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忘れ物はないですか(6)

 居間へ戻ってきた雛子は、俺がテーブルを片づけているのを見て驚いていた。
「ありがとうございます、先輩。助かりました」
 彼女は恐縮していたが、俺は気にしていないそぶりで最後に残ったビールを呷る。それから彼女に向かって告げた。
「よかったらもう少し手伝おうか。洗い物くらいなら」
 寿司桶は返す前に一度洗わなくてはならないだろうし、その他にも湯呑みや小皿といった使いさしの食器がテーブルの上には残っている。これらを全て雛子が片づけるのは大変だろうし、お兄さんが潰れた今、俺が手を貸してやるべきだろうと思った。
「いえ、いいですよ! お客様にそんなことはさせられないです」
 しかし雛子は慌ててかぶりを振り、俺の提案をやんわり断った。
 その後で言いにくそうな顔をしながら切り出す。
「むしろすみません。何て言うか、兄が大変ご迷惑をおかけしました」
 お兄さんが早々に潰れてしまったことを気に病んでいるのかもしれない。振り返ってみれば彼女が負うべき責任はないように思えたが、それでもこうして代わりに詫びるのは、きょうだいだからなのだろう。
「迷惑ではない。気にするな」
 俺は彼女の不安を軽く笑い飛ばし、言い添えた。
「それに、今日は楽しかった。こんなに楽しく酒が飲めたのも初めてかもしれない」
 賑やかで、楽しいことばかりのいい飲み会だった。俺が今まで知らなかった雛子の姿を垣間見ることができた。お兄さんと、雛子についての話もじっくりとできた。そして何より雛子と会えた。楽しくないはずがない一日だった。
 二十歳になってまだ一年未満、絶対数が少ないせいかもしれないが、こんなに楽しい酒の席は今までになかったと言っていい。これまで俺が酒を飲む機会は、疲れた時だったり、付き合いだったり、大槻が俺から何かを聞き出そうとするような場合ばかりだったから――大槻と飲むのが楽しくないとは言わないが、あいつは何かと目敏いので失言には常に気をつけなければならないのが厄介だ。今日はそういうこともなく、難しいことも考えず、失言も気にせず、ひたすらいい気分で酒が飲めた。
 それも当然雛子がいてくれたからだろうし、雛子のお兄さんが俺を歓迎してくれたからでもある。またお会いすることがあったなら改めてお礼を言おう。
「本当ですか? 兄が一人で騒いでただけで、うるさくなかったですか?」
 雛子は俺が気を遣っているとでも思ったのか、苦笑いを浮かべて尋ねてきた。
「気にならなかった。歓迎されているとわかったからな」
 正直、雛子のお兄さんは意外とよく喋る人だとは思った。それも酔いがそうさせたことかもしれないが、思いのほか賑やかな飲み会になった。
 ただ次にお会いする時は、お互い酒は飲まない方がいいかもしれない。じっくり話がしたいと思うなら尚のことだ。
 ふと気づけば俺もすっかり酔いが回っていて、体温の上昇と浮つく気分とを自覚していた。こんな気分の時に彼女の傍にいるのはよくない。行儀よく帰らなければならない。
「手伝いが要らないなら、そろそろお暇しよう」
 やがて俺は雛子にそう告げ、席を立った。着てきた冬のコートに袖を通そうとすると、雛子が声をかけてくる。
「先輩、よかったら紅茶を入れましょうか」
 唐突な提案だと思った。
 俺が黙って目を瞬かせると、彼女はこちらを上目遣いに見ながら続けた。
「いつもは先輩に入れてもらってるので、今日は私がごちそうしようかなって……」
 それは遠回しな誘いの言葉に違いなかった。もう少しだけ俺に、ここへ留まって欲しいということだろう。
 普段なら彼女の誘いを断る理由はない。だが酒が入ってしまった以上、その申し出に乗るわけにもいかない。俺も酒に強いわけではないから、何かと自信がなかった。
「いや、止めておこう」
 深く考えることもなく断った俺を、雛子は落胆の表情で見上げた。
「そうですか……残念です」
「悪いな、俺も今日は酔っている。ここに長居するのもよくないだろう」
 念を押すつもりで付け足した後、俺は片袖だけ通していたコートをきちんと着直した。
 外気の冷たさに備えて全てのボタンを留めてから視線を戻すと、雛子は随分と寂しそうな顔で俺を見ている。形のいい眉尻を下げ、淡く色づいた唇をほんの少し尖らせ、黒目がちな瞳を潤ませながら――その顔を直視してしまった俺は一瞬言葉を失った。
 どんな表情を取れば俺が引っかかるか、わかっているみたいな顔をする。
「そんな顔をするな。帰りにくくなる」
 俺が咎めると彼女は尖らせていた唇を解き、楽しげに笑んだ。
「なら、もう少しいてもいいですよ」
「そうはいかない。酔っ払いと二人きりになんてなるものじゃないぞ」
 雛子は未成年だから、酔っ払いとの接し方をあまり知らないのだろう。酒が入った人間の判断力や思考力、忍耐力が平常時と比べてどれほど低下するものなのか、わかっていないから引き留めにかかるのだろう。
 俺も彼女ともう少し一緒にいたいのはやまやまだが、ここが彼女の家であり、今日は彼女のご両親に無断で立ち入ったということを踏まえればおのずと答えは出る。俺の忍耐力の脆さをこの期に及んでテストする必要もあるまい。
 そうと決まればなるべく早急にお暇しようと、俺が別れの言葉を告げかけた時だった。
「酔っ払ってるんですか、先輩」
 いかにも不思議そうな顔つきと声で、雛子が尋ねてきた。
 予想だにしていなかった疑問に、俺はかえって困惑する。
「見てわからないか」
「あんまり……。兄ほど酷くないからかもしれませんけど」
 雛子は小首を傾げている。お兄さんについて触れた時、思い出し笑いみたいに微笑が浮かんだ。いつもと同じように控えめな、彼女らしい笑い方だった。
 それなら、今後の為にも彼女には是非覚えていてもらわなければならないだろう。世の酔っ払いが彼女のお兄さんほど顔や仕種に表すものではないということ。そして俺の場合は、顔よりもむしろ心理状態に影響を受ける場合が多いということも。
 これが忍耐力の耐久テストなら即座に失格の烙印を押されているはずだった。だが彼女に微笑みかけられた瞬間、せめて一度くらい抱き締めてから帰りたいと思った。そこで彼女に歩み寄り、毛糸で編まれた服に包まれた細い肩を掴んで、一思いに抱き締めた。
 彼女は転がり込むようにこちらへ倒れかかり、俺はその身体を両腕で抱き留める。コートを着ているせいで彼女の体温はもどかしいくらい伝わってこない。
「せ、先輩……」
 腕の中から苦しげに呼ばれて、俺は慌てて力を緩めた。
「苦しかったか。済まない」
 雛子が俺の胸に寄りかかりながら、顔も上げずに答える。
「いえ、あの、もう大丈夫ですから」
 声を聞く限り、戸惑ってはいるようだったが決して嫌そうにはしていなかった。ここから逃げ出そうともせず、黙ってされるがままになっている。
 それをいいことに、俺は彼女の髪に顔を埋めるようにして囁きかける。
「今日は本当に楽しかった」
 彼女の髪はいい匂いがした。俺が使っているものとは違う、女向けのシャンプーの香りだろうと思った。
「お前の傍で酒を飲むのも悪くない。いい気分になれる」
 まさかこんなにも早く機会がやってくるとは考えもしなかったが、予想以上にいいものだった。
 ふと、雛子が顔を上げたようだ。首の動きでわかった。
 俺も合わせるように彼女の髪から離れ、こちらを見上げる顔を覗き込む。
 頬を上気させた雛子は目を合わせると、困ったように瞬きをした。
「早く、お前と一緒に酒が飲めたらいいな」
 あと二年もすればそれも当たり前のことになっているかもしれない。
 だが俺の言葉に雛子はおずおずと反論する。
「でも私も、あまり強くないかもしれませんよ。どうも家系みたいなんです」
「そうなのか」
 確かにお兄さんは驚くほど弱かったが、兄妹だからといってそこまで似ているとは限らないだろう。
「はい。兄だけじゃなく、両親もそんなに強くないので、私も多分……」
 しかし雛子はそう続けて、そこまで揃っているなら彼女だけが強いこともないだろうと俺も思う。
 目の悪さだけではなく、そういうところまでよく似た家族なのか。少し愉快な気分になった。
「それはそれで見てみたいな。お前ならそれも可愛い」
 彼女が酒の弱さをご家族から受け継いでいるとするなら、さして手間もかけずに酔っ払ってしまった彼女を拝むことができるだろう。さすがにお兄さんのように潰れられては困るが、少しくらいなら酔った姿も見てみたい。その頃には雛子も、今以上にぐっと大人っぽく、きれいになっていることだろうから。
 今はまだ少しだけ、あどけない表情をすることもある彼女を、俺はしげしげと眺めた。雛子は一層困ったように視線を泳がせていたが、俺がその前髪をかき上げ、普段は隠れている白い額を露わにすると、怯えるようにしながらも俺を見つめてきた。
「……あ」
 やがて彼女が小さく声を漏らす。その吐息が俺の唇に触れる。
 いち早く酩酊してしまったようにぼうっとしている雛子に対し、俺はここが彼女の家であることを考慮して、額へのキスだけで留めておいた。
 雛子が狐につままれた顔をする。驚きと困惑に満ちた表情は容赦なく真っ赤になっていて、慌てふためき出す寸前のように映った。
「ほら、酔っ払ってるのがわかるだろう」
 俺はその表情と、それを眺める気分の素晴らしさに思わず笑った。
「だからそろそろ帰らないとな。これ以上二人でいると、次は何をするかわからない」
 そういうのはもう少し後にしよう。
 これから先、いくらでも機会はあるだろう。
 雛子は黙っている。意図的に口を噤んでいるというより、何も言えないほど狼狽しているように見える。そのうち泣き出すのではないかと思うほど潤んだ瞳が俺を見据えていて、俺はまた昔の出来事を思い出した。
 あの駅前の書店で出会った兄妹の、人見知りらしい妹が、兄に促されて礼を述べようとした時の表情もこんなふうだったかもしれない。
 それほど鮮明に覚えていないのは、あの時俺もうろたえていたからだろう。もじもじしながらようやく礼を言い、はにかんだその妹を、可愛いと思ったせいでもある。
 俺に妹がいたら、どんな気分なのだろう。そう思った。
 もし妹ができるなら、こんなふうに可愛い子がいい、とも思った。
 らしくもないことを考えた挙句、俺はすっかり落ち着かない気分になって、去っていく兄妹を呆然と見送った。妹の方が手を振ってくれても、反応すらできなかった。全ては遠い日の思い出だ。
「こんなに可愛い妹がいるのは、一体どんな気分なんだろうな」
 記憶を今一度思い巡らしながら俺が言うと、雛子が跳び上がらんばかりの勢いで叫んだ。
「先輩!? な、何を言うんですかいきなり!」
 とは言え、今の俺は妹が欲しいわけではない。
 血の繋がりの儚さも忌々しさも俺にはもう必要がなかった。要るのはそんなものよりも遥かに強固で、信頼を置けるほどの心の繋がりだ。それは彼女となら築いていける。雛子が、赤の他人である彼女がそれでも俺を深く想ってくれているから、俺もその絆を腹の底から信じられる。
 あの時は独りぼっちだったから、俺は一人で電車に乗って帰らなければならなかったから、手を繋いで帰っていく二人が羨ましかったのだろう。
 今は違う。たとえ一人で帰路を辿ることになろうと、待っているのが空っぽの俺の部屋だけであろうと、俺は決して孤独ではない。
「わかっている。お前が妹だったら、こんなことはできないからな」
 俺は雛子の髪を撫で、思い出よりもずっと近くにいる彼女に告げた。
「……つくづくくだらんことばかり言ってるな、俺も。酔いが覚めたら後悔しそうだ」
 雛子は何だかよくわからないという顔で、黙って俺に髪を撫でられていた。
 酔いが覚めた後、彼女が傍にいないのは幸いなことだろうか。それとも残念なことだろうか。俺の酔っ払った頭ではその判別すらつかなかった。

 暇を告げた俺は居間を出て、柄沢家の玄関で靴を履いた。
 玄関の三和土には俺の靴の他、雛子が履いている意外と小さいサイズのブーツと、やや履き込んだ感のあるスニーカーが並んでいた。スニーカーの履き口にはかろうじて読める程度にかすれた靴のサイズが記されていたが、俺と全く同じ数値だった。靴のサイズが被ることなんて、そう珍しくもないことらしい。
「先輩!」
 居間から俺を追ってきた雛子が、急いだ様子で呼び止めてきた。
 俺が振り向くと彼女は言葉を選ぶように、慎重な口調で言った。
「あの、もしかして忘れ物してませんか。これ……」
 そう言って彼女が差し出したのは、黒い紳士物の靴下だった。脱ぎ捨てられた後なのか、片方が足首の辺りで丸まっている。
 だがそれは俺のものではない。俺はちゃんと靴下を履いている。
「いいや。俺のではないな」
 かぶりを振って答えると、雛子は驚いたように口を開けてから自分の手のひらに載せた靴下を見下ろす。それから非常に恥じ入ったそぶりで項垂れた。
「じゃあこれ、お兄ちゃんの……? やだ、もう……!」
 呻いた彼女は、玄関まで持ってきた靴下を放り出すように大きな靴箱の上へ置いた。俺がそれを目で追うと、更に慌ててその靴下を取り上げ、遂には居間まで戻ってそれを置いてきたようだ。次に玄関へ現われた時、手には何も持っていなかった。
 そこまでしておきながら、雛子は尚も恥ずかしそうにぼやいてみせる。
「見苦しいところをお見せして本当にすみません。お兄ちゃん――兄にはお酒に気をつけるようよく言っておきますから。大体うちの兄はちょっと、何て言うか、おじさんっぽいですよね?」
「そんなお歳ではないだろう」
 俺は苦笑して応じた。
 雛子のお兄さんは彼女より五歳上だと聞いているから、俺よりも三つ年上だということになる。そしてあの人のふるまいは歳相応に大人だったと思う。
 しかし雛子は兄の所業を許すつもりはないらしく、不満そうに続けた。
「いいえ、本人も『最近老いを感じる』みたいなことを言ってました。だからいいんです、おじさんでも」
 たかだか二十二、三の人がそんな発言をするのも意外だ。社会に出るとはそれほど厳しいものなのだろうか。にしても、あの人をおじさん呼ばわりするのはやはり早すぎる。
「そんなことを言っていたら、俺だってあと二、三年で老い始めることになるぞ」
 脅すつもりで俺が言うと、雛子は笑い飛ばすかのように軽く、
「先輩は大丈夫ですよ」
「なぜそう言い切れる? 俺はよく年上と間違われるから、他人より早く老けるかもしれない」
「先輩なら、いくつになったって格好いいからです」
 言い切ってしまった後で、彼女は今更ためらいでもするみたいに俺から目を逸らした。
 それでいて口元は控えめに笑み、赤らんだ頬は緩み、とても幸せそうな顔をしている。
 彼女が俺を買いかぶっているのも今に始まったことではない。だが酔っ払って聞くそういう言葉は、随分と甘く心に溶けた。
「この先もずっと、見てますから。先輩のこと」
 雛子はもじもじしながらも、聞き間違いようのない決然とした口ぶりで言った。
「何年も何十年も一緒にいたいって、思ってますから」
 それは俺も同じだ。
 この先の未来も彼女と共にありたい。雛子のいない未来などもはや考えられない。
 そうしてこれから何年、何十年と一緒にいれば、俺たちも自ずと変わっていくだろう。彼女がますますきれいになっていくのも、俺たちがいつかは老いを迎えることも、全く当たり前な自然の摂理でしかない。今はまだ近い未来しか見えてはいないが、いつかはそういう未来も考えるようになり、共に受け入れていくのかもしれない。
 だがそれこそが人間として真っ当な、そしてこの上なく幸いな生き方だ。
「ああ、俺もだ」
 俺が頷けば、雛子は照れ笑いを隠すように俯く。
 手を伸ばしてその頬に触れると、彼女が眼鏡のフレームの上から、ちらりと俺を見上げた。
「忘れ物はないですか、先輩」
「ない。恐らくはな」
 それほど大荷物では来ていなかったから、忘れ物のしようもない。忘れて困るのはせいぜい部屋の鍵くらいだ。それは間違いなくコートの胸ポケットに入っている。
 忘れ物というなら、一つだけ――残していきたくないものならある。
「忘れていくわけではないが、いつか、貰いに来る」
 俺は彼女の頬に触れたまま、そう宣言した。
 たちまち雛子が嬉しさを堪えきれない様子ではにかむ。
「よろしく、お願いします。先輩」
「こちらこそ」
 頷いてから、俺は彼女から手を離した。
 そして玄関のドアに近づき、ドアノブを握りながら一度振り向く。
 雛子が俺に向かって小さく手を振った。
「先輩、気をつけて帰ってください」
「……ああ。帰ったら、連絡する」
 俺はもう一度頷いた。
 それから――少しばかり気恥ずかしかったが、彼女に向かって手を振り返しておいた。
 あの時できなかったことも、今なら、不思議とできるものだった。

 あの時の兄妹が柄沢兄妹であったかどうかは、今もわからずじまいだ。
 だがそうだったとしても、そうではなかったとしても、どちらでもよかった。俺はまだ過去を穏やかな気持ちで振り返るだけの余裕はない。そのくらいならきっと幸いに違いない未来だけを見据えていたい。
 いつか雛子と二人、過去を振り返るだけの心のゆとりができたなら、その時こそ彼女に尋ねてみよう。
 お前のところに来たサンタがプレゼントを間違えたことはなかったか、そんなふうに聞いてみよう。
 その時雛子は、子供の頃のことなんて覚えていないと困った顔でいうかもしれない。心当たりもなくて、知らないと首を傾げるかもしれない。あるいはあの時の妹が本当に彼女で、しかもそのことを覚えていて、昔会っていたかもしれないという事実に酷く驚くかもしれない。
 どんな反応が返ってきても、俺は、幸せな思いで笑っていられることだろう。
 彼女に聞かせられる思い出話が俺にもある。そのことだけで何だか、嬉しかった。
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