menu

忘れ物はないですか(5)

 お兄さんが席を外した隙に、雛子がそっと尋ねてきた。
「……お酒、好きなんですか」
 その聞き方はどこか不安げだった。こうなったのも俺がお兄さんの勧めを断りきれなかったからだ、と解釈しているのかもしれない。
 下手なことを言えば余計に心配させるだろうと、俺は簡潔に答える。
「ごくたまにだが、一人で飲む程度には」
 強い方ではないから頻繁に飲むわけではないが、たまに飲みたくなった時の為に、冷蔵庫には一、二本のビールを入れておいてある。身体が疲れた時、あるいは考え事のしすぎで頭が疲れた時にもアルコールは役に立つ。
「そ、そうだったんですか……ちっとも知らなかったです」
 雛子は意外そうに唇を尖らせた。
 それから更に声を落として、もう一つ尋ねた。
「先輩はお酒、弱くないですよね?」
 気にかけてくれるのは嬉しいが、気にしすぎのようにも思える。
 それとも彼女がより気にかけているのは、お兄さんの方なのだろうか。ああ見えて意外と酒癖が悪いなどということはないといいが、人は見かけによらぬものだ。
 もっとも、それならそれで俺が配慮すればいいだろう。俺は雛子を安心させようと笑んで答えた。
「強いというほどでもないが、心配するな。正月早々、受験生のいる家で酔い潰れるわけにもいかないからな。適当なところで切り上げてお暇するつもりだ」
 俺の言葉に彼女は少し表情を和ませたが、すぐに憂鬱の色を浮かべて台所の方角を見やる。

 やがて、雛子のお兄さんが嬉しそうに戻ってくる。その手に抱えた缶は三本だが、一本だけは明らかに酒ではなかった。
 お兄さんは俺にビールを手渡してきた後、明らかに酒ではない缶を雛子に差し出した。
「これ、ヒナの分な。乾杯するのに必要だろ?」
 どうやらそれはサイダーのようだった。寿司とサイダーは合わないと思ったのか、雛子が表情を曇らせる。
「別にいいよ、私は」
 しかしお兄さんは退かず、彼女に缶を押しつけるようにして言った。
「そんなつれないこと言うなよ。仲間はずれにする気なんてないから」
「うん、じゃあ……ありがとう」
 お兄さんなりの心遣いを、雛子も酌む気になったらしい。ようやく缶を受け取った。
 もし雛子が二十歳なら、ここで一緒に酒を飲むこともできたのだろう。そういう機会を得ることもこの先あるのだろうな、と漠然と考えた。あと二年先の未来では当たり前のことになっているかもしれない。
 その機会が訪れたら、せいぜい調子に乗って飲み過ぎないようにしなければなるまい。彼女より先に潰れてしまっては楽しくも何ともないからだ。
「じゃ、乾杯といきますか」
 皆を促すように言って、お兄さんが缶ビールのプルタブに指をかけた。
 俺もそれに続き、雛子も慌てたようにサイダーの缶を開ける。
「はい、かんぱーい!」
 お兄さんの音頭で、俺たちは缶を掲げて軽くぶつけ合った。
 それから缶を手元に引き戻し、中身を喉へ流し込む。開けたてのビールは炭酸がきつく、喉ごしがよかった。よく冷えているのも暖房の効いた部屋で飲むならちょうどいい。
「鳴海さん、意外といける口ですね」
 雛子のお兄さんはビールを飲む俺を見て、愛想よく目を細めている。 
「ええ。冬場に暖かい部屋で飲むのもいいものです」
 俺が応じるとテーブル越しに身を乗り出すようにして、
「ですよね!」
 同意の声を上げてから、お兄さんは更にビールを呷った。
「いやよかった、ヒナの彼氏が酒飲める奴で! こうなったらもう、どんどんいきましょうどんどん! まだ何本か冷やしてありますから!」
 やはりお兄さんは端から俺と酒を飲むつもりだったらしい。それにしてもペースが速い気がするが、普段からよく飲む方なのだろうか。
 そして気になることが一つある。
 お酒を飲むお兄さんを見る雛子の視線が、鋭利な刃物のように尖っている。
「お兄ちゃん、飲むのはいいけど潰れたりしないでね」
 雛子が警告しても、お兄さんはおかしそうに笑うばかりだ。
「いいや、俺はいっそお前の彼氏を潰してやるつもりでいる!」
 とは言うものの、まだビールも一本目だというのにお兄さんの目元は既に赤らんでいる。
 もしかするとこの人はあまり強くないのだろうか。雛子がしきりに気を揉んでいる様子なのもそのせいかもしれない。今も不機嫌そうに兄を睨んでいる。
「絶対駄目!」
 彼女が語気を強めたので、俺は取り成すつもりでお兄さんに告げた。  
「そうそう潰れたりはしませんよ」
 こちらも強くはないが、さすがにビール一缶で顔に出るほどではない。恐らく今日は互いに二本ずつ飲めればいい方だろう。その程度なら潰れる心配もない。
「潰れるまではいかなくても、ざっくばらんに話せる程度には酔ってもらわないと」
 お兄さんは妹の制止も聞き流し、ビールを飲みながら俺に水を向けてきた。
「てか、どうなんですか。ぶっちゃけまだ二人の馴れ初めとか聞いてないんですけど、鳴海さんはヒナとどういう経緯があって付き合ったんですか?」
 その問いを俺は意外に思う。
 これほど仲のいい兄妹なのだから、そういった情報は既に打ち明けているものと思っていた。もしかすると仲がいいからこそ打ち明けにくいというものなのかもしれないが、雛子はお兄さんに対しても秘密主義を貫いているようだ。
「高校の部活動で知り合いました」
 隠しておいてはかえって心証が悪いだろう。そう思い、俺は正直に答えた。
 ただその答えでは不足だったようで、お兄さんが眉を顰める。
「いや、それは聞いてましたけど……他に、何かないんですか」
「他にですか」
 こういう話を他人にするのは得意ではない。彼女の身内でもなければ秘密にしておくところだ。
 ただ招かれた以上、彼女に対する姿勢の真剣さは伝えておかなくてはならないだろう。いい加減な説明だけでは到底納得してもらえまい。
「詳しくお話しするなら、最初のきっかけは私が読んだ本を雛子さんも読み終えていて、その感想を尋ねたことでした」
 簡潔に言えばそういうことだ。
 だが詳しく話すなら事実は少しだけ趣が異なる。彼女はいつからかわからないほど前から俺のことを見ていたようだし、俺もいつからか彼女の存在を気にするようになった。俺が部内で疎まれていたせいで、文芸部の部室に二人きりでいる機会が多かった。そして彼女の存在を意識し始めて間もなく、俺は彼女が、一週間と同じ本を読んでいないことに気づいた。それでようやく声をかけてみる気になった。
 当時の俺は話し相手を欲していたし、雛子は――本人からはっきり言われたわけではないが、どういう意味合いにせよ孤立する俺を気にしてくれていたようだ。そして俺たちは互いに読書家であり、創作家でもあった。部活動以外でも接点を持つ為の下地は、あの時既に整っていたのだろう。
「おお、いかにも文芸部カップルって感じ! それからそれから?」
 お兄さんが目を輝かせて続きを促す。
 そこで雛子がお兄さんを睨んだが、手を振る仕種で宥められていた。
 俺もなるべく雛子を困らせないような、しかし真剣な思いが伝わるような言葉を選びながら話を続ける。
「それからお互いに読書の感想を交換し合うようになったり、部で書いた作品を読んでもらうようになったりと……当時の私にとって雛子さんは、部内で唯一気軽に、そういった話ができる人でした」
 唯一、だった。
 他には誰もいなかった。文芸部の中でも外でも、彼女だけだった。
「なるほど。青春って感じですね、いいなあ羨ましいなあ!」
 お兄さんは俺の言葉の重さに全く気がつかなかったようだ。心底羨ましそうにされた。
「ええ。今思えばとても、思い出深い時間です」
 俺が頷く横で、雛子は黙って残りの寿司を食べている。俺たちの会話内容のせいか彼女はどことなく気まずげだったが、最後に残ったえんがわを箸で口に運んだ際は表情をほころばせていた。
 俺も、今日の寿司はとても美味いと感じている。正月に父と食事をした時は味すら感じられなかったのに、いい気分で囲む食卓は味覚の機能さえ向上させるのだろう。
「思い出か……。学生時代からのお付き合いとか、いいね。憧れちゃうね」
 お兄さんが溜息をついている。何か思うところがあるのかもしれないが、表情から推し量るのは難しかった。
「しかしやっぱり、鳴海さんって真面目なんすね。猫被ってんなら上手すぎるっつうか……」
 そう言って俺の方をしげしげと、探る目つきで検分してくる。
 この人は俺からもう少し何かを引き出したがっているようだ。他に何を言えばこの人の信頼を得られ、彼女との交際を認めてもらえるだろう。俺はビールを飲みながら考える。
 ちょうどその時、お兄さんも缶を傾けた。既に中身が軽くなっていたようで、胸を反らすほどの勢いで一息に飲み干す。それから肺の中の息を全て吐き出すような溜息をついて、言った。
「これはもうちょい飲ませないとな。よかったらもう一本、どうです?」
 俺は答えに迷う。こちらのビールも残りわずかとなっていたので、いいタイミングだとは思う。
 だが現在、お兄さんは既に酔っ払い始めているようだ。呂律が回らないというほどではないが話し方が不明瞭になりつつあり、視線があらぬ方へ彷徨うのも何度か目についた。この人にはあまり飲ませない方がいいような気がする。
「お兄ちゃん」
 堪らず雛子が口を挟む。
 お兄さんは妹が何を言わんとしているか、瞬時に察したのだろう。俺を手で指し示しながら、
「何だよヒナ、大丈夫だって。ほら、鳴海さんなんて全然酔っ払ってないだろ」
「先輩よりもむしろお兄ちゃんが大丈夫なの?」
 雛子が眉根を寄せると、お兄さんは気の抜けたような笑い声で応じる。
「俺はもう全然」
「全然、何?」
 妹の追及に反論をしなかったのは、思考能力が低下しかけている証拠だろう。
 何にせよお兄さんは黙って立ち上がり、再び台所へと足を向けたようだ。足取りはしっかりしていたものの、それも恐らく時間の問題だろうと思われる。
 二人きりになった隙に、俺は雛子に囁いた。
「……お兄さんは、お酒に弱いのか」
 雛子は俺を見て、ほとほと呆れたというように深く頷く。
「はい。きっとあと一本が限度だと思います」
「そうか。少し気をつけて見ていよう」
 俺が潰されるわけにはいかないが、お兄さんを潰してしまうようなことがあっても困るだろう。次の一本が空いたらそれでお開きとするよう、こちらから切り出すつもりでいる。問題はそこまで持つかどうかだが、その場合は雛子の力を借りてでもお兄さんを制止するしかない。
 それにしても、これほど酒に弱いのに飲みたがるというのも不思議なものだ。もしかすると雛子のお兄さんは、普段はさほど飲まない人なのかもしれない。酒を飲むのは特別な時だけで、もし今日がその時だと思ってくれているのなら、俺としてもただ酔っ払って終わりというわけにはいかない。
 雛子はしばらくお兄さんの消えた台所の方を気にしていたが、ふと思いついたように俺に言った。
「それと先輩、兄の質問には真面目に答えなくても大丈夫です」
 そう言った時、雛子はいやに真剣な表情をしていた。だが目には困惑の光がちらついていて、俺がお兄さんに話したことを彼女がどんな思いで聞いていたかが手に取るようにわかった。
 俺は彼女の反応を面白く思いながら言い返す。
「特に問題のあるようなことは言ってないはずだが」
「それはそうですけど。いいんです、兄は興味本位で聞いてるだけなんですから」
「興味を持つのも当然だろう。大切なきょうだいの話だ」
 雛子のお兄さんは、妹をとても大切に思っているのだ。そのくらいは、きょうだいと縁のなかった俺にもわかる。
 俺はあの小さな妹と、そういう間柄にはなれなかった。俺たちの間にまともな親愛の情が生じることはなく、恐らくはもう二度と顔を合わせることもないだろう。名前を呼んでやる機会もないままだった。
 だから、俺は遠き記憶の中にある幼い兄妹を覚えている。そして今、この家で生まれ育った雛子とそのお兄さんに温かい感情を抱いている。憧憬、羨望、そして彼女の優しさを育んできた土壌を見ることが叶った喜び、そういったものが酔いと共に全身を駆け巡っている。
 残りのビールを飲み干して、俺は雛子に告げた。
「それならこちらとしても、お兄さんを安心させなければな。生半可な気持ちでここに来ているわけではないことを、きちんとお伝えしなければならない」
 彼女は軽く目を瞠り、それから反応に困ったように自らのサイダーに手を伸ばす。
 酒でも味わうが如くちびちびとサイダーを飲む雛子を、俺は二年後を待ち遠しく思いながら眺めた。

 その後、お兄さんは缶ビールを二本携えて戻ってきた。
 二度目の乾杯をした後、いくらも飲まないうちに頬杖をつき始めた。そうしなければふらつく頭を支えていられないらしく、そのうち肘が滑ってテーブルに突っ伏すのではないかと不安さえ覚えた。
 だがそれでいてお兄さんはよく喋った。独り言とも問いかけともつかない口調で、絶えず話し続けていた。
「彼氏の目から見たら、やっぱうちの妹でも可愛く見えるもんかな」
 今も、ぼやくようにお兄さんが言った。俺に対する敬語はいつの間にかどこかへ消え失せてしまったようで、砕けた話し方で続ける。
「何か、俺からすれば結構生意気な妹だからさ。鳴海さんの前では可愛くしてんのかなって、心配で心配で」
 確かにお兄さんに対する雛子の態度はやや勝気で、俺や学校のクラスメイトたちに対するものとはかなり違いがある。とは言え雛子の意外な気の強さは俺も既に知るところであり、そしてお兄さんの驚くほどの酒の弱さを鑑みれば、彼女が厳しい態度を取るのもやむを得ない気はする。雛子は雛子でお兄さんを案じているのだ。
 それなら俺も、ここでは包み隠さず話すことにしよう。お兄さんを安心させられるように。そしてこれ以上、酒が進まないように。
「俺にとっては、とても可愛いです。見た目もそうですが仕種や言動も、全部」
 言ってしまってからふと、この場では『俺』とは言っていなかったかもしれない、と思った。俺も酔っ払い始めているのか、判断力が落ちかけているようだ。もっとも、それ以外に迂闊なことは言っていないはずだった。多分。
 実際、雛子は可愛い。今の俺の言葉にうろたえて視線を泳がせている顔も、態度も可愛くて仕方がない。
「そうだろうなあ」
 お兄さんは腑に落ちた様子で何度も頷き、
「可愛いんだよ、鳴海さんといる時のヒナは。何だか急に大人になったようでさ」
 と、自ら語を継いだ。
「妙に幸せそうな顔するし、随分優しい話し方するようにもなったし、鳴海さんのこととなると真剣すぎるほどだし。もう俺の妹じゃなくなったようにさえ思えて、少し寂しいくらいでさ……」
 どこか寂寥感に満ちた言葉だった。
 だがお兄さんの寂しさとは逆に、俺は今の話を聞いて幸せな気持ちになる。出会った頃と比べて雛子も確実に変わったが、その成長をもたらしたものが恋だとするならこれほど嬉しいことはない。俺がこの恋で変わったように、彼女にもまたいい影響を及ぼし成長を促したとするなら。
 歯の浮くような考えが頭に浮かぶようになったあたり、やはり俺も酔っ払っているのだろうか。
 ともかく、お兄さんの言葉は予言でもあるのだろう。近い将来、俺はこの家から雛子を連れ出そうと考えている。彼女を貰い受けるに当たり、お兄さんがたった今語ったような寂しさを、今度はご両親にも味わわせる羽目になるのだろう。
 その時に俺が何をすべきか。何を語るべきか、今から考えておいても無駄ではない。
「五つも離れてるからか、どうしても子供っぽさしか目につかなかったんだけどな。妹が可愛い女に見えるってのも複雑。喜んでいいのか寂しがっていいのかってとこだよ」
 お兄さんは溜息混じりに零した後、二本目の缶を雛子に向かって揺らしてみせた。残り少ないビールの水音が、ちゃぷちゃぷと軽く聞こえる。
「ってことで可愛い妹よ、ビールのおかわりを許してくれたまえ」
「……そういう魂胆だったんだ」
 雛子が冷たい眼差しを兄へと送る。
 しかしお兄さんはいくら妹に睨まれたところで一向に気にならないようだ。機嫌よく笑みながら許可が下りるまでの繋ぎとばかりに枝豆を食べている。酒のせいで顔はすっかり赤らんでおり、目つきはもう焦点すら曖昧だった。
 三本目は控えた方がいいだろう。そう思い、俺は話に割り込む。
「大丈夫ですか、お兄さん。そろそろお開きにした方がいいのでは」
 それで雛子は目に見えて胸を撫で下ろしたが、お兄さんの方はと言えばたちまち顔を輝かせて、
「おお、早速俺をお兄さんと呼んでくれちゃいますか。光栄だなあ」
 見当はずれなことを言ってのけた。
 これも酔いのせいだろうか。いや、俺も同じく酔っているから、今のは失言をしたということになるのか。気まずく思いながら弁解した。
「あ……そういう意味では。すみません、失礼でしたね」
 お兄さんはむしろ嬉しげにかぶりを振った。
「いいっていいって。こういうのはさっさと慣れとくに限るし、むしろこれからは俺を本当の兄だと思ってくれて構わないよ。じゃ改めて『お兄さん』って呼んでみようか! はい!」
 お心遣いには感謝したいが、どうもこれは、潰れる直前の兆候に思える。すっかり呂律も回らなくなっているし、両肘をついて支える頭がとうとう転げ落ちそうになっている。
 俺は雛子に視線を送り、ちょうどその時、彼女もこちらを見ていた。彼女の判断を仰ごうと目配せをすれば、すぐさま雛子が口を開いた。
「お兄ちゃん、先輩の言う通りだよ。そろそろお開きにしようよ」
 もはや妹の言葉も耳に届かないのか、お兄さんは微動だにしない。口も開かずに頬杖をついている。
 雛子はむっと唇を引き結んでから、
「お兄ちゃんってば。ちょっと酔っ払いすぎだよ」
 より強い口調で促し、兄の方に手を置いた。
 たちまちお兄さんの頭がぐらりと揺れて、勢いよくテーブルの天板へと落ちかけた。俺は思わず立ち上がりかけたが、こちらが手を出すまでもなくすんでのところで起き上がり、お兄さんは雛子を見る。まどろみかけているような目が、それでも的確に妹を捉える。
 そのお兄さんが唇を動かした。
「ヒナ、俺は鳴海さんならいいと思うよ」
 かろうじて聞き取れるほどの寝惚け声だった。
 兄の肩に手を置いたままの雛子が怪訝な顔をする。
「……急に、何?」
 するとお兄さんは雛子を見つめながら、ふっと破顔した。
「どんな男連れてきても別に、反対する気はないんだけどさ……うん。でも鳴海さんはいいと思う。お前をこんなふうに変えてくれる奴なんて、他にいないかもしれないんだから」
 話しながら眠りに落ちていったように、お兄さんの声から力が抜けていく。
 その言葉が完全に途切れると、お兄さんは糸の切れた操り人形のように卓上に突っ伏した。
 雛子は呆然とその姿を見下ろしている。何を言われたのか、まだ呑み込めていないのかもしれない。
 ただ直後に卓上から安らかな寝息が聞こえてくると、はっとして兄を揺り起こし始めた。
「ここで寝ちゃ駄目! お兄ちゃん、部屋まで行くよ!」
 妹の呼びかけにお兄さんはどうにか席を立ち、そのままふらふらと歩き出す。雛子が慌ててその肩を支え、俺の方を振り返って言った。
「先輩すみません。ちょっと兄をどこかへ寝かせてきます」
「手を貸そうか」
 酩酊状態にある成人男性を彼女一人で支えられるだろうか。心配になって俺は申し出たが、雛子は恥ずかしそうにかぶりを振った。
「いえ、大丈夫です。いざとなったら転がしてでも連れていきます」
 さすがにそれは冗談だろうが、雛子は手間取ることなくお兄さんを居間から連れ出した。廊下に響く足音はちゃんと二人分あったので、お兄さんも歩けてはいるのだろう。

 一人残された俺は、急に寂しくなった居間のテーブルに視線を落とした。
 そこには楽しかった宴の痕跡だけがある。あわせて四本のビールの缶、中身が大分残っているのか汗を掻いているサイダーの缶、ほぼ空っぽになった三人前の寿司桶、うず高く積まれた枝豆の殻――そういったものはもう、片づけてしまわなければならない。
 今日はもう終わりだ。久し振りにいい気分で酒が飲めたが、その分あっという間に時間が経ってしまった。せめて帰り際まで行儀よく振る舞うことにしよう。
 何せ『俺ならいい』とまで言ってもらったのだ。せっかく得られた信用を損ないたくはない。
 空き缶をまとめ、ガリとバランだけが残っている寿司桶を重ねていると、やがて廊下の向こうから一人分の足音が戻ってくる。
 行きよりも軽やかなその足音は雛子のものだろう。俺は戻ってきた彼女にどんな顔をしてみせようか、少しだけ迷っていた。
 
top