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笑いある日々(4)

 雛子に会いに行こう。
 電話をした翌日にはそう考えていた。
 考えるだけなら昨夜のうちから既に考えていた。彼女に会いたいと思っていたのはもっと、随分前からだ。だが明確に意思をもって予定を決めたのはまさに今日のことだった。大学に出て、四限の授業が休講だと知った瞬間に思いついた。
 長い夏休み明けに休講が多発するのはうちの大学でもよくあることだ。だから思いつきに対する巡りあわせだなどと思い込むのは早計だろう。だが昨夜雛子が言った『縁』というものを俺がわずかにでも意識しなかったかと言えば嘘になる。背中を押された気になったことは確かだった。

 彼女に会うには高校へ出向くのが手っ取り早い。
 だがそれには問題があり、文化祭を再来月に控えたこの時期、文化系クラブはどこも帰宅時間ぎりぎりまで居残りをして練習なり、展示への準備なりをするのが通例だった。もちろん文芸部も例外ではなく、彼女は帰宅時間の午後六時まであの図書室横の部室にいることだろう。
 だからと言って、部室まで雛子を訪ねていくのもどうかと思う。事前にアポを取っているならまだしもそうではなく、おまけに部室には彼女の後輩たちも確実にいるはずだった。俺としては、彼女と会っているところに他人が居合わせるのは気まずいし、後輩たちの方も見ず知らずのOBがいきなり部室に押しかけてきては居心地が悪いだろう。なのでそれはせず、雛子の帰宅する頃合いを見計らって母校へ出向くことにしようと決めた。
 となると少々時間が余る。三時限目が終わるのは午後二時過ぎだから、夕方まで時間を潰さなくてはならない。だが図書館に寄ったところで読書に集中できるとは思えず、書店に立ち寄るのも同じことだ。一度家に帰ると決心が鈍りそうな気もした。
 そこで一旦駅前まで足を伸ばし、『古本の船津』を訪ねてみることにした。

 駅前のアーケード街は午後になるといくらか人出が増える。この日も買い物なり、散策なりを楽しむ人間をちらほら見かけた。九月も半ばを過ぎたというのに依然として日差しは強く、意固地な残暑を肌で感じている。
 ただ『古本の船津』の前は至って静かで客の気配もなかった。店の前に並んだスチール棚が日を照り返して鈍く光り、そこかしこから古い本の匂いを漂わせている。開け放たれたガラス戸の奥は時が止まったように何の動きもなく、入り口に立って中を覗くと、くっきりとした俺の影が店内に伸びてすぐ手前の本棚に差しかかった。
「こんにちは」
 声をかけてみる。
 すぐには屋内に慣れない目が、店の奥の小さなカウンター内でのっそり動く人影を捉えた。
「……いらっしゃい」
 どこか気だるそうな船津さんの声がして、俺が店内に入り近づいていくと、薄暗がりの中で目を見開く顔が見えた。
「おお! 久し振りだなお前。鳴海くん、の方だっけ」
「そうです。ご無沙汰しております」
 俺が頭を下げると、船津さんは手にしていたビール会社の団扇を軽く振る。
「そういうのいいって。相変わらず堅苦しいなあ、お前は」
 かく言う船津さんも実に相変わらずなようだった。不健康そうだが元気そうでもある顔には今日も無精ひげがあり、髪の色が途中まで黒、毛先だけ金という二層構造なのも以前と同じだ。そして今日も襟元が伸びきったタンクトップを着ており、ここからでは見えないが足元は恐らくビーチサンダルだろうと推測できた。
「今日はお前一人? あのちっちゃい相方はどうしてる?」
 船津さんが大槻について尋ねてきたので、俺はすぐに答えた。
「元気でいますよ。ただ大槻は、楽団の練習でしばらくは忙しいそうで」
「楽団? へえ、あいつそういうのやってんのか。見かけによらねえなあ」
 意外そうに船津さんは唸り、俺も内心でその驚きに同意する。
 あの軽薄そうな男に吹奏楽をやっていると初めて聞かされた時は、正直あまり似合わない気がしたものだ。何度か演奏している姿を見た今ではさすがに、似合わないとは断じて思わないが。
「で、お前は一人でバイトに来たってとこか?」
 船津さんがにやりとした。
 俺は店内の様子をあえて見ないようにしながら、正直に応じた。
「先生から船津さんのことを伺って、一度ご挨拶に行かねばと思っていたんです」
「仙人からか。こないだ店に来てったから、お前らの話もしたんだよ」
 思い返すように、船津さんは首を捻った。その時、関節の鳴るぼきりという音が随分大きく響いた。
「で、そん時言っといたんだ。お前らがよく働いてくれたから助かったって。できればまた雇いたい、ってな」
「お褒めにあずかり光栄です」
 俺は丁寧に応じたが、本音半分の返答でもあった。
 また雇いたいと思ってもらえるのは嬉しいことだ。しかし本来はこの人が一人で営む店なのだし、余計な人件費を割かずに済むならその方がいいのではないだろうか。それにこちらも夏休みが終わり、後期の授業が始まっている。以前のようにアルバイトに通い詰めるほどの余裕はない。
「お店の方はいかがですか?」
 ひとまず様子を窺うべく、俺はそう尋ねた。
「うん、まあ、こんな感じなんだけどな」
 船津さんが団扇で店内を指し示す。
 それで俺も覚悟を決めて、一ヶ月半ぶりの店内を見渡してみたが――思ったよりは酷くない、というのが真っ先に浮かんだ印象だった。
 以前のように解かれてもいない本が床に積まれていることもなく、本棚の中で横倒しになっていることもない。棚のところどころに歯抜けのような空きができていることと、そうしてできた隙間に詰め込んだと思われるジャンル違いの本がいくつか目についたことを除けば、俺たちがアルバイトを終えた直後とそう変わりはない。思っていたほどではなかった。
「きれいなままですね」
 意外と、という言葉は呑み込み俺は言った。
 船津さんが薄い胸を反らす。
「だろ? 俺もやればできるんだっての」
「でもこれだけ整っているのなら、アルバイトを雇う必要がないのでは?」
「いや、それがなあ……」
 そこで船津さんは、根元の黒い髪にがりがりと爪を立て苦笑する。
「店内はまだきれいにしてるけど、家ん中には早くも在庫が溜まりつつあってな……」
 さすがに何もかも整頓されたままとはいかなかったようだ。ある意味予想通りではあったので、俺は驚かずに内心で嘆息する。
 大槻も案じていたが、この店の経営は今のままで大丈夫なのだろうか。
「以前ほど長い期間じゃなくていいから、今月か来月のうちにまた来てくんねえかな。頼むよ、バイト代弾むから!」
 船津さんに両手を合わせて頼み込まれ、俺は肩を竦めた。
「即答はできませんが、考えておきます。今は授業もありますし……日曜日なら出てくることはできますが」
 授業はもちろんのことだがゼミ選考に備える時期でもあるし、雛子から頼まれた寄稿の件もある。それらを差し引くとアルバイトをする為の時間は、せいぜい休日くらいしか残りそうにない。
「今日は?」
「今日!? い、今からですか?」
 さらりと船津さんが尋ねてきたので、思わず声が上擦った。家の中にあるという在庫の量がいかほどか、想像もつかない。
「その、今日は夕方から用事があるんです」
 大槻の言った通りだったな、と今更のように思いながら、俺は続けた。
「なので、あと二時間くらいならお手伝いはできますが」
 途端に船津さんが表情を明るくする。
「お、いいのか? いやあ助かるな。二時間ならとりあえず、空いた棚の整頓から頼もうかな」
 期せずして俺は雛子に会いに行くまでの時間を潰す、格好の手段にありつけた。
 以前から大槻にも指摘されていたことだが、俺はこの店で働くのは嫌ではない。古い本の匂いの素晴らしさは言うに及ばず、棚に本を収める作業は上手く収まればすっきりするし、整列する本を眺めるのも気分がいいものだ。本棚に無秩序に納められていた新顔に目を通すのも心が躍った。店の奥、居住スペースに無造作に積まれた新しい在庫の量には一瞬困惑したが、これもいつか全てに手をつけられたらと思いつつ、まずは空いた棚をきれいに埋めることに尽力した。
 俺が店内の整頓をしている間、船津さんはレジカウンターで帳簿らしきものをつけていた。
 だが、ふとその手を止め、
「鳴海……そうだ、お前、鳴海なんだよな」
 と口を開いた。
 俺はカウンター前の本棚を片づけながら返事をする。
「そうです」
「なあ、お前って東の卒業生なんだろ」
 船津さんの口から母校の名前が飛び出したので、俺は思わず顔をそちらへ向けた。
 日が暮れかけた店内には早くも照明が灯り、船津さんの笑顔を照らしている。その顔は照明の光のせいか黄味がかって見えた。
「ええ」
 なぜそんなことを聞かれたのか疑問ではあったが、ひとまず肯定はしておく。
 すると船津さんは知っていたという顔で頷いた。
「だよな。いや実はな、お前のこと知ってるって客がいるんだよ」
「……そうですか」
 何とも反応の取りにくい話だ。ごく狭い範囲でしか人付き合いをしていない俺を、それでも知っているだけの人間はいくらかいるだろう。
「お前がここでバイトしてたって言ったら残念がってたよ。見てみたかったのにって」
 軽い口調で船津さんが続ける。
「見てみたかったって……何ですか、それ」
 雛子に言われるならまだしも、心当たりもない相手にそんなことを言われてどうしろと言うのだろう。どんな手合いかは全く予想もつかないが、恐らく面白半分で言っているのだろう。
 俺の声から不快感を読み取ったのだろうか。船津さんは戸惑ったように手を振った。
「いや、多分変な意味とかじゃねえって。あるだろ、憧れの先輩の働いてるとこ見てみたい的な」
「俺は憧れられるような先輩ではありませんでしたから」
 きっぱりと、俺は船津さんのフォローを否定した。
「高校時代の俺は周囲から眉を顰められるほど評判が悪かったんです。そんな俺が働いているのを見て、笑ってやろうと思ったんでしょう」
 更にそう続けると、船津さんがぎょっとしたのか上体を引く。しばらくしてから意外そうに言われた。
「何、お前、そんな真面目そうなツラして元ヤンなの?」
「違います」
 それも即座に否定しておく。そういう次元の話ではない。
 俺の知る限り、いわゆる不良と呼ばれる人間たちは意外とコミュニケーション能力に長けているものだ。友人も多く、奇妙なことに教師たちからの受けもいい。そういう連中と比較すると、高校時代は友人もなく教師からも持て余されていた俺は、まさに正反対の存在だったと言えるだろう。
 とは言え、あの頃の俺が高校時代を真っ当に過ごすことなどできただろうか。今でさえ人付き合いに慣れたとは言えず、身近な人間との接し方にさえ苦慮している有様だ。なのにあの頃の、今以上に頑なで猜疑的で孤独だった俺に一体何ができただろう。
 ただ雛子に対しての態度については、時々省みたくなることがある。せめてもう少し早く彼女を信じられていたら。彼女の存在の大きさ、温かさに気づけていたなら、俺の高校生活にはもう少し光が差していたかもしれない。そして雛子にも、もっと優しくできていたかもしれない。
 文芸部内でもそうだったが、俺のような人間が雛子と親しくしていることをよく思わない連中も確かにいる。俺の悪評で雛子に迷惑をかけたことも、辛い思いをさせたこともあるのではないかと思う。俺はずっと、自分さえ気にならなければ他人などどうでもいいと考えてきたが、雛子のことを考えるなら悪評をばら撒くのも控えるべきだっただろう。
「気に入らねえってんなら悪かったよ。噂するようなことしてさ」
 船津さんはへらへらと詫びてきた。
「そういう噂は慣れていますから、平気です」
 俺がかぶりを振るとやはり意外そうにしながらも、
「まあ、教えたのも名前だけだからな。そいつがしつこく確かめたがったからぽろっと言っちゃったけど」
 と続けた。
 そこまでしつこく知りたがる人間の顔を見てみたいものだ、と思わなくはなかった。
 だが、見たところで不快になるだけだ。そのくらいなら雛子のことを考える方がよほど有意義だろう。
 彼女について考えが及ぶと、不意に思い出したことがある。
「船津さん」
 俺は作業を再開しながら口を開く。
「やっぱり俺、時間を作って手伝いに来ますよ」
 授業にゼミ選考に文化祭の寄稿、どれも一つとして落とせない重要事項ではあるが、俺にはもう一つ重要な予定がある。それも来月、十月にだ。今、そのことを思い出した。
「おお、助かるよ」
 船津さんは嬉しそうにしたが、その後で眉根を寄せた。
「けど、いいのか? お前も真面目に学生やってんだろうし、そんなに暇じゃねえんだろ」
「時間をやり繰りすれば何とかなります」
 俺は自分への決意も兼ねて、あえて強気に応じた。
「来月、買わなければならないものがあるのを思い出したんです」
 どうせなら自分で稼いだ金で買う方が気分もいい。
「買わなきゃいけないもの、ねえ」
 船津さんは無精ひげの浮かぶ顎を撫でながら、俺をしげしげと眺めた。やがてその口元をにやりと歪ませ、
「彼女へのプレゼントか?」
 ものの見事に正答してみせたので、俺は思わず息を呑む。
 ただ、それは船津さんにとっても意外な答えだったようだ。たちまち目を白黒させていた。
「え? マジかよ。お前にそれはないだろって思って言ったのに」
「……放っておいてください」
 俺自身、高校時代にはそういう相手がいることを想像できなかった。しかし今の俺には確かにそういう相手がおり、おまけに心境の変化というやつが、なるべく彼女を喜ばせよう、幸せにしてやろうと嗾けてくるのだ。
 慌てて棚に向き直る俺に、カウンターから鋭い視線が突き刺さる。
「こんなんで真っ赤になっちゃって。顔に似合わず純情なんだな、坊や」
 船津さんが俺をそんなふうに評したので、非常に心外だと思う。
「坊やではありません。俺はもう成人ですよ」
「大の男が、彼女の話振られただけでそんなに顔に出すなよなあ」
 痛いところを突かれて俺が押し黙ると、船津さんは豪快に笑った。
「今度うちに連れて来いよ、その彼女。カップル向けのためになる本をプレゼントするぜ」
 どういう結果になるかは目に見えているので、もちろん丁重にお断りした。

 古書店を後にしたのは午後五時頃だった。
 バイト代は次回の勤務でまとめていただくことにして、その次の勤務についても軽く打ち合わせをした後、俺は東高校へと向かった。
 店を訪ねた時は眩しいほどに輝いていた日も、五時を過ぎるとすっかり傾いている。あれほど厳しく感じた残暑もどこへ消えたのか、涼しい風が街中を吹き抜けていった。
 東高校の校庭を囲む木々も、その足元から伸びる長い影も、秋風に揺さぶられざわめいている。夕映えに赤々と輝く校舎の周辺に人影はない。古びた校門も薄暗い生徒玄関もがらんとしており、静かなものだった。ただ耳を澄ますと校舎のどこかから音楽が聴こえてきた。よく響く金管楽器の音、これは吹奏楽部の練習だろう。
 校門をくぐった俺は校舎の端に目を向ける。文芸部の部室は図書室の隣にあるが、まだ明かりが点っているのが遠目にもわかった。時刻は午後五時二十一分、思ったよりも早く着いてしまったのかもしれない。念の為に靴箱も確かめたところ、雛子の思ったよりも小さなローファーはまだしまわれたままだった。
 俺は生徒玄関の隅に隠れるように立つと、鞄から読みかけの文庫本を取り出す。彼女が出てくるまで本でも読んで待っていることにしよう。

 午後六時を迎えるまで、生徒玄関はずっと静かだった。
 やがて天井の照明が唸りを上げながら自然に灯ると、ちらほらと下校する生徒たちが現れた。既に衣替えの時期に入っているのだろう、生徒たちの装いは白い夏服と暗い色の冬服が半々といった具合だった。ほとんどは俺の存在にも気づかずに玄関を出て行ったが、一部の生徒が俺を見て、怪訝な顔をしていく。
 こんなところに部外者が立っているのも、考えてみれば奇妙な話だろう。このご時勢、下手をすれば不審者の扱いを受ける可能性もある。やはり堂々と部室を訪ねるべきだっただろうか、と何度か思った。
 それに何より、こうして雛子を待っているのが妙にくすぐったい。
 高校時代に二人で下校したことは何度かある。だがそういう時でも俺は彼女を待たなかった。駅までの道を俺が先に立って歩き、彼女がついてくるのをローファーの足音だけで確かめた。並んで歩かなかった理由は気を遣うのが煩わしかったからだが、今になって考えれば、何を話せばいいかわからなかっただけかもしれない。
 今のような気持ちでいられたら、さぞかし楽しい下校時刻を過ごせただろうに。
 そんなことを考えていると、また生徒玄関に一人分の足音が近づいてきた。俺は本から顔を上げ、現れた人物に目を凝らす。紺色のセーラー服に二つ結びの髪、そして銀フレームの眼鏡をかけた女子生徒が、三年の靴箱の列までやってくる。C組の靴箱の前で足を止め、ずっとしまわれていたローファーを取り出した。一連の動作の間、彼女は全く周囲に気を配らず、俺の存在に気づくこともなかった。
 一ヶ月ぶりだった。その一ヶ月間、彼女のことであれほど悔やみ、悩み、苦しんだというのに、存在を意識した途端に心がふわふわと浮つき始める。そうなるとこれ以上彼女を待っていることもできず、たまらなくなって声をかけた。
「雛子」
 途端、脱いだ上履きを持ち上げた彼女の肩が大きく跳ねた。
「わっ」
 声を上げるほど驚かせたようだ。悪いことをした、という思いは、しかしすぐに別の思いに塗り替えられた。目を大きく瞠り、口もぽかんと開けた雛子の顔は驚きのせいかあどけなく、そして実に愉快に映った。
「思ったより遅かったな。掃除をしていたのか」
 さほど読み進められなかった本を閉じながら、俺は彼女に尋ねた。内心、笑いを堪えるのに苦労していた。
「……先輩」
 雛子は息をつくように俺を呼び、その後で身だしなみが気になったのか、スカートのプリーツを手のひらで伸ばし始めた。落ち着かない様子で続ける。
「あの……ここに、いらしてたんですか」
 たどたどしい問いに俺は答える。
「気が向いたからな」
「もしかして、私を待っていてくれたんですか?」
「お前の靴がまだあったし、部室の明かりが点いていたから、そうした」
 答えになっていないのは承知の上で、それだけ説明しておく。
 だが本当の目的はもっとつまらない、直情的なものでしかない。俺は決まり悪さから目を逸らし、口ぶりだけは先輩らしく続けた。
「それに、近頃は日が暮れるのも早くなってきた。お前を一人で帰すには不用心だからな。駅まで送っていってやる」
「まさか、その為にわざわざ……」
 まだ驚きを引きずっているのか、雛子は呆然と声を上げる。
 一ヶ月ぶりだというのに、彼女は驚くばかりで嬉しがるそぶりはない。笑顔さえまだ見せない。俺一人で浮かれているみたいで次第に気まずく思えてきた。
「おかしいか。こっちだってついでだと思って来たまでだ」
 俺が問うと、雛子はようやく我に返ったように表情を和らげた。
「お、おかしくはないです。むしろ嬉しいです」
「お前が昨夜、会いたいと言ったんじゃないか」
 忘れているようだから指摘してやる。
 雛子の口元が綻び、何か考えている時の控えめな笑みが浮かんだ。
「私のわがままを聞いてくれた、ということですか」
「そうだ」
 思いつきでここまで来てしまったという自覚もある。
 だが笑ってもらえたならそれでいい。俺は少し満足して、彼女を急かした。
「……ほら、帰るぞ。教師に見つかるとうるさい」
 先に生徒玄関を出る。
 いつの間にか空はとっぷり暮れていて、遠くで燃えさしのような残照がわずかに尾を引いていた。校舎の周囲に立つ街灯はもれなく点灯済みだ。暗い空の下を街明かりが照らし、一面に夜の景色が広がっている。
「あ、待ってください」
 雛子のローファーの音が遅れてついてくる。
 振り返ってやろうかと思う必要もなく、彼女の方が追い着いて隣に並んできた。視界の隅で彼女がこちらを見ているのがわかる。歩くのに不自由しそうなくらいにじっと見てくるので、顔に穴が開きそうだった。
「あんまり見るな。突飛なことをしたとは思っている」
「突飛なんて、そこまでじゃないですよ」
 彼女は俺の言葉を否定したが、それだけで気まずさが解消されるわけでもない。
「だが、風変わりなことをするとは思っただろう」
「そんな、私は嬉しかったって言いました」
 重ねて言った後、雛子は少し黙った。横目でちらりと窺えば、思案に暮れるような顔つきをしていた。そしてしばらくしてから、再び口を開く。
「でももし先輩がメールできたら、事前に連絡がもらえて便利だと思いました」
 言われてみれば、行き違いの可能性もなくはなかった。文化祭前だからと言って必ずしも毎日居残りをする必要はないだろうし、用事があって早く切り上げることもあるだろう。彼女がいなければいないで帰ればいいと簡単に考えていたが、それも自分本位の考えでしかない。
 携帯電話があればこういう時に便利なのかもしれない。
 俺はぼんやりとそう考え、それからすぐに先程の、俺に声をかけられて驚く雛子の顔を思い出す。あれは愉快だった。今でも笑えてくるほどだ。
「それならお前もさっきのように、声を上げて驚くこともなかっただろうな」
 笑いを堪えながら俺が言うと、雛子はそこで唇を尖らせた。
「……あれは忘れてください」
 子供みたいな顔をして拗ねるのが、また可愛くて仕方がない。
 俺がしみじみと噛み締めていると、雛子が俺の手を掴んできた。突然のことに一瞬手を引っ込めかけたが、よく考えてからしっかりと繋ぎ直す。
 考えるべきことも、彼女に告げなければならないこともある。
 だがそれまでの間、今くらいは幸せな気持ちだけを味わっておきたい。雛子もそうしたいと思ってくれている。迷いもためらいも必要ないだろう。

 彼女の手はとても温かく、秋風に冷えた俺の手に熱を分け与えてくれる。
 その体温に縋るように、繋いだ手に力を込めた。
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