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春の再来(1)

 三月の最初の日、空は春らしく晴れていた。
 突き抜けるような青空の一番高いところに、薄い筋状の巻雲が広がっている。門出の日にふさわしい晴れ模様を眺めながら、俺はまだここにはいない彼女のことを思う。
 今日は、雛子の卒業式だ。
 彼女が東高校で過ごす最後の日だ。
 結局、彼女は昨日の晩まで『実感が湧かない』と言っていた。もしかすると今もそうなのかもしれない。今頃は既に登校し、教室で式典の開始を待っていることだろう。彼女のご両親は仕事を半日休んで式に出るそうで、そういう話を聞く度、俺は二年前、一人きりで出席した自分の卒業式を思い出す。
 あの頃の俺は春の訪れを喜んでいた。もっとも長い冬の終わりを喜ぶようなまともな感性は持ちえておらず、東高校を卒業し、実家を出て一人暮らしを始められることが嬉しくて仕方がなかった。
 だが時は流れ、現在の俺はいつぞやよりも真っ当な春の喜びを感じている。
 この三月をただの区切りの月ではなく、胸躍るような季節として迎えている。

 雛子が卒業式に臨んでいる頃、俺は大学へ足を運んでいた。
 構内の木々はまだ寒そうに枝を揺らしていたが、膨らむ新芽がちらほらと見られ、季節の変化を感じさせた。一方、大地は既に色彩を取り戻しており、ナズナやハコベ、セイヨウタンポポなどが生い茂って春の訪れを寿いでいた。吹きつける春風は冷たく、まだコートは手放せない季節だったが、土の匂いがする風は確かに冬のものとは違っている。
 春休み中の大学構内はそれなりに人気があった。図書館の利用者は普段と変わりないくらいだったし、方々のサークル室にも頻繁に人の出入りがあるようだ。俺もこの春休みは図書館に通い、サークルに顔を出し、時々学食を利用したりして過ごしている。それから、古書店でのアルバイトも再開していた。船津さんがまた是非と頼み込んできたのもあるが、俺の方にもちょうど欲しいものがあり、入用だったからだ。
 今日も午後からあの古書店に行く予定で、同じくバイトを再開した大槻と、学食で食事をしてから向かおうと約束をしていた。大槻も春休みは楽団の活動を中心に過ごしているらしく、充実しているそぶりが日々のメールから窺えた。

 午前十一時を回ったところで、俺は待ち合わせ場所である学食へ向かった。
 さすがにこの時期の学食が混み合っているはずもなく、広い食堂内は声が響くほどがらがらに空いている。せいぜい三つ四つのテーブルが埋まっている程度で、席はどこでも選び放題だった。しかし新年度を迎えればたちまち賑わいを取り戻し、席を探すのに苦労するほど混み合うようになるのだろう。
 雛子とここで食事を取るようになる日も、もうじきやってくる。彼女とここで待ち合わせて、どちらかが先に来て、二人分の席を取っておいたりして――そんな楽しい想像をしながら、俺は隅の方のテーブルに着いた。いつものように大槻はまだ来ていないので、コーヒーを飲みながら読書をして待つことにした。
 読書、と読んでいいのかはわからないが、最近の俺の愛読書は文芸書ではなく、家具店のカタログだった。それを広げて漫然とめくっているうち、俺の座るテーブルに見慣れた男の影が差しかかった。
「鳴海くん、お待たせ! ――何読んでんの?」
 声をかけられた俺は何気なく顔を上げ、次の瞬間、視界に飛び込んできた見慣れぬ姿にぎょっとした。
「大槻? その頭はどうした。何があった?」
「どうしたもこうしたも、これが俺本来の頭だよ」
 照れ笑いを浮かべる大槻の髪色は、カラスの羽と比べてもひけを取らない黒一色だった。
 髪型自体が大きく変わったわけではないのだが、出会った頃からずっと明るい髪色の大槻を見てきただけに、今の姿には強烈な違和感がある。しかも昨日までは変化の兆しすらなかったというのに。
「ほら、昨日月末でバイト代出たじゃん? だからその足で髪切りに行って、ついでに色戻してきた」
 俺の真向かいの椅子を引き、大槻が腰を下ろす。いくらかすっきりした髪型は毎日会っていればこそ気づける変化だが、髪色の変化は劇的だった。まるで別人のようにさえ映るから奇妙だ。今の大槻は実に生真面目かつ勤勉そうな大学生、というふうに見えなくもない。
「どういう風の吹き回しだ」
 驚きのあまり、俺はしげしげと見入ってしまった。
 それが気まずいのか、大槻は自らの髪をかき上げる。
「だって俺ら、もうじき三年だろ。就活も始まるし、ちょっと早いけど戻しとこうかと思って」
 奴が語ったのは一応筋の通った話ではある。だが本人の言う通りいささか気が早いことだろうし、それにどうも納得がいかない。あまりにも急すぎると言うか、何の前触れもなしに取る行動とも思えないのだ。大槻の身に、何か心境の変化を引き起こすようなきっかけでもあったのではないかと勘繰りたくなる。
 もっとも、俺にはそのきっかけについて思い当たる節がない。何より大槻本人がさっぱりとした顔をしているので、悪いことではないのだろうとひとまず思っておくことにした。
「楽団の連中には『地味になった』って言われたけどね。没個性だ埋もれるだけだって好き放題言われたよ」
 大槻はどこか楽しげに語ったが、俺はそうは思わない。
 案外と、高校時代の大槻はこんなふうに生真面目そうな人間だったのではないか、という気がしていた。
「そんなに悪くない。むしろ黒いままの方が似合うんじゃないか」
 俺が感想を述べると、大槻は面食らったように苦笑する。
「そう? 似合うって言ってくれたの、君でようやく二人目だよ」
「一人目は誰だ」
 その点について追及しようとしても回答はなく、大槻はまるで話題を変えるように俺の手元へ目をやる。
「ところで鳴海くんは何読んでたの?」
 大槻の唐突な変身ぶりのせいですっかり忘れていたが、俺はカタログを卓上に出しっ放しにしていた。別に見られてまずいというほどのものではないが、何を買うのかと聞かれれば答えにくい。しかし曖昧に濁せばかえって怪しむのが大槻なので、俺は八割ほど正直に言った。
「家具を見ていた。部屋の模様替えを考えている」
「へえ。やっぱ同棲すんの?」
「……そんなわけがあるか」
 できるはずがない。以前も同じことを聞かれて、きっぱりと答えていた。
 だが大槻はにやにやしながら俺を試すように見て、
「絶対楽しいと思うけどなあ、そっちの方が。二人暮らしって憧れない?」
 憧れは確かにある。
 しかし俺は大槻が語るほど同棲を気楽なものだとは思っていない。むしろそこまでするくらいなら結婚すべきだと考えているから、彼女との間にそういう話が持ち上がることもないだろう。
 それに、雛子は俺と待ち合わせて一緒に登校したいと言っていた。
 彼女のささやかな願いを叶えてやる為にも、しばらくは一人暮らしでいい。これからますます狭くなるあの部屋で二人暮らしは厳しいだろうし、彼女が休日に、あるいは大学の帰りにでも時々訪ねてきてくれるだけで、今のところは十分幸せだ。
「ところで、模様替えって具体的に何買う気?」
 大槻が不意に手を伸ばし、断りもなく俺の持つカタログをめくる。ぱらぱらと眺めるでもなくページを繰るのを見下ろしながら、俺は答えを濁した。
「別に大したものじゃない」
「ふうん。俺には言いにくいものってことですか」
 それだけで全て察したような顔を大槻はする。
 まさかと思いきや、奴は一層にやつきながら言った。
「まあでも、君の部屋にある日いきなりどでかいベッドが置かれてたって、俺はあえて突っ込まないよ。黙って察してあげるよ」
 毎度のことながら、大槻のこの手のことに対する無駄なまでの鋭さには恐れ入る。
 あまりの的中ぶりに俺が思わず身を引くと、奴はしてやったりというように満面の笑みを浮かべた。
「お、当たり? やっぱ布団いちいち敷くのめんどいよね」
「俺はまだ何も言ってない」
「こっちだって別に変なことは言ってないだろ。君の身長じゃシングルは小さいだろうなって踏んでの意見だし」
 もはや何を言っても勝てる気がしない。と言うより、これ以上何か言えばことごとく薮蛇になるだろうという予感がひしひしとする。
 俺は先程の大槻と同じように回答を避け、カタログを素早く鞄へしまった。それから話題を変えるつもりで席を立つ。
「とりあえず、食事にしよう」
「いいよ」
 まだ見慣れない黒髪の大槻は、癪に障るくらいの笑顔で頷いた。

 学食で食事を取りながらの話題は、やはり今日卒業式を迎える雛子のことばかりだった。
「そっか、雛子ちゃんは今日で卒業なのか……」
 大槻が柄にもなくしみじみしてみせる。
 今頃はもう式典も終わり、雛子は教室に戻っていることだろう。そろそろ帰宅時間かもしれない。
 雛子は、結局、泣いたのだろうか。
「時が経つの早いなって思うね。一年なんてあっという間だったよ。いろいろあったのにな」
 思いを馳せるように大槻は言うが、俺からすればこの一年間は少し長いくらいだった。
 何かにつけて彼女を待っていることが多かったせいかもしれない。
 しかし俺の、長かった待ち時間はもう終わりだ。春が訪れて、新しい日々が幕を開けようとしている。今は四月になるのが待ち遠しくて仕方がない。
「鳴海くん、嬉しそうだね。雛子ちゃんがうちの大学来るの、楽しみなんだろ」
 大槻からの鋭い指摘に、俺は慌てて口元を引き締める。
「嬉しくないとは言わない」
「いや、そこは素直に言っていいんじゃないの。雛子ちゃんが来るのを待ってたって」
「……それも、否定はしない」
 彼女がここの大学に受かったことは素直に嬉しいし、彼女と再び学生生活を送ることができるのも幸せだと思う。
 だが俺が目に見えて浮かれるようでは雛子も戸惑うだろうし、彼女の学業が疎かにならないよう、先輩として適切な助言をするのも俺の重要な役目だ。模範的な先輩として、最大限の努力と配慮をしつつ彼女の新生活を支えていきたい。
「雛子にとっては新生活の始まりでもあるからな。早く慣れることができるよう、手を差し伸べてやりたいと思っている」
 もっとも、彼女自身に心配はさほどないだろう。彼女の真面目さ、ひたむきさは俺もよく知るところだ。多少慣れないことがあっても見事に乗り越えてみせるだろうと思っている。俺は求められた時だけ、必要な助言をすればいい。
「そうだね。ま、雛子ちゃんなら大学にもあっさり馴染んでそうだけど」
 大槻も俺の胸中を酌んだように言う。
 その後で少し愉快そうに続けた。
「むしろ君の心配事が増える一方かもね。前にも言ったけど、雛子ちゃんは大学入ったらきれいになると思うよ」
 面白がっているような口調は腹立たしかったが、それは実に差し迫った、深刻な問題でもある。
「新歓とかでもさ、たまに手癖の悪い奴とかいるからね。新入生に親切にするそぶりであれこれ声かけてくる奴とかさ」
「ああ、いるな。鬱陶しい連中だ」
 高校と比べるとやけに開放的なのが大学の気風というものなのかもしれない。だが新歓やらクラコンやら、はたまたサークルやゼミの会合ととかく大人数で集まる機会が多いのが大学生活であり、そういった場では馴れ馴れしくふるまう人間が多いのも事実だった。そしてその手の集まりに、さも自然な流れであるかのように酒が登場するのは更にいただけない。俺は未成年のうちはアルコールの類に一切手をつけなかったが、何度か先輩らしき連中から執拗に勧められたことはあるし、唯々諾々と受け入れた同期たちがいる事実も把握している。
 俺よりも遥かに社交的な雛子が大学でどんな人間関係を築くのか、正直に言えば心配もある。雛子には諍いや不和のない大学生活を送って欲しいと思う一方で、変わりゆく彼女に寄りつきそうな悪い虫の出現を危惧してもいる。必要なら俺が彼女の身辺を守ることもやぶさかではない。
「虫除けには何が効くだろうな」
 俺は低く呟いた。
「これ見よがしに四六時中一緒にいれば、連中の寄りつく隙もないだろうか」
「何か鳴海くん、すんげえ怖い顔してんですけど……」
 自分で煽っておきながら、大槻が俺を見て恐れをなしている。あまりにも失礼な言い種だ。
 俺が睨むと大槻は半笑いで何事か考え出した。それからいきなり手を打って、
「じゃあさ、こういうのどう? いっそ俺らも一緒に新歓出るんだよ!」
 妙なことを言い出したので、俺は思わず顔を顰める。
「俺たちは新入生じゃないぞ」
「そんなの紛れ込んでりゃわかんないって! 面白そうじゃん、雛子ちゃんの両隣俺らで固めてさ!」
「いや、顔を見ればわかる。俺もお前もどう見ても新入生って面構えじゃない」
「そこは腕の見せどころだよ。こう、いかにもこの辺慣れてませんって顔でキャンパスうろつくんだよ」
 と、大槻はどこか不安げな表情を作ってみせた。見ようによっては慣れない環境に怯える新入生のようでもあったが、胃もたれを起こして具合悪そうにしている顔つき、という方が近いかもしれない。
「すると新入部員に飢えた各種サークルのお兄様お姉様が声かけてくれるからさ。あとはチラシ受け取って素直に話聞いてのこのこついていけばいいだけ。上手くいけばただ飯ゲットだぜ」
 およそ現実的ではない意見のようにも思えたが、大槻の言葉にはどういうわけか信憑性があった。
 というより、既に実証済みなのではないかという予感もした。まさかとは思いたいが、大槻ならやりかねない。
「まあ何にせよ、可愛い彼女がいると大変だよね。心配事も多くてさ」
 大槻の妙に同情的な視線をかわし、俺が食事をしながらあれこれ策を練っていると、不意に俺の携帯電話が鳴った。
 断続的な短い電子音はメールを受信したという知らせだった。この時間に来るメールはほぼ間違いなく雛子からのものだろう。卒業式が終わったという報告だろうと推測している。
「鳴海くん、メール見ないの?」
 着信音を聞きつけた大槻が尋ねてくる。
「後にする。今は食事中だ」
「けど、雛子ちゃんからだろ? 卒業式終わったって連絡だろうし、見てあげれば?」
 促されて、俺は仕方なくというふうを装いながら携帯電話を取り出した。
 内心、彼女がどうしているのか気になっていたので、いそいそとメールを開く。予想通りそれは雛子からのもので、タイトルにも『卒業しました!』とあった。
 メールの文面は簡潔で、『卒業記念に撮りました』とだけある。メールには画像が添付されており、そちらには明るい光差す文芸部の部室と、折り畳みテーブルの天板や部室の床の上に伸びる雛子の影が写っていた。彼女だとわかったのは身体つきを見慣れているせいもあるが、髪を二つ結びにしているところまで鮮明に描かれていたからでもある。
「何これ。ここどこ? これ、雛子ちゃんの影?」
 大槻がわざわざ身を乗り出して、画面を覗き込んでくる。
 このくらいなら見せても問題ないだろうと、俺は奴にもよく見えるよう、携帯電話を向けてやる。
「東高校の、文芸部の部室だ」
「へえ。何か絵になる構図だね」
「そうだな」
 今度ばかりは俺も、大槻の言葉に素直に頷く。
 雛子の姿が見えないのは惜しかったが、それは恐らく彼女もまた、直にそこを去るからなのだろう。俺がかつていた場所から、彼女もまた旅立とうとしている。しかし俺たちがいなくなったとしても、そこに俺たちがいた、青春時代を過ごしたという事実が消えるわけではない。俺たちの中には思い出としていつまでも残っていくことだろう。
 それにしても本当にいい写真だ。春らしい光に溢れた部室を眺めていると、温められた空気と日差しの眩しさ、それに隣の図書室から漂う古い本の匂いまで伝わってくるようだった。彼女がいい卒業式を迎えられたのだろうとわかり、俺の心まで温かくなる。前に言っていた通り、泣かずに済んだのかもしれない。
「いいなあ、青春って感じ」
 大槻が溜息をついた時だ。再び俺の携帯電話が鳴り、新たなメールを受信した。
 俺は何のためらいもなくそれを開封し、大槻もこちらをじっと見ていた。メールの文章は今回も短く、『これは教室の黒板です』とある。添付の画像を開いた瞬間、俺は髪を染め直した大槻を見た時以上に衝撃的な光景を目の当たりにした。
 その画像には教室の黒板の左半分が収まっていた。黒板には色とりどりのチョークで落書きがされており、それは卒業を喜ぶメッセージだったり、担任教師にあてた感謝の言葉だったり、あるいは全く無意味な書きなぐりの文章だったりと様々だ。黒板の中央にはC組の担任と思しき人物の似顔絵らしきものが書いてあったが、ピントが合っていない為に似ているかどうかはよくわからなかった。
 そして黒板の隅には、見覚えのある字でこう記されていた。
『先輩と同じ大学に行きます!』
 赤、黄、白と三色のチョークを使って立体的に書かれたその丸みを帯びた字が誰のものか、すぐにわかった。
 だがそれ以上に俺を狼狽させたのは、隣に記された雛子の字ではない書き込み――絵と言うべきか字と言うべきかわからないその図は、いわゆる相合傘だった。傘の下には雛子の名の隣に『鳴海先輩』という名前が、どういうわけか並べて書いてある。
「ん? これ何て書いてあんの?」
 思わず凍りついた俺の手から、大槻が携帯電話を掻っ攫おうとする。
 慌てて取り返せば明らかに疑るような目を向けられた。
「何をそんなに慌ててんの。何かまずいことでも書いてあった?」
「書いてない!」
「その反応は嘘だね。まあいいから見せてみ」
「こら、勝手に触るな!」
「いいじゃん俺たち友達なんだし。ってかその顔見たら絶対覗きたくなるっつうの」
「友達でも許されないことがあるぞ、大槻!」
 しばらくの間、俺と大槻は互いに席を立ち、テーブルの上で携帯電話を巡って取り合いになった。俺は自分の携帯電話を死守しようと躍起になったが、大槻は巧みにフェイントをかけながら俺を翻弄し、一瞬の隙を突いてそれを奪い取る。
「取った! よっしゃ見てやろ、じっくり拝んでやろ」
「大槻! 駄目だ見るな返せ!」
「いいから見せろって。どれどれ……」
 俺の額を手のひらで押しのけるようにして、大槻は携帯電話を覗き込む。しばらく眺めてからにわかに天を仰いで、腹の底から響くような声を上げた。
「うは、いいもん見たわー! 君たちってば母校でも公認カップルなんだね!」
「見たな……! 今すぐ記憶から抹消しろ!」
「やだね。ってかせっかくだから俺のアドレスに転送させてよ」
「それはもっと駄目だ! いいから寄越せ!」
 俺は大槻の手から携帯電話を取り上げるのに大変骨を折り、大槻は大槻でしばらくにやついては俺を散々にからかった。
「そんな拗ねんなって鳴海くん! いいじゃん皆に祝福されてんだからさあ。雛子ちゃんだってそれ撮って送ってきたってことは満更でもないんだろ。じゃなきゃわざわざ君に見せないって!」
 雛子がなぜこれを送りつけてきたのかは薄々察しがつく。彼女なりの悪戯心によるものなのだろうと思うし、それによって俺がどれほど困るのかということもわかった上での行動だろう。
 だがこの画像は彼女の教室を写したものであり、教室にこんな落書きを残していくのはどうなのだろう。教師たちが見たら何と言うかわかったものではない。いや、今更教師たちに何か言われたところでどうということもないが、こればかりは恥ずかしい。非常に恥ずかしい。画像を消してやりたい衝動にも駆られたが、雛子が送ってくれたものだと思うと抵抗があった。何より俺が画像を消去したところで、雛子の携帯電話とC組の黒板、そしてそれを見たものの記憶の中には残るのだ。あの相合傘が。
「いい卒業式だったんだろうなあ。よかったね、鳴海くん」
 大槻が慰めともつかないことを言ったので、俺はそっぽを向いてやる。
「雛子には釘を刺しておこう。入学したら、誰よりも大槻には気をつけろと」
「何でだよ。俺、雛子ちゃんに対しては超いい先輩になっちゃうぜ」
「お前みたいに厄介で油断ならない男が他にいるか」
「そう言うけどね、鳴海くん。俺は昔、これでも優等生で通ってたんだよ」
 奴がにんまりと笑んだのが声だけでわかる。
 俺はわざとらしく息をつき、嘆いてやった。
「どうして優等生のまま大学に入学してこなかったんだ」
「人に歴史ありって言うだろ。おかげで楽しい大学生活送ってるよ」
 苛立ちを覚えながら視線を戻せば、大槻は髪色だけに優等生の名残りを残し、予想通りこの上なくいい笑顔を浮かべていた。
「来年度はますます楽しくなりそうだね、鳴海くん!」
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