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忘れ物はないですか(2)

 一月三日、午前十時。
 俺は雛子と駅構内で待ち合わせていた。
 正月らしく、構内には晴れ着や羽織袴の人間もちらほらいた。既に初詣を終えたと思しき参拝客が破魔矢などを手にしているのも見かけた。三が日と括られるだけあって、一月三日の朝はまだ正月の雰囲気が色濃く残っている。
 外はからりとした冬晴れの日で、しかしその分だけ空気は冷たく澄んでいた。改札前の空間にはホームからの風が吹き込んでいて、黙って立っていると少し肌寒い。

 約束の時間の十分前に雛子が改札を抜けてきた。
 水色のダッフルコートを着て、白いマフラーを巻いている。コートの裾と膝までありそうな長いブーツの隙間、覗く脚は肌の色を透かさない黒いタイツを履いていて、初詣に備えがっちりと着込んできたのが見て取れた。おまけに口元を白いマスクで覆っている。これでは顔が見えない。
 彼女のいでたちに特段の正月らしさはない。だが今年初めて視線が合った瞬間、彼女は目だけでそれがわかるほど嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あけましておめでとうございます、先輩!」
 開口一番の挨拶も随分と弾んでいる。今日の雛子はやけに機嫌がいいようだ。
 こうして二人で出かけるのが久し振りだから、なのだろう。微笑ましいと思う反面、俺までつられてしまいそうで少々困った。出迎えるのが妙に気恥ずかしい。
「ああ、おめでとう。今年もよろしくな」
 俺が挨拶を返せば雛子は一層浮かれて、声を張り上げた。
「こちらこそ、是非ともよろしくお願いします!」
「新年早々、何をはしゃいでいる」
 思わず苦笑すると、彼女ははにかんだように小首を傾げた。自覚はあるのか、そこで少し黙る。
 そうなると俺も彼女の顔全てが見たくなって堪らず、口元を覆うマスクがいささか恨めしい気分になった。
 もっとも、無防備に出歩かれて風邪を引かれるよりましなのも事実だ。
「早速、行くとするか」
 ここから目当ての神社まではほど近く、普段なら十五分もあれば着く。
 だが三が日のうちは大変混雑することで知られており、神社へ通じる参道は無論、周辺の路地まで混み合っていることは確実で、普段以上に時間がかかることだろう。急ぐのに越したことはない。
 俺はこれまで実家近くの小さな神社に参拝するくらいで、わざわざ人の多い大きな神社へ出向く気になったのは今年が初めてだった。雛子は絵馬を奉納したいと考えているようで、彼女の希望に沿って参拝先を決めた。そうでもなければわざわざ正月から人混みに塗れようなどとは思いもしない。
「そうですね。行きましょうか」
 雛子が上目使いに俺を見る。
 俺は黙って彼女に手を差し出し、それを雛子はためらいなく握る。小さくて温かい、そして柔らかい手をしている。繋いだ端から手のひらに馴染むような彼女の手を、今年も離さずにいられたらと思う。
 いや、決して離すまい。
「先輩の手、冷たいですね。もしかしてすごく早く来てたんですか?」
 彼女は不思議そうに瞬きをしている。
「たまたま早く着いただけだ。それに、お前の手が温かいんだろう」
「私、走ってきましたから」
「電車で来たのにか?」
 聞き返すと雛子は笑った。
「駅のホームからです。早く先輩に会いたくて、つい駆け足になっちゃいました」
「そんな靴で走れるものなのか」
 彼女の足元、編み上げのブーツに視線を向ける。俺からすれば転びはしないかとはらはらしてしまうのだが、雛子は平然としている。
「意外と平気なんですよ」
「しかし油断大敵だ。くれぐれも――」
 転ぶなよ、と言いかけて、俺は慌てて口を噤む。
 それは受験生に対して口にしていい言葉ではない。
 もっとも雛子は俺が何と言おうとしていたかわかっていたようで、かえっておかしいというように笑っていた。
「そういうの、気にしませんから。それより優しいんですね、先輩」
 新年早々、彼女から些細なことで誉められて面映い。彼女の言う優しさはいつも次元が低すぎる。
 とは言え新しい年の始まりに彼女にそう言ってもらえるのは、この上なく幸せなことに違いない。

 二人で向かった神社には、既に参道口まで人波が連なっていた。
 俺たちも行列の一部となり、ごった返す人混みの中を流れに従い進んだ。俺はしっかりと雛子の手を握り、時々彼女が潰されてはいないか、くたびれてはいないかと視線を向けて確かめた。そういう時、なぜか雛子も必ず俺を見ていて、目が合うと目配せするように意味ありげな視線を向けてくる。
 人混みすら楽しいとでも言いたげな彼女の様子に、つくづく物好きだと俺は思う。
 楽しんでいるのは結構なことだが、ここではぐれられては困る。
「手を離すなよ」
 俺が忠告すると、雛子は雑踏の中でかろうじて拾えるほどの声を上げた。
「もちろんです」
 マスクのせいか、彼女の声は普段よりもくぐもって聞こえる。口元がどういう表情をしているのかもわからないのが寂しい。風邪の流行も受験シーズンもつくづく厄介なものだ。
 だが声が不明瞭な分、口元が見えない分だけ、彼女の目は口ほどにものを言う。歩きながら、人波に流されながらも度々俺を見ては微笑んでいる。
「何だ、さっきからこっちばかり見て」
 俺も彼女のことは言えないのだが、一応こちらには雛子の身を案じるという重要な役割、及び大義名分がある。
 だが雛子の方は至って暢気なものだった。やはり俺を見ながらうきうきと言った。
「だって、久々のデートですから」
 彼女の言葉が誤りであるとは言えない。だがデートを楽しもうにも、雛子だけならまだしも見知らぬ人間と密着して歩かなければならないのが憂鬱だった。何度か黙って足を踏まれた。肩にぶつかられた回数は数え切れない。雛子にぶつかって来ようとする人間には睨みを利かせつつ、彼女の手を引いて安全な空間へと導いた。今のところ気苦労の方が多い。
「だからと言って……こんな状況で楽しめるか。狭いしうるさいし息苦しい」
「私は先輩がいてくれたら、それだけで十分楽しいんです」
 俺の反論を聞いても雛子の考えが揺らぐことはないようだった。
 確かに俺も楽しくないとは言わないが――彼女がここにいて手を繋いでいるというだけでも、一月一日とは比べものにならない、素晴らしい正月を迎えていると言えるだろう。何なら俺にとっては今日が新しい年の幕開けということにしてもいい。
 それから思いついて、俺は雛子に言った。
「そんなに喜んでもらえるなら、去年も来ればよかったな」
 去年の初詣は例によって、実家近くの小さな神社で済ませた。
 当時はまだ実家に新しい母と妹がおり、父と母の関係も良好で、俺の居場所はなかった。初詣の為に一人で家を出た時だけ、ほっと一息つくことができた。おかげで俺は初詣自体は嫌いでもない。
 しかしそんな不毛な安らぎの為に神仏に縋るくらいなら、そういった時間も雛子の為に使う方がよほど有意義だろう。神頼みのしがいもある。
「先輩、今日はお昼ご飯を食べてきてもいいって言われてるんです」
 雛子が俺の手を軽く引き、ねだるように続けた。
「よかったら、お参りの後で何か食べていきませんか」
「そうするか」
 俺は一も二もなく頷いた。
 参道に連なる行列はなかなか進む気配がない。雛子と一緒にいられるのはいいが、人混みの中で過ごすだけでは物足りない。もっと彼女の顔が見たいし、話だってしたい。
 できればマスクを取った顔を見たいとも思っていたから、彼女の提案はまさに渡りに船だ。
「久々に二人で過ごすのに、ずっと人混みの中というのもつまらないからな」
 俺が独り言のように呟くと、雛子は俺を見て目を細めた。
 相変わらず口元はマスクで隠れていたが、その裏側でどんな表情をしているのかは想像がついている。お互いに笑い合いながら迎える新年というのもいいものだ。

 それから、かれこれ二十分は人混みの中にいただろうか。
 どうにか行列が少しずつ進んで、長い長い待ち時間の末、俺たちに参拝の順番が回ってきた。
 初詣に来ておいて何だが、俺は神頼みというものを基本的には信じていない。子供の頃に辛いことや悲しいことがあった時、何度神様に願っても、救われることも叶えてもらえることもなかった。読書においても神様がいる話よりも、いないとはっきりわかるような話の方が好きだった。その方がより信じられる気がするからだ。
 だが二十歳になってみて思うのは、神頼みとは結局、自らの願いをはっきりと言い表すこと以外に意味はないのかもしれない。
 つまり願うことに意味があるのであり、黙ってただ叶えてもらおうなどと思うのが間違いなのだろう。
 そして、自らの願いをはっきりと思い浮かべることで、叶えようとする強い意思を持てるようになる――それが正月、新しい年の始まりに初詣をする意味なのだと俺は思う。
 二十歳になった俺の願い事は二つだ。
 雛子の努力が実を結び、どうか彼女によりよい春が訪れますように。
 それから、俺の力で雛子を幸せにすることができますように。
 手短に祈って顔を上げると、俺の隣にいる雛子はまだ手を合わせている最中だった。目を伏せた横顔は驚くほど真剣で、合わせた手にも肩にも力がこもっているのがわかる。何をそんなに必死になってお願いしているのだろう。
 もちろん考えるまでもあるまい。彼女が願うのは当然、眼前に迫りくる大学入試に対する事柄に決まっている。
「随分な熱の入りようだったな。鬼気迫るものがあったぞ」
 お参りを終えて境内を後にしてから、俺は雛子にそう言った。
 雛子は一瞬気恥ずかしそうに目を逸らした後、開き直ったように応じた。
「だって、叶えて欲しい大事なお願い事ですから」
 それならせめて、雛子の願いは聞き届けてもらえるといいのだが。
 彼女は十分に努力をしている。せめてその努力を何の問題もなく、障害もなく発揮できるよう、神様にも是非取り計らって欲しいものだ。
「あれだけ熱心なら、神様の目にも留まるかもしれない」
 そう口にしてから、柄でもないことを言ったような気がした。
 雛子がどう思ったか、マスクをした顔から全て読み取るのは不可能だった。だが興味深げにはされているようだ。
「先輩は、去年も初詣に行ったんですか?」
「一応な。実家の近くに神社があって、そこへ行った」
 彼女の問いに嘘はつけない。
 とは言えあまり面白い話でもないから、簡潔に答えた。
「そう、なんですか」
 雛子の方もこちらの表情から何かを察したのだろう。悪いことを聞いてしまった、というように睫毛を伏せた。
 だから俺はあえて話題を変えた。
「今年はお前を誘って正解だった。一年の始まりは明るくないとな」
 彼女に、俺のくだらない過去の全てを背負わせる必要はない。そういうものはもう置いていこうと決めたのだ。思い出す度に胸を過ぎるような辛さ、苦しみ、悲しみに空しさ、それらをまとめて過去と共に置いていこう。そして忘れてはならないものだけを未来へ持っていこう。
 雛子には明るい未来だけ見ていてもらいたい。彼女の幸せを願うなら、何よりもまず俺自身が幸せでなくてはならない。俺たちは二人でそれを叶えていけるだろう。
「先輩、帰りも手を繋いでいきましょう」
 今度は声に出して、雛子がねだってきた。
「そうだな。そうしよう」
 俺は頷き、俺たちはどちらからともなく手を繋ぐ。
 やはり雛子の手は温かく、行列している間にすっかり冷えてしまった俺の手に穏やかな熱を分けてくれた。
「……温かい」
 思わず呟きながら、小さな彼女の手を握り締めながら、俺は決意を新たにする。
 生きていく上で必要なものはもうここにある。振り返る必要も、立ち止まる必要もない。ただこの手を離さずに、前を向いて歩いていけばいい。
 飽きることなどあるはずがない。
 呼吸に飽きることがないのと同じように、俺には雛子がいなければどうにもならない。

 その後、俺は雛子が望むままに正月らしいことをして過ごした。
 まず二人でおみくじを引いた。
 アルバイトの巫女からくじの詰まった木箱を差し出され、雛子は背筋を伸ばし、柳眉を逆立てくじを引く。その張り切りように、仮によくない結果を引き当てたらさぞかし落ち込むのではないかと俺は気が気でなかった。
 幸いにも雛子は大吉を引き当て、飛び上がるほど喜んでみせた。
「ほら、先輩見てください! 大吉!」
「少し落ち着け。まあ、よかったな」
 俺は宥めようとしたが雛子はすっかり興奮しており、目をきらきら輝かせていた。
「すごい……! 何だか、合格できそうな気がしてきました」
 くじを食い入るように読み耽りながらそんなことまで言い出したので、大吉でよかったと俺は密かに胸を撫で下ろす。
 とは言えおみくじもまた確実なものではないし、鵜呑みにするのはどうかと思う。程ほどに、気休め程度に見ておくのがいいだろう。
「気だけで満足されては困るな」
 諭しながら俺はくじを引き、折り畳まれた紙片を開いてそこに印字された『大吉』の文字を見つける。
 さすがに心躍ったのも束の間、真横から雛子が覗き込んできたので慌てて唇を引き結んだ。ついでにくじを、彼女には見せないように背中で隠す。
 大吉だけあり、くじにはサービス過剰ではないかと思うほどいいことばかり書いてある。大願は成就し病気は完治し失せ物は見つかるとある。特にどれも差し迫っている問題ではないが――直視するのも気恥ずかしいので横目でだけ読んだが、恋愛も結婚も今の相手で問題ないらしい。何と書かれていようと俺の気が変わることはなかっただろうが、こうして背を押すようなことを書かれると、単純に喜んでいいのかどうかわからなくなる。
 鵜呑みにするつもりはないのだが、やはり少しばかり嬉しいというのか、縁起がいいというか。
「先輩のおみくじには何て書いてあったんですか」
 雛子が鋭く尋ねてきたが、俺は当然答えたくなかった。
「内緒だ。言うのが恥ずかしい」
「そんなに恥ずかしいことが書いてあるんですか、おみくじって」
「解釈によってはな。追及するなよ、俺は黙秘を貫く」
 そう言い添えると、雛子はそれ以上の追及をやめた。聞き出そうとしても無駄だと思ったか、あるいはこちらの心情を酌んでくれたのかもしれない。
 おみくじを二人並べて結んだ後は、絵馬の奉納に向かった。
 巫女から手渡されたまだまっさらな絵馬を、雛子は少しの間検分するように眺めていた。どんなふうに文字を並べていくか計算でもしているのだろう。
「何と書くつもりなんだ」
 俺はペンを持った雛子の手元を覗き込む。
 彼女の右手はペンを持ち、左手はしっかりと絵馬を押さえていた。
「オーソドックスに。志望校合格祈願、でいきます」
 そう言うと雛子は息を詰め、絵馬に一文字一文字丁寧にペンを滑らせる。呼吸を抑えているせいか、それとも緊張のせいかペン先は震えていたが、絵馬には彼女がいつも書く丸みを帯びた女らしい字が次々と並んでいく。大学名、学部名まで細かく、慎重に絵馬に記されていく。
 それを隣で眺めながら、俺は時々雛子の横顔に目を向けた。真横から見ると眼鏡のレンズを通さない彼女の素顔が覗ける。真剣で揺るがぬ眼差しがしっかりと絵馬を、そこに並ぶ彼女の強い願いを捉えている。さすがにマスクの中までは覗けないが、いつもは眼鏡のテンプルだけを支える小さな耳が、今日はマスクの白い紐も支えていた。冷え込む空気のせいか、彼女の耳はすっかり赤くなっていた。
 雛子は絵馬を書き終えると面を上げ、すぐに俺と視線がぶつかった。絵馬に注いでいた強い眼差しがこちらにそのまま向けられて、胸の鼓動が速くなる。そういう顔をするくせに、絵馬にはいつもと同じ丸くて可愛らしい文字を綴っている。
「年賀状と同じ字だ」
 俺はつい、声に出して告げた。
 彼女は不思議そうに応じる。
「それはそうですよ、私の字ですから。違っていたら大変です」
「いつもながらお前の字は面白いな。随分丸く、ころころしている」
 字が下手だというわけではないが、ある意味独特なのだと思う。女しか使わないような丸みを帯びた文字の書き方は、どんな堅苦しい言葉も柔らかく見せられるようだった。
 一日に届いていた彼女からの年賀状も、このころころとした文字で認められていた。裏面に並ぶ自らに言い聞かせるような前向きなメッセージも、表面に記された俺の名前も。雛子の手にかかると俺の名前さえ柔らかく、愛嬌があり、そして優しく映るから妙だ。
 雛子は時々俺を優しいと言うが、俺を優しくしているのは間違いなく彼女自身なのだろう。
 しばらく絵馬を眺めていた俺を、雛子はやはり不思議そうにじっと見ていた。その視線に気づき、随分長いこと絵馬に見入ってしまったことにも気づいた俺は、急いで彼女に言い渡した。
「お守りも買うんだろう。どうせまた並ぶんだ、急いだ方がいい」
「あ、そうですね。奉納してきます」
 彼女が絵馬を掛所へ吊るす一挙一動を、俺は傍で見守った。
 正月らしいことを二人でこなす、それ自体が充実していて、片時も彼女から目を離せなかった。

 雛子は合格祈願のお守りも購入し、それからようやく俺たちは混み合う神社を後にした。
 参道沿いにはカラフルな天幕の露店が軒を連ねており、雛子はそこで昼食を取ってもいいと言い出した。だが俺は当たり前のように断固反対した。
「ここは人が多い。ゆっくり食事をする雰囲気ではないし、座るところもない。大体、決して風邪を引いてはいけないはずの人間が、一月の戸外で食事なんてもってのほかだ」
 第一に落ち着けない。久々のデートだと言うなら少しはゆっくりと話をしたり、顔を見たりする時間が欲しい。そしてもちろん冬の冷たい風から彼女を守ってくれるような場所も必要だ。
 俺が滔々と意見を述べれば、雛子はぐうの音も出なかったのか、小さく何度か頷いた。
 とは言え久々のデートである以上、譲るべきところは譲ってやろう、とも思う。
「ちゃんと店に入るなら、あとはお前が決めていい」
 そう付け加えた途端、雛子は素早く確かめてきた。
「本当にいいんですか? 私が選んだら、確実に先輩の苦手なものになりますよ」
 脅かすような物言いに、若干、嫌な予感を覚えた。
 賭けてもいい。彼女は甘い物を食べたがっている。
「昼食にふさわしいメニューにしろよ」
 釘を刺すつもりで俺は言った。
 これが単に茶を飲むだけというなら、彼女には甘い物だろうと何だろうと食べさせて、俺は飲み物だけという選択肢も取れる。
 だが昼食ともなると、俺も何かを付き合わなければならないということになるのだから、そこは考慮してもらいたいところだ。
「この近くに、パンケーキの美味しいお店があるそうなんです」
 雛子はいかにもこちらの顔色を窺うように言った。
 そして俺の予想は大当たりだったようだ。見え見えでもあったが。
 譲った手前、強硬に嫌だとも言いにくい。もっとも雛子も俺の好みは熟知しているはずだから、甘い物を強制的に付き合わせようとすることもないだろう。そう思い、念の為尋ねた。
「パンケーキか……甘くないのもちゃんとあるんだろうな」
 すかさず雛子が答える。
「食事系もメニュー豊富らしいですよ。大丈夫です」
 食事系、と言われてもイメージが湧かないのだが、要はおやつではないパンケーキという解釈でいいのだろうか。
 こういうことは雛子の方が詳しいのだろうし、彼女を信じて任せた方がよさそうだ。
「じゃあ、決まりってことでいいですか?」
 雛子が嬉しそうに声を弾ませる。
 それだけで俺はもう、この際甘い物しかなくてもいいか、という気にさえなってしまう。
「わかった。お前が決めていいと言ったからな、ここは譲ろう」
「ありがとうございます、先輩」
 そう言うと雛子は俺の手を引き、正月らしさの残る町並みを勢いよく歩き始めた。
「先輩、こっちです。案内します!」
「わかったわかった。そんなに急がなくてもいい」
 はしゃぐ雛子に引っ張られるように、俺もその後に続く。
 今のこの笑顔がマスクのせいで見られないのが、本当に惜しい。
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