃいけない。話を通すのならパートリーダーの私の方が手っ取り早い。
 それに、耕太くんの気持ちをあまり急かしたくなかった。ここでゆっくり待っていて貰う方がいいと思った。
「備品の確認をするのもパートリーダーの仕事のうちだもん。気が付かなくてごめんね。すぐ戻るから、大丈夫だよ」
 そう主張すると、耕太くんは硬い表情のままでゆっくり頷いた。その後で言ってきた。
「わかった、頼む。けど……」
 低い声で、ぼそりと。
「時間あるんだから、走るなよ」
「どうして?」
 走った方が速いのに、と言い返そうとした私よりも早く、耕太くんが釘を刺してきた。
「また転ぶだろ、階段で」
 言われて、ようやく思い出す。
 みっともなくて恥ずかしい記憶が蘇ると、耕太くんも気まずい表情になって目を逸らしてきた。
「だから絶対走るなよ」
「……うん、歩いて取ってくる」
 ひそひそ話をする私たちを、部の皆が不思議そうに見ていたけど、やっぱり恥ずかしくて説明なんて出来ない。

 顧問の先生から鍵を借りて、私は校舎に立ち入った。言われたとおり絶対に走らないよう、早足で音楽室へ向かう。
 準備室に古い譜面台が幾つかあった。ねじの留まり具合を手早く確かめて、一番信用の置けそうなものを持っていくことにした。準備室に施錠をしてから、皆のところへ戻ることにする。
 廊下は静まり返っていたけど、遠くの教室はがやがやと賑やかだった。吹奏楽部や応援団じゃない生徒たちは、学校で手配したバスが来るのを待っている頃だと思う。皆、今日の試合にどきどきしているのかもしれない。楽しそうな声を聞いて、私も自然と気合が入る。
 昇降口へと続く階段を、一階まで下り切ろうとした時だった。踊り場の隅に女子生徒の姿を見つけた。
 髪の短い、とても華奢な女の子。片隅にぽつんと一人で立っていた。胸元で携帯電話を握り締めたその子は、私の足音を聞きつけるとはっと顔を上げた。
 私もはっとしてしまう。見覚えのある子だったから。
 前に、耕太くんと話をしていた子。雄太くんの初恋の女の子だ。
 その子は私を見て、あ、と声を上げた。
「耕太の彼女さん」
 呼びかけられたことに、三拍くらい遅れて気が付いて――思わず私は足を止めた。びっくりしながら聞き返す。
「どうして知ってるの」
 するとその子は、短い髪を揺らしてちょっとだけ笑った。
「知ってるよ。有名だもの」
「ゆ、有名なの?」
 私が聞き返すと、また笑う。
「多分ね。あたしが知ってるくらいには」
 繊細そうに見える顔は、笑うとたちまち優しそうになる。きれいな子だな、と思う。昔、雄太くんが好きになっちゃったのも、わかる気がした。
 でも、私はどうかな……。耕太くんが私と一緒にいること、皆はどういう風に見てるんだろう。同じように『わかる気がして』貰えるかな。自信、ないなあ。
「最近、また変わったよね、耕太」
 呟くように、ショートの髪のその子が言う。
「何だか楽しそうにしてるから、彼女さんのお蔭なのかなって思ってた」
「ど、どうかな。私は何にもしてないけど……」
 慌ててしまって早口で答えると、またきれいな笑顔が見られた。たった一人でこんなところにいて、ちょっと寂しそうだなと思っていたけど、表情はとても明るい。携帯電話を握り締めているから、もしかすると誰かに連絡していたんだろうか。
 ふと、その子の目が、私の持つ譜面台に留まった。
「吹奏楽部は、これから移動?」
「うん、もう球場に入るんだ」
「そっか。応援、頑張ってね」
 そう言って貰えてうれしくて、すかさず私も言ってみた。
「あなたもね」
「うん。ありがと」
 顔を見合わせて、今度はお互いにふふっと笑う。やっぱり優しそうな、きれいな子だ。もしかすると気が合うかもな、なんて思ってしまう。まだ全然話もしてないのに、変かなあ。
 でも、もうちょっと時間があったらなって思った。こんな急いでる時じゃなくって、今度はもっとゆっくり話をしてみたい。耕太くんや雄太くんの小さな頃のこと、いろいろ聞いてみたい気もする。
「ねえ」
 少し迷って、二歩歩き出して、やっぱり立ち止まる。もう一度その子に向き直る。どうしても照れてしまって、私はそっと問いかけた。
「よかったら今度、耕太くんたちの昔のこと、教えて貰えないかな」
「耕太たちの?」
 瞬く瞳に向かって、頷く。
「うん。耕太くん、自分のことはあんまり話したがらないんだ。でも小さな頃のこととか、やっぱり聞いてみたいから」
 雄太くんのことならいっぱい話してくれるんだけど、耕太くんは自分のことを話すのがあまり好きじゃないみたい。でも、たくさんあると思うんだ。耕太くんが小さかった頃の思い出、野球をやっていた頃の素敵な思い出が、たくさんあるんじゃないかなって思う。そういうのも知ってみたい。耕太くんのことなら何でも知ってるようになりたい。
「だから、よかったら教えてくれないかな? 時間のある時でいいから」
 繰り返してお願いをすると、すぐににっこり笑って貰えた。優しい笑顔。
「もちろん、いいよ。あなたにならね」
「ありがとう!」
 私は声を上げたけど、その声が階段の上の方まで響いて、思わず首を竦めた。目の前であの子は短い髪を揺らしている。おかしそうに笑っている。つられて私も、ちょっとだけ笑ってしまった。
 初めて話した相手なのに、こんな風に笑ったり出来るなんて不思議。これも耕太くんと雄太くんのお蔭かな。一緒にいると私まで変わっていくようで、とっても楽しい気分になれる。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
 手にした譜面台を振って、私は言った。
「うん。またね」
 手を振り返して貰えた。うれしい。
「応援、頑張ろうね」
「うん、お互いにね」
 もう一度だけ笑い合って、それから私は階段を下り始めた。
 だけど、ふと思い出したことがあって、時間を気にしながらも最後にもう一度だけ振り返る。
「ね、今、一つだけ聞いてもいいかな」
 一つ、すごく気になっていることがあったんだ。どうしても心に引っ掛かっていたことが。
「いいけど、何?」
 怪訝そうな顔をしたショートの彼女に、私は小声で切り出した。
「あのね、耕太くんのことなんだけど――」

 生徒玄関を出てから、走って皆のところへ戻った。ぎりぎりセーフで間に合った。
「悪かったな、取りに行かせて」
 耕太くんが済まなそうにしている。でも私は楽しい気分だったから、笑ってかぶりを振っておいた。
「ううん。気にしないで」
「ありがとう。助かったよ」
 早口でお礼を言った耕太くんは、その後でふと眉根を寄せる。私の顔をじっと見てきた。
「お前、何かあったの?」
「何が?」
「いや、妙に機嫌よさそうにしてるから」
 耕太くんがあんまりじろじろ見てくるから、ちょっと照れた。知らないそぶりでそっぽを向いておく。
「何にもないよ」
「その割には、にやにやしてるように見えるんだけどな」
「何にもないったら。って言うかね、今は秘密なの」
「ほら、何かあるんじゃねえか」
 その『何か』を耕太くんはしばらく知りたがっていたけど、私はまだ教えてあげなかった。一生懸命笑いを堪えながら、言っておいた。
「その話は後で。今は、応援に集中すること!」
 せっかくの晴れの舞台、他のことを考えてたらもったいない。心に引っ掛かってることなんて何もないようにしておかないと。
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