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冬の日に歌を(5)

「雛子は――」
 何と言っていたのか。尋ねようとしたが、今度は喉ではなく胸が詰まった。
 大槻がすかさず答える。
『やっぱり、君が心配だったみたい。治ったら連絡するって言われていたけど、待ちきれなくなったって』
 今日は粉雪のちらつく寒い日だった。恐らく学校の帰りに寄ったのだろうが、十二月の戸外で立ち尽くす彼女の姿を思い浮かべた俺は罪悪感に囚われる。
『俺はちゃんと言っといたからさ。君の熱がもう下がったことも、喉を痛めてたけどようやく元気になってきたってことも。それで雛子ちゃんも今日のところは家帰って、後で君にメールするって言ってたよ』
 恐らく、大槻は雛子を元気づけてくれたのだろう。
 しかし本来ならそれは俺の役目だ。誰に言われるまでもなく、彼女自身が不安に駆られて思い詰める前にしなければいけないことだった。それなのにすっかり彼女を疎かにしてしまった。
『だから、鳴海くんも連絡してあげなよ』
 大槻は念を押すように言った。
『俺がどれだけ言ったって、雛子ちゃんを一番安心させられるのは君の言葉なんだから』
「……そうだな」
 素直に俺は認めた。
 雛子もこんな寒い日に寄り道をして風邪を引いていなければいいが――そうさせたのも俺なのだから、なるべく急いで連絡を取ろう。そして彼女を安心させなくてはならない。
 俺が溜息をつくと、大槻もほっとした様子で話を継ぐ。
『よかった。俺、君がむちゃくちゃ怒るんじゃないかって不安だったんだよ』
 そこまで言われるほど、俺は怒ってばかりいる人間だろうか。少なくとも雛子に対しては優しい人間であろうと努めてきたつもりだったのに。
 いや、優しい人間が一週間も音信不通にするものではないか。考えを改めなくてはならないだろう。
『何でも去年の風邪の時には、雛子ちゃんに連絡すらしてなかったって話じゃん』
「言えばまた心配をかけると思ったからだ。今後は改める」
『ならいいけど。俺、雛子ちゃんが知ってるもんだと思って去年のことも言っちゃったからさあ、焦ったよ』
 雛子には当然だが、大槻にも悪いことをした。随分と気を遣わせてしまったようだ。
「またお前に迷惑をかけたな」
『別にいいよ。俺も楽しかったし』
 どこかずれた返答の後、大槻はおかしそうに笑った。
『事情説明の際、また雛子ちゃんをお茶に誘っちゃったんだけど、これは許容範囲内だよね?』
 そう言われて駄目と言えるものではない。俺は複雑な心境で口を結ぶ。
『先月も会ったけど、すっかり大人っぽくなったよなあ雛子ちゃん。四月とは全然印象が違ったよ』
 大槻はやけに感慨深げに語った。
 確かに近頃の彼女は少し変わったように思う。大人びたというのか、女らしくなったというのか――今までの彼女が女らしくなかったわけでは断じてないのだが、少女と呼べる時期が終わりに近づいていることを端々から感じさせていた。
『店に入ったら眼鏡が曇っちゃっててさ、そのに眼鏡外した顔見たけど、可愛かったな。きれいな顔してるよね、あの子』
 病人相手に、よくも自慢げに語ってみせるものだ。
 俺も負けじと想像だけはしてみたが思い浮かべたところで空しくなるだけだった。羨ましさに苛立ち、電話に向かって思い切り咳をしてやる。
 そんなささやかな抵抗に、鉄面皮の大槻が堪えるはずもない。
『何か進学したら眼鏡のままでいようか、それともコンタクトにしようか迷ってたみたいだよ』
 俺が知らない雛子の話を耳に入れてくるので、何となく気分がささくれ立ってくる。
「そんな話は初耳だ」
『かもしれないね。雛子ちゃん、君ならどっちが好みかって知りたがってたし』
 聞きたいなら俺に直接聞けばいいのに、彼女はなぜそうしないのだろう。俺がそういう話に興味がないとでも思っているのだろうか。
 俺は雛子のことなら全てにおいて興味が――というのは、本人に告げるべきことだろうから今は秘めておく。
『で、実際のとこどうなの? 鳴海くんは眼鏡っ子が好きなの?』
「そういうわけじゃない」
『じゃあ、雛子ちゃんがかけてるからこそ眼鏡が気になるってとこ? よく目で追ってるもんね』
 大槻の追及を俺は咳だけでかわした。
 とは言えそこはかとなく嫌な予感がするのは気のせいか。大槻がその話を、雛子本人にはしていないだろうと思いたいのだが、どうも気にかかる。
『雛子ちゃんはこれからもっときれいになると思うよ』
 俺の疑念をよそに、大槻はまるで確信しているような口ぶりで言った。
『眼鏡かけてもかけなくても美人だけどさ。大学入って制服着なくなって、髪型とか化粧とかに校則の縛りがなくなったら、更にきれいなお姉さんになるよ』
 大槻の気楽な物言いを疎ましく思いつつ、一方でその通りだと思う俺もいる。
 彼女は今でも十分可愛らしいが、これから大人になっていくにつれ更に美しくなることだろう。それに彼女は愛想もよく、人間関係を円滑に保つ術も知っている。大学に入った彼女の世界がどんなふうに広がっていくのか、その中で彼女がどう変化していくのか、期待と不安が交錯していた。
『そうなったら鳴海くんも心配だね。雛子ちゃんに悪い虫がつかないかって毎日そわそわしちゃうんじゃない?』
 実に的確に、大槻が俺の不安を言い当ててくる。
 俺は悔し紛れに、しかし喉が痛いので控えめに反論した。
「そういう心配も俺の役目のうちだ。あいつと一緒にいる以上は」
 お互いに心配しあうのも仕方のないことだろう。無論、心配をかけない方がいいに越したことはない。だが万が一かけてしまった場合でも、お互いに相手の思いを尊重できるような関係でありたいと思う。
『そうだよね。責任感がなかったら、そもそも手なんか出さないよね』
 大槻は含んだような言い方で納得してみせた後、こう言った。
『ところでさ鳴海くん。前から聞いとこうと思ってたんだけど』
「何だ」
『次に雛子ちゃんに会ったらさ、俺、連絡先聞いてもいい?』
「……それを、俺に聞くのか」
 いちいちこちらへ確認するようなことではないだろう。だが、俺を通さずに雛子に直接聞かれていたならそれはそれで腹立たしかったに違いない。
『だって友達の彼女だろ。一応話通しとくのが筋じゃん』
 さも当然というように大槻は言い切った。
『それに、こういう時のためにさ。君に何かあった時、俺からでも雛子ちゃんに連絡できたら安心だろ。そりゃそういうのはないのが一番いいけど』
 今回は俺を訪ねようとしていた雛子が偶然大槻と会えたからよかったものの、もし大槻がいなかったらどうなっていたかわからない。雛子は俺を案じつつも部屋のチャイムを押すことはできず、この寒空の下をしばらく一人でうろうろしていたかもしれない。そうでなくてもこの一週間で彼女には酷く心配をかけてしまった。そういう時、彼女の不安を解消できる手立てが他にもあるのはいいことだろう。
 彼女を不安がらせないようにするのは、まず誰よりも俺の役目だ。だがそれが叶わない場合、他の誰かの手を借りなければならない時は、大槻なら信頼できると思う。
「雛子がいいと言ったら、俺は構わない」
 俺の答えを聞くと、大槻は半分意外そうに、半分は安堵したそぶりで言った。
『お、マジでいいの? じゃあ次会ったら聞いてみるよ』
「言っておくが、あくまでも非常用だ。俺に送るようなくだらないメールを雛子には送るなよ」
 一応釘を刺しておく。大槻の普段のメールの中身のなさと言ったら酷いもので、あまりの無意味さに返信文を考える暇も惜しくなるほどだった。雛子なら律儀に返事を打ちそうだというのがたやすく想像できるので、大槻には強く言っておかなければならない。
『わかってるって!』
 大槻は張り切って答えた後、俺の機嫌を窺うように尋ねてきた。
『雛子ちゃんに、可愛い女の子のお友達紹介してっていうのはアリだよね?』
 この間一緒にいた女はどうなったのだという疑問が痛む喉元まで出かかった。
 しかし、いかに友人同士であろうと配慮が必要な話題だと思い、あえて聞かないでおいてやった。

 雛子からは、その日の晩にメールが届いた。
 久し振りに読む彼女からのメールは手紙のように長く認められており、この一週間、俺のことが気がかりで、一人で苦しんでいたり倒れているんじゃないかとまで考えてしまったこと、連絡をすると言われていたのに待ちきれず俺の部屋を訪ねようとしたこと、その際に大槻と出くわしたことなどが彼女らしい文章で綴られていた。
 俺はそのメールを届いてすぐに読み、そして間髪入れずに彼女へと電話をかけた。
『……先輩、ですか?』
 繋がった途端、雛子の懐かしさすら感じる声が聞こえてきた。こちらを確かめようとするそぶりには、どことなく怯えているような印象がある。俺が怒っていると思っているのだろうか、それともそれ以上に不安な思いが、彼女の中にはあったのだろうか。
「連絡をしなくて悪かった」
 俺はなるべく元気な声を出そうとしたが、発せられたのはいかにも病み上がりのかすれ声だけだった。
『先輩! 電話で話して平気なんですか?』
 雛子が食いつくように尋ねてきたので、俺はその勢いごと抱き留めるつもりで深く息をつく。
「少しくらいなら大丈夫だ。それに俺も、お前の声が聞きたかった」
 たちまち電話の向こうは不自然に沈黙し、くすんと鼻を啜る音が聞こえてきた。
『私もです。先輩が無事かどうか、ずっと気になってて……』
 しばらくしてから続けた雛子の声は、先程の勢いは見る影もなく弱々しく震えている。
 こんなことで泣くなんて――泣いてくれるなんて。彼女の内心が今頃になって手に取るようにわかり、胸が潰れそうだった。
「ただの風邪に心配しすぎだ。俺はそうそうくたばらん」
『そんなのわからないです。風邪だってとても怖い病気ですよ』
 俺が宥めようとしても、雛子はもっともな論調で言い返してくる。
「……全くだ。今年のは特に酷いぞ、お前も気をつけろ」
 そこで俺は堪えきれずに咳をしてしまい、しばらく電話を離して咳き込み続けた。雛子はその間辛抱強く俺を待っていてくれ、俺も落ち着いてから改めて続けた。
「だが、だからと言って連絡をしないのはよくなかったな。下手なことを言えば、長引いているのがわかって、かえって不安がらせるだろうと思っていた。しかしそれも含めて打ち明けてしまう方が、お前にとってはいいのかもしれない」
『私も、そう思います。お願いします、先輩』
 雛子は懸命に言った後、少し寂しそうに言い添えた。
『私が受験生じゃなかったら、すぐにでも駆けつけたんですけど』
 大槻が言った通りだ。雛子も俺に頼られる方が、きっと嬉しいのだろう。
 あいつの方が雛子の心をよくわかっていると思うとつくづく複雑だが、水をあけられているのもまた事実だ。
「来年以降、風邪を引くことがあればその時は頼む」
 俺が笑うと、雛子もようやく元気を取り戻したように勢い込んで、
『は、はい。お任せください!』
「ああ、大槻だと何かとうるさいからな。さっきもお前のことでいろいろ言われた」
 俺や雛子のことを心配してくれているのはわかるし、ありがたいのだが、あいつはどうも一言多い。去年の風邪の件まで蒸し返されるとは思ってもみなかった。
 これも全て自業自得と言えばそれまでだが。
「昨冬の風邪は……その、お前に次に会うまでに治しておけば問題ないと思っていたんだ」
 俺は正直に弁解した。
「言わなかった理由はそれだけだ。別に隠しておこうと思っていたわけじゃない」
 慌てて言葉を並べたせいか直後咳き込んでしまったが、雛子は柔らかく声をかけてくれた。
『わかってます。大丈夫です』
 全幅の信頼が窺えるその声が、耳に馴染んで溶けていく。
 彼女にそう言ってもらえることが、至上の幸福だと思う。
「隠さないにしても、もう少し言いようがあったな。心配をかけた」
 辛い咳がどうにか収まったところで、俺は改めて彼女に詫びた。
 それから、電話越しに未だ聞こえてくる啜り泣きのような、無理やり呑み込んでいる泣き声の主に、慰めるように語りかけた。
「しかし……お前を散々不安がらせておいてこんなことを言うのは不謹慎だろうが、心配してもらえるというのも、いいものだな」
 誰かに気にかけてもらえるのは幸いなことだが、相手が雛子であれば尚のこと、悪くないとさえ思えてくるから不思議だ。彼女が俺のことで胸を痛めるような事態は二度とあってはならないが、いざ起きてしまった場合は素直に頼ることも必要なのだろう。静かな部屋で一人眠っていた時の心細さも、いつか彼女の存在が掻き消してくれるかもしれない。そして俺もまた彼女にとって、必要とあればそういう存在でありたい。
 俺も雛子に頼られたいと思っているのだから、彼女もそう思って当然だろう。
『私は、心配はずっとしてましたよ』
 雛子は拗ねたような言い方をした。心配をしたのも今回が初めてではないと言いたげだった。
「そうだな、悪かった。俺にそのありがたみがわかっていなかっただけだ」
 誰かにも心配をかけないでいられたらいいと思っていた。
 特に雛子には、彼女がどれだけ心配性なのかもわかっていたから、俺にまつわる不幸や暗い話をなるべく耳に入れたくない、遠ざけておきたいと思っていた。少し前の自分なら、去年のように黙っていただけかもしれない。そして『心配するな』と言うだけでは足りないのだということも、今になってようやくわかった。
 誰かと関わって生きていれば、心配をされることもあるし、不安がらせることだってある。そういう感情の揺れ動きが生じるような関わりを持っていればこそ、こうして電話口で泣かれることにもなるのだ。それだけの距離に今、彼女がいることを嬉しく思う。
 せめてこうして話をすることで雛子を安心させてやりたい。散々心配をかけたから、その埋め合わせもしなくてはならない。
「だからお前ももう泣くな。こんな状態じゃ慰めにも行けない」
 俺は彼女を宥めたつもりだったが、雛子はむしろ隠すのをやめたように泣きながら笑った。
『そうします、ごめんなさい……』
 それでも一息ついて、
『もう、平気です』
 と言った時には、彼女の声はいくらか普段通りの穏やかさを取り戻していた。
「ならいい」
 俺は胸を撫で下ろした。そうして息をつくと、長話の勘を忘れた喉がすっかり疲弊しているのに気づく。
 まだまだ話したいことは尽きないが、今夜のところはこのくらいで控えておいた方がいいかもしれない。雛子は受験生で、俺は病み上がりだ。
 もっとも今の俺を見れば誰もが、どこが病人かと疑ってかかることだろう。こんなに口元を緩ませ、幸福感から込み上げてくる笑いを堪えようと必死になっている病人などそうそういない。恐らく顔色も見違えるほどよくなっているはずだ。
 俺にとっての何よりの特効薬は、やはり雛子に違いなかった。
『今夜はもう終わりにしましょうか、電話』
 雛子はこちらの喉の状態を察したのだろう。いち早く提案してきた。
「そうだな」
 同意をしかけて俺は、ふと言い忘れたことがあったのを思い出し、
「あ」
 声を上げてから考え直して、更に付け加えた。
「いや、いい。この話は次に会った時にしよう」
 すると雛子が朗らかに笑った。
『それなら、来年になりますね』
「そうだったな……長いな」
 来年まであと半月を切った。だがその半月が、俺にとっては酷く長い時間に思えて仕方がない。初詣の約束が随分遠い先のことのように思えるのは、やはりしばらく会っていないからだろうか。
「話したいことが増えすぎて、山と積もっていそうだ」
『私も同じだと思います、先輩』
 俺の言葉に同意を示した雛子は、ほんの少しはにかんでいるようだった。
 なぜ今の、この表情が見られないのだろう。俺は電話であることを大いに悔やみ、彼女の受験生活が終わって晴れて同じ大学へ通えるようになったなら、彼女を日々眺めていることにしようと心に決めた。
 大槻が言っていたように、雛子はこれから日毎にきれいになっていくことだろう。あの紺色のセーラー服を着ることもなくなり、長い髪も校則を意識せず自由に結わえたり下ろしておいたりするのだろう。眼鏡を外した彼女の顔は既に知っているが、かけていようとかけていまいとどちらでも俺はいいと思う。ただ刻一刻と変化していく彼女を余すことなく見届けたいと思っている。
 その為にもまずは、次に会った時、彼女の疑問に答えてやろう。

 翌日から俺は大学に戻り、通常通りの生活を送るようになった。
 冬休みを控えた大学構内はやや浮かれた空気が漂っており、皆の話題もクリスマスのことで持ちきりのようだ。構内のあちらこちらで来週に迫った二十四日の過ごし方を話し合う声が聞こえ、俺も自然と考えを巡らせるようになった。
 とは言っても俺のクリスマスのイメージなどたかが知れているから、来年のコンサートには雛子も連れて行けるだろうか、などと考える程度だ。その上で雛子がケーキを食べたいと言い出したら、しかるべき店に連れて行ってケーキを食べる彼女でも眺めていればいい。俺にとってはそんなものでも十分、今までにないほど幸いなクリスマスの過ごし方だった。

 そして浮かれる学生たちとは対照的に、あの教授はクリスマスが近づいてこようが何ら変わらず、いつも泰然としていた。
「おや、鳴海くん。すっかりよくなったんだね」
 挨拶とお礼に出向いた俺を、教授はにこやかに迎えてくれた。つるりとした頭に三つ揃えというスタイルも冬が来ようと変わることはなく、熱さも寒さも感じないのではないかとさえ思えてしまう。
「その節はご心配をおかけしましたが、おかげさまで快復いたしました」
 俺は礼を述べ、次いでお見舞いにいただいたリンゴについても触れた。
「あのリンゴもいただきました。ありがとうございます」
 すると教授は目尻の皺を深めるように笑み、
「自己実現の味はしたかな」
「いえ……瑞々しく美味しいリンゴでしたが、そこまでは感じ取れませんでした」
「そうか。真面目に答えてくれてありがとう」
 教授は嬉しそうにしていたが、その顔からどこまで本気のつもりだったのかは読み取れなかった。俺ももう少し味わって食べておくべきだっただろうか。
 ともあれ挨拶も済んだし、教授もお忙しい人だ。俺はお暇を告げようと口を開きかけた。
 そこへ、
「ところで鳴海くんは、クリスマスにサンタが来たり、あるいは自らサンタクロースになったりという予定はあるのかね」
 妙な問いかけを教授がぶつけてきたので、俺は考える為に口を閉ざす。
 これまで二十年の人生のうちで、俺のところへサンタクロースが現われたことは一度としてない。だが他人に打ち明けるには暗い話なので、およそ気が進まなかった。
 だから、こう答えた。
「予定は特にありません」
 すると教授は目を瞬かせてから、まるで取り成すように微笑んだ。
「それは……まあ、いろんな過ごし方があるものだからね。君なりに楽しく過ごせるよう、祈っておこう」
 どうやらフォローをされたようだ。
 もしかすると答え方を間違えたかもしれない。サンタが来る予定はないが大槻のコンサートに行くことになっているということは言うべきだっただろうか。もっとも、俺自身は同情を必要としていたわけでもないし、むしろ余計な気を遣わせたようで悪いと思っている。
 それにしても教授にこんなことを問われるとは思わなかった。それだけサンタクロースの慣習がこの国に浸透しているということなのだろう。
「ありがとうございます」
 お詫びも兼ねて再び礼を言った俺は、何となく釈然としないまま教授に尋ねた。
「先生。サンタクロースになりたいと、誰もが思うものなのでしょうか」
 俺にはよくわからない。そういう形ではなくても贈り物くらいいつだってできるだろう。わざわざクリスマスを選ばなくてもいいはずなのに、なぜ誰もがこの日のことを気にかけるのだろう。
 教授は広い額に皺を寄せ、薄い眉を持ち上げて俺を見る。
「誰もがとは言い切れないがね。サンタクロースになりたいと思う気持ちの根底には、誰かの幸せを願う心がある」
 それからまるで本物の仙人のようにゆったりと笑んだ。
「君が誰かの幸せを願った時、それを体現する選択肢の一つがサンタクロースだ。そう考えておくのが適当ではないかな」
 他者の幸せを願う心がサンタクロースを作り出す。
 では俺もいつか、雛子の為にサンタクロースになろうとするのだろうか。赤い三角帽を被る自分の姿を想像した俺は、あまりの似合わなさにげんなりしてしまった。
「まだクリスマスまで一週間もある。迷っているなら思い切りたまえ」
 別れ際に教授はそう言ってくれたが、やはり俺としては、クリスマスではなくてもいいなと思うだけだった。

 とは言え俺の内心がどうであれ、町のムードは大学構内と同様、未だにクリスマス一色の様相を呈している。
 イルミネーションと金モールとクリスマスソングだらけの町並みを抜けて自分のアパートへ辿り着くと、郵便受けに一通の封筒が入っていた。送り主は雛子だった。
 近頃はメールのやり取りをしているというのに、なぜ手紙など送ってきたのだろう。メールでは言いにくいことでもあるのだろうか。首を傾げながら部屋へ入った俺は、封筒を開封して中身を取り出す。
 中に入っていたのは手紙というよりカードだった。カードを開くとまず陽気な音楽が流れ出した。どこかで聴き覚えがある、恐らくは町中に流れているようなクリスマスソングの一つが電子的な音で奏でられた。カードの中に描かれているのは満天の星空と一面の銀世界で、その中に屋根に雪を積もらせた小さな家が佇んでいる。家の窓辺にはほんのりと明かりが点っており、絶え間なく流れる音楽がその情景を幸福に見せていた。
 カードの下方、雪に覆われた地面の上には雛子の字でメッセージが記されていた。
 ――今から予約をさせてください。来年のクリスマスは必ず一緒に過ごしましょう。

 俺がそれを読む間、何度も何度も読み返す間、カードからはずっと歌が聴こえてきた。
 カードを開く度に鳴り始めては、まるで彼女の声のように俺の耳に残り続けた。
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