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日向の道を行く(4)

 客足は正午を境にぱったりと途絶えた。
 辺りが静かになったのを見計らい、雛子は有島と荒牧を食事休憩に行かせたようだ。二人が教室を出て行った後、彼女がこちらに目を向けた。
 俺はずっと椅子に座って文集を読んでいた。ちょうど有島の作品を読み終えたところで、透明人間が登場するパニックホラー小説は以前目を通した時よりもやや表現を抑えた、マイルドな仕上がりになっていた。今年度の文集には各部員の顔写真は載っていない。写真が載るのは恥ずかしいという三人の意見が一致したので、廃止することにしたらしい。
 何もかもが去年までとは違う文芸部の展示に囲まれ、雛子は突っ立ったままこちらを見ている。
 目の端で窺う顔は心なしか強張っていた。見慣れない髪型には不似合いな、寄る辺のない表情にも見えた。
 俺は文集を閉じ、彼女に声をかける。
「緊張してるのか」
 どうやら正しい読みだったようだ。雛子は驚いたように口を開き、それからぎこちなく頷いた。
「……はい。やっぱり、多少は」
 劇の開演は午後一時半となっている。彼女もあと十五分ほどでクラスの連中と合流して、準備に入る手はずらしい。
 出番が刻一刻と近づくにつれ、雛子は目に見えて緊張し始めていた。視線はきょろきょろと絶えず彷徨い、手も落ち着きなく組み合わせている。
「私が何か失敗したら、笑ってください」
 余程自信がないのか、雛子が恐る恐るそう言った。
 だが俺は彼女を笑う気も、馬鹿にするつもりもなかった。
「笑うものか。お前が真面目にやっているなら、こちらも真剣に見るまでだ」
「そこまで真面目なお芝居じゃないですから」
 雛子は恐縮したように言うと、自分自身を励ますように笑みを作る。
「むしろ、先輩に笑い飛ばしてもらえたら気が楽になると思います」
 それならば仕方ない。俺は頷こうとして――被っていたあの奇抜な帽子が傾かないよう、慌てて押さえた。
「わかった。お前がそうして欲しいなら、いざという時は笑ってやる」
「お願いします。軽いお芝居なので、先輩も軽い気持ちで楽しんでください」
「楽しめるといいが、結局はお前しか見ていなかったということになりそうだ」
 ストーリーは事前に学習済みだ。素人だらけの劇でそう斬新な演出があるとも思えないから、俺は彼女の出番にだけ注意して見ていればいいだろう。
 気がかりは、彼女が上がりすぎて台詞を忘れたりはしないか。長いスカートに足をもつれさせたりはしないか。その他、緊張のあまり失敗をしないかと気を揉むあまり、芝居そのものを楽しめるかどうか怪しいという点だ。彼女もしっかり練習はしたようだし、俺も雛子を信頼したいところだが、いかんせんこの緊張ぶりは目に余る。
 ここにいるうちに少しは気を落ち着けておくといい。そう思い、俺は自分が座っていた席の隣の椅子を引いた。雛子に座るよう促すと、彼女はすぐそれに従った。
 隣に腰を下ろした雛子の手を握ると、小刻みに震えていた。そして体温をどこかへ忘れてきたように冷たかった。余程緊張しているらしい。
「お前の方こそ楽しんでくるといい」
 俺は励ましのつもりで言葉をかける。
「そうします」
 雛子は顎を引こうとしたようだが、動きがぎくしゃくしていた。それがおかしくて俺が笑うと、彼女もつられたように微かに笑む。
「大丈夫だ。お前は意外と度胸があるからな」
「そう言ってもらえると、何だか頑張れそうな気がしてきます」
「頑張れ」
 もっと気の利いたことを言えればいいのだろうが、こんな時に思い浮かぶのは揃いも揃って陳腐な台詞ばかりだ。そんなもの、彼女なら他の人間からもとうに言い尽くされているだろうに。
 俺が言葉を探して黙っていると、雛子がふと、手を強く握り返してきた。白く小さな手が震えながらも、俺に掴まるようにしっかり力を込める。
 隣り合って座る距離から視線が絡まり、彼女がはにかむ。
「あの、あやかろうと思って……ほら、先輩は志望校の先輩でもありますから」
 先程、展示を見に来た中学生たちが雛子に握手を求めていた。何でも彼女たちは来年、東高校を受験するつもりでいるそうだ。在校生の先輩からご利益を得ようとしていたようだが、それよりも先にするべきことがあるだろうと俺は思う。
「ご利益を期待するより、勉強した方が手っ取り早いんじゃないか」
「身も蓋もないこと言わないでください。ご利益ありますよ、絶対」
 そう言って、彼女は繋いだ手にもう片方の手も添えてくる。両手で俺の手を包むようにしている。白い手から、いつしか震えがは止まっていた。
 俺は残念ながら彼女にご利益とやらを与えられるわけでもないし、こうして励ましてやる以上のことができるわけでもない。ステージへ向かう時はこの手を離さなくてはならず、俺にできるのはただ、客席から見守っていることだけだ。
「……こんな時ばかりは、馬鹿げたことを思ってしまうな」
 繋いだ手に視線を落とし、俺は思いの丈を口にする。
「俺もお前と一緒に、ステージに立てたら……いや、柄にもないか」
 言ってしまってから、あまりにそぐわない言葉のように思えて、つい首を捻ってしまう。
 あんなところに立ちたいと、今まで一度も思ったことはないのに。団結を強いる学校行事を疎み、鼻で笑ってきた俺が、そんなことを望むのはあまりにらしくない。
「一緒にお芝居がしたかったですか、先輩」
 雛子が興味深げに尋ねてきたので、俺は決然とかぶりを振った。
「いいや。見るのは構わんが、自分で何か演じたいとは露ほども思わない」
 あの体育館のステージは俺にとって、もう戻れない場所だった。いくら望んでも昔に戻れるはずがなく、壇上に上ることを許されることもない。俺はどうしても下から眺めているより他ないのだ。
 どちらにしても俺と雛子が共にあのステージに立つことはできない。俺たちの間にある二年の差が隔たりとなる。だから、戻りたいと思っているわけではないのだが。
「だが俺も、お前の支えになりたい。それだけの理由だ。馬鹿げているだろう」
 俺は彼女にそう告げた。
 雛子のいるところならたとえどんな場所であれ、一緒にいたいと思うようになっていた。そして彼女が不安に駆られた時は励ましてやれるように、彼女が悲しみに暮れる時は慰めてやれるように、傍で支えていたいと思った。
 理由はたったそれだけだ。
 彼女はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げて、教室の黒板の真上にある時計に目をやった。時計の針は十二時二十分を差していた。
 タイムリミットが近づいていた。
「先輩は、お腹空いてませんか?」
 気遣うように雛子が尋ねてくる。
 だから俺もできるだけ静かに答えた。
「お前が抜けたら何か食べに行く。それまでは傍にいる」
 ステージまで一緒に行けないのなら、せめてそれまでの時間は支えてやりたい。
 この校舎の中で、かつてないほど優しく、穏やかな気持ちになっていた。

 雛子が教室を出て行った後、入れ違いに有島だけが戻ってきた。
 手にはサンドイッチや紙パックを詰めてでこぼこになったビニール袋を提げており、コンビニに行ったらしいことが推察できた。
 ただ、一人で戻ってくるとは思わなかった。荒牧と一緒に行ったはずだが、しかし尋ねるまでもないかと思っていたら、有島の方から口を開いた。
「荒牧は中学の時の友達が来てるっていうんで、そっち行きました」
「……そうか」
「そうなんです。振られちゃいました」
 本気とも冗談ともつかない口調で言うと、有島は先程まで雛子が座っていた椅子に腰を下ろす。文集を再び開いていた俺の顔を覗き込むようにしながら、
「部長は? もう準備に行ったんですか?」
「ああ」
 俺が頷くと有島はこちらを真っ直ぐに見て、同情めいた笑みを浮かべる。
「そうですか。じゃあ俺ら、寂しい者同士ですね」
 奴の言葉を否定する必要はなかったが、だからと言って素直に頷くのも格好がつかない。黙って首を竦めると、有島はわかったような顔をしてビニール袋の中身をテーブルの上へ空けた。サンドイッチが二つにおにぎり三つ、紙パックのオレンジジュースが一本、ラーメンサラダにプリンにクリーム大福、そういったものが次々と転がり出てきて茶会のテーブルに並べられていく。マッドネスティーパーティの名にふさわしい混沌とした献立だった。
「鳴海先輩は飯、いいんですか?」
 オレンジジュースのパックにストローを差しながら有島が言った。
 俺は目の前に並んだ数々の食品だけで満腹感を覚え、かぶりを振った。
「後にする」
「え、大丈夫ですか? 劇の最中にお腹鳴ったりしません?」
「もうそれほど時間もないしな。時計を気にしながら食べるのも落ち着かない」
「ああ、それはありますね」
 何がおかしいのか有島は笑い、それからサンドイッチの包みを開く。中身はタマゴサンドのようだが、二切れ瞬時に平らげて、さっさとラーメンサラダに手を伸ばした。
「よく食べるんだな」
 雛子と言いこいつと言い、文芸部員は揃いも揃って健啖家らしい。もっとも、有島は適度に筋肉のついた少年らしい身体つきをしている。部活動とは別に何かスポーツでもやっているのかもしれない。それならこの食欲にも納得がいく。
 俺が感心していると、有島は割り箸片手に胸を反らした。
「そりゃあ、今朝はよく働きましたからね。もう聞いてくださいよ、部室からここまで全部運んだんですから、これ!」
 奴が指差した『これ』とは今この教室に並んでいる書き割り、テーブル、椅子その他であり、一階にある部室から三階のここまで全て運ぶのはさぞかし重労働だっただろうと推測できた。
 俺も手伝えればよかったのだが、さすがに開場前の入場はできない。正直、よく間に合わせたものだと思う。
「しかもうちの部、男手一人じゃないですか。部長も荒牧も繊手のお嬢様方だから無理させらんないし、本っ当大変でしたよ!」
 有島はそこまで語るとラーメンサラダを掻き混ぜて一気に啜り、全部飲み込んだ後で続けた。
「鳴海先輩がもう二年遅く卒業だったたらよかったんですけどね。そうすりゃ男二人で、俺も肩身狭いことないし」
 その言葉は図らずも、俺に先程の雛子とのやり取りを思い出させた。同じステージに立てたらと柄にもないことを思った記憶が蘇り、俺は曖昧に視線を逸らす。
 こちらの反応に有島が気づいた様子はない。しばらく黙って麺を啜っていた。
 それにしても、こいつはなぜわざわざ俺の隣に座ったのだろう。以前から思っていたが、妙に親しげな態度を取ってくる奴だと思う。それは大槻のような人懐っこさとはまた違い、まるで古くから見知った相手というようなそぶりに思えた。
 同じ高校、同じ部活動のOBと後輩という間柄では不審とも言い切れない態度ではあるのだが、なぜだろう。少し引っかかっている。
「そういえば先輩」
 有島の高い声が俺を思索から引き戻し、
「バイト、もう慣れました? 先輩ならもう船津さんよりばりばりやれてるんじゃないですか?」
 次の瞬間、考えていたことが全て吹っ飛んだ。
「……なぜ知ってる?」
 驚きのあまり尋ねると、有島はむしろその問いに仰天したという顔をした。
「え? 船津さん、何も言ってませんでした?」
「いや、特には――」
 と答えかけて俺は、先々月船津さんが言っていたことに思い当たる。
 確か、俺のことを知っていた客がいるという話だった。そいつはどうやら東の生徒らしく、しつこく聞かれたので名前だけ教えたと船津さんは言っていたが――もしや。
「もしかして、お前か。俺が働いているところを見たいなどと、酔狂なことを言った奴は」
 俺の問いに有島は全く悪びれることなく、むしろ満面の笑みを浮かべた。
「そうです。先輩の勤務日教えてっつったのに、すぐ忘れるんですよあのすっとこ店長」
 いろいろ聞きたいことは山ほどあったが、まず俺はこう尋ねた。
「お前、あの店にはよく行くのか?」
「たまにです。金が入った時だけ。船津さん、俺好みの変な本仕入れてくれるから」
 それも思い当たる節がある。船津さんが大分前に語った、得意の客向けの取り置き本――ディーンドライブ、ロズウェル事件、地底文明といったキーワードと、透明人間パニックホラーという作風がパズルピースのようにかちりと繋がった。
 世間は狭いというが、まさかこんな身近に常連客がいたとは。
「って言うか、前に会ったんですよあの店で。先輩は気づいてなかったかもしれませんけど」
 有島が更にそう続けた。おにぎりの包装を器用に剥がし、現われた三角形を三口で見事腹に収めてから、眉を顰める俺に試すような目を向けてくる。
「七月の終わり頃、俺が荒牧と船津さんの店行って、その帰り際です。俺たちが店出た時、ちょうど先輩が店の入り口に立ってて。先輩、茶髪の男の人と一緒でしたよね」
 頭の中で記憶が巻き戻る。
 時空ごと置き換わったように唐突に浮かび上がる七月の白い町並みの中、日差しに照らされながら立ち去っていく二人連れの後ろ姿を覚えている。少女の方はコスモスの茎のようにほっそりとした体躯をしており、そういえば髪は短かった。そして少年の方は中肉中背、自転車を押していて、去っていく途中でふとこちらを振り返ったはずだ。
 その時、訝しそうな顔をされたのを、
「思い出した」
 俺が唸ると有島は嬉しそうにオレンジジュースを啜った。
「その時です。俺、どっかで見たことある顔だなってついちら見しちゃったんですけど、そう言や鳴海先輩だって」
「よく、俺の顔を知ってたな」
「そりゃそうですよ。有名人だし、一昨年の文集には写真も載ってたし」
 有名、と言われると忌々しい気分になる。どうせいい意味で名が知れているわけではないのだ。
 俺が鼻を鳴らしたせいか、有島はあの時と同じ訝しそうな顔をしてみせた。
「俺のことを知っているなら、働いているところを見たいなどというのは随分な悪趣味だな」
 半ば咎めるように俺は言った。
 有島が瞬きをする。
「そうですかね? 俺はずっと、鳴海先輩とは一度じっくり喋ってみたいと思ってましたよ」
「文芸部員なら尚のこと、俺の評判くらいは聞いていただろう」
 有島たちが一年の頃、文芸部にはまだうるさい連中が残っていたはずだ。そいつらが俺の事実にほど近い悪評をばら撒いていないとは思えない。現にそれで雛子には、俺の卒業後も片身の狭い思いをさせたようだった。
 それを聞いた上で俺と話してみたいと思う奴がいたなら、それは雛子のような物好きか、そうでなければふざけた度胸試しのつもりなのだろう。
「……先輩は、UFOって信じます?」
 いきなり、有島がそう言った。
 思わず身構えたくなるような話題の転換だった。俺はぎょっとしたが、宗教の類の勧誘なら断ってやるつもりできっぱりと答えた。
「いいや」
 すると有島もにんまり笑う。
「俺もです」
 あっさり同意されてこちらの方が戸惑う。こいつは何が言いたいのか。
「けど、UFOって本気で信じてる人も結構いるじゃないですか。誰それが見たっていう話信じてたり、政府が隠してるだけだって言ったり、あるいは実際に自分の目で見たって言うけど証明できなかったり」
 有島は話しながらクリーム大福の袋に手を伸ばす。手のひらサイズの白い大福を口の中に放り込み、上手そうに目を細めてから続けた。
「俺にとっての先輩の評判って、UFOの噂みたいなものなんですよね」
 次にプリンの容器を手に取り、蓋を一気に剥がした。透明なスプーンの袋は膝の上で開け、卵の色をしたプリンをまるで採掘作業のようなペースで掬っては食べ、掬っては食べ――気がつけば卓上にあった食料は軒並み片づけられていた。
「UFOの存在をどんなに見たとか聞いたとかって言われてもなかなか信じられないように、俺も鳴海先輩のことは、誰が何と言ったって、直接会って話してみるまでわかんねえだろって思ってました」
 オカルト沙汰に例えられるのは不本意だったが、その言葉は少しの間、心の中に留まっていた。
 俺にまつわる悪評は全て自業自得と言えるものではあったが、しかしそれらに誰より囚われていたのも、俺自身だったのかもしれない。
「先輩の作品を初めて読んだのは、中三の時でした」
 プリンのカラメルを呷るように流し込んだ後、有島が言った。
「ちょうどその時も文化祭で、俺、受験するかもしれないからって見に来てたんです。部活は入るんだったらオカルト研かSF研がいいなって思ってたけどどっちもなくて、だったら文芸部かなって見学に来ました」
 一昨年、文芸部の展示は今年度とは比べものにならないほど寂れていた。見に来る者はほとんどなく、当の部員たちですら居着かない始末だった。俺がいる間に客が来た様子はなかったから、恐らくその時は会っていなかったのだろう。
「文集読ませてもらって、先輩の作品見てびっくりしたんです。高校生なのにこんなに真摯で、切羽詰まった話書く人いるんだって。こういう話を書く人は、きっとリアルでもいい加減な生き方はしていないだろうって思ったら、作者と話してみたくなったんです」
 作品と作者を同一視し、重ね合わせるのは決して正しいことではない。
 だが当時、俺は確かに切羽詰まっていた。高校時代は辛いことをひたすらやり過ごし、ただ時が経つのを待っていた。その中で自分自身の意思を保ち続けるのは容易なことではなかったが、雛子の存在が俺に唯一の明るい、光差す思い出をくれた。
 その思いが、綴った文章を通して、読んでくれた誰かに伝わることもあるのだろうか。
「入学してみたら当たり前ですけど先輩はもういなかったんで、ちょっとがっかりしました」
 有島は残りわずからしいオレンジジュースを音を立てて啜る。
「まあでも、こうしてお会いできたんで、部長には感謝しないといけませんね」
「変わった奴だ」
 率直に、俺は呟いた。
 しかし有島はそれが誉め言葉に聞こえたように、少し得意げな顔をする。
「ってことで、鳴海先輩。これもご縁ですし、俺と友達になってくれませんか?」
 俺は反応に迷った。
 こんなことを他人から言われたのは二度目だ。細部は違うが似通ったところのある連中ばかり、俺の前に現われるような気がする。
「とりあえずメルアドとか聞いてもいいですか」
 当たり前のように有島が携帯電話を取り出す。
 少しためらってから、俺も同じようにした。
「一つだけ頼みがある。雛子には、アルバイトを再開したことを言っていない」
 そして携帯電話を操作しながら、有島に打ち明けた。
「今後も秘密にしていてもらえないか」
「いいですけど……いいんですか?」
 有島が怪訝そうに瞬きをする。
 俺は溜息をつき、
「あいつは俺がまた働き出したと知ったら、必ず見に来たがる。受験生だということも二の次でな」
「何それすっげえ可愛い。部長って先輩の前だと恋する乙女ですよね」
 ぶはっと有島は豪快に吹き出す。
 それから少し慌てたように言い添えてきた。
「あ、普段が可愛くないってことじゃないですよ。ただ俺とか荒牧の前じゃ、部長はどっちかって言うと頼れるお姉さんって感じなんで」
 意外な評価だったが、同時に酷くほっとした。
「へえ……。あいつは、いい部長なんだな」
「もちろんです。荒牧なんてもうすごいんですよ、心酔しちゃって。あんな先輩になる! って一年の時から言ってるんです」
 その言葉は少しだけ、羨望を含んでいるように聞こえた。
「だから、初めて先輩と一緒にいる部長見た時、驚きました。もう目が違うって言うんですか。あんなにきらきらしてる部長、見たことなかったです」
 そんなに違うものなのだろうか。俺はいつも、俺と共にいる雛子ばかり見ているから、違うと言われてもどれほどの差異があるものか想像が湧かない。
「どうやったら、ああいうふうになるんだろう……」
 不意に、有島が呟いた。
 俺は時計を見る。随分話し込んでしまったのか、午後一時を回っていた。そろそろ体育館へ向かおうかと帽子を脱ぎ、テーブルの上へ置いた時だった。
「先輩!」
 有島が急に膝を詰めてきた。こちらを見る顔が必死の形相となり、俺は何事かと身を引いた。
「折り入って聞きたいことがあるんです。是非人生の先輩として熟練の技を伝授してください!」
「熟練の技……? 何の話だ」
 聞き返すと有島は背筋を伸ばし、改まった様子で言い放つ。
「ぶっちゃけ、どうすればああいう女の子といい雰囲気に持ち込めますか!?」
「はあ?」
 こちらの困惑も気にせず有島はまくし立ててきた。
「ほら、部長って真面目って言うか、それでいて少女趣味って言うか、とにかく鈍感そうじゃないですか。俺もちょうどそういう子に手こずっててですね、アドバイスが欲しいんです! どうすればいい雰囲気になってより親しくなれるのかっていう初歩的なテクニックから!」
 実際、雛子の勘の鈍さは否定しないが、それにしても。
「いつも仲良くはしてるんですよ。どこかに誘ってもついてきてくれるし……でも結局お互いの趣味の話とかしちゃって、いい雰囲気にならないうちに帰る時間みたいな……そういう状況を打破する何かが欲しいんです! 是非!」
 切々と訴えかけられたところで困る。そんなもの、俺だってまだ掴み切れてはいない。
 まして他人に助言する段階にあるはずはない。
「悪いが、そういう話は無理だ。俺では役立てそうにない」
 俺が丁重に断ると、愕然とされた。
「何でですか!? 先輩を手練れの恋愛玄人と見込んで相談してるんですよ!」
「誰が手練れだ!」
 それこそ直接話してみたなら容易にわかることだろうに、有島の目も我が事となれば曇ってしまうのだろうか。
 今でも、俺の方が知りたいくらいだ。

 そうこうしているうちに教室の戸口に誰かが飛び込んできて、
「鳴海先輩、まだここにいたんですか。早く行かないといい席なくなっちゃいますよ」
 荒牧が心配そうな声を立てたので、有島は椅子の上で飛び跳ねんばかりに驚いていた。
「うわっ、荒牧!? お前いつからここに!?」
「たった今だよ。有島くんに留守番してもらうから、お礼言ってからにしようと思って」
 短い髪を揺らしながら荒牧は言い、ちらりと俺に目をやる。
「そしたら先輩がまだここにいるんだもん、びっくりしちゃった」
「い、いや、それはな、俺が先輩とすっげえ大事な話してて時間も忘れちゃうくらいで……」
 これまでの立て板に水の勢いはどこへやら、有島はしどろもどろになっている。
 すると荒牧もどこか気遣わしげに、
「駄目だよ。鳴海先輩はまず部長に会いに来てるんだから」
「それはわかってるよ。てかこの話はもう済んだし、先輩も快い返事をくれたから大丈夫」
 有島も横目で俺を見る。意味はわからないが懇願の眼差しに見える。
 快い返事をした覚えはないが、先刻までのやり取りは胸にしまっておいてやろうと思った。
「さあ、先輩行ってください。私から有島くんによく言っておきますから」
 荒牧が苦笑気味に促してくる。
 俺は表情の選択に迷いながら頷いた。
「よろしく頼む」
 それから立ち上がり、教室を後にすると、背後からは荒牧と有島の会話が聞こえてきた。
「もう、有島くんは話し始めると止まらないんだから」
「そんなでもないだろ。今回はたまたま先輩と意気投合したからであって」
「いつもそうだよ。私といる時でも、気がついたらUFOとかお化けとか地底人の話始めてるし」
「それはほら、お前が聞きたがってんのかなって思ってさ……」
「聞きたがってない!」
「ってかお前も部長のステージ見に行くんだろ? ほ、ほら行けって早く!」
 あの二人はいつもこんな調子なのだろうか。
 雛子はあの二人といて何とも思わないのだろうか――いや、雛子なら気がつきもしないか。あの勘の鈍さだ。
 俺は何となくあてられた気分になって、雛子と早く話がしたいと、体育館へ向かううちから思っていた。
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