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冬の日に歌を(6)

 カードが届いたその日の夜、俺は雛子に電話をかけた。
 そうでもしなければ耐えられない気分になっていたからだ。

「お前からの手紙が届いた」
 長引いた喉の痛みもようやく引き、俺は普段通りの声を取り戻していた。
 だが俺の声を聞いた雛子はおずおずと聞き返してくる。
『気に入りませんでしたか、先輩』
「貰ったものを貶すつもりはないし、メッセージそのものは嬉しかった」
 クリスマスカードを貰ったのは初めてだ。そして彼女が添えてくれた俺に宛てた言葉が、これまで縁遠かったクリスマスという行事を少しばかり楽しみにさせてくれた。
 来年はもっといい気分で、いっそ待ち遠しいくらいの思いでその日を迎えているかもしれない。
「だが、どうしてこのカードにしたんだ。開く度に音が鳴るのが困る」
 雛子がくれたカードへの不満点はそれだけだった。
 カードの絵柄を眺め、そして彼女からのメッセージを読もうとする度に流れる電子オルゴールの曲は、一人きりの部屋では場違いなくらい明るかった。
『いけませんでしたか? クリスマスと言えば、クリスマスソングです。いい曲だと思いませんか』
 どうやら雛子は、開くと音が鳴るこのクリスマスカードをあえて選んだようだ。彼女のクリスマスに対するイメージはこういうものなのだろう。明るく希望に溢れたクリスマスソングと、雪景色の中で温かい光を灯す家。俺にはまだ眩しい光景だった。
「悪くはないが、一人で聴くには明るすぎた。かえって寂しくなる」
『そんなものですか』
「そうだ。おまけに文面を読み返したくても、開けば毎度音が鳴るんだからな」
 彼女が納得していないようなので、俺は机の上に置いてあったカードを開いてみせる。途端に電子オルゴールが曲を奏で始め、静かだった部屋に響き渡った。クリスマスらしさはかけらもない殺風景な俺の部屋に、クリスマスの歌はまるで不似合いだ。それが想像できたのか、雛子がそこでくすっと笑った。俺も一緒になって笑った。
「ほら見ろ。こんな曲、一人で聴くものじゃない」
『本当ですね。二人で聴くと楽しいです』
 雛子は耳を傾けているのだろうか、噛み締めるような言葉が返ってきた。
 俺たちは電話越しに同じ歌を聴いている。お互いすぐ傍にいるわけではないが、彼女が同じ音を聴いていると思うと、寂しさはわずかに紛れた。でもどうせなら肩を並べて聴きたいものだ。
「来年のことを言えば鬼が笑うと言うものだが」
 しばらくしてから俺はカードを閉じた。途端に音が止み、一人の部屋には冬らしい静けさが戻ってくる。
「お前は、もう来年のクリスマスの話をするのか。気の早い奴だ」
 俺は閉じたカードを机の上に置いた。いつでも読み返せるように、引き出しにはしまわずしばらくここへ飾っておこうと思う。既に読み返す必要はないほど何度も読み、彼女がくれたメッセージも一字一句覚えてしまっているが、彼女のころころと丸みを帯びた文字を眺めたいと思うことだってある。
『しょうがないんです。クリスマスは誰だって気分が浮かれます』
 雛子が口にしたその言葉は恐らく本当なのだろう。俺でさえ例外ではなかった。
 彼女から送られたカードの文面を読んだ時、真っ先に来年のことを考えた。雛子と二人でどんなふうにクリスマスを過ごそうか、自然と想像を巡らせていた。もっとも俺はクリスマスの過ごし方をよく知らないから、それについては雛子に教わらなくてはならない。クリスマスを楽しく過ごす為に何を用意し、どんなことをすればいいのかを、一つ一つ彼女に教わろうと思っている。これからの為にも、俺にはまず勉強が必要だ。
 気の早さでは俺も大差ない。むしろ俺の方が、彼女と共にある幸せな未来のことばかり考えているのかもしれない。
『来年の約束、してくれますか』
 不意に、雛子がそう尋ねてきた。
 俺は即座に答える。
「ああ。約束しよう」
『ありがとうございます、先輩。ついでに再来年もお願いします』
 続けて彼女は頼んできたが、それにしても限定的な頼み方をするものだと思う。
 たった二年、二度だけでいいと言うのだろうか。できれば俺はそれ以上がいい。二十年間の空白を埋めるのにたった二度では足りないだろう。
「来年と再来年、それだけでいいのか?」
 俺が問い返せば彼女はあたふたと言い直した。
『いえ、ずっとです! これから毎年ずっとでお願いします』
 今の顔を見てみたかった。慌てている彼女の顔も、とても可愛いことを俺は知っている。
 これまで手に入れられなかったたくさんの物を、雛子と二人で取り返したい。クリスマスが普通にあるような、カレンダーを確かめてその日を待ち遠しく思うような、当たり前の感覚が欲しかった。皆がそう思うように、クリスマスがいい日であることを、俺も思い知ってみたかった。
 こうして来年を楽しみにしていられる時点で、クリスマスのよさは既にわかったような気もする。我ながら安いものだ。
「全く。クリスマスで浮かれられる日が来るなんて、思いもしなかった」
 ぼやきながら俺は再びカードを開く。
 この陽気な歌は、一体何という曲なのだろう。町中でもよく流れていて耳に残っているから有名な曲には違いないのだが、ぱっとタイトルが浮かぶほどではなかった。カードの隅にでも書いていないかと目を凝らして探したが見つからなかった。
 クリスマスへの馴染みのなさはこういうところにも表れる。来年までに少し勉強しておくべきかもしれない。
「この曲のせいだ。こんな曲をお前と聴いているから、雰囲気に流されて、クリスマスも悪いものじゃない気がしてくる」
 俺はそう零しつつも、自らの心変わりにいささか驚いていた。雛子が関わるものなら何でもいいと思えるのではないか、そんな考えさえ浮かんでしまう。
『そうです、クリスマスはいいものなんです』
 どこか自信に満ちた口調で雛子は言った。胸を張る姿が目に浮かぶようだったが、直に見たいとも思った。
「らしいな。二十年と八ヶ月生きてきたが、初めて知った」
『一足先にサンタクロースが来た気分はどうですか、先輩』
 更に雛子が得意げに続けたので、俺は思わず吹き出した。
「サンタクロース? お前がか?」
『はい。メッセージと、クリスマスソングがプレゼントです』
 それでは、俺のところには今年初めてサンタが来たらしい。
 小さな頃に考えていたものよりもずっと可愛いサンタクロースだ。ただ、サンタとは枕元までプレゼントを届けに来るものではないのか。彼女は俺の枕元には尋ねてこなかった。それだけは少々残念だ。
「サンタのくせに、自分で届けに来ないのか」
 浮かれ気分のせいか、冗談混じりの言葉が口から飛び出した。
 たちまち雛子が朗らかに笑う。
『本当ですね。郵便屋さんに頼んじゃいました』
「じゃあ、それも来年だな。来年は届けに来てくれ」
『はい、もちろん』
 いい返事だ。
 それなら俺は来年、枕元に靴下を吊るしておこう。そして彼女がその中へプレゼントをしまうのをきちんと見届けてやろう。彼女ならあの赤い三角帽も似合うだろうから、被せてみてもいいかもしれない。
 馬鹿みたいに浮かれる俺は幸せだった。幸せすぎて怖いくらいだった。
「何にせよ、俺のところにサンタが来たのは初めてだ。幸せなことだな」
 思わずそう呟けば、電話の向こうで雛子が不自然に沈黙した。
 これはやはり他人に言うべきことではなかったのかもしれない。だがその初めての幸いを彼女がくれたのだということを、雛子には知っておいて欲しかった。
「お前にも今年は来るな、サンタクロースが」
 俺が話を振ると、雛子はどこか気まずそうにしながらも答えた。
『……いえ、来ません。もうかれこれずっと来てないですよ』
「そうか。大人になると来なくなるというからな」
 そういうふうに俺は聞いていた。いい子にしていた場合のみ、その子供たちのところへはサンタクロースがやってくると。
 しかし実際はそれだけでもないらしい。大槻も、あの浮世離れした教授も言っていた。それに雛子も先程、自分がサンタクロースだと言い張っていた。彼女は他でもない俺の幸せを願ってくれたのだ。
 ならば彼女のところにも、今年はサンタが訪ねていくことだろう。
 雛子が俺の幸せを願ってくれたように、俺もまた彼女の幸せを願う。ただしその時は、俺は彼女よりはいくらか本物らしいことをしてやろうと思っている。さすがにそりに乗っては行けないが。
「だが、心配するな。今年は来るぞ」
 俺の言葉に、彼女は半信半疑の態度を見せる。
『サンタがですか? 私のところにも?』
「ああ。子供扱いするわけじゃないがな」
 思わせぶりなことを言ってやったせいだろう。雛子は俺の真意を知りたがっていたが、今は教えてやらなかった。
 どうせあと一週間でわかることだ。

 そして迎えた十二月二十四日、俺は午後一番に部屋を出て、駅前で買い物を済ませた。
 コンサートは夜に催される為、時間には余裕があった。買い物を終えたその足で電車に乗り込み、雛子の家を目指す。
 彼女も既に冬休みを迎えており、期間中は家で勉強だけして過ごすと嘆き半分のメールを貰っていた。だから彼女は家にいるはずだったが、事前に確認しておかなかったことを車内で少しばかり悔やんだ。思いつきだったというわけではなく一週間前から考えていたことなのだが、行動に移すにはある種の勢いが必要だった。
 プレゼントの包みを抱えていそいそと電車を降り、彼女の家へと向かう。一度だけ辿ったことのある道も意外と覚えているもので、迷うことなくアイボリーの外壁の一軒家へ到着することができた。家を囲む金属製の低い柵は午後の日差しに鈍く光っており、ベランダの窓は真っ白に曇っていた。
 俺は白い息を吐きながら携帯電話を操作し、雛子に電話をかけた。彼女にはすぐに繋がり、俺は挨拶もしないうちからまくし立てた。
「プレゼントを用意した。三分でいい、出てこられるか」
『えっ』
 雛子が詰まったような声を上げる。
「都合が悪ければ郵便受けにでも入れていく」
 ちょうどその時、路上に立つ俺の背後で一台の車が走り抜けていった。
 その音が聞こえたのかもしれない。二階の窓辺でカーテンが動き、誰かがこちらを覗くのがわかった。それが雛子だとはっきり視認できたわけではなかったが、不思議と目が合ったことだけはわかるものだった。
『先輩……! ど、どうして、ここに?』
 こちらを見下ろす雛子の声がうろたえている。
 俺は勢い任せの行動をこの期に及んで決まり悪く思う。だがクリスマスとはこういうものではないのか。俺もさすがに彼女の枕元へ訪ねていくことはできないが、せめて彼女の顔が見たいと自分の足で届けに来た。
「サンタはプレゼントを届けに来るものじゃないのか。それに倣っただけだ」
『その為にわざわざ、ですか?』
「正直な話、プレゼントはほとんど口実だ。単にお前の顔を見たかった」
 大槻がお前の話を随分楽しげに語るものだから、顔を見たくなっていた。前に会ってから既に一ヶ月以上が経過していたが、彼女は変わっているだろうか。
 電話の向こうで椅子から飛び上がるような大きな音がしたかと思うと、慌てふためく足音が唐突に消えて電話が切られた。間もなく俺の目の前で玄関の鍵が開く音がして、ドアが開き、雛子が中からびっくり箱のように飛び出してきた。
 冬休みだというのに、雛子は髪を二つに結んでいた。勉強中だったからかもしれない。薄手のセーターに膝丈のスカートといういでたちは、十二月の戸外に飛び出してくるのに適した服装とは言えない。だが彼女は決して寒そうではなく、頬を上気させながら俺を見ていた。
「お久し振りです、先輩」
 玄関のドアを閉めながら、雛子は言った。直に聞く、久し振りの声だった。こちらを見る顔にまず何よりも早く安堵の色が浮かび、その後で弾けるような喜びの表情に変わった。
「ああ。随分と久し振りのような気がするな」
 潮が満ちていくような感慨の中、俺は実感を込めて答える。
 雛子はそのまま、上着も羽織らずに門をくぐり、俺の待つ自宅前の路上まで駆け寄ってきた。剥き出しの頬や首がたちまち風に晒されて、俺は思わず眉を顰める。
「外へ出るならちゃんと着てこい。風邪を引く」
「寒くないから平気です」
 逆らうような言葉も嘘ではないようで、彼女は震えもせず、むしろ赤い顔をして俺の前に立った。俺を見上げる表情は柔らかく、控えめに微笑んでいて、それを見た俺は彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。ここが日中の戸外でなければ実行に移していたことだろう。
 約一ヶ月ぶりに顔を合わせた雛子は、元気そうだった。顔色も唇の色艶もよく、体調を崩しているようには見えなかった。ただ風に吹かれる度に解れた髪が揺れ、彼女の真っ白な首筋をくすぐるのが寒そうに見えた。
 俺はふと思いつき、提げていた紙袋から今日購入したばかりの膝掛けを取り出す。チェック柄が描かれたフランネルの大きな膝掛けは、彼女がこの冬に寒い思いをしないよう、風邪を引くことがないようにと考えて選んだものだった。俺はそれを一度広げてから、こちらを怪訝そうに見ている雛子の細い肩をぐるりと包んでやる。
「一応、商品名は膝掛けだったんだが、しかしこういう使い方でも問題あるまい」
 さすがに膝以外の箇所に掛けてはならないということもないだろう。雛子を温めてくれさえすればそれでいいはずだ。
「風邪を引くなよ、くれぐれも」
 忠告のつもりで俺が告げると、
「はい……」
 雛子は夢でも見ているような顔でゆっくり頷いた。長い睫毛を伏せ、唇を薄く開けて満足げな息をつくその顔が、思いがけず色っぽく映った。
 だがその後で何かに気づいたように口を開いた時、そういうものは霧消して、代わりに気遣わしげな表情が浮かんだ。
「あ、ありがとうございます。でもすみません、私はカードしか送ってないのに」
「気にするな。高いものではないし、そもそもこれもただの口実だ」
 俺はかぶりを振り、改めて彼女に見入った。
「サンタになればお前に会えると思った。思いつきで行動したまでだ」
 膝掛けは大判のものを購入したが、彼女の肩を包むのにもちょうどいいサイズだったようだ。雛子は膝掛けを前で合わせるようにして、手でぎゅっと握り締めながら俺を見る。サンタクロースを迎えた顔は明るく輝いており、とても幸せそうだった。クリスマスの素晴らしさがその笑顔一つに全て表現されているようだった。
「サンタさんがこんなに格好いい人だなんて知りませんでした」
 その雛子が俺を誉めるようなことを言い出したので、俺は面食らった。
「ふざけたことを言うな。こんな仏頂面のサンタでは見栄えのいいはずがない」
「ふざけてないです。先輩は本当に格好いいんですよ」
 彼女は尚も言い募るが、そんな誉め言葉を貰ってどうしろというのだろう。素直に喜べるほど慣れてはいないし、かと言って照れていると思われるのもかえって気恥ずかしい。もちろん彼女がそう思ってくれていることが嬉しくないわけでは、決して、全くもって、ないのだが。
「それを言うなら……」
 困り果てた俺は仕返しのつもりで、逆に誉め返してやろうと思いつく。雛子を少し困らせてやろうという気になったのだ。
 だがそこで思い出したことがあり、
「この間、大槻が言っていた。お前はこの先、大人になったら、きっときれいになるだろうと」
 俺は、先日大槻と電話で話したことを雛子に伝えた。
 雛子は眼鏡の奥の瞳を大きく瞠り、次いで忙しなく瞬きをする。
「俺もそう思う」
「……そうでしょうか」
 実感が湧かない、という口調で雛子が応じた。
 しかし、こうして見ていればわかる。今日の彼女もとても可愛く、そして時々はっとするほどきれいだ。俺の前で目まぐるしく表情を変えていく彼女が、会えずにいたこの一ヶ月と少しの間に一体どんな顔をしていたのか――どれほどの彼女を俺は見逃してきたのか、考えれば考えるほど非常に惜しくてならない。
 もし叶うなら、俺は雛子を毎日眺めていたいと思う。
「お前が眼鏡をかけていようと、外そうと、俺はどちらでもいい」
 やぶからぼうに切り出した俺に、雛子はそれほど驚かなかった。むしろ心当たりがあるというような面持ちではにかんだ。
「お前がいくつになっても、どんなふうに変わっても、俺はお前の心が離れないよう努力をする。それだけだ」
 大槻が言ったような心配もなくはない。むしろ確実にあると言える。
 それでも俺自身が変わっていく雛子を見ていたい、見てみたいと思っている。だから心配をするのも、その必要がないほど彼女の心を捕まえておくのも、俺のすべき役目なのだろう。
「私は、当面は眼鏡のままでいようと思います。先輩が探しやすいように」
 ふと雛子がそう言った。口元に笑みを浮かべて、少しだけ愉快そうに。
 おかげで俺はかねてからの懸念が事実になったことを悟り、思わず呟いた。
「大槻め……また余計なことを喋ったな。後で会ったら文句を言ってやる」
 あいつは本当に一言多い。雛子にそんなことまで暴露して、一体何を企んでいるのだろう。
 おまけに雛子はとても嬉しそうだった。俺の顔を見た時以上に、プレゼントを贈られた時以上に幸せそうな顔で笑っていた。何をそこまで喜ぶようなことがあるのだろう。俺が、いるはずのない場所で雛子を探し、挙句の果てに他の人間と彼女を見間違えたというだけなのに。
「お前も早く家へ戻れ。しつこいようだが風邪には気をつけろ、お前にはあんな思いはさせたくない」
 あまり嬉しそうにされると居心地が悪い。俺は語気を強めて促した。
 一週間臥せったという事実はそれなりに説得力があるはずだが、雛子は上目遣いに俺を見る。何かをねだったり、縋ったりする時の顔つきだった。
「もう、戻らなきゃ駄目ですか?」
「当たり前だ、そんな格好で出てきておいて。それに、俺も今日は用事がある」
 コンサートの時刻まではまだいくらか時間があったが、これから一度戻って、軽く食事を済ませなければならない。何よりも雛子をいつまでも寒空の下にいさせるわけにはいかない。離れがたいのはお互い承知の上だが、雛子に風邪を引かれるよりはよほどいい。
 俺が再度彼女を促そうとすると、いち早く雛子が口を開いた。
「メリークリスマス、先輩!」
 叫ぶような声を目の前から浴びせかけられて、まるでクラッカーが破裂したようだと思う。
 こういう時にどう返事をしていいのかわからないのが困る。俺は戸惑いながら告げた。
「俺は真似はしないぞ、雛子」
「どうしてですか? まさか、恥ずかしいんですか?」
「当たり前だ。そんな挨拶、したこともない」
 十二月を迎えたばかりの頃は、クリスマス自体に興味がなかった。この時期になると町が賑やかになる理由も、皆が浮かれ始めるその心情もまるで理解できなかった。
 そういう冷めた心すら、雛子があのカードと約束だけですっかり変えてしまった。
「だが……来年辺りは普通に言うようになっているかもしれないな。我ながら、浮かれると何をするかわからん」
 今では来年のクリスマスが楽しみで仕方がない。町に流れるクリスマスソングも悪くないと思えてきた。もしかすると来年の今頃は、ごく自然にクリスマスの挨拶をする俺がいるかもしれない。
 そうなったら、彼女は何と言うだろう。
「どんどん浮かれてください。私はそういう先輩が見たいです」
 雛子は俺を唆すような言い方をして、控えめに微笑んだ。俺の話を聞いてくれる時の、いつもの表情だ。そして俺が一番好きな顔でもある。
 寒さのせいか耳まで真っ赤になった彼女は、それでも唇だけはいつも通りの淡い色合いをしていた。そこから零れ落ちる白い息がぱっと舞い上がり風に溶けると、無性にキスがしたくなる。
 欲求を別のもので埋め合わせようと、俺は雛子の小さな手を取る。そのまま持ち上げて、逃げもせずされるがままになっている指先に唇で触れた。
 彼女の指先は柔らかく、なめらかで、ひやりと冷たかった。
「……手が冷たい」
 俺は彼女の手を離す。
 雛子は微笑むのも忘れて俺を見ていた。あまりに驚きすぎたのか、ぽかんと口を開けたまま凍りついていた。いきなり攫われた手を宙に浮かせたまま引っ込めることさえできず、いよいよ顔全体を真っ赤にして俺を見る。これ以上ないほど瞠られた瞳が潤んでいた。
 たったこれだけで、こちらが帰りにくくなるような反応をするものだ。
「ほら、早く戻れ。サンタが風邪を持ってきたなんて、洒落にならんぞ」
 帰れなくなってしまっては困る。俺は笑いながら彼女を急かした。
「で、では……」
 雛子がぎこちなくお辞儀をする。いつもよりおざなりで、頭を下げる余裕もないというような慌しいお辞儀だった。それから膝掛けを羽織ったまま踵を返し、こけつまろびつ門をくぐって玄関のドアへ取りつき、その向こうへ転がり込んだ。
 ドアの閉まる重い音を聞き、俺は浮かんでくる笑いを噛み殺す。
 あんなに可愛いサンタクロースが、来年も再来年もその先もずっと、俺のところへやってくるという。
 それならその時はプレゼントなど持たずに手ぶらで来るがいい。
 俺は、お前がいれば十分だ。他には何も要らない。

 コンサート会場の市民会館には開場と共に中へ入った。
 受付で渡されたパンフレットを手に指定の座席へ向かい、コートを脱ぐ。去年と同様、タキシードを着た大槻が目敏く俺を見つけて声をかけてきて、いくつか話をした。大槻は本番直前にもかかわらず、緊張した様子がまるでなかった。
 有島たちも来ているはずだが、俺はあえて探さなかった。俺と鉢合わせたら気まずかろうとあえて座席も離してもらっていた。その辺りの話は後日いやでも耳に入ってくるだろうし、場合によってはまた相談にも乗ってやることにしよう。
 やがて座席が埋まり、開演を知らせるブザーが鳴る。照明が落ちて幕が開き、居並ぶ楽器とその奏者たちの前に指揮者が現れ、客席に向かって一礼する。客席からは拍手が膨れ上がるように湧き、やがて波が引いたように静まり返ると指揮者がタクトを振る。
 コンサートの一曲目が始まって早々に、俺はプログラムを見た。退屈したからではなく、非常に聞き覚えのある、耳に馴染んだ曲だったからだ。明るく陽気な歌、雛子がカードと共に贈ってくれたクリスマスの歌。
 ステージでは大槻がファゴットを吹いている。表情まで見えるわけではないが、普段の態度とはかけ離れた凛々しい姿に見えなくもない。奴と楽団のメンバーたちが真剣に演奏しているその曲のタイトルを、俺は今日、初めて知った。
 ウインターワンダーランド。
 俺はこの歌を聴いている。今は市民会館の大ホールで、ここへ来る前は自分の部屋で、先日は電話を通して雛子と共に、何度目になるかわからないほど聴いている。
 これからはきっと、この歌を聴く度に今年のクリスマスを思い出すだろう。
 初めて俺にサンタクロースがやってきた。
 初めてクリスマスプレゼントをもらった。
 そして、初めて好きな歌ができた――そんな思い出深い十二月を、いつまでも覚えていることだろう。
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