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夢よりも甘く(5)

 雛子が深く俯いた。
 俺が握り締めている彼女の手は小刻みに震えていた。寒さのせいでないことは、その温もりからもわかる。
 彼女は俯いたまま、俺を見ずに口を開いた。
「あの、先に一つ、仮定の話として聞いておきたいんですけど……」
 緊張をはらんだ声がぎこちなく、何かを切り出そうとする。
「何だ」
 俺は短く応じた。それ以上は余計なことまで言ってしまいそうに思えたから、どうにか堪える。
 緊張しているのは俺も同じことだ。目を合わせてくれない雛子のつむじを見下ろしながら、何を尋ねられるのかと身構えていた。この期に及んで彼女に対してやましいところなど一つもないが、言葉を尽くす必要はあるだろう。彼女を深く想っている事実を伝えるのに、十分すぎるということはない。
「もし……」
 雛子が震える声で続ける。
「もし、私が、これからは聞かないでくださいってお願いしたら」
 わずかにだけ、彼女の視線が上がった。切り揃えられた前髪越しに臥せた長い睫毛と、銀色に光る眼鏡のフレームが覗く。
 まだ見えないところにある唇から、更に言葉が紡ぎ出される。
「先輩は……どうしますか」
 俺が瞬きをすれば、雛子はようやく表情全てが見えるまで面を上げた。
 上目遣いの眼差しは縋るようだったが、今はそこから彼女らしい思慮深さも窺えた。彼女なりに俺の言葉を受け止め、考えているのが読み取れる。
「それなら、次からは聞かないようにする」
 至って簡潔に、正直に、俺は答えた。
 それで雛子は笑みを作ろうとしたようだ。唇の両端が少しだけ、不器用に持ち上がったように見えた。
「あの、私は……べ、別に、嫌なわけではないんです。ただ、何て言うか」
 てんで形になっていない微笑と共に、彼女は言った。
「自分で言っておいて何ですけど、答えるのが、は、恥ずかしくて」
 それはそうだろうと俺も思う。こんな話題を、例えば読んだ本について語り合うように気楽に口に出せるほど、俺たちはこの手の事柄に慣れているわけではない。
 雛子に限って言えば、慣れていないそぶりがかえって可愛く映る。言葉一つ続けるだけでも湯気が出そうなくらいに恥じ入る姿が、端的に言えば、そそる。
「だからあの、今も、聞いてもらったのに、どう答えていいのか……」
 彼女はあくまでも真剣そのもので、自らの胸中を伝えようと懸命になっていた。
 だが、雛子が俺と真面目に向き合ってくれていることはわかっても、肝心のところが見えてこない。彼女の意思が何よりも大切で、必要な場面だというのに、彼女はそれをなかなか口に出せないようだった。選ぶ言葉すら見つからないのか、すっかり困り果てた顔で俺を見上げてくる。 
「……雛子」
 俺は彼女の名を呼んだ。
 雛子は答えない。俺を見上げながら、何かを必死になって考えている。そのれは彼女の中で交通渋滞のような停滞を引き起こしているらしく、思案に暮れる彼女は非常に苦しそうだった。
 よほど、もういいと言ってやろうかと思った。
 そこまで考えても言葉にならないような考えだというなら、無理に口にさせることもないだろう。俺は彼女の困った顔を見るのは好きだが、苦しめたいとは思っていない。雛子がどうしても言葉を見つけられないというのなら、その答えは次の機会に聞かせてもらえばいい。俺たちにはこれからいくらでも時間があるはずだった。
 だから口を開きかけて、――しかし、すぐにやめた。
 真っ赤になって黙り込む彼女が、苦しげにしながらも尚、逡巡しているのがわかったからだった。
 俺は今日まで、長い間待っていた。
 もう少し、もう少しだけ。彼女が次の言葉を見つけるまで待っていることくらい、どうってことはないだろう。
 それで俺は待つことにした。長く続く沈黙と二人きりの部屋に漂う熱っぽい空気がすっかり俺をのぼせ上がらせていたが、辛抱強く待った。気恥ずかしさにも絶えず湧き上がる衝動にも耐えながら、彼女の答えを待っていた。
 どのくらい、経った頃だろう。
 彼女が息を吸い込むのが聞こえた。
「私も、先輩が好きです。大好きです」
 目を合わせた雛子が、遂に逡巡と沈黙を打ち破った。
「だから私、先輩になら何をされてもいいです」
 生真面目な口調でとんでもないことを言うものだ。俺は密かにぎょっとした。
 だが雛子の言葉なら、それも嘘ではない。信じていいのだろう。俺は彼女の手からそっと自分の手を離し、更に何か言おうとする彼女が口を開くまで待った。
「だから……」
 続けた言葉の途中で、雛子は笑んだ。
 今度の笑顔もぎこちなかった。むしろすぐにでも泣き出しそうに見えた。
 それでも、俺にとってはどう見えるかということよりも、彼女が笑おうとする意思の方が大切だった。
「わ、私でよければ……あの、先輩の好きにしてもらえたらって……」
 泣き笑いの表情で彼女はそこまで言った。そこからはもう声も途切れて、聞こえなくなっていた。まだ何か言わなければと考え込むそぶりも見せたが、俺は別のことを考えていた。
 これ以上は待たなくてもいい、そう確信していた。
 聞きたい言葉は全て貰えた。望んだ以上に聞かせてもらうことができた。
「もういい。わかった」
 俺はそう言って、彼女のこれ以上の言葉を制した。
 それから彼女の背中に片手を添え、もう片方の手は肩に触れ、そっと力をかけて彼女を押し倒した。さしたる抵抗も見せないまま、雛子は床に敷いたラグの上に横たわった。
 仰向けの姿勢で、雛子はぼんやりと天井を見上げている。表情は例によって困り果てており、これから何が起きるのかまるでわからないという顔つきをしていた。もう知っているくせに、なぜそんな顔をするのだろう。
 お気に入りだというニットのワンピースは彼女の身体の線を浮き立たせていて、横たわった姿勢でも胸の形がよくわかった。彼女が履いている黒いタイツは思ったよりも厚みがあり、鉄壁の守備を敷いているように映った。これはどうするものなのか、俺はよく知らなかった。こんな時にふと、大槻が以前ストッキングを履いたという話を思い出してしまって、あいつならどうすればいいかわかっているのだろうと場違いなことを考えた。
 気分を損ねる余計な考えは即座に打ち捨て、俺は雛子の顔を覗き込む。
 上下で視線が絡み合うと、彼女は身体を震わせた。
「寒くないか」
 日は入っているし暖房も効いてはいるが、床の上は冷えるかもしれない。そう思って尋ねると、雛子は微かに聞き取れるほどの声で答えた。
「暑いです、すごく」
 頬や耳だけでなく、首筋まで紅潮させている。確かに暑そうだった。
 だが彼女から見れば、俺も同じように赤くなっているのかもしれない。暖房を一旦止めたくなるほど暑かった。
「俺も暑い。きっと、ちょうどいいくらいだ」
 言いながら俺は、横たわる雛子の顔に自分の顔を近づけた。鼻先が触れるほどの距離から見下ろす顔は、俺の影が落ちるとひとたまりもなく動揺した。淡い色の唇が軽く開いて息を呑んだので、俺はそこを自分の唇で塞いだ。
 唇を重ねているのは幸せだった。心がゆっくりと満たされていくようだった。だが一方でそれだけでは足りないという思いも過ぎっていた。
 もっと触れ合いたい。唇だけではなく、全てを重ねていたい。
 俺は一度身を起こし、欲求に従うが如く着ていたセーターを脱いだ。それを床に放り、次に左手首の腕時計を外す。時間にして十数秒のその作業さえもどかしく思っている俺を、いつしか雛子がじっと見つめていた。何も言わない彼女は、まだ自体を飲み込めていないような、呆然とした面持ちでいた。
 だがそれでも、以前よりはおとなしい反応に見えた。前はもっと酷くうろたえて、その場で凍りついていたからだ。
「暑いから脱いだんだ」
 前回のことを思い出した俺は、雛子にも思い出させてやろうとそう告げた。
 それはどうやら功を奏したと見え、彼女は早口になって言った。
「私はまだいいです、そこまでは暑くないので」
 その時、俺は彼女のワンピースの裾に手をかけていた。黒いタイツの生地が彼女の大腿部まで覆っているのがちらりと覗けた。上と下が繋がったこの服は俺にとっては手間が省けていいのだが、彼女は抵抗があるのだろう。こちらの行動を制するような物言いをされたので、俺はわざと聞き返す。
「やっぱり寒いのか」
「寒いってほどではないんですけど……」
 雛子が口ごもる。暑そうにしている割に、その身体は今なお震えていた。
 それならこの震えを止めてやるのが先だろう。
「何なら、俺の体温を分けてやろうか。すぐ温かくなる」
 言うが早いか俺は彼女の上に覆い被さり、全身を包み込むように重ねた。彼女に体重がかからないよう両腕で支えつつ、身体を触れ合わせた。セーターを脱いだ腕に彼女のワンピースの生地が触れると少々くすぐったく、顔を埋めた髪からは女らしい匂いが感じられた。燃えるように熱い耳朶が俺の頬に触れたから、俺はそっと顔を上げて彼女の表情を覗き見た。
 雛子は固く目をつむっていた。羞恥一色の顔にはそれでも嫌がっているそぶりは一切なく、抵抗の気配もまるでなかった。行き場に困ったのか、両手を降参するかのように肩のところまで上げ、指先は軽く握り込んでいる。驚くほど無防備なその体勢に、俺は先程言われたばかりの言葉を心の中で繰り返す。
 俺になら何をされてもいいと、彼女は言った。
 それはこの上なく深い信頼の証であり、何よりも甘い愛の言葉でもあった。
「……ははっ」
 気がつくと、笑い声が漏れていた。
 俺が笑う時、傍にはいつも雛子がいた。雛子の前でなら些細なことも楽しさや嬉しさに変わった。そして今は限りない幸福感から、およそ珍しいほどの笑い声が出た。
 たちまち雛子が目を開けた。この一瞬、自分が置かれた状況すら忘れたように驚きの眼差しを向けてきた。
 さすがに俺も気恥ずかしくなり、急いで彼女に告げた。
「嬉しくて、つい……。雰囲気を壊したなら謝る」
 雛子は黙って首を横に振る。
 それだけで俺はとても安堵する。
「よかった。幸せだ」
 俺が彼女と共にいて得たものの大きさは、測り知れない。わずか二年前、戸惑いながらも彼女を傍に置き始めた頃は、こんな日がやってくるなどと考えもしなかった。夢に見るよりも甘く、幸いな時間がここにはある。
 あとは彼女にも、同じように思っていてもらいたい。
 その為の努力は惜しまないつもりだ。今日、これから過ごす時間においても。
 俺の言葉のせいかどうか、雛子が黒目がちな瞳を揺らした。そして俺のシャツの胸元を、縋るように手で握り締めてきた。
 声は酷く切羽詰まった様子で、こう訴えてきた。
「せ、先輩、私、心臓止まっちゃいそうです」
「お前のは俺のよりも丈夫だろうと思っていたが」
 俺は本心から応じた。雛子の一挙一動にことごとく反応しては全ての思考と行動に支障をきたす俺のものと比べれば、彼女の胸の内側に眠る心臓は至ってタフにできているように見えた。そうでなければ、俺に何をされてもいいだの、好きにしてもらえたらだのと、こちらに言質を与えるような言葉を次々と口にはしないはずだ。
 だが考えてみれば、彼女には迂闊なところも多々ある。俺を煽るようなことを言うのも実はそれほど意識してのものではなく、純粋に迂闊さゆえなのかもしれない。そして彼女もまた、意外と俺の一挙一動に振り回されているらしい。
 シャツを掴む小さな手に、今は心臓ごと握られたように思えた。
 そのまま離さずに持っているといい。俺の全ては、お前のものだ。
「でもこうして、お前に縋られるのも悪くない」
 俺は縋りつく彼女の手を、自らの手で握る。
 彼女の心臓を握り返すかのように強く、離さずに済むよう力を込めた。
 雛子はすっかりどぎまぎしているようで、そのくせ視線は俺から外さず、逃げ出そうとするそぶりもない。触れ合う肩も、胸も、脚も全て震えているのに、ひたすら一途な眼差しを俺に向けてくる。相変わらず俺のシャツは掴んだまま、俺に手を握られたままで、ずっと息を詰めていたのだろう。ふと苦しげな吐息が漏れ、その微かな声が引き金のように俺を衝き動かした。
「可愛いな、お前は。本当に」
 声に出して俺は呟いた。
 その思いはいとも簡単に全身を駆け巡って俺を支配し、あとはもう止まるところを知らなかった。

 煮詰めたような甘い時間が過ぎ去った後、一つだけ、後悔していることがあった。
 と言っても、俺が雛子に対して取った行動についてではない。俺は彼女に可能な限り愛情をもって接したつもりだった。わざと彼女を困らせるようなことも多少はしたが、それも愛情表現の一つだと俺は解釈しているし、困った顔をする彼女はやはり大変に可愛かったので満足している。
 悔やんでいるのはまた別件についてであり、
「また布団を敷き忘れた……」
 その点について俺がぼやくと、二人で包まる毛布の中で雛子がもぞもぞと動いてこちらを見た。頬の赤みはまだ引かず、涙の跡が残っている。あどけなく開いた唇は普段よりも色づき、少しだけ乾いていた。乱れた髪もそのままに、いつものようにひたむきに瞳を潤ませる彼女に、俺は現在に至るまでの時間を遡り、振り返りたくなる。
 先程まではまるで別人のような顔をしていた。
 こうも変わるものなのかと驚く反面、どちらがいいということでもないのもわかっていた。普段の彼女を知っているからこそ、別の顔もまたいいと思えるのだろう。
 つい、もう一度見たいな、と思ってしまう。
 俺が記憶を反芻している間も、雛子は黙ってこちらを見つめていた。すっかり怪訝そうな顔をしているから、俺も彼女の疑問に答えてやることにする。
「少し、思い出していた」
「何をですか?」
「ついさっきのことをだ」
 悔やんでいる。前回も同じことを後から思った。にもかかわらずその反省を生かせなかったのは無様だというより他ないだろう。
 外はまだ明るかったが、日光の色が次第に濃くなり始め、部屋の外からは冷たい空気が忍び寄りつつあった。そんな時分に雛子を床に寝かせておくのは酷い扱いだろう。まして俺が彼女から着衣を剥ぎ取ったのであれば尚のことだ。ひとまずはクローゼットから毛布を引っ張り出し、二人で包まってはみたが、事前に布団を敷いていればもっとよかったことだろう。
 しかし記憶を手繰り寄せてみれば、事前と言ってもあの流れのうちでいつ布団を敷いておけばよかったのか、俺にはまるで思い当たらなかった。
「よくよく考えてみれば布団を敷くタイミングなどなかったな」
 俺はここまでの過程を顧みながら呟く。
 彼女を床に押し倒した時点で、既に布団を敷くタイミングを逸していたような気がした。そこから立ち上がってクローゼットへ向かい、布団一式を引っ張り出してくるというのも妙だし、八畳という部屋の狭さを考えれば、せっかく押し倒した彼女を一旦起こしてやらなければならなかったことだろう。それはあまりにも段取りが悪すぎる。
 かと言ってそれよりも早く、雛子と押し問答を繰り広げる直前で布団を敷くのは尚早だ、場合によってはそれだけで俺の下心が彼女に伝わり、彼女を一層戸惑わせてしまう。
 やはり適当なのは彼女と話し合い、了承を得て、押し倒す前の段階でということになるだろう。
 そんな結論を導き出した後、俺はすぐに首を捻った。
「しかしあの流れでワンクッション置くのも興醒めという気がするし、お前に切り出す余裕もなかったし……」
 話がまとまったところでいそいそと布団を敷き始めるというのも、それはそれで妙に張り切っているような、いざこれからという印象があって気まずく思えてならない。もっと回数を重ねて手慣れてくればまた別なのだろうが、こういうことに不慣れな俺たちにとって、一旦流れを止めてその為の用意をするという行動には、強い必要性でもない限りなかなか移れないものだった。
 そして布団にはそれほど必要性を感じていなかった――必要だったと思うのは、二度とも、全て終わってからのことだった。
「いいです、あの、そんなこと真面目に考えなくても」
 何を思ったか、雛子が慌てふためいて俺の思案を制止にかかる。
 俺は毛布の中で腹ばいになり、頬杖をついて頭を起こした。床に敷いたラグはこうしてみるとさほど柔らかくなく、肘の骨には床と変わらぬほど硬く感じた。
「だが、お前をこうして床に転がしておくというのも粗末な扱いをしているようでよくないだろう。こんなことなら布団ではなく、ベッドを購入しておくべきだった」
 いつだったか、大槻に『いちいち布団を敷くのは面倒じゃないのか』というようなことを聞かれた覚えがある。
 俺は別に面倒ではないと答えたはずだし、実際そう思っていた。
 実際、一人で寝る分には面倒ではなかったし、奴にいくら勧められようとベッドに乗り換える気にはなれなかった。
 そもそも俺が一人暮らしを始めた際にベッドを買わなかった理由は、この部屋に雛子を呼ぶこともあるだろうと思っていたからだった。頑ななまでに潔癖でありたかった当時の俺は、彼女を招くに当たり、寝具の類が目につくところにあっては不健全だろうと思っていたのだ。今となっては滑稽で、空回りにも程がある心配だった。
 それなら、今こそベッドに乗り換えてもいいのではないかと思うのだが――俺の見え透いた行動を雛子がどう受け止めるかは未知数だ。もう少し検討することにしよう。
 とりあえずベッドを購入した場合、大槻はしばらく部屋に呼ばない。見られたら何を言われるかわかったものではない。
「私は一時期、先輩が机で寝ているんじゃないかって思ってました」
 雛子がそう言いながら、毛布を少し引き上げようとした。
 彼女の剥き出しの肩が今は毛布の外にあり、白い素肌が部屋の冷えていく空気に晒されている。俺は彼女の代わりに毛布を引っ張り上げると、その細い肩をしっかりと包んでやった。途端に雛子が屈託なく微笑み、俺は先の彼女の言葉に呆れる。
「俺はそこまでものぐさじゃない」
「それはわかってますけど。でも私、もうずっと見たことなかったんですよ」
 もちろんそれも、俺が彼女に見せない努力をしてきたからこその結果だ。必要な努力であったかどうかはさておき。
「だからと言ってその想像は心外だ。俺だって寝る時はちゃんと横になる」
 机なんぞで眠ったところで身体が休まるはずもない。俺はそう反論した後でふとひらめき、雛子に対して持ちかけた。
「それなら次にお前が来る時は、あらかじめ布団を敷いておこうか」
 そうすればいつ布団を敷くかと頭を悩ませることも、流れを遮って布団を敷く手間も要らない。
 ただ見栄えは明らかによくないだろうし、部屋を訪ねてきた雛子を一段と意識させてしまうことにもなるだろう。
「え……!」
 予想通り、雛子が絶句した。
 俺はその反応を面白く思いつつ、今の意見を撤回する。
「冗談だ。そんなだらしのないことはしない」
 そうなるとやはり、この部屋にはベッドが必要かもしれない。
 どのくらいの大きさが必要だろう。俺は頬杖をついたまま、毛布に包まる雛子の体躯を眺めた。彼女一人ならシングルでも十分なはずだが、そこに俺も加わるとなれば――。
 俺が目測で当たりをつけている間、雛子はずっと窓を見ていた。まだ青と呼べる範疇にある空の色を眺め、どことなく嬉しそうにしている。今日は一日、いい天気だった。
 一足先に、春が来たような日だった。
 そう思った拍子に雛子も言った。
「春が来ますね、先輩」
 タイミングのよさに気をよくした俺は、答えるよりも早く彼女の前髪を手でかき上げ、露わになった額に口づけた。雛子はくすぐったそうに首を竦めた。
 彼女の額は白くて、なめらかで、とてもきれいだ。それにこうすると、眼鏡のレンズを通さずに彼女の瞳が覗ける。
 いつか彼女は、この眼鏡を外して歩くようになるのだろうか。
 そんな日が来て欲しいのか、来て欲しくないのか、俺にはまだ判別がつかない。
 どちらもいいと、やはり思うのかもしれない。
「四月が待ち遠しいな。楽しみだ」
 俺が口を開けば、雛子はそこで少しだけ繊細そうな笑みを浮かべた。
「その前に三月がありますよ、先輩」
 四月から晴れて大学生となる彼女は、しかしそれより先に高校生活を終えなくてはならない。
 東高校を卒業する日まで、残り時間はもうわずかだ。さぞかし感傷的な気分でいることだろう。
 俺からすればその日が待ち遠しいくらいなのだが。
「俺は三月はどうでもいい。お前はそうではないだろうがな」
「そうですね……何だか、卒業する実感が全然湧きません」
 雛子は不思議そうに小首を傾げている。
「せいぜい好きなだけ泣いてくるといい」
 からかうつもりで言ってやると、それにはいささか心外そうに言い返してきた。
「泣くかどうかわからないですよ。私、普段はそんなに涙もろくないですから」
「嘘をつくな。俺の前ではしょっちゅう泣いてるじゃないか」
 今日だってそうだった。それに十二月、風邪が治った後で電話をかけた時も、十一月の文化祭でも泣いていたし、六月のあの雨の日も彼女が涙を流すのを目の当たりにしていた。
 だから俺は彼女のことを、感情豊かな人間だと思っている。
 しかし雛子には別の考えがあるようで、照れ笑いを浮かべてみせた。
「本当です。なぜか私、先輩の前でばかり泣いてしまうみたいなんです」
「へえ」
 初耳だ。俺はてっきり、学校でも家庭でもこんな調子なのだと思っていた。
「それは俺が、お前に頼りにされ、甘えてもらっているのだと解釈していいのか」
「多分、そういうことだと思います」
 雛子は頷いたが、俺には納得しかねるところもあった。それならそれで普段から、泣く以外の方法でも頼りにしてくれたり、甘えてくれてもいいだろうと思う。さっきみたいに。
「それともお前が俺に対して、女の武器を有効活用していると思うべきなのか」
 俺は穿った意見を呈して、彼女の反応を確かめる。
 なぜか雛子は軽く吹き出した。
「武器になっちゃうんですか、そういうの」
「意外と、なる」
 他人の涙に易々と心動かされるような人間ではないと、昔は思っていた。
 だがそれも雛子とのこととなれば話は別だ。彼女が泣くと胸が締めつけられるように痛くなる。その涙の理由を突き止めなくては済まない気分になる。彼女にだけは、いつも呆気なく心を揺り動かされてしまうのだった。
「少なくとも俺には効いた。だからあまり、俺の前では泣くな」
 彼女にはいつでも幸せに、笑っていてくれる方がいい。
 そう思い、俺は横たわる彼女の髪に触れた。指先で梳くようにして撫でた後、目を瞬かせている雛子を見て、ふと別の懸念が頭をもたげてくる。
「いや、他の男の前で泣かれるよりはいいか。訂正する、そのくらいなら俺にしろ」
 俺が咎めたからといって、彼女が俺の見ていないところで泣くようなことがあってはかえって困る。彼女の涙を全く知らずにいるというのもそれはそれで非常に不快なものだし、それをよその男に慰められるようなことになっては実に腹立たしい。やはり彼女には俺の前でこそ泣いてもらう方がいい。
 雛子はどこか興味深げに俺を見た。
「じゃあ卒業式では泣かない方がよさそうですね」
「できるのか? そんなことが」
「なるべく努力はします。私としても、最後は笑って終わりたいですし」
「そうだな。その方がお前らしい」
 俺は深く頷いた。
 彼女にとっての高校生活はとても素晴らしいものだったのだろう。それなら最後は寂しさに泣くよりも、笑って幕を下ろす方がいいに決まっている。それこそが彼女の望むハッピーエンドの最良の形ではないだろうか。
 雛子が夢見るように顔を綻ばせたので、俺もつられて笑んだ。
「なら、気分のいいうちにこれも確かめておくことにしよう」
 彼女の柔らかい髪を撫でながら、尋ねてみる。
「結局、次はお前に聞いてもいいのか。それとも聞かない方がいいか?」
 たちまち彼女が答えに窮したので、俺は一層笑って彼女を抱き締めた。直に触れた肌は温かく、すべすべしていて心地がいい。抱き込みながら頬を触れ合わせると、彼女が今更のように身を硬くするのがわかった。
「今のうちに教えてくれ。そうじゃないと、俺はまたお前を困らせることになる」
 雛子を困らせるのは好きだ。まごつく彼女の顔は可愛いし、見ていて胸がときめく。
 だが困ってばかりで答えがなかなか出てこないのも、焦らされているようで少し辛い。俺の忍耐力はこと彼女に関しては非常に脆い方だから、いつか暴発する前に彼女の意思を確かめておきたい。
 彼女はしばらくの間、やはり深く考え込んでいたようだ。
 そして先程よりは早くに答えが出たのだろう。俺から少しだけ身を離し、こちらを真っ直ぐに見据えつつ言った。
「先輩の、好きにしてください」
 またしても、俺を煽るようなことを口にした。
 心臓が跳ねたと思った直後、雛子は俺の胸の上、ちょうど心臓のある辺りにそっと手で触れた。縋りつくような強さは今はない。だがこうして直に触れられていると、本当に一つになったような気がしてくる。
 彼女の手の中に、俺の心臓がある。
 触れてみればわかることだろう。生きている証である鼓動が、彼女の手のひらに伝わっていることだろう。何の為に生きているのか、などと自問する時期はとうに過ぎた。だが生きる目的はいくつあってもいいだろうし、その中に一つくらい、舌が蕩けるほど甘い恋が存在していてもおかしなことではないだろう。
 彼女の為になら、何があっても俺は、幸福に生きられる。
「最終的には私、先輩になら何をされてもいいって、絶対思うはずですから」
 雛子が面映そうに、打ち明けるように言ってくれたので、俺は胸に置かれていた彼女の手を取り、再び強く握り締めた。
「わかった。いざとなったらまた縋ってくれ。受け止めてやる」

 浅い眠りの中で見る夢よりも、現実の方がよほど夢のようだ。
 俺も、今となっては思う。
 甘い物は長らく苦手だったが、恋に限って言うならば、いくら甘くても構わない。
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