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忘れ物はないですか(1)

 正月が来ると思い出すことがある。
 あれは俺が小学校五、六年の頃の話だ。
 当時はまだ澄江さんの家に暮らしていた。だが年末年始は実家へ帰り、顔を見せるようにと父親に言われ、不承不承この町へ戻ってきた。
 現在でも、父は俺に正月の度に家へ帰れと命じてくる。その真意が俺には全くもってわからない。その程度の交流で絶対零度にまで冷え込んだ親子仲が持ち直すとも思えないし、弾まない会話を繰り返すのも退屈なだけだ。それでもこちらとしては学費を用立ててもらっている身、逆らうことなどできるはずもなかった。
 ともあれ小学生の俺は単身実家へと戻り、祖父と父と、父が連れてきた今の新しい母とは違う女が暮らすあの家で三が日を過ごした。その間、楽しい出来事は何一つとしてなかった。唯一の楽しみは別れ際に父から手渡されたお年玉だけで、俺はその金で澄江さんへのお土産を購入し、残りを好きな本の購入に充てることにした。帰りの電車の中で読むつもりでいたのだ。

 一月三日の夕暮れ時、駅前の一角にある大型書店にはまだ正月のムードが残っていた。
 店内にはワゴン行きを賭けてサバイバルレースの様相を呈するカレンダーや手帳が並び、BGMには『春の海』がそれこそ寄せては返す波の如く繰り返し流されていた。
 俺が足を向けたのは児童書のコーナーだった。子供心にも忌々しいクリスマス絵本フェアは既に撤去されており、おかげで楽しく本を選べそうだと思った。その瞬間の気持ちまで覚えている。
 そう思いながら児童書の棚に向き合った際、ちょうど真向かいにある絵本の棚の前で、サンタクロースの絵本を読む子供を見つけたことも。
 俺より二つ三つ年下であろう、小さな女の子だった。正月ももう終わろうとしているのに一心不乱にサンタクロースの絵本を読んでいた。本が大きすぎたせいで顔まではよく見えなかったが、背中まで届きそうなくらいに髪を伸ばしているのはわかった。水色のコートを着ていて、ポケットに押し込んだミトンの手袋が少しはみ出ていた。ただこの辺りの記憶は後から補完したものでもある為、目に留まった瞬間にそこまで強く印象に残っていたわけでもない。
 なぜこの時期に忌々しいサンタの本なんて読んでいるのだろう。俺は内心毒づきつつ、そ知らぬふりで彼女の横を通り抜けた。あの港町では同じ小学校の児童と出くわす度に嫌な気分になったものだが、この町には同世代の顔見知りはない。おかげで平然としていられた。
 しばらく本を吟味していると、児童書のコーナーには別の人影が現れた。
「もういいだろ、そろそろ帰るぞ」
 どこかくたびれたような声に振り向くと、眼鏡をかけた中学生くらいと思しき少年が、女の子を呼びに来たところだった。
 たちまち女の子は面を上げ、不満げな口調で応じた。
「お兄ちゃん、やっぱり絵本にも書いてあったよ!」
 どうやら二人は兄妹のようだ。兄の方は歳の離れた妹に手を焼いているのか、うんざりと応じる。
「知らないよ。サンタだって間違いくらいするだろ」
「しないもん。サンタさんは魔法の力で欲しいものがわかるんだから」
「じゃあ魔法が外れたんだろ。いいから帰ろう」
「サンタさんがプレゼント間違うなんておかしいよ。絶対変」
 妹の方は駄々を捏ねるようにしつこく言い張った。
 だが痺れを切らしたのか、兄はその手から絵本をそっと取り上げ、売り場へと戻す。
「とにかく、今日はもうおしまい!」
「まだ見てるのに……」
「もう出ないと駄目だ。電車乗って帰るんだから」
 唇を尖らせる妹の手を引き、兄は児童書のコーナーを出て行く。
 ようやく静かになったと、売り場に残った俺は肩を竦めた。それから手にしていた本に視線を戻しかけて、床に落ちている手袋に気づく。
 子供用の小さなミトンの手袋が片方だけ、つるつるした床の上に落ちていた。
 この時はまだ、先程の女の子のものだという確信はなかった。拾い上げてから、そういえばコートのポケットに手袋を突っ込んでいた、と思い出した。追いかけようかどうしようか少し迷った。見ず知らずの相手と口を利くのは苦手だったし、当て推量で追い駆けるくらいなら店員に渡した方が確実だろうと思いもした。だが――。
 俺は読んでいた本を戻し、手袋を握り締めて駆け出した。
 あの兄妹を探す為に店内を見回せば、ちょうど店の自動ドアをくぐる二人の後ろ姿が目に留まる。
「すみません!」
 声をかけると兄の方だけが振り向いて、黒縁眼鏡の奥で瞳を眇めた。
「俺?」
「はい」
 息を切らしながら頷き、俺は手袋を差し出す。
「これ、忘れ物じゃないですか」
「……本当だ。これ、お前のだろ」
 ミトンの手袋を受け取った兄は、すかさずそれを妹の鼻先に突きつけた。
 妹は酷くびっくりした顔になり、慌てて自分のコートに手を突っ込む。そこからは片方の手袋しか見つからなかったようで、困った顔をして兄を見上げた。
「だから母さんに紐つけてもらえって。前も落としただろ」
「だって、紐つけたらみっともないから嫌なんだもん」
「何がみっともないだ。全く、人様に迷惑までかけて」
 兄は妹を叱った後、俺に向き直って笑った。
「ありがとな。わざわざ届けに来てくれて」
「……いえ」
 愛想のいい感謝の言葉に、俺は少し面食らう。
 偏見かもしれないが、このくらいの年代の少年は皆ぶっきらぼうで柄が悪いという印象があった――少なくとも俺が暮らしていた港町ではそうだった。だがこの少年は歳の割に落ち着いた雰囲気があり、もしかするとずっと年上なのかもしれない、とその時思った。
「ほら、お前もお礼言いなさい。このお兄ちゃんに、ありがとうって」
 兄が妹を促す。
 妹は人見知りなのか、あるいは手袋を落としてしまったことにショックでも受けているのか、しばらくもじもじしていた。だが俺と目が合うとまるで明かりが点ったようにはにかんで、消え入りそうな声でこう言った。
「ありがとう……ございます」
 言うや否や妹は兄の影に隠れ、兄は呆れ顔でそれを見下ろしながら俺にもう一度礼を言い、頭を下げた。それから手を繋いで仲睦まじく店を出て行った。一度だけ妹の方がこちらを振り返り、ミトンの手袋を填めた小さな手を振ってくれたことだけは、特に鮮明に覚えている。
 俺は手を振り返せなかった。棒立ちのまま、慣れないことをしたと子供ながらに思っていた。

 その日の、時間にして十五分にも満たない記憶を、ずっと鮮明に持ち続けていたわけではなかった。
 後になってからふと思い出した情報もいくつかあったし、あの兄妹が話していた内容もうろ覚えで、もしかしたら全く違う会話だった可能性もあるのだ。
 ただ、少しだけ。
 あの時、手袋を落としたのは雛子ではなかったか、と思うことがたまにある。
 共通点はごくわずかだ。歳が離れた兄がいること、その兄は眼鏡をかけていること、水色の服を着ていたことと手袋をポケットに突っ込んでおくその癖、それから後は、書店で出会ったという事実くらいのものだ。あの女の子は眼鏡をかけていなかったし、顔は上手く思い出せない。歳の離れた兄がいる少女などこの市内だけでも随分いるだろうし、そもそもあの二人がここの住人であったかどうかも定かではない。あの時出会ったのが雛子であればいいと、記憶を都合よく書き換えている可能性すらなくはない。あの女の子が着ていたコートは本当に水色だったかと改めて思い返すと、絶対に自信があるとは言い切れなかった。
 それに今更、彼女との関係にそういった――運命的な符号を必要とする理由がない。そんなものがなくとも俺たちは惹かれ合い、二人でいることができている。俺もあの兄妹のことを思い出すのは正月が来た時くらいのもので、あとは当の雛子と共にいる時でさえなかなか浮かんでこない記憶だった。
 だがあの兄妹とのやり取りは、当時の俺にとってごくわずかな他人との温かな交流だった。
 柄にもないことだとしても、追い駆けて手袋を届けてよかった、とその時思った。
 だから、なのだろう。嬉しい記憶にはつい雛子を結びつけたくなってしまう。もしあの時の兄妹が雛子とその兄だったとしたら、それはそれで一層嬉しいことかもしれない。そうではなかったとしても、思い出に彼女を関連づけたくなる自分を笑えるくらいには、俺も成長していた。
 澄江さん以外の誰かに、初めて感謝された思い出だった。
 十年近く経った今でも、捨てられず記憶の片隅に残り続けている。

 そういった思い出話のささやかな美しさとは裏腹に、元日を迎えた俺の心はざわついていた。
 今年も年末年始を実家で過ごすよう、父から命じられていた。嫌々ながらもそれに従い実家を訪ねると、どういうわけかしんと静まり返っていた。俺が訪れた際はいつも静かだが、そのいつもの息を潜めるような、聞き耳を立てられているような静寂とは違い、急に空っぽになったように音がしなくなっていた。玄関に置かれた靴も一足だけで、俺が靴を脱ぐと男物の革靴が同じサイズで二足並んだ。
「あいつらなら、実家へ戻っている」
 玄関先まで俺を出迎えた父は、俺が問うよりも早くそう言った。
 家族で正月を過ごさないのかと首を捻った俺の疑問に、父は先回りするように続ける。
「出て行ったんだよ。駄々を捏ねられてな」
 つまり、父と新しい母との間に何らかの諍いが起きたらしい。恐らくその諍いとは父の側に問題のある事柄なのだろうが、そこははっきりとは言わなかった。結果として義母は妹を連れて実家へと戻り、恐らくそちらで母子だけで暮らすことになるだろうと父は語った。
 正直、よく今まで持った方だと思っている。父の不品行な暮らしぶりは俺が幼い頃から何一つ変わってはいない。あの新しい母とも子供ができたから責任を取ったまでで、女が逃げてしまえば追う気もないということなのだろう。
 しかし母はともかく、小さな妹はこれからどうなるのだろう――名前を呼んだこともない妹の顔が胸裏に浮かんだが、すぐ同情心と共に掻き消えた。俺が考えるようなことでもないのもわかっている。
「どうも甘やかしすぎたのかもしれんな。あんなに強情な女だとは思わなかった」
 父が聞いてもいないことまで話し始めたので、不快に思った俺はその話を遮った。
「では、どうされますか。お父さん」
「どう、とは?」
 試すような目を、父は俺へと向ける。
 既に父も若くはないが、眼光の鋭さは未だに衰えず、何もかも腹を決めているような顔つきでいた。
「その……俺と二人で正月を迎えるというのも、楽しいものではないでしょう」
 俺は実家に滞在するくらいならいっそシベリアや南極にでも飛ばされる方がよほどいいと思っている。だから父が先妻の息子と二人きりの時間を過ごすことに抵抗があるというのなら、この場で回れ右をしてアパートまで戻るつもりでいた。
 だが父は迷うこともなく言った。
「男同士の方が気楽というのもあるだろう。いいから入りなさい」
 父もさすがに一人では年越しを迎えたくないらしい。それならなぜ、新しい母と喧嘩などしたのだろう。
 俺が考えてもわかることではないから、渋々従った。

 父が一人暮らしを始めてからどれほど経っているのか知らないが、家の中は散らかっていた。
「仕事が忙しかったんだ。それでも休みに入ってから、いくらかは片づけた」
 そう父が語った通り、多少は努力の色が窺えた。だがそれにしても出し忘れたと思しきはち切れそうなゴミ袋が台所の床に並ぶさまは見苦しかったし、居間のソファーの上に脱ぎ散らかしたまま洗濯機に入れ忘れた靴下が転がっていたのにも閉口した。父は家のことは常に女にやらせておくような人間だから、いざ一人になるとこうしてぼろが出るようだ。もっとも父はそれを些細なことだと思っているらしく、特に困っている様子も見受けられなかった。
「食事を作る人間がいないからな。出前でもいいだろう?」
 父は俺にそう尋ねた。
 少し躊躇した挙句、俺は慎重に切り出す。
「よければ俺が作りましょうか」
 別にこの父に対して温かい食事を作ってやりたいと思ったわけではなく、ただ気を遣っただけだった。
「お前が?」
 どこかうろんげに、父が俺を見た。
「寛治。お前は料理をするのか」
「ええ、昔から。ここにいた時から作っていました」
 俺の答えを聞いた父は合点が行ったというように頷く。
「どうりで。あいつが昔、お前が一緒に食卓を囲まないと愚痴を零していた」
 父が言った『あいつ』とは、新しい母のことだろう。中三の一年間と高校生活丸三年をこの家で過ごした際、新しい母は俺に食事を作ることを拒んだ。俺もその方がよかったので、自分の食事は自分で作ることにした。父がいない時は自室で食事を取っていたので、母の愚痴はそこに起因するものなのだろう。
 しかしそれを父に、事実とは異なる説明と共に告げ口をするのは少々卑怯なやり方ではないだろうか。あの新しい母が俺を疎んでいた理由もわかるが、俺もあの女には同情すらできそうにない。
「俺はこの家の一員ではないと思っていましたから」
 そう答えると父は黙って俺を見た。
 眼差しは明らかに不信の色をしていた。
「……いや、いい。やはり出前を取ろう」
 結局、父は俺の提案を拒んだ。
 毒を盛られるとでも思ったのかもしれない。そんなことをして、俺に得があるはずもないのに。
 正月は朝から寿司を振る舞われた。特上だと父は言っていたが、父と差し向かいで食べたところで味わうことなどできはしない。美味しいのかどうかもわからないまま、俺は機械的に箸を動かした。
 父は俺に酒も勧めてきた。だが当然、断った。
「それほど強くはないので、遠慮しておきます」
 口では建前を言っておく。
 すると父は肩を落とし、自分のグラスにだけウイスキーを注いだ。それを飲みながら俺を見据えて、そして嘆くように呟いた。
「お前は一体、誰に似たのだろうな」
 正直なところ、俺にもよくわからない。
 顔立ちは父と似ていると自分でも思う。眼光の鋭い目も、薄い唇も、尖り気味の顎も背の高さも。今日は靴のサイズすら同じということに気がついて、憂鬱な気分になった。
 だが中身の方は全く違う。たとえ俺の心に父から受け継いだ、あるいは無理やり背負わされたものがあったとしても、それは形に残らない。そして後から得た形に残るものたちが、いつか父の入る余地もなくなるほど俺を満たしてくれることだろう。
「あのお嬢さんとは、まだ付き合いがあるのか」
 父は天気の話でもするように軽く、雛子について言及してきた。
 俺の気分はいよいよ凍りつき、内心で思い切り顔を顰めたくなる。
「ええ」
 あれこれと追及されないように短く答えると、父はつまらなそうな顔をした。
「飽きないのか」
 投げかけられた言葉に、俺は思わず箸を止めた。
 父は自らの言葉を失言だとは考えていないようだ。平然と続けた。
「女を一人知ったくらいでは何もわかるまい。お前も私の子なら、もう少し広い視野を持ってもいいだろう」
 その、広い視野を持った顛末がこれだ。新しい母が妹と共に去り、静まり返った家の中にたった一人残された父の持論は、今となっては何もかも空しく思えた。
「俺には、飽きるという感覚の方こそわかりません」
 箸を置き、俺は素直に答える。
 父が訝しげに瞬きをした。
「なぜ」
「俺は今のところ、彼女にも、彼女以外のどんな相手にも、一緒にいて飽きたことがないからです」
 雛子といると、いつも時間が足りないくらいだった。何をするにも幸せで、楽しくて、この先何十年と一緒にいても飽きることなどないと思った。
 だが考えてみれば、他の人間だってそうだ。大槻の騒々しさにはたまにうんざりもするが、飽きるどころか毎回良くも悪くも新鮮な驚きを貰っている。澄江さんは現在の俺にとって唯一といっていい身内のような人で、この人に対して飽きる飽きないなどと考える必要がそもそもない。相変わらず怠け者の船津さんからは『来年以降もよろしく』とメールを貰っていたし、有島からも相変わらずよくメールが届く。あの仙人のような教授とは、来年度から顔を合わせる機会が増えることとなった。どの相手とも、これからどういった間柄になるのかはわからないが、それでも俺が彼らに対して『飽きた』と思うことはないだろう。
 俺は長らく、他人との繋がりを望みながらもそれが叶わず寂しい思いをしていた。現在俺が持った他人との繋がりはどれもが望んで得たものというわけではないが、それでも繋がり続けている理由は、その人たちが嫌いではないからだ。そういう相手に飽きるという感覚が、俺には想像すらつかない。
「そんなことを言っていられるのも今のうちだけだ」
 父は鼻で笑うように言ったが、そう語る父は今までにどれほどの人間を『飽きた』と切り捨ててきたのだろう。
 俺の実母も、あの新しい母と妹も、何度か顔を合わせる羽目になったそれ以外の女たちも、気まぐれに捨てて不幸な目に遭わせては新しいもので自らを満たそうとしている。
 果たしてそんな生涯は、幸いと言えるのだろうか。
 父は俺のことも、とっくの昔に飽きてしまったのだろう。一度は捨ててまた連れ戻したものの、一旦芽生えてしまった飽きという感情を消し去ることはできないのだろうし、父自身に消す意思がないのかもしれない。それでもここまで育ててくれた気まぐれには感謝している。父の厚意に報いる一番の方法は、大学を出たら速やかに互いの繋がりを断ち切ってしまうことだろう。
 俺は無言で、鞄の中から携帯電話を取り出した。去年の秋に購入した黒い、やや旧型の携帯電話だった。
 父がそれに目を留めたので、俺は長らく父に黙っていたことを打ち明けた。
「お父さんにはずっと隠していたのですが、去年から携帯電話を持ちました」
「……そうか。まあ、好きにすればいい」
 特に驚きもなく、父は頷いた。
 それで俺も顎を引き、話を続ける。
「本来なら、お世話になっているお父さんには番号をお知らせするのが筋だと思います」
 父は相槌も打たず、俺の出方を窺っていた。
「しかしお父さんも、俺が大学を出てしまった後は好きにしていいと言ってくださいました。それ以降の俺の連絡先は、きっとお父さんにも不要のものになるでしょう」
 大学を出てしまえば、恐らく連絡を取り合うこともなくなるだろう。この家に帰ってくる必要もなくなる。父の不品行さを目の当たりにする機会もなく、心穏やかに暮らしていけることだろう。
「ですから、お許しをいただきたいのです。お父さんと――俺の実の母に、俺の連絡先を教える必要はないと言っていただきたいのです」
 アパートの部屋に引いた電話回線が、俺と俺の実の両親を繋ぐたった一つの縁となっていた。実母に番号を教えた覚えはないから、恐らく父から漏れたのだろうと思っている。
 そういうものも全て、時期が来たら断ち切ってしまいたいと思っていた。
 澄江さんが言っていた。俺は、俺の好きな人からだけ電話を受けてもいいのだと。
 俺もそう望んでいるから、今日、父に尋ねるつもりでいたのだ。
「既に離れる用意を始めているということか」
 平坦な声で父は言い、グラスを傾けて酒を一口飲んだ。
 それから音もなく息をつき、
「なら、それも好きにすればいい。私も早く身軽になれる方がいいからな」
 懲りていない口ぶりには心底呆れたが、願ってもない答えには違いなかった。
「ありがとうございます。ご厚意に感謝いたします」
 俺が丁寧に礼を述べると、父は再び俺をじっと眺めた。
 そして鼻の頭に皺を寄せ、どこか釈然としない口調で言った。
「本当に、お前は誰に似たのだ。昔はまだ、私に似ているところもあったというのに」
 そう言うからには、俺もかつては父とよく似た男だったのかもしれない。
 だが俺は変わったのだろう。新しく得た形に残るものたちが、俺の身体に流れる忌まわしい血や遺伝情報をも凌駕して、俺を変えてくれたのだろう。
 そして形に残らない要らないものは、これから先に持ち越す必要もない。
 時間をかけてゆっくりと忘れていってしまおう、と思っている。

 一月一日の夜、俺は予定よりも早めに実家を後にした。
 父との会話が盛り上がるはずもなく、実に不毛な時間を浪費しただけだったが、収穫もあった。俺は新しい年を明るい気分で迎えられていた。
 そしてとっぷり暮れたアパートの部屋へ戻ると、郵便受けには年賀状が届いていた。
 丁寧な毛筆で書かれた挨拶は澄江さんからのものだし、大槻からは妙にサイケデリックなデザインのものが届いた。船津さんからは店の地図が描かれた宣伝用ハガキを無理やり年賀用にしたものが送られてきたし、有島の年賀状には奴なりに想像を巡らせたという『名状しがたいもの』のイラストが印刷されていた。お忙しいはずの教授からも温かい手書きのメッセージをいただいて、俺はそれらを一枚一枚隅々まで眺めた。
 雛子からも、もちろん年賀状が届いていた。彼女は文芸部時代から欠かさず俺に年賀状を送ってくれており、もちろん俺からも欠かさず送っている。今年も干支にちなんだデザインの隣にびっしりとメッセージを書き綴っていた。
 そこに並んだのはおよそ前向きなメッセージばかりで、
『受験勉強頑張ってます』
『本番まで弛まず頑張ります』
『もちろん試験当日も頑張りますので、待っていてください!』
 などと書かれていた。
 待つこと自体に異存はないが、何となく自らに言い聞かせているような文面に思えるのは気のせいだろうか。
 俺はころころと丸い彼女の字で書かれたメッセージを何度も読み返し、表面に書かれた『鳴海寛治様』という宛名を眺めて少し笑った。彼女が書くと平凡で古めかしい俺の名前も、少しばかり愛嬌のあるものに思えてきてならない。

 彼女とは明後日、一月三日に会う約束をしている。
 受験生としていよいよ差し迫った状況にある彼女に、少しでも息抜きをさせられるような時間を過ごせたらいいと思う。
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