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忘れ物はないですか(3)

 雛子に連れられて向かったパンケーキの店は、初詣の客が集まったようで思いのほか混んでいた。
 入店してから案内されるまでしばらく待たされ、ようやく席に着いた時には俺も雛子もすっかり腹を空かせていた。
 まずはお互いコートを脱ぎ、それからメニューを開く。テーブルを挟んで向かい合わせに座る雛子はマスクも外し、メニューを覗いて手早く注文を済ませた後、俺に微笑みかけてきた。
 今年初めて見た、彼女の笑顔だ。
「ようやくまともに、お前の顔が見られた」
 俺はその顔をじっくり拝もうと遠慮なく視線を注いだ。
 途端に雛子ははっとして、急に身繕いを始める。前髪を指先でつまんで揃えたり、唇が乾燥していないかと触れて確かめたりと身嗜みを整えるのに余念がない。俺の視線を意識したそういう仕種は可愛いが、あまり見入ったせいだろうか、終いには俯いてしまった。
「あんまり見ないでください」
「無理だ。目の前にいられたらどうしても見てしまう」
 久々のデートというだけのことはあり、今日の彼女は一段と見栄えがよかった。手触りのよさそうな黒いベロアのワンピースは、雛子の色の白さを引き立てて、まるで精巧なつくりの人形のように見せている。二つに束ねた黒髪は店内照明に照らされ、いつもよりも艶やかに光っていた。持ち帰って飾っておけたらいいのにと思えてならない。
 しかし彼女は人形ではないから、気分次第では顔すら上げてくれない。
「私も嫌ではないんですけど、さすがに恥ずかしくて……」
 目も合わせずに雛子が言うので、俺にまでその気恥ずかしさが伝染したようだった。慌てて弁解した。
「仕方ないだろう。外ではずっと、マスクをした顔しか見られなかったからな」
 駅で待ち合わせをしてからというもの、雛子の表情は目元でしかわからなかった。彼女の目は案外多弁だが、口元まで見えている方がよりわかりやすいし、何よりも可愛い。
 雛子がおずおずと視線を上げる。口元に控えめな、俺の好きなあの微笑が浮かんでいるのを見つけて、俺も穏やかに声をかけた。
「早く風邪の流行が収まるといいな。お前も来月まで気が気じゃないだろう」
「本当です」
 実感を込めて雛子が頷く。
 幸いにも今日の彼女も元気そうであり、体調を崩していたり睡眠不足であったりというそぶりは見当たらなかった。去年のクリスマスイブに顔を合わせた時と同様、顔色も唇の色艶もいい。
「先輩からいただいたあの膝掛け、とっても暖かいです。おかげで勉強捗ってます」
 ちょうどその時、雛子もクリスマスの件について言及した。あの日贈った膝掛けを、彼女は有効に活用してくれているようだ。
「そうか。役立っているならよかった」
 胸を撫で下ろす俺に、彼女は明るく続ける。
「試験当日も持っていこうと思ってるんです。お守りの意味もありますし」
「変わったものをお守りにするんだな」
 お守りというにはいささか大きいし、嵩張るものだ。入試の際の防寒対策は必須だというが、それならもう少し薄手のものを贈っておけばよかったかもしれない。
 俺の懸念を察してか、雛子は少し考えてから、
「あ、先輩の写真でもいいかもしれませんね。文化祭の時に撮った……」
 と言いかけ、俺を面食らわせた。
「やめてくれ。あの格好はさすが不謹慎だ」
「どうしてですか、すごく素敵でしたよ。いい心の支えにもなりそうです」
 そう言い切る雛子の顔つきは思いのほか真剣だった。
 まさかとは思うが彼女は本気で仮装が好きなのだろうか。あの奇妙極まりない帽子が本当に俺に似合っていたと思っているのだろうか。俺としては今の意見に同意できかねたが、反論を頭の中で捏ね繰りまわしているうちに注文した品が運ばれてきて、その件はうやむやになってしまった。
「お待たせいたしました。ベリーベリーチーズパンケーキのお客様」
「はい」
 店員の問いかけに雛子が小さく手を挙げる。
 すると店員は片方の皿を彼女の目の前に置いた。パンケーキを三段に重ねた上からどう見ても甘ったるそうな赤いソースや白いクリームがたっぷりと、容赦なくかけられている。それだけでは飽き足らず、赤々としたいちごや瑞々しい紫のブルーベリーをこれでもかとばかりに散らしてある。雛子はメニューに載せられていた写真を一目見た瞬間、このパンケーキに惚れ込んでしまったらしい。彼女の甘い物好きは今年も健在のようだ。
「見るからに、甘そうだ……」
 店員が立ち去った後、俺は思わず呻いた。
 しかしその甘そうだというのが彼女にとってはいいのだろう。皿を見下ろし、満ち足りた様子で息をついていた。
 俺の甘い物嫌いも新年を迎えたからといって直っているはずもないから、雛子とは全く趣の違うものを頼んだ。食事系と呼ばれているらしい甘くないパンケーキの中から最もあっさりしていそうな、野菜中心のメニューに決めた。それがこのコブサラダパンケーキだ。一見するとミスマッチな取り合わせにも思える丸いパンケーキとコブサラダだが、皿を運んできた店員の勧めによるとサンドイッチのように挟んで食べるのがいいらしい。半信半疑のままその通りにしてみたところ、確かに問題のない食べ合わせだった。さっくりした食感の生地に歯応えのいい生野菜はよく合ったし、ドレッシングも思ったよりくどくない。
「意外に合うな。これは美味い」
 率直な感想を俺が語ると、雛子も興味深げに俺の皿を見た。
「本当、すごく美味しそうですね」
 どうやら食べたがっているようだ。
「一口どうだ」
 彼女の胸中を酌んで皿を突き出すと、雛子は恐縮しつつも皿を受け取ってパンケーキを一口食べた。彼女の口にも合ったことは、直後の表情からよくわかった。
「あ、美味しい……。こんな食べ合わせもあるんですね」
「頼んだ時は半信半疑だった。冒険してみて正解だったな」
「本当ですね。美味しかったです、ありがとうございます」
 雛子は礼を言って俺に皿を返してきた後、ふと自分の皿を見下ろした。それからこちらを見て小首を傾げる。
「先輩、私のも一口どうですか」
 俺は物欲しそうにしたつもりはないし、お返しのつもりだとしても遠慮したいところだった。
「いい。気持ちだけで十分だ」
 即刻断ったが雛子は引き下がらず、少し思案に暮れた後で更に言った。
「いちご、食べてもいいですよ。このてっぺんにある大きいのを」
 彼女の指が積み重なったパンケーキの頂上を示す。
 パンケーキ、ベリーソース、ホイップクリーム、そして数々のいちごとブルーベリーが積み重なって作り上げたヒエラルキーの頂点に君臨するのが、彼女が指し示した大粒のいちごだった。見事なまでに赤く熟したそのいちごには白い粉糖がかけられていて、他の小粒のいちごとは別格の扱いであることが見ただけでわかる。
「それは貰ったら駄目じゃないか。一番大きいやつだぞ」
 俺も果物は嫌いではないが、最も高い位置にある最も大粒のいちごを貰い受けることなどできるはずもない。こういうものは注文した人間が存分に味わうべきだろう。
 だが雛子は笑顔でかぶりを振った。
「いいんです。こういうのは公平じゃないと」
 公平どころか貰いすぎのように思える提案だ。だが雛子はいちごを俺に食べたがってもらっているように見えた。なぜかはわからないが、純粋に、美味しいものを俺と分かち合って食べたいということなのかもしれない。
 去年の文化祭でも、俺たちはこんなふうに分け合いながら食事を取った。その時の彼女はとても楽しそうだった。
「……本当にいいのか?」
 俺は雛子に再度確認を取った後、フォークを伸ばして彼女の皿からいちごをいただいた。大粒とは言っても俺にとっては一口分の大きさで、しかし彼女の思いやりに報いるべく、なるべく味わって食べた。
 いちごを食べたのは何年ぶりだろう。もしかすると中学時代、給食で食べて以来かもしれない。冬に食べるいちごはやや酸味が強く、ほんのりとだけ甘く、微かに春の匂いがした。
「何年ぶりか、わからないくらい久々だ。なかなか食べる機会がないから」
「美味しかったですか?」
「ああ。何だか悪いな、こんないいものを貰ってしまって」
 俺の言葉に雛子は嬉しそうな顔をする。
 もちろん俺も嬉しかった。一足先に春の訪れを味わえたような気分だった。お互いに待ち望み、待ち遠しくて仕方がないと思っている春は、案外すぐ近くまでやってきているのかもしれない。
 雛子も春を身体に迎え入れるが如く、その後はパンケーキを美味しそうに食べ尽くした。俺は甘い物は好きではないが、甘い物を食べて顔をほころばせている雛子を見るのは好きだ。目の保養になる。
「受験が終わったらまた来たいです」
 あっという間にパンケーキを食べ終えた雛子は、温かい紅茶に息を吹きかけながらそう語った。
「受験勉強中でも、息抜きに来ればいいだろう」
 いくら風邪が流行っている時期とは言え、たまの外食くらい許されそうなものだ。俺は首を傾げたが、雛子はその疑問に苦笑で答える。
「うちの親がいい顔をしなくて……。不要の外出は控えるよう言われてますし」
 彼女のご両親は実に真っ当な感覚の持ち主なのだろう。何よりも彼女の体調を案じているところにそれが窺える。俺の親はそういう人間ではないから、彼女の言葉から温かい家庭像が垣間見えるようで、こちらまで温かい気持ちになる。
「もうすぐだ。やるべきことをこなした後は、またいくらでも来られるようになる」
 俺が励ますと雛子も心得たように大きく頷く。
「はい。私、受験が終わったらやりたいことがたくさんあるんです。今は息抜きの合間に、それをリストアップして楽しんでます。いざ時間ができたらすぐとりかかれるように」
 不要の外出を禁じられ、目下受験勉強一辺倒の彼女の日々にも楽しみはあるらしい。雛子の明るい表情が気に入り、俺は深く突っ込んで尋ねた。
「へえ、例えば?」
「例えば……と言うかやっぱり、読書がしたいです。それもたくさん」
 雛子は一番の趣味である読書すら、受験が済むまではなるべく控えるつもりらしい。彼女は視力が悪いので、目が疲れるようなことはあまりできないのかもしれない。しかし彼女が晴れて受験生活を終えたなら、また二人で本を薦め合ったり、感想を交換したりしたいものだ。
「あとは服も見たいです。ちょうど春物も出てくる時期ですし」
 想像を巡らせるように語る彼女は楽しそうだった。一つ一つ指折りしながら、
「それに化粧品も見たいですし、髪も切りに行きたいかな……」
 と言ったところで、俺は何となく気がかりになって口を挟んだ。
「短くするのか」
 たちまち彼女が目を見開く。
「まだ考えてるとこです。先輩は髪、長い方が好きですか?」
「ああ」
 俺は迷わず即答した。
 だがあまりにも早すぎたのだろうか。雛子は驚きのあまり息を呑み、彼女が手にしたティーカップの中で濃い目の紅茶がさざ波立った。
 俺ももう少し落ち着いて答えるべきだったと思ったが後の祭りだ。
「いや、そんなに長い髪が好きだというわけでもないんだが」
 慌てふためきながら弁解をした。
「お前は長い方が似合うと思っている。いろんな髪型が見られるし、さらさらしていて触り心地もいいし、と理由を並べると何だか、妙な趣味に聞こえるかもしれないが……」
 だが言えば言うほどおかしな言動に聞こえてしまうことだろう。女の髪型なんてさして詳しくもないくせに、雛子の髪だけは気になって仕方がない。絹糸のように触り心地がよく艶もあり、俺はこの髪を撫でるのを気に入っていた。せっかく長く伸ばしているのだから、きれいなまま、長いままでいればいい。
「お前の髪も好きだと言ったら、おかしいか」
 どれほど言葉を重ねても、とどのつまり答えはそこへ行き着く。俺がそう呟くと、雛子はみるみる赤くなり、困ったように視線を外した。
「お、おかしくはないと……思いますけど」
 それから結んだ髪の片方に手で触れ、はにかみながら言ってくれた。
「先輩の好み、覚えておきます」
「ありがとう」
 礼を言うのもおかしな話かもしれないが、雛子の言葉に感謝をしたい気分だった。
 しかしそうなると俺も彼女の好みを覚えておかなくてはならないだろう――あの帽子は論外としても、いつか聞いてみたいものだ。雛子はどんな髪型や服装が好みなのだろう。
 場合によってはそういうものも考慮してやらなくもない。恥ずかしくない範囲内でだが。

 食事を済ませて店を出ると、外は日が暮れかけていた。
 俺は雛子を家まで送っていくつもりでいたから、駅で切符を購入し、彼女と共に改札をくぐった。なるべく長く二人でいたかった。今日が終わるとまた一ヶ月以上会えなくなってしまう。来月のちょうど今頃、雛子は入試当日を迎えているはずだった。
 雛子も今日の名残りを惜しんでいるのかもしれない。電車の中で並んで座る間、彼女はさかんに俺と話をしたがった。話題はやはり受験生活が過ぎた後のことだった。
「そういえば、来月はバレンタインデーもありますから」
 彼女が思い出したように挙げた行事のことを、俺はクリスマスよりもよく知らなかった。チョコレートを贈る風習があることは知っているが、そのチョコレートにもいくつかの種類があるらしい。去年大槻が大量のチョコレートを抱えていたので景気がいいなと声をかけたところ、全て義理なんだと微妙な顔つきで嘆かれたのを思い出す。たとえ義理で貰ったものでもお返しはしなければいけないらしく、仕送り暮らしの大槻にとっては死活問題だったようだ。
 俺は去年、一つだけ貰った。改めて言うのも何だが義理ではないらしい。その前年までは一度も貰ったことがなかった。
「バレンタインか。あいにくクリスマス以上に縁遠くてな」
 記憶のあれこれを手繰りながら応じると、雛子が勢いよくこちらを向いて俺を見つめた。
「……去年はチョコ、あげましたけど」
 抗議めいた強い眼差しに、つい吹き出しそうになる。拗ねた態度も可愛いものだ。
「それは覚えている。お前がくれなければ縁がないという意味だ」
 俺が宥めると雛子も少しほっとしたようで、改めて確かめてきた。
「じゃあ今年も貰ってくれますか、チョコレート」
「わかった。甘くない方がいいが、少しくらいなら食べてやる」
 甘い物は好きではないが、チョコレートなら話は別だ。
 俺はチョコレートが以前ほど嫌いではない。いい香りがするし、食べてもそれほど甘くは感じなかった。そしていつも同じ日の記憶を思い出させた。それも全て、彼女がそうさせたことだ。
「バレンタインデーなんて、以前なら鼻で笑っているところだ」
 今も少しだけ思い起こしながら、俺は彼女の手を強く握る。駅に着いたらすぐさま引き返して、俺の部屋に連れ帰ることができたら、そんな考えすらふと浮かんでしまう。
 帰したくない。
 だが、帰さなくてはならない。
「今は笑ったりしませんよね?」
 雛子が俺の目を覗き込んで尋ねる。
「そうだな。楽しみにしている俺自身が何より滑稽だ。他人を笑うどころじゃない」
 首を竦めて答えると、彼女は少し満足そうに、そして実に嬉しげに座席の背もたれに寄りかかる。その後で少し黙ったから、どんなチョコレートを作るか考え始めているのかもしれない。
 一ヶ月以上も先の話が待ち遠しくて堪らず、俺は車窓に視線を投げる。彼女が降りる駅が次第に近づいてきて、やがて電車が停まった。
 電車を降り、駅を出てからも、俺たちは手を繋いだまま歩いた。
 雛子の家の辺りを歩くのはこれで三度目だ。今日は彼女の家族がご在宅とのことで、家の前までは行かず、近くまで送るだけにするつもりだった。それまでは手を離さず、繋いだままにしておきたかった。
「あっという間でしたね、今日」
「ああ。楽しかったな」
 いい一日だった。新しい年の始まりとしては申し分のない過ごし方ができたと思う。欲を言えばもう少し長い時間を共に過ごしたかったが、今は言っても仕方がない。
「言ってもしょうがないですけど、まだ帰りたくない気分です」
 歩きながら雛子が、寂しげに呟いた。
 俺も全く同じ気持ちではあったが言うつもりまではなかった。俺が言ったら、取り返しのつかないことになる可能性だってある。だから堪えていたというのに、雛子はそれを躊躇もなく口にしてしまった。
「簡単に言ってくれるな。俺は同じことを思っていても、言うまいとしていたのに」
 俺が思わず咎めると、雛子も自らの非はわかっているようで項垂れた。
「……すみません」
 とは言え彼女が素直な思いを吐露したからこそ、俺は逆に冷静になれた。
 今日が終わってしまっても二度と会えないというわけではない。むしろ次に会う時、雛子はひとまず試験を終え、後は結果を待つばかりという状況のはずだ。その時はもう少し楽な気分で話ができるかもしれない。
「次があると思えば少しは気が楽になる。来月の十四日、楽しみにしているからな」
 俺は彼女の手をより強く握った。彼女の家まで残りの距離もあとわずかだが、それまではこうして手を重ね合わせていたい。いっそ互いの熱で融けて、そのまま混ざり合い離れられなくなればいいのに。
 隣を歩く雛子は言葉を探すように唇を結び、俺を見上げた。
 俺も雛子にかける言葉を探そうと、少しだけ歩みを緩めた。
 その時だった。歩いてきた道の後方から一台の乗用車がのろのろと近づいてきた。俺は彼女を道の端へ避けさせようとしたが、それより早く車のクラクションが鳴った。
「――ヒナ!」
 クラクションの後で、その青い乗用車から男の声が放たれた。
 どこかで聞いた気がする、と俺が思うのと同時に雛子が足を止める。そして運転席の全開の窓からは黒縁眼鏡をかけた青年が顔を出して、こう言った。
「悪い、邪魔した? 見かけたからつい声かけたけど」
 それは以前お会いした、雛子のお兄さんだった。
 雛子の話によれば市外で一人暮らしをしながら働いているとのことだったが、考えてみれば今は正月だ。仕事も休みとなり、こうして実家へ戻ってきたのだろう。
 どう挨拶をしようか考える俺の隣で、雛子は必要以上に慌てていた。
「お帰り、ず、随分早いね。明日の予定じゃなかったっけ」
 上擦る声で兄に声をかけている。顔は真っ赤で目も泳ぎ、狼狽しているのは火を見るより明らかだった。
 繋いだ手を離すべきかどうか、俺はいくらか迷った。だが雛子が俺の手を握り締めているので、ひとまずそのままにしておいた。
「正月なんて店も暇だからな。サービスで早めに上げてもらった。休みも一日前倒しで、早めに帰ってきたんだよ」
 雛子のお兄さんは含みのある笑顔で語る。俺よりもはっきり年上だとわかる、落ち着いた顔つきの人だった。話し方のフランクさは妹が相手だからであって、普段はてきぱきと真面目に話すのだろうと想像させた。
「へえ、そうなんだ……」
「ところでヒナ、お兄ちゃんに彼氏は紹介してくれないのか?」
 兄の言葉に雛子が、俺の方を見る。
 俺も雛子を見返し、それから彼女の顔に決意の色を見て、繋いでいた手をゆっくりと離した。ご家族に紹介をしてもらうというのに手を繋いだままというのも失礼だろうと踏んでのことだ。
 雛子は俺に向かって顎を引き、改めて兄の方へと向き直る。
「えっと。前に話してた、鳴海先輩。私の……彼氏です」
 ほんの少し言いにくそうに、雛子は俺を紹介した。普段俺に対してはそういうことも抵抗なく言うくせに、家族が相手ではそうもいかないらしい。
 それから雛子は俺に対し、青い車の運転席を手で指し示して、
「先輩、前にも話しましたけど、うちの兄です」
 すぐに俺もそちらへ向かって頭を下げた。
「改めまして、鳴海と申します。先日はろくにご挨拶もせず、失礼いたしました」
「いえいえ、妹から事情は聞いてましたし。むしろすみません、わがままな妹で」
 雛子のお兄さんが苦笑しながら片手を振る。
 去年五月に顔を合わせた際の顛末は、雛子から既に聞かされていた。あの時は彼女の嘘の片棒を担いで小芝居を打ったが、結局は雛子が全て打ち明けてしまったことも知っている。だが正直に打ち明けるまで時間をかけてしまった雛子の気持ちも十分にわかる。俺もまた澄江さんに対し、同じようなことをしていたからだ。
 だから俺は彼女を庇った。
「そんなことはありません。雛子さんはとても心温かで、優しい方です。おかげで一緒にいると、とても幸せな気持ちになれます」
 あれはわがままでしたことではなく、お互いにこういうことに不慣れで不器用だったがゆえのことだ。そして俺はそういう部分も含めて、雛子を大切に思っている。それは隠すべきことではなく、彼女のご家族にこそはっきり伝えなくてはならないことだろう。いい加減な気持ちで交際しているのではないとわかってもらわなければならない。
 正直な思いの丈を語ったのはひとえにお兄さんを安心させたかったからだが、
「えっ」
 なぜか、隣で雛子が戸惑ったような声を上げた。
 俺がせっかく嘘偽りのない想いを語ったのだから、もう少し平然としていればいいものを、わかりやすく落ち着きを失くしたのがおかしかった。
 もっとも運転席から顔を出したお兄さんもうろたえたような笑みを浮かべていたので、もしかしたら俺の方が場違いなことを言ったのかもしれない。あるいは柄沢兄妹はこういうところもよく似ているのかもしれない。
 ともあれ、今日のところはこれだけ言っておけばいいだろう。俺はどぎまぎしているらしい雛子を落ち着かせようと笑いかけ、それから声を落として告げる。
「今日はこれで帰る。またな、雛子」
「えっと、はい。でも、あの……」
 雛子はまだまごついていたが、俺も引き際を見誤るわけにはいかない。
 それで運転席のお兄さんに向かって頭を下げ、
「では、本日はこれで失礼します。また改めてご挨拶の機会をいただければ幸いです」
 と告げると、雛子のお兄さんは妹によく似た顔つきで目を瞬かせながら頷いた。
「は、はい。もちろんです。是非またお会いしましょう」

 俺は雛子の傍を離れ、道を塞ぐ青い車の脇を抜けて駅までの道を引き返す。
 歩きながら、遥か昔に出会ったあの兄妹の姿を思い出していた。
 雛子とそのお兄さんに似ていたかどうかは、よく覚えていない。ごくわずかな共通項と俺の中にある願望が、あの二人だったと思いたがっているだけなのかもしれない。
 ただどちらにしてもあの時、羨ましいと思った。
 寒い日に手を繋いでくれる相手がいる、あの兄妹が羨ましくて仕方がなかった。
 ただ、今は俺にもいる。血の繋がりはなくとも思い合える、とても大切な相手が。
 おかげで一人の帰り道も寂しくはなく、繋いでいた手に残った温もりも、しばらくの間残っていたようだった。
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