Tiny garden

きょうも、あしたも(1)

 校内の空気が変わり始めてる。皆がそわそわして、わくわくしながら、落ち着かない気分で明日を待っている。それは夏休みが近いからじゃない。明日が、大切な日だからだ。
 明日は野球部が県大会の決勝へと臨む日。明日の試合で見事勝利を収めたら、甲子園への切符が手に入る。皆で一緒に行くんだから、誰もがそわそわ、わくわくしないはずがない。
 吹奏楽部の皆も、徐々に気合が入ってきた。もう外にいると暑いとか、日焼けするとか、練習がきついだなんて文句は言ってられない。私たちにとっても晴れ舞台なんだから、明日も精一杯いい応援をしたい。その為に練習を重ねてきたんだ。

「いよいよ、明日だよな」
 練習が終わってからは、耕太くんと一緒に帰る。これはほんの数日前から始まった新しい約束。耕太くんの家は私の帰り道の途中にあるから、そこまでは一緒に歩いて帰ってる。
 日の暮れた道を並んで歩きながら、話すのはやっぱり雄太くんのこと。それからいよいよ明日に迫った大事な試合のことだ。
「雄太くんの調子、どう?」
 のんびり歩きながら、私は耕太くんに聞いた。
「あいつはいつも通りだよ」
 首を竦めて、耕太くんが答える。
「毎度同じように、プレッシャーなんて知らないって顔してる。だからまあ、あいつに関しては心配要らねえだろ」
 耕太くんが雄太くんについて話す時、とても強い絆が見える。本当に信じ合ってるんだなっていうのがわかって素敵だ。時々、ちょっとだけ羨ましくもなるけど。
「それより、俺たちの方も頑張んないとな」
 ふと、耕太くんが難しい表情になる。
「俺、汗っかきだからさ。緊張し過ぎてマレット吹っ飛ばさねえかって心配なんだよな」
「だ、大丈夫じゃないかな……?」
 私は答えてから、何度か通ったあの球場の、観客席の狭さを思い浮かべる。あんなところでマレットを落っことしちゃったら、拾うのも大変そうだ。
「こまめに汗を拭けばいいよ。ずっと演奏しっ放しって訳でもないし」
「けど、うちの高校の攻撃が長引いたら演奏しっ放しだろ。そんな大事な時にマレットが吹っ飛んで、うちの顧問の頭にでも当たってみろよ。皆、演奏どころじゃなくなるぞ」
 冗談みたいなことを、真顔で言った耕太くん。
「まさか、そんなこと」
 そうは言ってみたものの、本当にそうなったらどうしよう。確かに全くありえないとも言い切れないかも……。
「もしそうなったら、お前が代わりに拾いに行ってくれよ」
「え? わ、私が?」
 耕太くんの言葉が真剣で、ぎょっとする。本気で言ってるのかな。
「そうだよ。だってお前、パートリーダーだろ」
「うん、そうだけど……」
「リーダーは責任を取るもんなんだぞ。だからもしそうなったら、『私が吾妻くんに、マレットを投げて先生の頭に命中させるよう言いました』くらいのフォローはしてくれないとな」
 本当に? そのくらいのことはしなくちゃ駄目?
 ぎょっとして思わず立ち止まった私を、耕太くんが振り返る。少し先でやっぱり足を止めて、不意にその顔が歪んだ。怒るのかと思ったら、すぐに噴き出したから――それでようやく、気付く。
「お前、どこまで本気にするんだよ」
 笑いながら言う耕太くん。どきどきしていた気持ちがふっと緩むと、私は少しだけむっとした。
「冗談なら冗談だって、そう言って欲しいな、耕太くん」
「いくらお前でも、まさか鵜呑みにするとは思わなかった」
「もう。私、本当に心配したのに」
 耕太くんの持つマレットが飛んで行っちゃったらどうしようって。そうしたらどうフォローしようかなって。だから明日は私も、余分にハンカチを持っていって、耕太くんに貸してあげるようにしようかなって、そこまでちゃんと考えてたのに。
「晴れの舞台でそんなヘマしねえよ。明日は今までで一番の演奏をするんだ」
 散々笑ってから耕太くんは言って、まだにやっとしてみせる。
「お前、面白いよなあ。何でもすぐ本気にするし」
 からかわれてる。
 最近の耕太くんは意地悪だ。私に冗談とも本気ともつかないようなことを言って、私の反応を楽しんでるみたい。からかわれる方は堪ったものじゃないのにな。
 でも、そういう耕太くんを見られるようになったのはうれしい。ちゃんと話が出来てることもうれしい。以前は耕太くんが冗談を言うなんて想像も出来なかったし、普通の会話すらままならなかったんだから。からかわれるのは苦手だけど、耕太くんが笑ってる顔を見ると、それでもいいかななんて思えてくるから不思議。
 ただ、素直に認めるのは癪だから、たまに拗ねておくことにする。
「せっかく明日、お弁当作ってこようと思ったのに」
 私はつんと澄まして言った。
「意地悪な人には食べさせてあげないよ、耕太くん」
「弁当?」
 立ち止まったままの耕太くんが、怪訝そうな顔をする。
「お前、弁当なんか作れんのか」
「失礼だなあ。私、たまに作ってきてたのに。一品だけだったけど」
 お弁当は作ったことがない。けど、おかずを余分に一品作って、持ってきたりはしていた。本当に簡単なものばかりだけどね、マカロニサラダとか、ポテトサラダとか。
 だから明日はお弁当作り初挑戦。おにぎりからおかずまで、全部自分で作ってみようと思うんだ。もし食べてくれるなら、耕太くんの分まで。
「あれ、お前が作ってたんだな」
 なぜか、耕太くんはびっくりした顔になっていた。私が料理をするの、そんなに似合わなく見えるんだろうか。確かに楽器をやる子の中には、指を怪我するのが怖くて料理をしたがらない子も多いけど。
「違うと思ってた?」
「いや、どうなのかなと疑問に思ってた。お前が作ってる可能性もありそうだなと」
 思ってたなら、聞いてくれればよかったのに。でもそれを聞いてこないのがいかにも耕太くんっぽい。
「じゃあ明日、お弁当作ってきてもいい?」
 さっきからかわれて怒ったのはもう忘れることにして、私は耕太くんに尋ねる。
「いいけど、大変じゃねえの?」
「ううん。だって、自分の分も作るつもりだから。二人分作ったってそんなに変わらないよ」
「じゃ、食べてやってもいいけど」
 耕太くんが笑う。つられて、私も笑ってしまう。
「よかった。明日は、思いっ切り縁起を担いでみるからね」
「それは別に……ってか、指怪我すんなよ。大事な試合控えてんだし」
「大丈夫だよ。私だって晴れの舞台の日にドジ踏んだりしないもん」
 明日はすごくいい日になる。私にとっても、耕太くんにとっても、皆にとっても、絶対に。
 空の夕焼けが一面オレンジ色で、とてもきれい。明日は晴れると思う。からっと晴れて、絶好の試合日和、応援日和になると思う。
「――お二人さん、何やってんの?」
 不意に、聞き慣れない声がすぐ後ろから掛けられた。
 私はとっさに振り向いて、ユニフォーム姿の、がっしりした男の子が笑っているのを見つける。隣で耕太くんが、げ、と声を上げたのも聞いた。
「いちゃつくのはいいけど、道の真ん中でやるなよ」
 そう言って、日に焼けた顔の雄太くんが笑った。雄太くんの声をすぐ近くで聞いたのは、実は初めてだった。声もあんまり似ていない。
「聞いてたのかよ」
 耕太くんがしかめっ面になる。
 だけど雄太くんは首を竦めて、
「聞いてたも何も、俺は家に帰ろうとしただけだって。そしたら道の真ん中で楽しそうにしてるアベックがいるんだもんな。俺が近付いてっても全く気が付かないではしゃいじゃってたし」
 それを聞いた私は、今になって恥ずかしくなる。そういえばいつの間にか立ち話みたいになってた……。いちゃついてたなんて、そんなつもりはちっともなかったんだけど、もっと人目を気にした方がいいのかな。
「お前、こういう時は聞こえないふりでもして黙って通り過ぎろよ」
「無理だって! 辺り一帯に筒抜けだったしさ」
「なら違う道通ってけよなあ」
「この道通んないと帰れないんですけど。同じ家に帰るのに、冷たいこと言いやがって」
 雄太くんが指差した先、二人の家はもうすぐそこだった。知らず知らず立ち止まっていた理由がそこにはある。
「いちいちうるせえ奴」
 舌打ちした耕太くんは、その後すたすたと歩き出した。逃げるように足早に、私たちの方は見向きもせず。
「あ、耕太くん!」
「すぐ機嫌損ねるんだからな、耕太は」
 私が声を上げても、雄太くんが苦笑いしても、耕太くんは振り向かなかった。あっという間に家の中へ消えてしまう。今日はもう、お別れの時間。
 また明日会えるとわかっていても、少しだけ寂しい。
「扱いにくくて大変だろ?」
 と、雄太くんが私の顔を覗き込んできた。背丈は耕太くんとあまり違わないはずなのに、体格がいいせいか、雄太くんの方が大きく見える。
「ううん、そんなこと」
 慌てて私はかぶりを振った。耕太くんから話を聞いていても、校内の有名人でも、初めて話す相手とはやっぱり緊張してしまう。雄太くんのことは随分たくさん知っているのに、不思議。
 すると雄太くんはおかしそうに笑う。
「出来た子だなあ。耕太に聞いたとおりのいい子だ」
「え?」
 その言葉にはどきっとした。
 耕太くん、私の話をしてるんだ。どんなことを話してるんだろう。何だか想像つかないけどな、私のことを雄太くんに話す耕太くんって。
 それで、ちょっと聞いてみることにした。
「耕太くん、私のことを話してるの?」
「まあな。同じ部活のパートリーダーだとか、太鼓を叩いてるとか、あといろいろ」
「いろいろ……なんだ」
 むしろ、その『いろいろ』のところが気になるのになあ、とは言えなかった。だけど雄太くんは私の表情から察したみたいで、意味ありげにこう答えた。
「双子の兄のことだから、守秘義務って奴があるんだ。ごめんな」
 ますます気になる。でも聞くのも怖いから、追及はしないでおこうと思った。
「それよりもさ」
 雄太くんは話題を変えてきた。
「二人でいる時って、どんな話してんの? さっきもすごく楽しそうだったけど」
「え? 私と、耕太くんのこと?」
「そうそう。何か想像出来ないんだよな、女の子と気安く喋ってる耕太の姿って。普段から愛想ないし、社交性もないしさ」
 そうなんだ。雄太くんにも、耕太くんのことで知らないことがあるなんて。双子だから本当に何でも知っているのかと思ってた。
 もしかしたら私は、雄太くんも知らない耕太くんの顔を知っていたりするのかな。
「どんなって言っても……部活のことが多いかなあ、話すのは」
 私はここ数日の会話内容に思いを巡らせる。やっぱり一番割合が大きいのは吹奏楽のこと。練習のこととか、後輩への指導についてとか、顧問の先生の話とか、そういうのが一番かな。
「へえ。世間話みたいだな」
 雄太くんが率直な物言いをしたから、ちょっと笑った。
「そうかもしれない。後はね、野球のこととか」
「野球?」
「うん。私、野球のルールを全然知らなかったの。だから耕太くんに教えて貰ったりして」
「ますます世間話っぽい。もっとほら、深い話とかしねえの? お二人は」
 深い話、かあ。何かあったかな。
 私が耕太くんと話すことで、一番深い話題って言ったら。
「雄太くんのことは、よく話すよ」
 そう告げた時、雄太くんは豆鉄砲を食らった顔になった。
「俺? 俺のことなんて、話してどうすんの?」
「どうって……耕太くんはきっと、雄太くんのことを自慢の弟だと思ってるんだよ」
「……いや、単に他に話題がないだけだと思う」
 ちっともうれしそうにしないで、雄太くんは溜息をついた。その後で私の方を見て、苦笑いしながらこう言った。
「うちの兄貴が苦労かけててごめんな」
「え、ううん、苦労なんて……」
「よく言い聞かせておくからさ、女の子相手だととにかく不肖の兄だけど、今後ともよろしく」
「う、うん」
 私はぎくしゃく頷いた。
 雄太くんは私に手を振ってから、耕太くんが入っていった家へと歩き出す。だけど家に入る前に一度振り向いて、笑顔でこう言ってくれた。
「明日の応援もよろしく」
 すかさず、私も笑って応じた。
「うん、任せて。雄太くんも頑張ってね」
「ありがと」
 愛想よく、もう一度手を振ってくれた雄太くん。明るくてお喋り上手で、耕太くんとはあまり似ていない。
 でも、私がもっと話したいと思うのは、やっぱり耕太くんの方かな。
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