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日向の道を行く(5)

 体育館の入り口は開放されており、中には暗幕が張り巡らされていた。
 実行委員と思しき男子生徒が、人の出入りがある度にその暗幕を開く。会釈をしながら隙間をくぐって体育館の中へ入ると、全ての窓が塞がれた薄暗い空間が目の前に広がった。
 ステージ前に整列したパイプ椅子の客席は、既に半分近くが埋まっていた。ざっと見回したところ制服姿の生徒がほとんどのようで、あとはちらほらと父兄らしき大人の姿がある程度だ。俺は最後列の右端に腰を下ろし、息をつきながら舞台を見据える。
 舞台は幕が下りている。その向こうに、もう雛子はいるだろうか。開演予定時刻まであと五分を切った。耳を澄ませてみても舞台からの物音は全く聞き取れず、客席に広がるざわめきだけが聞こえてきた。
 緊張していなければいいのだが。
 そう思いかけて、ふと、緊張しているのは俺の方ではないかと考え直した。こうして声も手も届かないところから彼女を見守るのは初めてだ。緊張を越えて本番に臨む彼女を、果たして冷静に見ていられるだろうか。何か大きな失敗でもしたらいても立ってもいられなくなるかもしれない。
 気を落ち着けようとパイプ椅子の背もたれに寄りかかる。古い椅子が軋む音を立てた時、館内の照明が全て落ちて、どこかからクラシックのBGMが流れてきた。
 幕がゆっくりと開く。それに従い、ステージからは強い光が少しずつ、やがて奔流のように溢れ出す。眩しさに目を眇めると邸宅らしい書き割りが並ぶ舞台が見え、次いで壇上に蹲るみすぼらしい服装の少女と、それを取り囲む三人の女の姿を捉えることができた。
 そのうちの一人、照明の光にてらてらと輝くピンクのブラウスとふんわりしたスカート、耳から下がる白いイヤリング、それに何より今日のような日であっても銀フレームの眼鏡をかけた女が、客席を睨むように一瞥した。ハートのワッペンと厚紙のティアラは外し、今の彼女はシンデレラの義姉アナスタシアに生まれ変わっていた。
 強い照明に塗り潰されたステージの上で、雛子は凛と立っている。
 胸を張ったその姿が目に眩しかった。

 特に期待はしていなかったが、劇自体の出来栄えはよくて学芸会レベルだった。
 斬新な演出もなければストーリーも単調で、シンデレラの物語をただなぞったものでしかない。のめり込むほど楽しめるようなものではなかったが、客席からは時折撮影用のフラッシュが焚かれていたし、素人らしいコミカルな演技には笑い声も起きていたようだった。
 雛子の演技力も真面目さ以外に評価できるところはなく、台詞は声を張りすぎて抑揚がなかった。つまるところ棒読みだ。演技もややオーバーでむやみやたらに手を振り回したり仰け反ったりと、義姉アナスタシアを実に感情的に演じていた。その思い切った演じ方は懸命ですらあり、それでいて照れはなく、自らの演技に酔ったところもなく、初めこそはらはらしていた俺も次第に微笑ましい気持ちで彼女を眺めることができた。
 彼女の長所とはこういうところなのだろう。真摯で、ひたむきで、やるべきことはきちんとやり遂げる。後輩たちに慕われているのも十分頷けた。
 ただ、舞台が終盤に差しかかり、舞踏会へと場面転換した時のことだ。肩を晒した衣裳の雛子がイヤリングを揺らしながら王子役の男子に近づき、その手を取ろうとした。シンデレラ以外は眼中にない王子がアナスタシアの手を振り解き、次の瞬間、雛子はまるで投げ飛ばされたような格好で床に尻餅をついた。
 舞台に叩きつけられた音をマイクが拾い、大きな音が館内に響き渡ると、客席は笑い声に沸き返る。
 恐らくただ一人、俺だけが、笑えずにぎょっとしていた。
 床に転がった雛子はそれでもすぐさま立ち上がり、王子が心配そうに差し伸べた手もやんわり断って舞台の隅へと退いた。その時の表情は痛みに顔を顰めているようにも、込み上げる笑いを堪えているようにも見えた。
 今のは台本通りだったのだろうか。だとしたらあれほど大きな音を立てたのも予定のうちだったのだろうか。怪我などしていなければいいのだが。
 客席最後尾の俺はひたすら気を揉んだが、雛子はその後も演技を続行した。台詞を述べる声が震えていたり、演技の合間に口元を押さえるようなそぶりはあったが、最後まで立派に演じきった。ラストシーンでガラスの靴を履き、王子の手を取るシンデレラを目の当たりにしたアナスタシアは、渾身の演技とも思える地団駄を見せて観衆を圧倒した。
 そしてカーテンコールにて、雛子は他のC組の生徒と共に壇上に整列した。この距離では表情こそ見えにくかったものの、微かに笑んでいるらしいことはわかった。クラスメイトたちと繋いだ手を頭上へ掲げ、一礼した彼女を俺は客席から見ていた。
 そして唐突に、ある忘れがたい光景のことを思い出す。

 冬の日、駅のホームで、初雪に見入る雛子を遠くから見ていた。
 あの時も彼女には光が降り注いでいた。ホームに備えつけられた照明がスポットライトのように彼女を浮かび上がらせていた。表情まではわからなかったが微笑んでいるらしいことだけは読み取れ、彼女が初雪を喜んでいるのだとその時わかった。
 彼女が帰るのは暖かい家なのだろうと思った、二年前のあの日の出来事。

 あの日抱いた疎外感は、もう過去のものに成り果てていた。
 俺は今も同じように、遠くから雛子を見つめている。だが心のうちにあるのは彼女を労う気持ちと安堵だけで、気がつけば他の観客に合わせて惜しみない拍手を贈っていた。
 あれだけ演じきればさぞかし疲れたことだろう。後で会ったら労いの言葉をかけてやろう。それから転んだ時に怪我をしていないか尋ねて、そして――芝居の感想を聞かれたら、正直に言ってやろう。
 上手かったかどうかはさておき、そのひたむきさがとても可愛く見えた。
 俺が言える誉め言葉はその程度だ。

 劇が終わると、俺はすぐに体育館を出た。
 暗幕で覆われていた体育館から光溢れる校舎へ戻ると、二日酔いのように頭がくらくらした。それでも急ぎ足で階段を上がり、文芸部の展示をしている教室まで戻る。
 昼時を過ぎたからなのだろう、三階の廊下には再び人が戻りつつあった。見慣れた古い校舎に生じた、制服と私服が入り混じり混沌とした人波をすり抜けていく。
 そのうちに、すれ違った一人が声を上げた。
「あれっ、鳴海くん!?」 
 聞き覚えがあるという表現では済まない、実に聞き慣れた男の声だった。
 俺は振り向きながらも驚いていた。この声を、東高校の校舎で聞くことがあるとは思わなかったからだ。
「――大槻」
 戸惑いながら名前を呼ぶと、俺のすぐ目の前で立ち止まった大槻がやっぱり、というように目を細める。
「来てたんだ。雛子ちゃんを見に来たの?」
「ああ……」
 頷いた俺は、すぐ我に返って口を開いた。
「お前こそ、なぜここにいる」
「俺は楽団の連中と来たんだよ。後輩の演奏聴きたいって奴がいてさ。ほら、東の吹奏楽って割と有名じゃん。俺も聴いてみたくてついてきたってとこ」
 大槻はそう言うと腕時計を見て、時刻を確かめてから続けた。
「けど開演まで時間あったから、卒業生の連中とは後で落ち合うことにして、俺は雛子ちゃん探してた。東の在校生で知り合いっつったら、あの子しかいないしさ」
 それから混み合う廊下とそこに居並ぶ教室を見渡して、
「文芸部って確かこの辺だろ? 雛子ちゃんは?」
 と尋ねてきた。
「あいつならクラスの方へ戻っているから、ここにはいない」
 俺が答えると、大槻はあからさまに落胆した顔になる。
「えっ、そうなんだ……。すぐ戻ってくるかな? 俺、もう少ししたら行かないといけないんだけど」
「さあ。先程クラス発表を終えたばかりだからな」
 恐らくあの後の雛子はクラスメイトと共に一旦教室へ引き揚げただろうし、そこから戻ってくるとしてもすぐではないだろう。そもそも大槻が雛子に会いに来る理由というのもわからない、と言うか気に食わないが、それを指摘すると薮蛇でしかないだろうから黙っておく。
 だが、顔にはありありと出ていたらしい。俺を見た大槻がそこで、にやりとした。
「あ、何だよその顔。やきもちですか?」
「俺は何も言ってない」
「いやいや、見るからに気に食わんって顔してますって。俺の彼女に無断で会いに来るなと言わんばかりのね」
 人の顔に指を差して大槻は得意げだ。
 そこまで言い当てられたら仕方がないと、俺も少しだけ本音を口にする。
「何の用があって会いに来るのか、とは思った」
「いいじゃん、顔見に来たってだけでも。友達の彼女は友達みたいなもんだよ」
 と言ってから、大槻はだらしない顔つきになった。
「それにさ、文化祭と言やコスプレは付き物じゃん。雛子ちゃんのエプロン姿とか、あるいはもっと可愛い仮装とかしてるんなら見てみたいと思ってさ」
 聞き捨てならない言葉に俺は顔を顰めたが、同時にある考えが頭の中に閃いた。
 もし大槻が何らかの気まぐれを起こして、もう少し早く文芸部を訪ねてきていたら――俺はあの奇抜極まりない帽子を被った姿を見られていたはずだ。
 その場合、大槻はまず間違いなく笑っただろう。写真に残そうとしたかもしれない。不幸中の幸いとはこのことだ。
「どうして文化祭ともなると、皆で仮装をしたがるんだろうな」
 俺はふと呟いた。
 仮装をしたおかげで結果的に文芸部を訪ねてくる客の数が増えた。それはわかるが、着る側も見る側も奇抜な格好を喜び、文化祭だからという理由だけで受け入れるのはなぜか。俺にはよくわからない。
 雛子がドレスを模した衣裳を着て喜び、後輩たちにも、更には俺にまであの帽子を被せて喜んでいる理由も、やはりぴんと来ない。
 大槻が訳知り顔でこちらを見上げる。
「そりゃ、お祭り騒ぎがしたいからだろ」
「そんなものか」
「そんなもんだよ。そういうのが楽しいんだよ非日常的でさ。学校行事なんて、羽目外して楽しんだ者勝ちだよ」
 確かに文化祭の空気は非日常的であると言わざるを得ない。普段はしない食べ物の匂い、普段よりも人に溢れた校舎、何度チャイムが鳴ってもいつものように気にする者はほとんどおらず、教室は派手に飾られて到底勉強ができる雰囲気ではない。そして先程までいた体育館はまるで本物の劇場のように闇に覆われていた。
 そういうものが楽しいと言われれば、そうなのかもしれない。
 少なくとも俺は素人の域を出ない芝居を楽しんだ。嫌々ながらも仮装をし、後輩たちが舵を切った文芸部の新たな船出を見届けた。文集も楽しく読ませてもらったし、あとは――。
「俺だってやったよ高校ん時、部の企画で女子の制服着たこともあったっけ」
 物思いに耽る俺をよそに、随分気色悪いことを大槻は言い出した。
「俺さ、そん時生まれて初めてストッキング履いたんだ。もう皮膚がぞわぞわして超気持ち悪かった! 女の子ってよくあんなもん日常的に履けるよなあって思ったよ」
 話を聞かされた俺は、昼食がまだであるにもかかわらず著しい食欲の減退を覚えた。
 お祭り騒ぎをするにしても、わざわざ目の毒になるような仮装を選択するとはどういう了見なのだろう。
「想像したくもないな」
 思わず、俺がぼやいた時だった。
「――先輩!」
 相変わらず人通りの激しい廊下を突き抜けるような、雛子の声が響いた。
 振り返れば彼女が、人混みの間に生じたわずかな隙間を縫うようにしてこちらへ駆けてくるところだった。彼女は壇上にいた時と同じ格好をしており、剥き出しの白い腕を振りながら、イヤリングと長いスカートを揺らして走る。
「あっ、雛子ちゃん!」
 俺より先に、大槻が声を上げた。
 それで雛子も驚いたようだ。俺たちの傍まで来ると目を瞠りながら、大槻に向かって頭を下げた。
「こんにちは、大槻さん」
「こんにちは」
 大槻は愛想よく応じた後、遠慮のない視線を雛子に向けた。普段と違う髪形から剥き出しの肩や腕、キャミソールの胸元まで粘度の高い目つきでじろじろ眺めるので後ろから張り倒してやりたくなる。
「髪型違うと雰囲気変わるね。それにすごく華やかな格好してるけど、仮装か何か?」
 雛子は大槻の眼差しに気づいていないのだろう。笑顔で答えた。
「劇に出てたんです。シンデレラの」
「へえ。もしかして雛子ちゃんが主役?」
「違います。私は意地悪なお姉さん役です」
「マジで? 全っ然イメージできないけど……あ、劇、もう終わっちゃった?」
「はい、無事終わりました」
「そっか……。しくじった、見てみたかったなあ」
 会話の合間にも大槻は雛子を頻繁に見る。その好色そうな目つきが鬱陶しく腹立たしい。
 大槻は女に対してこういう視線を向けることへのためらいや羞恥心というものが皆無らしい。大学構内で奴が女子学生と会話している場面を何度か見かけたが、話をしながら顔を見たり胸を見たり脚を見たりととにかく落ち着きがない。話し終えて別れた後も立ち去る女の後ろ姿を未練たらしく眺めているので、相手に振り向かれたらそのだらしのない顔を見られてしまうのではないかと他人事なのにはらはらした。
 しかし、相手が雛子ともなれば話は別だ。隙あらば話を遮り大槻を追い返してやろうと思い、俺は機会を窺っていた。
「でもその格好が見れただけいいや。似合うねそれ、舞踏会用のドレスとか?」
 大槻の言葉に雛子は微笑む。
「ありがとうございます。ドレスを作る余裕はなくて、こんな感じなんです」
「うんうん。そうやって肌出してると、なかなか色っぽくていいね」
 憚ることなく大槻がそんな言葉をかけたせいで、雛子は恥ずかしそうに視線を落とした。指先でキャミソールの肩紐を気にするように直す。
 ステージに立っている時は何とも思わなかった。彼女が懸命に芝居に打ち込んでいたせいだろう。だがこうして校内の廊下で、しかもこんなに近くで見ると、随分な格好をしているものだと顔を顰めたくなる。キャミソールの細い肩紐は彼女の肩を隠すことなく、むしろその心許なさがかえって危なっかしい雰囲気を漂わせている。胸はくっきりと丸く、見えそうでいて全く見えないように設計された布地で覆われている。だが晒している二の腕や肩や鎖骨と地続きであることには違いなく、その事実を認識すればするほどどうしていいのかわからず、俺は彼女を上手く正視できずにいた。見たくないわけではない。だが堂々と眺めてもいいものではないだろう。
 しかし間の悪いことに、ちらっと目を向けた瞬間、当の雛子と目が合った。
 慌てて顔を背ける。
「寒くないのか、そんな格好をして」
「いえ、今のところは暑いくらいです」
「いいからさっさと着替えてこい。大槻みたいなのにおかしな目で見られる」
 苦し紛れに説教をすると、途端に大槻が噛みついてきた。
「人のこと言えんの!? 鳴海くんだってさっきからちらちら何度も見てんだろ!」
 鋭い指摘にぎくりとする。
 どうやらお互い、他人の振りばかりよく目についているようだ。
「そんなには見てない!」
「いいや見てたね。つか、そっちの方がよっぽどおかしな目だったね」
 俺の反論を軽くいなすと、大槻は滔々と続けた。
「普通に考えて、横目でちらちら見てる方がやらしいじゃん。見たいけど見たら格好つかないから、見てないふりしつつしっかり観賞してるのとかさあ」
 一つ一つの言葉が胸に突き刺さる。俺は言葉に窮してたじろぎ、
「その点俺なんてオープンですから。こそこそせず堂々と見て楽しんじゃいますから」
 ますます勢いづいた大槻はそう言い切ると、雛子へ水を向けた。
「雛子ちゃんもそう思うだろ? 下手に隠さず堂々と眺めてる方が格好いいって!」
「……そうでしょうか」
 この件に関して雛子の答えは冷静だった。非難するでも恥らうでもなく、淡々と疑問を呈していた。
 ひとまず、俺は疲れた。まさかこんなところでこんなうるさい奴と出くわすとは思いもしなかったせいもあるだろう。
「もういいから、大槻は向こう行け」
 俺は追い払うように奴へ告げた。
「時間はいいのか。約束があると言っていたのに」
 更にそう指摘すると、大槻は今思い出した様子で再び時計を見る。
「うわ、そうだった! そろそろ行かないとまずいな」
「これからどこかに行かれるんですか?」
 雛子が尋ねた。
「実は今日、楽団の連中と来てるんだ。ここ出身の奴がいてさ、後輩の演奏聴きに行きたいって言うんで、付き合いでね」
 大槻はやはり愛想よく答え、
「ちょっとだけ時間あったから、そういえば雛子ちゃんも東高だよなって思って文芸部探してみたんだけど、まさかOBまでいるとは思わなかった」
 そこで一度言葉を切って、意味ありげに俺を見る。
 俺は無言で奴を睨んだ。
 大槻はひょいと首を竦める。
「じゃあ俺は行くから、鳴海くん、あとは雛子ちゃんを独り占めしてていいよ。何だったら人気のないとこに連れ込んだりとかさ」
「大槻!」
 何を言うのかと俺が咎めても大槻が堪えるはずもない。小柄な身体に余るほどの大声量で笑いながら廊下を歩き出す。遠ざかっていく背中をもはや見送る気もせず、俺は溜息をついた。
「全く、こんなところであいつに出くわすとは。あの帽子を被ったところを見られていたら、何を言われたかわからんな」
 恐らく今以上につつかれ笑われからかわれたことだろう。それだけは避けられてよかったと言うべきだろうか。
 だが雛子をじろじろ見ていったのも非常に腹立たしい。
「先輩、見てくれました?」
 不意に雛子が口を開いた。
 俺はとっさに慌てふためき、
「な、何をだ! 俺は、そんなには見てないとさっきも――」
「劇についてですよ」
「……ああ、何だ。そっちか」
 彼女の注釈に胸を撫で下ろす。
 そういえば、せっかく会えたのに芝居の感想を言えていなかった。大槻にすっかり邪魔をされた。
「もちろんちゃんと見ていた。お前が派手に転ぶところもな」
 俺が最も気になっていたことに言及すると、雛子は自分の話だというのにおかしそうな顔をした。
「すごい音しましたよね」
「台本通りだったのか、あれは」
「いいえ、バランス崩して転んじゃったんです。私もそうですけど、王子様役の子も緊張してて」
 どうりで、突き放したはずの王子が慌てて手を差し伸べたはずだ。俺は雛子しか見ていなかったが、あの時舞台では予定外のトラブルに緊張が走っていたのかもしれない。
 しかし予定外のこととなれば雛子も上手くは転べなかっただろう。実際に大きな音もしていたし、やはり心配になってきた。
「災難だったな。痛くなかったか?」
 俺の問いに雛子は、髪型やドレスを模した服装とはまるでそぐわない、あどけなさの残る笑みを浮かべた。
「そこそこです。痛さよりも何と言うか、笑いを堪えるのが辛くて」
「何ともないならよかった。怪我でもしていたらと気になっていた」
「心配かけてすみません。先輩にはもっとゆったり見てもらいたかったんですけど」
 俺がしきりに気にしたからか、彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
 あまり心配するのもかえってよくないようだ。本人が笑い事だと思っているのなら、それごと舞台を楽しめたというのならそれでいいのだろう。
 俺もかぶりを振っておく。
「気にしなくていい。楽しめなかったわけじゃない」
「本当ですか?」
「ああ。その格好も、芝居に打ち込んでいるお前も、可愛かった」
 他の誉め言葉が思いつかず、俺はやはりそう告げた。
 雛子が隙を突かれたようにうろたえたので、ゆっくりと語を継ぐ。
「思えば久し振りだな。あんなに遠くにいるお前を眺めていたのは」
 初めてだと思っていたが、そうではなかった。かつては何度も遠くから眺めていたのだ。
「昔は測り知れない距離を感じて、何とも言えない気分になったものだが、今はそうでもなかった。むしろ、幸せな思いがした」
 俺はしみじみと語り、雛子に笑いかけようとした。
 だが雛子の戸惑う顔の下に、いまだ剥き出しの肩や腕があるのが目に留まり、慌てて言った。
「と……ところで、いい加減着替えてきたらどうだ。その格好は確かにいいが、ずっとそれでいるのはどうかと思う」
「先輩にせっかく誉めてもらったのに、着替えなきゃいけませんか?」
 雛子は少し不満げだ。その仮装をよほど気に入っているのかもしれないが、すれ違う人間、特に男共からやけに注目を集めていることには気づいていないのだろうか。俺にはそういう視線も鬱陶しく、なるべく早急に何か着てきて欲しいと思う。
「当たり前だ。人前でそんな格好をするな、じろじろ見られるぞ」
 そう告げても彼女は腑に落ちない顔をしていた。
「それに、俺もつい視線が行くと言うか、どうしても見てしまうから……格好つけたいわけではないんだが、やはり目の毒だ」
 だが俺が、言葉を選びながらも重ねて頼むと、雛子もはにかみながら顎を引いた。
「そういうことなら着替えてきます」
「ああ。戻ったら何か買ってきて食べよう、俺も昼はまだなんだ」
 空腹の感覚が今頃になって戻ってくる。ずっと忘れていたようだ。
 俺も彼女の舞台を見届け、彼女は最後の文化祭を飾るクラス発表を無事終えた。これから食べる遅い昼食は、きっと格別の味がすることだろう。
「わかりました。じゃあ、ここに戻ってきますから、また後で」
 彼女が立ち去ろうとする。
 廊下の窓から差し込む光が彼女の肩を白く、つややかに照らした。
 俺はそれだけで気がかりになり、こちらへ背を向けた彼女に声をかけた。
「雛子」
 振り向く彼女の前で俺は着てきたジャケットを脱ぎ、その肩にかけた。素肌がかけらも覗くことがないよう、包むように覆っておく。
「着ていけ。お前にその格好でうろうろされるのも、心配でしょうがない」
 俺の言葉に雛子はきょとんとしてから、唇にほんのり照れ笑いを滲ませた。

 ぶかぶかのジャケットを羽織った彼女が踵を返す。
 ドレスの上に男物のジャケットはちぐはぐな感じがして、後ろ姿を見送りながら俺はこっそり笑った。
 そしていつになく楽しい気分で、彼女の帰りを待っていた。
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