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笑いある日々(3)

 俺が現在所有している電話は、部屋に引いている固定電話一つきりだ。
 値段だけで選んだ片落ち品にはせいぜい留守録機能くらいしか搭載されておらず、誰から電話がかかってくるかわからないようになっていた。誰からかかってきたのかわかれば、電話に出る際ためらってしまうようになるかもしれない。そう思って、あえてわからないようにしてきた。
 だが、それも所詮はただの強がりだったのかもしれない。
 電話が鳴る度にびくりとして、一呼吸置き覚悟を決めてから受話器を取る。そして相手を確認する度に一喜一憂する。その過程も実は無駄に過ぎないのではないかと最近思う。
 大槻と酒を飲んでから一週間が過ぎ、あの旅行からはとうとう一ヶ月が経とうとしている。その間、俺の部屋にかかってきた電話は十件だ。大半は間違い電話とつまらないセールスで、残りは父親から生活費を振り込んだという定時連絡と、母親からの連絡がそれぞれ一度ずつだった。母親は父から未だに金を取れると思っているらしく、俺に力を貸すよう訴える電話を年に何度かかけてくる。父と母がどんな条件で離婚したのかは聞かされていないが、現在の母がどんな暮らしをしているかは酒に焼けた声から察することができた。
 父には丁重な礼を述べ、母の言葉は聞き流し、どちらも電話を切った後で決まって暗い気持ちになる。
 電話とは何の為にあるのだろう。遠くにいる相手とも話をする為の機械として発明されたはずだ。少なくともこんなふうに鬱屈を溜め込む為の道具ではない。
 俺はもっと、自分の為に電話を使ってもいいのではないだろうか。

 しかし自分の為にと思ってみたところで――この一週間、受話器を取ったはいいがボタンを押せないという情けない状況が続いていた。
 雛子に連絡をしなくてはならない。あの旅行からもう一ヶ月だ、そろそろどうしているかを尋ねてみてもいい頃だろう。彼女が夏休み明けの生活をどう過ごしているかは知る由もないが、だからこそどうしているのか、元気でいるのかを知りたかった。もしかしたら彼女も、俺からの連絡を待ちわびているかもしれない。
 そうは思っても俺の胸裏には一ヶ月前の狼藉とそれに伴う罪悪感が今なお鮮明に巣食っており、彼女にどんな言葉をかければいいのか、平然としていていいものかといちいち悩む羽目になった。そもそも平然としていられる気がしない。電話口でうろたえる自分の姿が容易に想像でき、それがますます彼女への電話をためらわせた。
 また、彼女に連絡をする明確な理由がないことも躊躇の一因となっている。久し振りの電話でいきなり『しばらく会わないことにしよう』などと告げるのはあまりにも酷い仕打ちだろう。何か軽い電話でワンクッション置くのがいいと思っていたが、考えてみれば俺は用もないのに、彼女の声が聞きたい話したいという理由だけで電話をかけたことがこれまでなかった――なくはなかったが、そういう場合も言い訳がましく別の用件を添えておくのが常だった。
 今回はそういった表向きの用件が何も浮かばない。かといって正直に、話がしたかったと告げるのはあまりにも浮ついているような気がしてしまう。ただでさえ俺はあの旅行の間中酷く浮ついていて、結果あのような事態を引き起こしたので、少しは成人らしく落ち着いてみせなければならないと思っているところだ。
 体面を取り繕おうとする自分に羞恥心が募り、プライドが邪魔をして持ち上げた受話器を下ろす。
 一向に進展のない一週間を過ごした末のある晩、俺の部屋の電話がまた鳴った。

 びくりとしてから深呼吸をして、慎重に受話器を取る。
 そこから聞こえてきたのは、
『先輩、お久し振りです』
 懐かしささえ覚える、雛子の声だった。
 久し振りの電話で緊張しているのだろうか。あるいは連絡がなかったことを悲しく思っているのか、彼女の声は少し硬く響いた。だがそれでも干上がった地面に水を与えたような速さで俺の耳に染み込んだ。
「ああ、そうだな。久し振りだ」
 俺は驚きと喜びが声に滲まないよう、慎重に応じた。
 まさか彼女の方から連絡をくれるとは思っていなかった。だが、彼女に先を越されてしまったこの体たらく、つくづく情けない。
「そろそろ連絡をしようか、迷っていたところだった」
 更にそう続けると、雛子は聞こえるか聞こえないかくらいの笑い声を立てた。
『何か、私に用事でしたか?』
 心なしか声も明るくなったようだ。やはりこちらからの連絡を待っていたのかもしれない。
 理由などなくてもいいから、とにかく電話をかければよかった。
「いや」
 俺は溜息をつく。自分にほとほと呆れ果てていたが、同時にそういった気持ちを、ひとまず吹き飛ばしておきたいとも思った。
 久し振りに彼女と話せているのだから。
「特に用事が思い浮かばなかったから、迷っていた」
 電話をしなかった理由を彼女に告げる。
『え……』
 雛子は言葉に詰まってから、
『用事がなくても、いつでも連絡をください。私は大歓迎です』
 急に強い口調で言い返してきた。
 そう言ってくれるのは嬉しいが、いつでもというわけには、今後はいかないだろう。もう九月も半ばを過ぎた。
「お前は受験生じゃないのか。勉強の邪魔をしては悪いだろう」
 俺が宥めるつもりで言うと、雛子はすかさず食い下がってくる。
『先輩からの電話が邪魔になるはずありません。それどころかとても励みになります』
「そうか」
 励みになる、という言葉が心に刺さるようだった。
 彼女はそうなのかもしれないが、俺はそうではない。この一ヶ月間も彼女のことばかり考えた挙句、他のことはまるで疎かになっていた。
 きっとこの電話を切った後も、何も手につかなくなるに違いなかった。
「お前は、勉強が手につかなくなったりはしないのか」
 だとしたら、その強さが羨ましい。
 俺が自嘲気味に呟くと、雛子は途端に困り果てたようだ。
『つ、つかなくは……たまに、なりますけど……』
 これは嬉しいと思っていいのだろうか。何にせよその言葉のせいで、今度は俺が少し笑った。
『でも、先輩からずっと連絡がない場合の方が、やきもきしてかえって勉強に集中できなくなります。もし定期的に電話を貰えたら励みになりますし、勉強も捗ってありがたいです』
 彼女がそう言ってくれるのも、とても温かく感じられていい。
 ただ、彼女はそれだけで済むのかもしれないが、俺はそうではない。
「電話だけで済めばいいがな」
 頻繁に連絡を取り合うのは諸刃の剣だ。こうして元気そうな彼女の声を聞き、彼女の心に変わりがないことに安心しながらも、俺は早くも彼女の顔が見たくなっている。
 先月から変わりはないだろうか。少しは日に焼けているだろうか。二学期が始まって数週間、既に疲れてはいないだろうか。
 今は、どんな格好をしているのだろう。
 あの夜のことを思い出しかけ、俺は急いでそれを振り払う。
 彼女には、戒めのつもりでこう言った。
「声を聞けば顔が見たくなる。そういうものじゃないのか」
『それもまさに、その通りではあるんですけど……受験生だからといって、月に一、二度、息抜きするのも駄目ということはないはずです』
 雛子はいくらか気まずそうに言って、それから、
『私はそろそろ、先輩に会いたいです』
 ねだるように柔らかい口調で、そんなふうに言い添えた。
 雛子の声が耳を通して胸のうちに落ちる。波紋が広がるように微かに震えて、俺は思わず目を閉じる。
 彼女と同じ気持ちであることを最上の幸せだと思う。
 そうすると胸に巣食っていた他の感情が一時、鳴りを潜めた。たった一つだけ残った素直な心で俺は応える。
「俺もだ」
 だがそこで、電話の向こうは少しの間沈黙した。
 俺の素直とも、ある意味迂闊とも言える一言を、彼女はどう聞いたのだろう。それを考え始めると気恥ずかしさが後から押し寄せてきて、もしかすると言うべきではなかったかと思い始める。こういうことは言葉にするものではないのかもしれない。彼女もさぞかし驚いたことだろう。
『あ、あの、先輩……』
 雛子が何か言いかけるのを遮り、
「ところで雛子、お前は何か用があってかけてきたんだろう」
 先の失言を打ち消すべく、俺は彼女の用件を尋ねた。
 彼女は俺とは違い、何の用もなく電話をかけてくることがある。いい例が五月の修学旅行中で、あの時は俺の声が聞きたくなった、などと馬鹿げたことを――しかし至極真っ当な理由を口にしていた。
『えっ? いえ、用は確かにありましたけど』
 今日はさすがにそういう理由ではなく、必要に駆られての電話だったようだ。なぜか落胆しそうになり、俺は彼女に続きを促す。
「なら早く用を言え。お前の電話代も馬鹿になるまい」
『で、でも先輩、今は全然違う話を――』
「いいから早くしろ」
 話を戻されるのは困る。俺は彼女といると、やはりどうしても浮ついてしまうようだ。

 雛子はどことなく不満そうにしながらも、その用件について話し始めた。
 それによれば、文芸部で毎年作成している文集を、今年度はテーマを定めた作品集として作成することにしたそうだ。そしてその文集に、OBの寄稿をあわせて載せたいという案が浮上したらしい。その意見を出したのは文芸部の二年生部員たちで、現在は三人しか部員がいない文芸部の展示を少しでも盛り立てようと話し合った結果だと彼女は言う。そして差し当たり雛子が、接点のあるOBとして俺に声をかけることになった、という顛末らしい。
『――それで今年度の文集では、先輩に寄稿をお願いしたいんです』
 彼女らしい生真面目さで丁寧に説明を終えると、雛子は申し訳なさそうに続ける。
『いきなりのお願いですみません。先輩が負担でなければ、でいいんですけど』
 負担というほどの依頼ではない。それに他でもない彼女の頼みであれば、どういう形にせよまず真剣に向き合ってやりたいと思う。
「別に負担じゃない。俺は構わない」
 俺が二つ返事で応じると、安堵の吐息が電話をかすめるように聞こえた。
『本当ですか? ご迷惑じゃないなら是非……』
 だが、真剣に向き合うからこそあえて言っておきたいこともある。
「あくまでも、俺にとっては負担でも迷惑でもないという話だ」
 俺は言って、彼女を牽制した。
「しかし、お前はもう少し慎重に考えるべきだな」
『そう、ですか? 私は先輩に協力してもらえるなら、それだけですごく嬉しいです』
 雛子は暢気なものだ。場違いに可愛いことを言い出すので、こちらが心配になる。
「こんな説教じみたことを俺が言うのも馬鹿げているが、文化祭は一応、学校行事だ」
 それこそ柄にもないことを言っている。高校時代、ありとあらゆる学校行事を疎み、馬鹿にしてきた俺が、雛子に対して学校行事の何たるかを説くなど滑稽な話だ。
 だが、彼女には言っておかなければならない。先程の依頼にもいささか安易なものを感じた。
「文芸部の活動も学校の管理下にあるものだからな。部外者がずかずかと踏み込んでいいものでもあるまい」
『それは……まあ多少は、そうかもしれません』
 彼女の反応は、そこまでは考えていなかったと言わんばかりだった。
「何か問題があれば、部長のお前も責任を負うことになる。それは覚えておいた方がいい」
 東高校の教師陣には口うるさい手合いも多い。俺は何を言われようとどうでもいいが、彼女が叱責される事態だけは避けたい。まして学校生活をあんなに楽しんでいる雛子に、それも最後の文化祭で、つまらない汚点を残させるわけにはいかなかった。
「更に言うなら、俺が手を貸すことが前例になれば、来年以降はお前に負担がかかる場合がある」
『ええと……』
 雛子が戸惑いの声を上げる。どうも彼女は、こういうことにまで頭が回らないらしい。部長として、最後の文化祭を乗り切っていけるのだろうか。いささか心配にもなる。
 俺は彼女にわかるように言い直した。
「つまり、来年はお前に寄稿の要請が行くかもしれないということだ」
『いえ私はそんな、頼まれるほど上手くもないですから』
「上手下手の問題じゃない。今回だけで終わる事例かどうか、今から考えておいた方がいい」
 彼女は今年度で東高校を卒業する。つまり来年度からは彼女こそが文芸部OGとなる。
 聞いたところによれば寄稿の案を持ち込んだのは後輩たちだそうだから、その後輩たちが来年度、次は雛子に寄稿を依頼してくる可能性は十分にある。その際、彼女が前例を重んずるあまり負担になる依頼を引き受ける、などという事態は避けなくてはならない。
「先程も言ったが、今回の件は俺にとっては負担でも、迷惑でもない」
 熟慮を促すべく、俺は彼女に言い聞かせた。
「だがお前はどうだ。自分で作った前例が将来、お前の首を絞めるということにならないか。よく考えた上で結論を出せ」
 それで雛子はじっくりと考え始めたようだ。彼女の微かな呼吸が数回、静かに繰り返された後、
『先輩』
 何か見つけたように、明るい声で俺を呼んだ。
『今回、先輩に寄稿のお願いをしたのは、私が先輩の作品のファンだから、というのもあるんですけど』
 また、それを言うのか。俺は鼻で笑ったが、雛子は意に介さず続けた。
『私の方から連絡できるOBが、鳴海先輩だけしかいないんです。あの……他の先輩がたは卒業して以来、すっかり疎遠になってしまって。連絡先はもちろん知ってますけど、電話はしにくくって……』
 それも大方は俺のせいなのかもしれない。雛子は文芸部に入部した直後こそ地味で目立たない新入部員として扱われていたが、俺と話す機会が増えるにつれ、他の部員からは俺に近づくなと忠告を受けることも少なくなかったようだ。俺が卒業してからは、部内で腫れ物に触るような扱いを受けているらしいことも知っていた。全て俺が残していった悪評のせいだ。
 だが俺の悪評を知る連中は雛子の代を最後に、東高校からはいなくなる。少なくとも雛子に親切顔で忠告をした文芸部の連中は既にいない。
 今の文芸部は彼女にとって、どんな場所なのだろう。
『もちろん、卒業した後は皆さんそれぞれに新しい生活、新しい環境が待っていることもわかっています。こちらから連絡を取ったところで、それこそ忙しい皆さんには迷惑なのかもしれません。でも――』
 雛子はそこで一旦言葉を区切り、はにかみながら言葉を継いだ。
『もし私だったら、私がOGになったら、卒業してからも後輩たちと連絡を取り合ったり頼りにされる機会があるのは、すごく嬉しいだろうと思うんです』
 そう言うからには、今いる後輩たちは雛子にとって、少なくとも好ましい存在なのかもしれない。
 俺はまだその連中と会ったことがなかった。去年、文化祭に出向いた時も、結局雛子としか顔を合わせていない。あの時は――という、思い出すべきでない記憶はさて置くとして。
『だから私は、これが後々まで続く前例になったとしても構いません』
 そう語る雛子の声はいきいきとしていた。
 ちょうど一週間前、大槻が楽団について、いい観客について話していた時と同じだった。
『むしろ、卒業してからも東高校の文芸部と繋がっていられる縁になるのだとしたら、私にとっては素敵なことです』
 だから俺もその言葉に耳を傾け、そして少しの間考える。
 俺の縁も、気がつけばいろんなところで繋がっている。その全てがいいものだと手放しで賞賛できるわけではないが、近頃はとみに、気遣ってくれる人たちの存在がありがたい。
 そしてどうやら、あの文芸部との縁はもう少しだけ、切れずに残り続けるようだ。
「縁か」
 俺は思わず呟いた。
 文芸部での思い出も、いいものは全て彼女にまつわることばかりだった。はっきり言えば、彼女と共にいられたことだけだった。
 今年の出来事は、それらに花を添えるような記憶となるだろうか。
『私も鳴海先輩のような、後輩の為に親身になれる優しい先輩になりたいです』
 雛子は相変わらず俺を過大評価している。嫌味でわざと言っているわけではないことが逆に厄介だった。
「買いかぶるな。俺が優しい人間じゃないことは、お前が一番知っているはずだ」
『私だからこそ、先輩の優しさを一番よく知ってるんですよ』
 それはある意味で正しい言葉かもしれない。俺が持ち合わせている優しさなどせいぜい髪の毛一本分あればいい方というところだが、それを傾けている数少ない相手にそう言ってもらえるのは、幸いなことだ。
『今日は、特に嬉しかったです。先輩が真っ先に私のことを気にかけてくれて』
 そして雛子が続けた発言もまた的確だったが、事実だからこそ指摘されれば面映い。
 どうも、語りすぎた感もある。彼女のこととなるとつい、余分に気にかけてしまうようだ。
「お前の考えが及んでいないようだったから、助言したまでだ」
 俺は内心を押し隠して答え、すぐに話題を変えた。
「で、文集のテーマは何なんだ。教えてもらわないことには原稿を用意できない」
『はい。テーマは青春です』
「青春? いかにも学校行事らしい、面白みのないテーマだな」
『い、いけませんか? 含みを持たせられる、奥行きのある題材だと思うんですけど』
 雛子が俺の反応に慌てている。
 学校で行事用のスローガンを決める際、必ず候補に挙がるのがその単語ではないだろうか。そのくらいありふれている言葉だ。こと学校でかたられる青春というのは見栄えのいい努力と美しい汗でしか作られておらず、本来の青春時代に存在しうるような薄暗い闇も混沌とした心の澱もないものとされているから馬鹿馬鹿しい。
 つくりものではない本物の青春に、教師たちが喜ぶような美しいものは果たしてどれほどあるものか。
 だが、奥行きがあるという意見には不承不承ながら賛同しよう。その奥行きを表現することを許されるのならだ。
『後輩たちが言うんです。人数少ないからって過去の文集に見劣りするの、嫌だって。どうせならOBに見せて驚かれるくらい出来がいいのを作りたいって』
 雛子がまた、希望に満ち溢れた声で語る。
『それを聞いてから私も、考えたんです。それなら文集のテーマは青春しかないなって……今年度の文集は、まさに私たちの青春を表現したものになるだろうって』
 話を聞く俺は違うことを考える。
 今の文芸部は俺がいた頃と、雰囲気が随分違うようだ。後輩が先輩に意見をするなど、あの当時はまず考えられなかった。風通しのいい部活動になっているのは、彼女の人柄の賜物なのだろう。
 そんな生まれ変わった文芸部で、彼女とまた活動できるのも悪くはないかもしれない。
「そうか。まあ、お前が決めたことならいい」
 既に決まってしまったテーマに、OBが口を挟むものでもない。俺は彼女の言葉を受け入れ、そして告げた。 
「以前から気にかかっていたが、問題なくやれているようだな」
『え? 何がですか?』
「文芸部の部長だ。思っていたより順調にこなしてるみたいじゃないか」
 別に馬鹿にしたつもりはなかったのだが、俺がそう言うと雛子は恥ずかしそうに唸った。
『……その節は、大変ご迷惑をおかけしました』
「迷惑じゃない。しかし、安心はした」
 自然と笑みが込み上げる。やはり彼女には、どこにいても幸せであって欲しい。
『先輩……』
 雛子はそこで何か言いたそうにしたが、恐らく言葉が見つからなかったのだろう。やがて黙り、その間が俺に時刻の確認をさせる。
 少し長話をしすぎたようだ。彼女からかけてきた電話なら、そろそろ終わらせなくてはならない。
 名残惜しい。
「詳細が決まったら連絡しろ。それと、何か手伝えることがあれば言え。俺はあくまでも部外者だが、必要であれば協力は惜しまない」
 身を切るような寂しさを振り切り、俺は話を終えようと彼女に念を押す。
 すると、
『先輩! 近いうちに会えませんか!』
 雛子が俺を呼び止めるように叫んだ。
 もちろんその申し出が嬉しくなかったわけではなく、むしろはっとするほど心に響いた。
 だが、彼女にどんな顔を見せていいのか、俺はまだわからない。
 会いたいという気持ち自体は、なくはない。むしろ今夜だけでこの上なく募ってしまった。
「考えておく」
 俺はひとまず、控えめに答えた。
『あ……即答は、してもらえませんか』
 彼女は落胆してみせたがすぐに立ち直り、
『けど、先輩だって私の顔が見たいって言ってましたよね?』
 追及するようなことを言ってきたので、俺は呆れた。
「そうは言ってない」
 言ってない、はずだ。
 そこまで踏み込んだことを口にしてしまえば、歯止めが利かなくなるのは俺の方だということをわかっている。
「勝手に人の発言を脚色するな」
 俺が咎めると、雛子は子供のように拗ねた声で言い返す。
『じゃあ一体、どういう意味で言ったんですか』
 それを聞いてどうするつもりだ。
 素直に言えばその思いは、心中だけでは留まらなくなる。言葉となって形を持ち、彼女にも感じ取れるほどはっきりと表れてしまう。こんなにも浮ついた心を、想いを、彼女はどんなふうに聞くだろう。
 しかし彼女は、俺に会いたいと言ってくれた。そして落胆させてしまった彼女に、せめて俺の本心くらいは伝えておくべきではないだろうか。
 会いたくないわけでは、決してないのだと。
 全ての想いを吐き出すような、長い溜息をつく。
「お前の顔は見たい」
 俺は、彼女に打ち明けた。
「だがいざ見ると、それだけでは済まないように思う」
 声を聞けば、顔が見たくなる。
 顔を見れば、しばらく一緒にいたくなる。
 そして終いには離れがたくなることまで、十分に予見できた。
 だから俺は電話を切った。俺の言葉を聞いた彼女の反応をあえて待たず、文集についての連絡を待つとだけ告げて受話器を置き、通話を断ち切った。

 一人の部屋に静寂が戻り、いつものような空ろな寂しさが去来する。
 俺は壁に寄りかかり、そのままずるずると床に座り込んだ。これからの夜の時間、何も手につく気がしなかった。それどころか今夜、眠れるかもわからない。
 彼女ともっと話がしたかった。俺の知らない彼女のことを知りたかった。あの夏の旅行からどんなふうに過ごしてきたのか。文化祭に向けて部室でどんな活動をしているのか。今日垣間見ることができた部長としての彼女も、今のうちに、彼女が卒業する前に見てみたいと思う。
 底なしの欲求が頭をもたげてくる。
 今の雛子は、一体どんな顔をしているのだろう。真っ赤になっているか、俺の言ったことがよくわからず首を傾げているか。知りたいとは思うが、知ってしまったが最後、本当にそれだけでは済まなくなりそうだ。
 静けさが耳に痛い。彼女が傍にいないのが寂しい。
 俺にとっての電話は、まだ感情を溜め込むだけの道具に過ぎなかった。
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