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日向の道を行く(3)

 文化祭の前日、雛子からメールが届いた。
 内容は文化祭当日の詳細についてだった。三日間の日程で行われる文化祭のうち、一日目は終日彼女に付き合うことを約束していたのだ。どうせ部の展示には顔を出すつもりでいたし、C組のステージ発表も初日にあるという。何より昨年度までとは違う文芸部の展示を、俺も見てみたかった。しかも雛子にとっては最後の文化祭でもあり、彼女は今年度いたく張り切っているようだから、それを見届けてやりたいと思っていた。
 メールには文集の製本が終わったという報告と共に、当日俺に着てきて欲しいという服装が列挙されていた。それによれば帽子に似合うような服装にして欲しいとのことで、上は襟付きのシャツ、色はモノトーンが望ましいそうだ。下はジーンズではないものがいいらしく、ダークカラーの、できれば黒のズボンがいいと記されている。いやに注文が細かい。
 雛子もそう思ったのか、メールの文末には『細かくてすみません』と詫びの言葉が記されていた。しかし彼女が謝るべきなのは細部に及ぶその注文よりも、俺の服装に注文をつけてくるその理由を今の今まで伏せている点についてだろう。こんな騙し討ちのようなやり方をしてまで俺に仮装をさせたいのだろうか。理解できない。
 だが俺も、騙し討ちではなく真正面から頼まれたなら素直に了承はできなかっただろう。雛子のやり方はある意味、俺をよく理解した上での策と言えた。
 そして俺自身、今回の文化祭で行われるという仮装には複雑な思いを抱いていた。
 仮装をしたいかしたくないかで言えば、はっきり言ってしたくない。自分に似合うとは到底思えない上、物語の人物を模した服装をすることの何が楽しいのかわからないからだ。
 だが雛子は仮装の話をする度に随分楽しそうにしていたし、俺にも参加して欲しがっている。彼女が楽しそうにしているところを間近で眺めたいというなら、多少の犠牲もやむなしかとは思う。俺が磨り減らすのはつまらないプライドと羞恥心くらいのもので、それで彼女の笑顔が手に入るのなら惜しむようなものでもない。
 更に言うなら俺は今、雛子の写真が欲しいと思っていた。

 俺が持っている唯一の彼女の写真は、机の引き出しの奥に保管されている。間違っても本人の目につかないよう、引き出しを開けただけでは見つからないようにしまってある。
 一人きりの時、たまに取り出しては眺めているが、近頃は写真の彼女がいささか幼く感じられるようになっていた。
 それもそのはず、この写真は雛子が高校一年の時に撮影されたものだった。当時の文芸部では文集に部員の顔写真を載せるという風習があり、一人ひとりを壁際に立たせてカメラで撮った。そうやって用意したものだからだろう、写真の中の雛子の表情は硬く、目を凝らして検分すればようやくごくわずかに笑んでいるとわかる程度の微笑を浮かべていた。
 当時三年生だった俺は最高学年として文集の編集に携わっていた。全ての作業が終了した後、撮影した写真は本人に持ち帰らせるか処分ということになっていたが、俺は――雛子の写真だけを本人には渡さず、自分で持ち帰ってしまった。
 どうしてそんなことをしたのか、わかっているようでわかっていなかった。俺と話をする時のあの控えめな笑顔が上手く撮れていたから、その顔が気に入っていたからというのが理由なのだろうが、根底にある感情が何なのかは瞭然としていた。だがそれでも、今となってはわかりやすい行動原理だったとしても、当時の俺はそれをきちんと理解できていなかった。
 この話を、雛子にしたことはない。いつかは話そうと思っているが、それも春が来てからでいいだろう。彼女がどう思うにせよ、この手の思い出話が受験勉強の妨げになるようでは困るからだ。
 ただ、ここ二年間出会った頃と何ら変化のない顔立ちに見えていた雛子が、最近になって少しずつではあるが大人びてきたように思えていた。写真に閉じ込められた二年前の彼女を見ているうち、今の彼女の写真が欲しいという思いが募り始めていた。
 今年度の文化祭では物珍しい格好もするようだし、それに託けて写真を撮るのもいいかもしれない。
 その為にはやはり多少の犠牲もやむを得まい。彼女が喜んで写真を撮らせてくれるよう、俺も少しは便乗してふざけた格好をしておかなければならないだろう。
 それで彼女がお祭りらしく浮かれてくれて、写真くらい別にいいと言ってくれるなら安いものだ。

 文化祭初日は見事なまでの秋晴れだった。
 俺は開場に間に合うように部屋を出て、東高校までの道を一人で歩いた。途中の道からぽつぽつと、他校生と思しき集団や制服を着た中学生たち、それに親子連れなどが現われて、秋の日差しの下を連なって歩いた。
 校舎が見えてくる頃になると生徒玄関前にできた行列も見えるようになり、俺はその最後列に並んだ。するとすぐ後ろに見知らぬ誰かが並び、ものの数分で最後尾は遥か後方へと延びた。
 東高校の文化祭は、恐らく日本全国どこの高校でもやるようなごく普通の、特に捻りもない文化祭だった。部活動の展示や発表があり、ジャンクフードだらけの模擬店があり、校内を一般開放して近隣住民も広く招き入れている。吹奏楽部が多少有名らしいことと、二日目に地元バンドのライブを行うらしいことくらいが目玉で、あとは物珍しさなど皆無の学校行事だ。生徒父兄やOBたちならまだしも、こうして行列ができるほど人が集まるのがいつも不思議でならない。
 手持ち無沙汰で視線を転じれば、校庭にはいくつかの屋台が並んでいる。運動部が鉄板を使った焼き物の屋台を出すのも毎年恒例らしく、肉の焼ける匂いと目に染みるような煙が辺りに漂い始めていた。校舎の屋上からは数本のカラフルな垂れ幕が下がり、模擬店や部活動の展示について宣伝をしている。文芸部の垂れ幕がないのも毎年恒例だ。どうせ宣伝したところで、お祭り好きの連中があんな地味な展示に目を向けてくれるはずもない。
 やがてどこかで花火が鳴り、文化祭の開始を知らせる校内放送が入る。
 すると生徒玄関のガラス戸が軋む音を立てながら開けられて、行列はゆっくりと校内へ呑み込まれていく。土足で上がることを許された校内の廊下にはチラシの束を手にした各クラス代表が待ち構えていて、列を成す来校者たちに押しつけるようにして渡していく。そうやってチラシを配る奴、正直にに受け取る奴、傍迷惑にも一旦立ち止まって文面を読もうとする奴のせいで軽く渋滞する廊下をどうにかすり抜け、俺は階段を上がって校舎の三階を目指す。いかに部員三名の文芸部と言えど、あの狭い部室ではまともな展示もできるはずがない。今年度は三階の空き教室を借りると雛子が言っていた。
 三階の廊下はまだ人影疎らだったが、各教室の入り口には手書きの看板が並び、客引きの役目を担う生徒が早くも声を張り上げ始めている。どこかから食べ物の匂いが漂ってくる。甘いバニラの匂いと溶け出したバターの匂い、それにソースの焦げる匂いが古い校舎の空気を乗っ取り、一新していく。潮騒のようなざわめきはまだ遠くにあったが、これが校内全体を埋め尽くすのも時間の問題だろう。

 目的の空き教室まで辿り着くと、俺は一旦立ち止まった。
 本来なら教室の戸口であるべき場所に、妙な代物が飾られていたからだ。
 いや、飾ってあると言っていいものか――開放されたドアの上部三十センチほどを覆うようにして垂れ下がっているのは、弁当に入っているバランのような緑色の紙だ。それこそ草のつもりなのか細かく裂かれて風に揺れており、緑色の暖簾のようにも見えた。
 戸口の横には小さな立て看板があり、ベストを着た二足歩行をする白いうさぎの絵が描かれていた。その隣には申し訳程度の小さな字で『文芸部』と記されていたが、果たして何人の客がこの記述を見落とすことだろう。あるいはそれも客を呼び込む為の作戦なのだろうか。
 俺が手前で足を止めていると、やがて誰かが気づいたようだ。
 駆け寄ってくる足音と共に、
「先輩! 来てくれてありがとうございます!」
 雛子の声がしたので、俺も戸口とそこから垂れ下がる緑の暖簾をくぐった。
 中に入って真っ先に目についたのは、受付と思しき長方形の折り畳みテーブルだ。なぜか四本の脚のうち一本だけに、覆い隠すように紙が巻きつけてある。テーブルの上にはアンティークのような金色の鍵と茶色い小瓶が置かれていて、瓶の方には『私を飲んで』と書かれたラベルが貼られていた。
 これはどういうことかと思案するより早く、俺の傍に雛子が近づいてきたようだ。気配でわかった。
 尋ねたいことはいくつかある。俺は顔を彼女へ向け、口を開こうとして、視界に飛び込んできたその姿に思わず釘付けとなった。
 雛子は髪型を変えていた。恐らくはドレスに合わせたのだろう。長い髪を頭の後ろでまとめ上げたその髪型は、彼女の頭の形と輪郭がよりはっきりとわかるようだった。こうして見ると彼女は頭の形がとてもよく、こめかみから頬、そして顎にかけてのラインがより美しく見えた。いつもは真っ直ぐに下ろしている前髪もやや左寄りに分けており、普段は隠れている白い額が晒されて、眩しく思えた。
 大人びて見える髪型の一方で、彼女はやはり眼鏡をかけていた。その銀色のテンプルを乗せた小さな耳には、白い貝殻のイヤリングが揺れている。頭の上には厚紙で作ったティアラを載せていた。
「その髪型……」
 俺が呆然と呟くと、雛子は照れたようにまとめた髪を手のひらで撫でた。
「今日は、ちょっと違う感じにしてみたんです。ドレスに合うように」
 そう言って微笑む彼女に、俺は迂闊にもどぎまぎしていた。
 髪型一つで人間はこうも変わるものなのだろうか。
「よく似合う。そういうのも悪くないな」
 俺は月並みな誉め言葉を口にした。それ以上のことを言うだけの余裕はなかった。
「あ……その、ありがとうございます。先輩に誉めてもらえて嬉しいです」
 雛子はもじもじと礼を言いながら俯く。その恥ずかしがる態度と口調はいつもと変わりのない雛子だった。
 それから俺は下を向いた彼女の視線を追うように、彼女の着ているものに目を向ける。少々濃い目のピンクのブラウスと、それよりは大分優しく柔らかいピンク色をした、靴まで隠れるような長いスカートを身に着けている。ブラウスの方は彼女がよく着ているような丸くふくらんだ袖をしていたが、生地にはてかてかと安っぽい光沢があり、いかにも舞台衣装という風情だった。更に襟元には白いレースの立襟が巻きつけられており、裾には黒いハートの模様がピンで留められているようだ。
「しかし、その衣裳は何だ?」
 疑問を持ったので俺は尋ねた。
 すると雛子はどこか得意そうな顔つきになり、衣裳がよく見えるように両手を広げてみせる。
「何に見えますか?」
「何って、シンデレラの義姉じゃないのか。そう聞いていた」
 舞踏会に出る服装には見えないから、これは序盤、シンデレラを苛めている場面で着ている服なのかと思う。
 だがそれにしてはハートの模様が気になるし、立襟の高貴な存在感も妙だ。
 何よりもこの教室に入ってくるときに見た緑の暖簾や三本脚の受付テーブル、鍵や小瓶の存在を踏まえるに――。
「いいえ、違うんです。ここにいる間は私、ハートの女王なんです」
 雛子が胸を張ったので、俺もいたく腑に落ちた。
「……ああ、それでか」
 以前話していた通り、文芸部としての仮装テーマは不思議の国のアリスに決定してしまったらしい。
 それで今日室内を見回せば、そこには手作りの不思議の国が広がっていた。先日部室を訪ねた時に見かけた派手なキノコや森の木々、うさぎの耳の煙突を持った毛皮葺きの家の書き割りがそこかしこに置かれていた。教室の中央には白いクロスをかけたテーブルがあり、ティーポット型の花瓶には小さなバラが生けてある。その傍らには頭のてっぺんでリボンを結び、水色のワンピースと白いエプロンを着て微笑む荒牧と、うさぎの耳を頭に乗せて居心地悪そうにしているワイシャツにベスト姿の有島がそれぞれ突っ立っている。二人の表情は対照的で、荒牧は雛子と同様に今が楽しくてしょうがないという顔をしている。一方、有島はこちらへ助けを乞うような、むしろ哀れみ返してくるような眼差しを送ってきた。
 つまり、だから『帽子の似合う服装』ということか。
 大方の事情は察したところで、俺は雛子に視線を戻す。
 ハートの女王とするにはあまりにも威厳に欠ける、穏やかな笑みが彼女の口元に浮かんでいる。どうやら化粧もしているらしく、唇はいつもより赤く、瑞々しい果実のように艶があった。
「お前はどちらにしても悪役か」
 どちらにしても不似合いな役柄に思えたが、俺の言葉に雛子はむしろ嬉しそうにしてみせる。
「そうです。どうせなら極めてみようと思って」
「それなら劇の方も楽しみにしていよう。そちらは何時からだ」
「C組は、午後一時半からです」
「わかった」
 俺は頷く。雛子はそれよりも早くクラスへ戻ってしまうだろうから、俺も時間になったら忘れず体育館へ向かわなくては。
 本日の予定を確認したところで、後輩二人がこちらへ近づいてきた。何気なくそちらを向いた俺は、二人がどこからか取り出し、運んできた帽子を見て驚愕した。
 明らかに安物とわかる黒いシルクハットに、数多ある緑の中でもなぜその色を選んだと尋ねたくなるほどどぎつい緑のリボンが巻きつけられている。それでいてつばの上で揺れる羽飾りはこれまた鮮やかな赤と紫、どちらも身体に悪そうな色をしている。色彩のバランスというものを全く考えていない帽子に駄目押しのようにガラス製のピンを幾本も刺し込み、『十シリング六ペンス』と記された値札を貼りつけている。こんなものを被って歩くのは正気の沙汰ではないだろう。
 うすぼんやりとした予感が確信に変わる。
「鳴海先輩! これ、先輩の為に作りました!」
 有島が半ば自棄になったように声を張り上げ、後に続く荒牧が頭を下げてきた。
「部長から聞きました。今日はご協力いただけるそうで、本当にありがとうございます」
 協力するとは言っていない。
 いや、今朝の時点では協力してもいいか、という程度には考えていた。
 しかしながらたった今、その思いに迷いが生じた。
「……この帽子を、俺に被れと言うのか」
 二人が差し出してきた帽子に、俺は手も伸ばせずにいた。見ているだけで満腹だと言いたかった。俺は雛子に頼まれた通り襟付きのシャツを着て、更にジャケットを羽織ってきたが、今となってはこんな帽子に似合うシャツも上着もあるものかと思う。
 だが有島の目つきからは何としてでも巻き込んでやろうという強い意思が感じられたし、荒牧に至っては俺が被らないとは露とも思っていないそぶりだ。
 そして雛子は後輩たちの隣で、上目遣いに俺を見ている。目が合うとねだるように言われた。
「是非お願いします。先輩には、帽子屋さんがとても似合うと思います」
 熱っぽい口調で太鼓判を押されたが、果たして喜んでいいのだろうか。
「似合うようには思えんが……」
 俺は首を捻る。この壊滅的な帽子のデザインにはすっかり圧倒されていた。
 その上、役柄が帽子屋と来ている。アリスの世界にはたくさんの登場人物がいるというのに、なぜ俺が帽子屋で、彼女はハートの女王なのか。帽子屋と言えばよりにもよって女王に死刑の宣告を食らった役どころではないか。俺もアリスは読んだことがあるから、そのくらいは知っている。
 当然のように雛子も読んだことがあるはずだ。海外の児童文学は彼女の最も好むジャンルであり、その中でも定番と言えるこの作品を未読とは考えにくい。
 つまり彼女は帽子屋の役どころを知った上で、俺にこの帽子を勧めているのだろう。どういう意図だ。
「先輩ならきっと大丈夫です」
 雛子は無邪気な笑顔で背を押してくる。
「簡単に言ってくれるな」
 こちらはまだ抵抗があったが、しかし一度被ってみれば似合っているはずがないとわかるだろう。そう思って帽子を被ってやることにした。
 受け取った帽子は思ったよりも軽く、少し振った程度ではリボンも羽飾りも値札も外れそうになかった。観念して、中を覗いてから頭に乗せる。前髪はどうすべきか迷ったが、上げずにそのまま被ることにした。
 つばをつまんで傾きを直すと、そこで雛子の表情がぱっと明るくなる。期待通りだとその顔に書いてあった。
「すごく似合います、先輩」
「そうだろうか」
 いかに雛子の言葉と言えど、鵜呑みにはできない。帽子を被り慣れていないせいもあるだろうが、つばの上でひらひらと揺れるリボンの端や羽飾りが視界に入る度、少し煩わしく感じた。ただその派手さは被っている限りではそれほど気にならない。代わりにこれから、さぞかし人目が気になるだろうが。
「もちろんです」
 雛子は信じて欲しそうに顎を引き、それからまた上目遣いになる。
「是非後で、写真を撮らせてください」
「……嫌だ。記録に残しておいたら、後々からかいの種になりそうだ」
 さすがにこの姿を写真に残したいとは思わない。後で鏡を見てみようか、それともあえて見ずに被り続けていた方が精神衛生上いいだろうか、悩むところだ。
「それにお前が女王で、俺は帽子屋という配役も微妙に気に入らん」
 俺がその点に触れると、雛子は意外そうに目を丸くした。
「あ、そういうの気にするんですか……」
 別に仮装でまで彼女と並び立ちたいとは言わないが、それにしても意味深長な配役ではないだろうか。物語の中で帽子屋は、ハートの女王に『きらきらこうもり』の歌を捧げて不興を買い、死刑判決を受けるのである。
 もっとも今更文句を言える段階ではないし、仮装ごときにむきになっていると思われるのも恥ずかしい。
 何より、死刑が嫌ならまともな歌でも捧げて、彼女を唸らせればいいだけの話だ。
「まあいい。黙って座っているだけでいいなら、しばらくは被っておいてやる」
 俺は結局、その帽子と与えられた役柄を受け入れた。今年度の展示はあくまで文集や掲示された作品がメインであり、仮装はおまけのようなものだから、たとえ愛想のない帽子屋が茶会の席で読書に耽っていようと咎められることはないだろう。
 ひとまずはクロスの敷かれた席に着き、卓上にちらりと目をやる。花瓶の傍には今年度の文集がまるでごちそうのように、皿に載せられ置かれていた。寄稿の謝礼として俺にも一冊いただけるそうだが、こうして目にするのは初めてで、何とも言えない気分になる。
 この文芸部との縁はすっかり切れたものだと思っていたのに、不思議なものだ。まさか卒業後に寄稿をして、あまつさえ仮装などという在学中でさえしなかったことに手を染める日がやってくるとは。

 ふと気づくと、雛子がこちらを見ていた。
 例によって女王らしさは皆無の顔つきに、今はぼんやりと気の抜けたような表情が浮かんでいる。せっかく髪型を大人っぽく仕上げたというのに、今の顔はまるで子供のようだった。
 それが奇妙なことに俺に見とれているのだと気づいた時、俺は面映さから口元を緩めかけ、慌てて引き締めた。
 物好きだと前から思っていたが、雛子のセンスはやはり風変わりなのかもしれない。
 そろそろ三階の廊下も客が入り、騒がしくなってきた。有島たちがその廊下を覗きに行った隙に、俺は雛子を手招きで呼んだ。
 彼女は長いスカートを閃かせ、つかつかとこちらへ歩いてきた。傍まで来たところで俺は彼女の腕を掴んで、その身体を引き寄せる。身を屈めた彼女の耳に素早く囁いておく。
「交換条件だ」
「……何がですか」
 雛子はぴんと来ていないらしい声で聞き返してくる。
「写真。俺はお前のが欲しい」
 俺がそう続けると、雛子ははっとなって固まり、化粧を施した顔を瞬く間に赤らめた。髪を後ろでまとめているせいで頬の赤さは隠しようもなく、ますます女王らしさも悪役らしさもない可愛らしい顔になる。
「今年で最後だ。いい記念になりそうだからな」
 俺も彼女の前では笑みを隠さず、きっぱりと言い切った。

 やがてこの教室にもちらほらと来客がやってきた。
 メルヘンな書き割りに惹かれたらしい子供たちや、仮装を面白がる中学生といった低年齢層がメインではあったが、それでも例年の展示に比べれば驚くほど受けがよく、客入りも格段によかった。文芸部の展示だと知らずに入ってきた人間がほとんどだったことにはこの際目をつむろう。
 人を呼ぶという観点からいけば、今年度の試みはまずまず順調と言えた。
「今年はやけに騒がしいな」
 俺は茶会の席に座ったまま、雛子から進呈された文集に早速目を通そうとしていた。だが来客は俺の傍にまで近寄ってきてはしげしげと眺めてくるものだから、ちっとも読書に集中できないのだった。一度、中学生の集団に写真を撮らせてくれと言われた時はぎょっとしたものだ。もちろん、雛子がやんわり断ってくれたおかげで事なきを得た。
 人が来るのはいいが、本来の文芸部の活動内容である創作について、じっくり触れられるような環境にないのはどうなのだろう。
「お祭りっていうのは、本来こういうものですから」
 俺のぼやきを聞きつけた雛子が、そんなふうに言ってきた。
 そういうものか、と俺は肩を竦める。すると被っていた帽子が傾いでずれたので、あわててつばを持ち上げながら続けた。
「これがお前の望んだ文化祭というわけか。意外だったな」
 教室の戸口では有島と荒牧が、友人と思しき数人と何かお喋りに興じている。どうやら有島はその格好を友人にからかわれているらしく、むきになったように声を上げるのを荒牧に宥められているようだ。しかし有島が何か言う度に頭上のうさぎの耳が揺れるので、友人たちは一層笑い、その賑々しい声がここまで聞こえてくる。
 こんな光景、去年までならまずありえなかっただろう。
「賑やかなのもたまにはいいですよね」
 雛子が目を細めたので、俺はその顔をちらりとだけ見た。
「お前が楽しんでいるならそれはいい。ただ……」
「何ですか?」
「写真撮影は断ってくれ。自分の写真が他人の手に渡ると思うと、いい気分がしない」
 先程訪ねてきた中学生たちは、どういうわけか俺たちの写真を撮りたがった。
 俺からすれば見知らぬ他人の写真を持ちたいとは思いもしないし、見知らぬ他人に写真を撮らせてくれと頼まれたところで到底受け入れがたい。悪用されたら堪ったものではないからだ。
 だが俺も雛子の写真を無断で持ち帰ったことがあるので、あまり他人の事は言えない。もちろん俺は悪用したわけでは決してないが、彼女に断りもなく自分のものにしたのは確かだ。
 だからこそ今年は、彼女の許可を得て彼女の写真を撮りたい。
「私もその方が安心できます。他の子が先輩の写真持ってたら、ちょっと複雑ですから」
 そう言って、雛子が照れ笑いを浮かべる。
 その言葉には共感を覚えたが、同時に『ちょっと複雑』という物言いが引っかかった。
「ちょっと、で済むのか」
 俺ならちょっとでは済まない。そう思って尋ねると、雛子はぎくりとしたように笑みを消し、おずおずと答えた。
「え……いえ、それはもう正直なところを言えばものすごく……です」
 言いにくそうにしながらも、ものすごく、という辺りを強調してみせる。
 恐らく雛子も、やきもちを恥ずかしい、みっともないものだと認識しているのだろう。もちろんそれはなければないに越したことのない感情だ。あっても邪魔なだけだと思うことも多々ある。
 しかしそれも、彼女に示されると妙に甘く、幸せなものに思えてくる。
「そうか、よかった。俺も同じだ」
 ほっとした俺は読みかけの文集に視線を戻し、しおりを挟んでいたページを開く。
 そして傍らの雛子がいかにも恥じ入るように俯いているのをちらと見て、文集に目を置いたまま告げた。
「しかし、こういう言い方をするとお前に失礼かもしれないが――お前にやきもちを焼かれるというのも、悪い気はしないな」
「先輩!? 何を言うんですか!」
 たちまち雛子が尖った声を上げ、そのせいで戸口にいた有島たちが驚いたように一斉に振り返った。
 雛子は慌てて両手を振り、何でもないと示してみせる。
 俺はその反応を怪訝に思う。
「これもお互い様というやつじゃないのか。俺はそう捉えていたんだが」
「な、何がですか」
「いつも俺が妬く側だったからな。お前がどう思っているか、気になっていた」
 俺はどうやら雛子のことにかけては相当に嫉妬深い質で、独占欲も強いようだ。彼女が他の男と話しているだけで気になる。他の男の目が向いていると思うと腹立たしい。なるべくならそういうものを寄せつけないよう、ずっと俺の傍へ置いておきたいとさえ思う。嫉妬という感情はどす黒く重たいもので、冷静になってから振り返った時に自分自身で不安になることさえある。こんな重い感情を抱えていてもいいのかと。
 だがそれもお互い様だというなら、同じように彼女も俺がどこぞの女と話したり、視線を向けられていると気になるというのなら、嫉妬というのも案外と真っ当な、誰にでもあるような感情ではないかと思えてくるのだ。
 彼女を通して学んだことはたくさんある。俺が今まで自分自身で認めがたかったありとあらゆる醜い感情すら、雛子がいれば正しく理解し、受け止められるような気がしてならない。
 そうは言っても、彼女にやきもちだけ焼かせて喜んでいるようでは人間として最低だ。
「さっき、交換条件だと言ったな」
 俺は文集を見つめたまま、なるべく優しく彼女に言った。
「そういうことだ。お前が不安がる必要はどこにもない」
 俺は雛子の写真が欲しい。そして俺の写真は、彼女にだけ持っていてもらいたい。
 現在の俺たちはそれが許される関係だと思っている。
 雛子は黙っていたが、今度は静かな表情で俺を見ていた。安らぎを得たようなその顔を見て、俺も更にいい気分になる。
 やきもちを焼かれるのも悪くはないが、こうして通じ合っている方がより幸せなものだ。
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