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日向の道を行く(6)

 戻ってきた雛子と合流してから、校内の模擬店をいくつか回った。
 そこで昼食の代わりになるものをいくつか購入し、教室へ戻る。
 クラスの展示に顔を出すという有島、荒牧を送り出し、俺たちは二人だけで遅い昼食を取った。

「先輩はどうしてお昼を食べなかったんですか」
 紅茶のペットボトルの蓋を捻りながら、雛子が不思議そうな顔をする。
 彼女は既にハートの女王へ舞い戻っており、頭には厚紙のティアラを、ブラウスにはハートのワッペンをつけていた。文芸部には例年通りの閑古鳥が戻り、来客はほとんどなくなっていたが、それでも誰か来るかもしれないからと女王の役割を続けるつもりらしい。
「お前の緊張がうつった。あんな状態で食事が喉を通ると思うか」
 俺は先程購入した芋餅のパックを開き、そう答えた。
 模擬店は半数近くが店じまいを始めており、俺たちが買えたのも値引きをしても尚売れ残った商品ばかりだった。俺は醤油だれを絡めた芋餅やお好み焼きなどを選び、雛子は細長い形をしたドーナツやクリームを挟んだワッフル、フランクフルトなどを買い込んでいた。どれも作ってからしばらく経ったものばかりだったが、空腹の時は見るからに冷め切った品でも美味そうに見えるものだ。何より雛子が楽しそうに買い物をしていたので、俺もつられてつい余計なものまで買い込んでしまった。
「そうだったんですか……ごめんなさい。心配をおかけしました」
 雛子が申し訳なさそうに頭を下げる。
「全くだ。そのくせお前はいざ本番となれば、人の気も知らないで楽しそうにしていた。見ているだけの俺が一人でやきもきしているというのも、考えてみればおかしな話じゃないか」
 文句を言ってはみたものの、雛子が舞台で楽しそうにしていなければ、それはそれで気を揉む結果になっていただろう。そして堂々と演技をする雛子のおかげで俺も劇を楽しむことができたのだから、文句を言うのは尚のこと筋違いだ。
 だから俺はそれ以上は口を噤み、代わりに芋餅の串を取り上げる。
 途端、雛子が軽く吹き出した。
「なぜ笑う」
 俺が問い質すと雛子は焦ったように口を開く。
「違うんです。先輩と文化祭メニューって、何か面白い取り合わせだなって」
「それで何がおかしい」
「おかしいって言うか……。何でしょうね、貴重な感じがするんです」
 言われてみれば、こういうものを自ら進んで口にした記憶はあまりない。雛子に物珍しがられるのも当然だろう。
 高校時代の三年間も、一年目こそ勝手がわからずに適当なメニューを購入したが、美味いと思えず嫌々食べた覚えがある。それ以降は文化祭期間も弁当を持参して一人で食べただけだった。ジャンクフードの類が元々好きではなかったというのもあるが、それ以前に祭りの空気に溶け込む意思がなかっただけなのかもしれない。下手な客引きに呼ばれて模擬店に並び、手作りのジャンクフードを購入して食べることに何の楽しさも見出せなかったのだ。
 つくづく俺も変わったものだ――卓上に置いたままの奇抜な帽子を横目に、俺は密かに息をつく。さすがにあの帽子を被り直す気はないものの、らしくもないことを今日一日で随分としてしまった。
 いや、以前からは考えられなかった数々の『らしくもない』言動こそが、今の俺だと言えるのかもしれない。
「写真撮ってもいいですか?」
 雛子が目を輝かせたのにはさすがに呆れた。写真に残したくなるほど貴重だと思われているのだろうか。
「人が食べているところを撮るな。後にしろ」
「残念です。じゃあ、後でまたあの帽子を被ってくれますか?」
 彼女の視線が横に動いて、例の奇抜な帽子に留まる。
「あれか……。仕方ないな、一度だけだぞ」
 写真を撮り合う約束をしていたので、嫌とは言えない。
 俺が受け入れると雛子は極上の笑みを浮かべて、それから細長い形のドーナツに齧りつく。
 それはチュロスという名前のお菓子らしく、揚げた生地の表面はぎざぎざしていて、断面は星型をしていた。雛子はそれを両手で持ち、目を細めながら熱心に齧っている。実に美味そうに見えた。
「随分美味そうに食べるな」
 俺の言葉に雛子は深く頷く。
「シナモンが効いてて、でも甘すぎなくて美味しいです。よかったら食べますか?」
 そして食べかけのチュロスを俺に向かって差し出してきたので、俺は眉を顰めた。
 勧められたのが嫌だったわけではない。ただ、行儀の悪いことを言ってしまったと思う。
「物欲しそうにしたつもりは……。催促したようで悪いから、いい」
 だが雛子は気にしたそぶりもなく、むしろそうして欲しいという顔つきをした。
「一口くらいいいですよ。私の食べかけで、嫌じゃなければですけど」
「それは別に、気にしない」
 雛子の口にしたものが嫌だというわけではない。
 ただこういうことをするのは初めてだったので、俺は戸惑いながらチュロスを受け取った。ぎざぎざした表面と星型の断面を少し眺めたが彼女の真似をして齧りつく以外にないようで、思い切って口に入れてみた。
 シナモンの匂いとほのかな甘みが口に広がる。一般的なドーナツよりも口当たりは軽く、生地はざっくりと硬めだった。そして思った以上に美味かった。
「確かに美味いな。このくらいの甘さなら食べやすい」
「ですよね。もっと売れ残っていたらよかったんですけど」
「売れ残らなかった理由がわかるな」
 俺は礼を言って、食べかけのチュロスを雛子に返す。
 それから少し考え、こういう場合も交換条件なのではないかと思い、手元の芋餅に目をやった。既に俺がいくらか食べた後のものだ。味は悪くなかったのだが、慣れないことをするようで少々抵抗がある。
 だが一口貰っておいて礼もしないというのも気が引ける。結局切り出した。
「お礼にと言うのも何だが、俺のも食べるか?」
「いただきます!」
 雛子は驚くほど迅速に答え、俺から芋餅の櫛を受け取った。よく食べる割には小さな口でがぶりと齧りつき、歯ごたえのある餅をよく噛んで飲み込んでから笑った。
「もちもちですね」
「それはそうだろう。餅というくらいだからな」
「すごく美味しいです。食べさせてくれてありがとうございます、先輩」
 彼女は楽しそうにしていたが、俺は慣れないことだけに落ち着かない気分だった。
「あまり行儀のいいことではないが……こういうのもたまにはいいか」
「そうですよ。むしろ分け合って食べるのがお祭りの醍醐味です」
 どこか得意そうに語る雛子を見て、大槻も似たようなことを言っていたなと思う。
 俺はどうやら今の今まで、祭りの醍醐味も知らないまま過ごしてきたようだ。
「それは知らなかった。どうりで、一人で食べても美味く感じないはずだ」
 高校時代の記憶が一瞬だけ脳裏を過ぎり、すぐに消え去った。
 そしてかつての物足りなさを取り戻すように、俺と雛子は食べ物を分け合いながら遅い昼食を楽しんだ。買いすぎたかもしれないと思った食べ物も二人で食べれば大したことはなく、そして雛子と笑い合いながら食べる食事は、たとえ冷め切ったものでも贅沢なご馳走のように感じられた。

 昼食を終えた後は約束の写真撮影が待っていた。
「嫌なことは先に済ませてしまいたい」
 俺がそう言うと、雛子もまず俺の写真を撮ると言い、あの奇抜で派手な帽子を、椅子に座る俺の頭に有無を言わせず被せてきた。
 視界の隅に赤と紫の羽飾り、そして垂れ下がった緑のリボンが見える。やはりこの取り合わせはどうかと思う。
 うんざりした俺がわざと顔を隠すようにつばを引くと、雛子の不服そうな声が飛んできた。
「往生際が悪いですよ、先輩」
 手に携帯電話を握り、俺と奇抜な帽子を撮影しようとしている。離れた位置から膝をついてこちらを窺う、彼女の拗ねた様子が可愛い。
「……わかっている。冗談だ」
 俺が思わず笑うと雛子はすかさず携帯電話を構えてきた。こんなだらしのない顔は後に残すものかと急いで口元を引き締めた。
「もう少し笑ってもらえませんか」
「俺の作り笑いは酷いぞ。とても見せられたものじゃない」
「なら、自然に笑ってください」
「無理を言うな。嬉しくもないのに笑えるか」
 押し問答の末、雛子は俺の笑顔を諦めてくれたようだ。電子音と作り物めいたシャッター音の後、彼女は携帯電話を下ろして立ち上がり、俺もさっさと帽子を脱ぐ。そして座っていた椅子を雛子に譲り、撮影の支度を始めた。
 どうせ撮らせてもらうならよりよい状態で臨みたい。そう思った俺は椅子に腰かける彼女を一度眺めてから、スカートのひだをきれいに整え、ブラウスの襟を直した。雛子はされるがままだったが、少し感心した様子だった。
「先輩は几帳面ですね」
「どうせならいい写真を撮りたいからな」
 俺は彼女の頭の上に飾られていた厚紙のティアラを外し、前髪を指で梳いておく。きれいな額がよく見えるようにしておきたかった。
「大槻の言っていた通りだ。髪型が変わると、雰囲気まで変わるな」
 長い髪を後頭部でまとめたその髪型は、彼女を大人びた女に見せていた。髪を下ろしていないせいでほっそりとした首筋が露わになり、普段はほとんどない後れ毛がうなじにかかっている。喉を鳴らしたくなるような、何とも言えない色気があった。
 じっくりと眺める俺に雛子は照れたようで、頬をぱっと赤らめた。
「何ならいつも、この髪型にしましょうか」
「いや、いつものも悪くない。それに俺は、いろんなお前が見られる方がいい」
 普段の二つ結びも、下ろした髪も、今のまとめ髪も全ていい。これからはいろんな彼女を写真に収め、残しておきたい。せっかく携帯電話があるのだから使いこなさなければ意味がないだろう。
 俺は彼女から少し距離を置き、先程の彼女と同じように膝をつく。携帯電話の小さな画面に、椅子に行儀よく座り膝の上に手を置いた雛子の姿が映る。ピントが合った瞬間、緊張気味に素早く瞬きをしたのが見えた。
「撮るぞ。少し笑え」
 声をかけると、どういうわけか雛子は吹き出した。画面の中の表情が崩れ、笑いを隠すように俯く。
「笑いすぎだ。ほんの少しでいい、いつものように笑っておけ」
 俺の言葉に彼女は笑いをどうにか引っ込めて、唇にいつものような控えめな微笑を浮かべた。
 以前から俺は、この笑顔が好きだった。笑いながらも何か深く考えている時の顔。俺の話を聞いてくれる時の顔。
 窓からは午後の日の光が差し込んでいる。この教室にあるものの全てを柔らかく照らす秋の日差しが、彼女の色の白さを一層際立たせている。
 この表情を逃すまいと、俺は早速撮影にかかる。三回ほど立て続けに撮ってみたが、どれもいい写り具合だった。俺が持っていた一年生の頃の写真とは違う、今の、少しばかり大人になった雛子の写真――俺の手元にやってきた新しい彼女の姿を、俺は優しい気持ちで眺める。
「いいのが撮れた。見てみるか?」
「是非お願いします」
 尋ねると雛子は即答した。
 そこで俺は椅子の上の彼女に歩み寄り、撮影したばかりの画像を見せる。雛子はわくわくした様子で画面を覗き込み、すぐにちょっと眉を顰めた。
「撮り直しますか?」
 どうやら気に入らなかったらしい。こんなに可愛く、きれいに撮れているというのに。
「俺はこれがいい」
「そ、そうですか? 私はちょっと、どうかななんて……」
「知らないのか? お前は俺といる時は、いつもこういう顔をしている」
 俺が説明を添えると、雛子はもう一度画面に目を向けた。しばらくつぶさに眺めて何か気に入るところを探していたようだが、見つからなかったらしい。
「こんな顔、してるんですか……。何かがっかりです」
「なぜだ。可愛いじゃないか」
 そう言うと雛子は息を呑んだようだ。
 それほど意外なものかと、俺の方が首を傾げたくなる。もしかしたら彼女のよさ、可愛さは俺の方が雛子自身よりよほど理解しているのかもしれない。
「この顔は、俺の話を聞いてくれる時の顔だ。話を聞いて、お前なりになるべく理解しようと努力してくれている時の顔だ。だから俺はこの顔が好きなのだと、最近気づいた」
 画面の中の彼女はやはり控えめに、俺に向かって微笑んでいる。
 しかし目の前にいる今現在の雛子は耳まで真っ赤になっていて、照れ笑いを押し隠す為か唇を震わせていた。
「俺といない時のお前は、もっと楽しそうな顔もするし、幸せそうな顔をしている時だってあった」
 俺が言うと、雛子は弾かれたように顔を上げ、
「そんなことないですよ!」
「いや、わかっている。お前は俺といる時でも、いない時でも、いつでも幸せそうだ。それは別におかしなことでもないし、むしろいいことに違いない。俺としてもお前が一人で寂しそうにしているよりはずっといい」
 続けた言葉に彼女は黙る。唇を閉ざし、上目遣いの眼差しでじっと俺を見る。
「俺もかつては、なかなか割り切れなかった。お前が俺といる時より、他の奴といる時の方が楽しいと感じているなら、俺が傍にいる必要はないだろうと思っていたからな」
 同じ気持ちであって欲しかった。
 俺が世界中で唯一彼女から貰うことのできた感情を、彼女の方も俺からのみ貰っていて欲しいと思った――だがそれは独善的な考え方でしかなかった。俺に俺だけの人生があるように、彼女にも彼女の人生がある。恐らく俺よりも温かく、触れ合いに富んだ人生を歩んできた雛子の周りには、それだけ優しい心も、楽しい笑顔も溢れていて当然なのだ。
 だからこそ俺も、笑顔でいる機会が増えた。幸せを感じるようになった。
「だが、今はそう思わない。今日一日、ずっとお前を見ていた。部長として働く姿や、ステージの上で芝居に打ち込む姿、そしていつでも楽しげにしている様子を見て、どうしてか俺まで誇らしくも幸せな気持ちになれた」
 呆けたような雛子の前に、俺は跪いて続ける。
「とても単純な理屈だ。お前の心を信じていればよかった。たったそれだけのことだった。お前が俺を選んでくれた事実を唯一のものとして、信じていればよかったんだ。お前がどう感じていようと、どんな顔をしていようと、俺を選び傍にいることを望んでくれたのは間違いないとわかった」
 手を伸ばして彼女の頬に触れてみる。火照った頬の熱が指先に伝わり、彼女の内心が読み取れるようだった。
 こうして俺の言葉にうろたえつつも心動かされている雛子を、堪らなくいとおしいと思う。
「そんな単純な理屈に、どうして今まで気づけなかったのか。馬鹿だな、俺は」
 彼女の頬を手のひらで包むと、雛子もわずかに視線を上げた。
 お互いの顔の間で視線が結ばれる。
 眼鏡の奥の瞳が、潤んだように揺れた。
「今日はとても楽しかった。いろんなお前を見られて、幸せだった。この学校でこんなに楽しい思いをする日が、それも卒業してから訪れるとはな」
 学校行事を楽しいと思う日がやってくるとは思わなかった。
 だがそれも、雛子がいたからこそだ。仮装に参加したのも、芝居を楽しめたのも、文化祭らしい食べ物を堪能することができたのも、雛子がいなければ叶わなかった。
 俺の幸せは全て、彼女と共に作り、生み出すものなのだろう。
「先輩……」
 雛子がかすれた声で俺を呼ぶ。
「全てお前のおかげだ。ありがとう」
 俺がそう告げた時だった。
 彼女が喉の奥で捻じれた声を上げた。言葉にはならない呻きのような声の後で肩が震え始め、表情がきゅっと歪んだかと思うと瞳に涙が溢れた。ぽろぽろと零れ落ちる涙が頬から流れて顎まで伝い、ブラウスに次々と染みを作っていく。彼女は震える呻きを上げながら自ら眼鏡を外し、手の甲でその涙を拭った。
「雛子? 一体どうした?」
 突然のことに俺は何が起きたかさえわからず、
「違う、んです、私、嬉しくて……!」
 そんな俺に、雛子は涙声で、苦しそうにしゃくり上げながら訴えてくる。
「こちらこそ……あ、ありがとうございます、先輩……」
 なぜ雛子が泣き出したのか、俺にはわからなかった。
 わかるような気はしていた。だがそれすらもすぐには信じられなかった。彼女が俺の幸せを望んでいてくれたのだと、理解し、受け止めるまでにしばし時間が必要だった。
 俺が彼女の幸せを願っていたのと同じように――。
 いや、もしかするとそれよりもずっと前から、彼女の方は、俺が幸せであるようにと願っていてくれたのかもしれない。長い間、俺が何もわかっていなかった頃からずっと。
 胸が詰まるようだった。
 俺は泣きじゃくる雛子の頬を手で拭い、涙を追い払おうとした。だが拭いきれないとすぐにわかり、堪らなくなった俺は彼女をきつく抱き締めた。
 雛子は身を硬くして、気を遣おうとしてかそこから逃れようとしたが、俺は離さなかった。
「いいから、気にするな」
 自分でもはっとするほど余裕のない声になった。
「泣いているお前を放っておけるか。気が済むまではここにいろ」
 腕の中で雛子が身体の力を緩め、やがて俺の胸に頭を預けてきた。そうしてしばらくの間、言葉もなくただ泣き続けていた。大人びた髪型の彼女が、今は子供のようにひたすら泣き続けているのを、俺はいつまでも抱き締めていた。
 ここが母校の教室であることも、今が文化祭初日の最中であることも、明るい日が差し込んで俺たちを照らしていることもどうでもよかった。
 俺にとって雛子こそが、この道を照らす明るい光だ。
 見失ってはいけない。目を逸らすことももうしない。もし迷うことがあったとしても、彼女を道しるべに、明るい方へ歩いていけばいい。

 文化祭初日の幕が下りても、俺はまだ雛子の傍にいた。
「今日は家まで送る」
「大丈夫ですよ」
 答えた雛子の声は嗄れかけて、かさついている。
 ようやく涙の消えた顔にも泣いた痕跡は残っている。腫れぼったい瞼と赤い瞳、乾いた唇は誰が見ても散々泣いた後に映ることだろう。
「駄目だ。そんな顔をしているのに一人で帰すわけにはいかない」
 俺が強硬に主張したせいか、あるいは自分の顔の状態をよくわかっているからか、雛子はやがて頷いた。
 そして紺のセーラー服に着替えた彼女を連れ、俺は母校を後にした。校庭の屋台は布がかけられ、校門周辺にはいつもと変わらぬ制服姿ばかり見かけた。一度だけ振り返った校舎の壁には、夕日に染まる垂れ幕が風に吹かれてたなびいていた。
 祭りは明日も続く。だが俺はもう在校生ではなく、大学へ行かなくてはならない。明日以降はもうここへは来られない。
 今年はこれで見納めだ。そう思って、振り返った。
 来年はここへ来るだろうか。次は同じく卒業生となった雛子と共に――まだ感傷に耽る時期ではないのか、雛子は校舎を振り返らず、代わりに俺を見上げて泣いた後の顔で微笑んだ。

 二人で駅までの道を歩き、いつもは別れる改札の前で切符を買い、二人で改札をくぐった。
「俺も高校時代は電車通学だった。覚えているな」
 冷たい秋風が吹く駅のホームで、俺は雛子に語りかけた。
「帰る方向は違ったが、部活の帰りにはよくお前の姿を見かけていた。向こう側のホームから、こちらに立つお前をよく見ていた」
 高校からの帰り道、ここからは反対側にあるホームから電車に乗って家へ帰った。家に戻るのが嫌だった。あんな場所が自分の家だと思いたくなかった。
 そして手の届かない距離にいる、柄沢雛子の姿を眺めていた。
「なぜ見ていたのか、あの頃は自分でもよくわからなかった。入部してきた当初は、お前の名前すらなかなか覚えられなかったのにな」
 俺のとりとめのない呟きを、雛子は黙って聞いている。
 微かに微笑んで、何かを考えながら、それでもじっと俺を見ている。
「いつからなのかもわからない。ただ、向こうからお前を見かけた時の、何とも言えない気分だけははっきりと記憶している。お前がどこへ帰るのか、知りたいようで知りたくなかった」
 だが、それは昔の話だ。
 これから俺は彼女がいつも歩く道を辿り、彼女の家を見に行く。明るい光が灯っているだろう、彼女が帰るべき暖かい家を。
 彼女が乗る電車は空いていて、二人で並んで座ることができた。車窓の外を流れていく見慣れない町の景色を眺めながら、俺は雛子の手を握った。彼女がもう俯かないように、涙に暮れないよう強く繋いでおいた。
 やがて電車は駅に辿り着き、俺は彼女の案内で彼女の家を目指す。すっかり日が暮れていたが空には星が浮かび、街灯の明かりが道に降り注いでアスファルトの道を光らせている。町並みはぽつぽつと明かりを点し始めており、そのおかげで二人で辿る道は暗くはなく、静かな空気に満ちていた。
「お前の書いたものを読んだ」
 歩きながら、俺は別れを惜しむように雛子と話をした。
「あの展示にあったものは全て読んだ。文集に載せた短編はなかなかよかった。昔よりもずっと、まとまりのある話を書くようになったな」
 青春というテーマで書かれた雛子の作品は、彼女らしい幸せな結末が用意された物語だった。少々テーマに縛られすぎたきらいはあったが、荒削りながらも瑞々しい彼女の文体がよく生きた仕上がりにもなっていた。
「ありがとうございます。もう少し、書きたいものがはっきりしていたらもっとよかったんですけど」
 雛子がはにかむ。
 文芸部員としての彼女の活動も恐らくこれが最後となるだろう。受験を控えていれば部活動に勤しむ時間はなく、受験が終われば間もなく彼女は高校生ではなくなる。
 それからの雛子が何を目指すのか、俺は興味があった。
「卒業してからも続けるんだろう?」
 俺の問いに雛子は小首を傾げる。
「わからないです。続けたいような気もするんですけど、でも続けたところでちゃんとしたものを作れるようになるかどうか……」
「迷っているなら続ければいい。俺ももう少し、お前の書いたものを読んでみたい」
 彼女の文章には心惹かれるものがある。それは巧拙の問題ではなく、俺が彼女をもっとよく知りたいと望んでいるからなのだろう。雛子が綴る文章には彼女らしさがよく表れている。だから、これから大人になっていく彼女が何を思い何を書き綴るのか、見てみたいと思った。
「私は、夢のあるハッピーエンドのお話がいいって思うんです」
 雛子は腫れた瞼とは対照的に、瞳をきらきら輝かせて語る。
 彼女という存在そのものが光源のように、驚くほど光に溢れている。俺にはそれが眩しくて仕方がない。
「お前にはその方が似合う。俺を幸せにしたように、今度はその物語で誰かを幸せにするといい」
 いつか彼女なら、そんな物語を書けるような気がしている。

 閑静な住宅街の一角で、雛子は不意に指を差した。
「あれです」
 彼女が指し示したのは外壁がアイボリーの一軒家で、玄関先の外灯が点っている家だった。小さな二階建ての家は金属製の低い柵で囲まれていて、門のところには横書きの表札が『柄沢』と名前を記している。玄関のドアの脇には円筒形の傘立てが置かれ、柵のすぐ傍には二台の自転車が停まっていた。一階のベランダの窓はカーテンが引かれていたが、その隙間から明るい光が漏れている。
 雛子の家を確かめたところで俺は足を止め、
「じゃあ、ここで。ご家族に知られたらまずいだろうからな」
 そう切り出して彼女の手を離そうとした。
 だが雛子はそこで困ったように口をすぼめ、俺の手を力ずくで握り直してくる。彼女の力ずくなどたかが知れているのだが、そういう顔をされるのは弱い。
 俺は繋いだ手を軽く揺すって告げた。
「手を離せ。じゃないと、俺の部屋へ連れて帰るぞ」
 脅しのつもりだったが逆効果だったようだ。雛子は瞬きの後、まるで期待するような縋る眼差しを向けてくる。
 本当にこのまま連れ帰ってしまいたい。そんな誘惑に駆られたのも短い間のことで、俺はすぐ彼女を諭した。
「馬鹿、お前がしっかりしてくれないと困る。こういう日は俺も、自制が利かなくなる」
 俺の言いたいことをわかってくれたのだろう。雛子もやがてゆっくりと、俺の手を離した。
 血の通った体温となめらかな皮膚の感触が残る手で、俺は彼女の頬を撫でる。頬は木枯らしのせいで冷たくなっていたが、触れるととても柔らかい。
 もう少し触れていたい。触れ合いたい。抱き締めたい衝動を堪えて頬だけに触れている。
「次はいつ、会えるだろうな」
 俺が独り言のつもりで呟くと、雛子は明るい口調で応じた。
「また、メールしますから。暇があったらお返事ください」
「ああ。俺もする」
「たまには電話をしてもいいですか」
「少しだけならな。しかし夜更かしはするな、身体に障る」
「わかってます」
 名残りを惜しむ会話を済ませると、俺は彼女の傍を離れ、来た道を引き返す。

 見慣れない住宅街はどこもかしこも明かりが点り、その向こうに住まう人々の営みを感じさせた。
 俺もいつか、その光の一つになりたい。
 雛子と共にごくありふれた明るい暮らしを、送れたらいいと思っている。
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