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笑いある日々(1)

 視界の端に、見覚えのある姿が通り過ぎた、気がした。
 ベンチに座り本を読んでいた俺は、反射的に顔を上げる。
 大学構内に差し込む日差しはまだ夏と変わらぬほど眩しく、木々の葉もまだ青々としている。木漏れ日が網目模様を描く構内の道を、学生と思しき若い女の二人連れが笑い合いながら通り過ぎていく。そのうちの片方、眼鏡をかけた女に目を留めた俺は、すぐ落胆して視線を逸らした。
 眼鏡をかけているというだけだ。彼女ではない。きちんと見てみればちっとも似ておらず、彼女なら着ないような短い丈のズボンをはいているし、茶色い頭髪の長さも肩までしかない。そもそも彼女が平日の日中にこんなところを、それも私服で歩いているはずがない。彼女はまだ東高校に在籍している上、夏休みはとうに明けている。今頃は午後の日差しの強さにうんざりしながら授業を受けていることだろう。
 俺もそのことは、頭で理解している。
 だがどうしても目が行く。無意識に彼女を探していると言うべきかもしれない。眼鏡をかけている人物が傍にいると、それがどんなに似ていない女であろうと思わず視線を向けてしまう。もしかしたら雛子がここにいるかもしれない、そんなことをいつも考えている。
 会いたいと、思っている。

 あの港町への一泊旅行から、既に三週間が過ぎていた。
 そしてその三週間を、俺は彼女と何の接触も持たないまま過ごしていた。あれきり彼女と顔を合わせることもなく、電話すらしていない。彼女の方からも連絡はなかったが、それは受験生として高校最後の夏休みを迎えていたのであれば当然だろう。俺も夏休みが終わるまでは連絡を取らないくらいでいいかと考えていた。
 だが雛子の夏休みが八月と共に終わり、九月上旬に入ってからも尚、俺は彼女と連絡を取ることができずにいた。
 理由はたった一つ、あの旅行中に起きた――というより俺が起こした狼藉のせいだ。
 今更自らを正当化することができるはずもなく、罪悪感は日毎にいや増し、この期に及んで雛子にどんな顔を晒せばいいのかと思う。夜が来る度に思い出しては身を切るような後悔と焦燥に苛まれる。早く心を入れ替えなくてはならない、そうでなければ彼女とは会えない。そう考える裏側で、しかし彼女への想いも日々募りつつあった。
 いないはずの彼女を無意識に探してしまうほど、いつも、会いたくて堪らなかった。
 二人で出かけた旅行の間、彼女をいつになく近くに感じていた。あの色鮮やかな二日間がもはや懐かしく思えて仕方がない。そろそろ会いたい。だが今の俺は、まだ彼女に会えるような境地には至っていない。

 知らず知らずのうちに溜息をついていた。
「――悩み事かね、鳴海くん」
 いきなり間近で声がして、俺は危うくベンチから飛び上がるところだった。
 いつの間に現れたのだろう。ベンチの正面に、相変わらず三つ揃いを着た禿頭の教授が立っていた。つるりとした頭には灰色のベレー帽を被り、年の割に皺の少ない目元を最大限笑ませた教授は、凍りつく俺を静かに見下ろしている。
「おや、驚かせてしまったか。急に声をかけてしまって済まなかったね」
「いえ……」
 俺はそう応じるのがやっとだった。この教授、『仙人』という通称もあながち的外れではないということだろうか。目の前に立たれて声をかけられるまで、足音も気配も察知することができなかった。
 もっとも、俺がそれだけ思案に暮れていたということなのかもしれない。
「それで君は、どうして一人寂しく物思いに耽っているんだね」
 教授が俺の隣に腰を下ろす。背広もスラックスも糊が利いており、厳しい残暑の元でもぱりっとしている。ほのかに感じ取れる香の匂いが、この人の浮世離れした空気を一層掻き立てているようだった。
 俺も座る位置を少しずらしてスペースを譲り、それから誤魔化すように答えた。
「物思いというほどではありません。今日は大槻と待ち合わせをしているんです」
 嘘ではなかった。大槻から朝のうちに電話があり、大学での用が済んだらこの辺りで落ち合おうと約束していたのだ。大学はまだ夏休みが続いていたが、今日は前期の成績発表があり、構内も久方ぶりの活況に湧いていた。
 大槻は楽団の方にも顔を出すと言っていたので、待ち時間は読書をして過ごすつもりだった。しかし集中できるどころか、眼鏡をかけた女が通りかかるだけで注意がそちらへ向く有様だ。
「奴が約束より少し遅れているので、暇を持て余していたんです。それだけですよ」
「それならいいが」
 俺の言い訳めいた説明を聞いた教授は、安心したように破顔した。
「ゼミ選びの悩みならまた相談に乗ろうじゃないか」
「ありがとうございます。その節は大変お世話になりました」
 二年生にはゼミ選考期間が迫りつつある時期だった。申請期間は再来月の上旬からとなっており、現在は情報収集と選考に備えた準備の時期を迎えている。俺もゼミ相談の機会を利用したり、見学をさせてもらったりして、どこのゼミを志望するかほぼ絞り込んでいる状況だった。自らの学びたいこと、先輩がたの発表に対する姿勢、全体の雰囲気、そして教授の人柄などを総合的に見て判断した。あとは申請と選考に備えるばかりだ。
 こうして解決の糸口を見つけ出せる悩みもあれば、すぐには出口の見つからない悩みもある。
「ご心配をおかけしたようで申し訳ありません」
 俺が詫びると、教授は皺の刻まれた手をやんわりと振った。
「いやいや。私も少しだけ、座って休んでいきたかったんだよ。そのついでに君に声をかけたというわけだ」
 この人は少々風変わりだが、実に人がいい。たかだか一学生をこうして気にかけてくれるのはありがたいことだ。だがこの人の目に留まるほど思い悩んでいたのかと思うと、自分が情けなくもなる。
 内心で途方に暮れる俺に、教授はまた話しかけてきた。
「ところで君たち、あれから『古本の船津』へは行ったかい」
「いえ、あのアルバイトの後は一度も」
 俺はかぶりを振る。大槻からも様子を見に行ったという話は聞いていない。
 教授には雇用期間の終了後に一度、紹介へのお礼も兼ねて報告はしていた。その時は教授も目を細めて俺たちを労ってくれたが、恐らくその時以来だろう。あの店の名前を聞いたのは。
「船津さん、あれからお店は順調でしょうか」
 この人に尋ねるのも見当違いという気はしたが、俺は教授に尋ねた。
 すると教授は、ごく薄い眉を持ち上げるように目を見開く。
「悪くはないようだよ。少なくとも当人は楽しそうに仕事をしていた」
「そうですか。何よりです」
 俺たちの仕事が船津さんの役に立てたのなら幸いだ。ほっとする俺に、教授もまた笑いかけてくる。
「都合のいい時だけでいいがね、君たちももし暇があったら、店に顔を出してやってくれないか」
 ふと、船津さんと最後に交わした会話を思い出す。九月にまた、というようなことを言っていたが――まさか、あの人のずぼらさもさすがにそこまで酷くはないだろう。
 懸念が俺の脳裏を過ぎる間にも、教授は話を続けていた。
「彼も君たちのことを気に入ったようだったよ。また会いたいと言っていたんだ」
「わかりました。近々伺います」
 俺は頷いた。そうするのが礼儀だろうと思うし、あの店が今どうなっているのかも非常に気になるところだ。暇を見つけて足を運ぶことにしよう。
「頼むよ」
 教授は確かめるように深く顎を引いた後、軽やかに立ち上がる。
 そしてその動きを目で追う俺に向き直ってみせると、今度はにんまりと得意げに笑んだ。
「鳴海くん」
「はい」
 呼びかけられたので返事をする。
 教授が皺の浮かぶ手を自らのベレー帽にかける。
 突然、ぱっと帽子を取り払い、つるりとした頭を晒した。かと思うと、大声で言い放った。
「――『髪は死んだ』!」
 九月の晴れ空に、張りのあるいい声がこだました。
 だが、訳のわからない行動だった。
 突然の謎の叫びに俺は呆気に取られたし、構内を行き交う幾人かの学生がそれぞれ何事かとばかりに振り向いたようだ。
 にもかかわらず、肝心の教授は平然としている。
 全く意味がわからない。
「あの……虚無主義、ということですか」
 俺は恐る恐る尋ねた。
 たちまち教授の顔が失望に彩られる。まるで子供のようにみるみる萎れて、薄い眉もすっかり八の字になり、しょぼくれた声で言った。
「面白くなかったかね……」
「今の、面白い話なんですか?」
 俺が確認すると教授は悲しそうにベレー帽を被り直す。そして言う。
「神と髪をかけたんだよ」
「は、はあ……」
「面白くない? くすっと来ない?」
「特には」
 つまりこの人は今、俺を笑わせにかかった、ということだろうか。
 ようやく合点が行った俺は、すっかり意気消沈した教授に慰めにもならないことを言っておく。
「すみません。面白いと思う前に、目上の方を笑ってはいけないという気持ちが先立ってしまって」
「そうか……君のその生真面目さは盲点だったな」
 教授は大きく溜息をついた。
「鳴海くんに披露するまでは、打率十割のとっておきネタだったんだがね」
「そう、なんですか」
 俺のせいで現在の打率がどの程度まで落ち込んだのか、気になるところでもある。
 ともあれ教授は気を取り直したのか、それでも先程までよりはいささか弱々しい笑みを浮かべて、
「では参考までに聞かせてくれないか、鳴海くん」
「何でしょう」
「君の笑いのツボはどこにあるんだろう。それを教えてくれたら、次の機会にはきっと君を笑わせてみせるよ」
 また難しいことを聞くものだ、と俺は思う。
 自分があまり笑わない人間だという自覚はある。他人、例えば雛子や大槻あたりと比べれば明らかで、あんなふうに声を上げて笑うという機会はほとんどなかった。
 もちろん日常生活で『面白い』と感じることがないわけではない。喜劇など滑稽な作品を読むこともある。だがそういうものを読んでもなかなか笑いが込み上げるとまではいかない為、教授の問いに上手く答えられる気がしない。
 それでも一応、考えた。滅多にない笑いの機会を思い出してみる。近頃で言えば、どんな時に笑っただろうか。
「笑いのツボ、というのかどうかはわかりませんが」
 どうにか思いついて俺は口を開き、教授が興味津々で身を乗り出してくる。
「『古本の船津』でアルバイト中に、高校の後輩が尋ねてきたんです」
「ほう」
「その後輩は俺が働いているのを物珍しがって見物に来たんですが、こちらは見られると気が散ります。なのにあまりにもしげしげと眺めてくるから、見るなと言ってやったんです」
 無論、その後輩とは他でもない雛子のことだが、女であることは伏せておきたかった。教授からすれば気に留めるでもない些細なことだろうが、それでも気恥ずかしいものだ。
「俺が咎めた途端、その後輩は誤魔化すように棚にあった本を手に取ったんですが、それがこんなに分厚い経済学の本で」
 あの時の雛子の顔は今思い出しても笑いが込み上げてくる。
「もっともらしい顔をして読めもしない本を読むふりをしている後輩を見ていたら、危うく吹き出しそうになりました。どうせならあの本をちゃんと読んだのか、後で聞いてやればよかったと思うほどです」
 話した傍から唇が綻び、俺はまたしても吹き出しそうになるのを堪える羽目になった。どうにか口元を引き締めた後、教授に告げる。
「最近あった面白いことと言えば、その程度です」
 語り終えた俺を、教授はじっと見つめる。
 先程までの落ち込んだそぶりは消え失せ、意外なほど真面目な顔をして、何かを探すように俺を見ている。
 何だろう、と思った瞬間、
「鳴海くん」
「はい」
 呼びかけられて返事をすると、教授は真顔のままで言った。
「その後輩というのは、女の子だね」
「――え。な、ど、どうして」
 驚きのあまり問い質す言葉すら出てこなかった。
 慌てる俺を見る教授は、そこでいつもの温厚そうな笑みを取り戻し、
「顔に出ているよ」
 思わず俺は自分の顔を片手で押さえたが、感触に何か違いがあるとは思えなかった。ただし後になってから、頬が熱を持ち出したのがわかった。
 教授は得心した様子で頷き、器用に片目を瞑る。
「では君の悩みとはずばり、恋わずらいだね」
「いえ、断じてそんな、くだらない理由では!」
 俺はもはや冷静な否定もできずにうろたえるばかりだ。とっさに上げた声が裏返り、むしろ黙っているべきだったとすぐに気づいたが後の祭りだった。
「いやいや、くだらなくないよ。そういうことなら大いに悩み、考えたまえ」
 そう言い残すと、教授は呆然とする俺の前で踵を返した。そして緑の木々が生い茂る構内の道を泰然と歩いていく。
 俺はその背中を狐につままれた気分で見送る。
 あの人はまさか、本物の仙人なのだろうか。ぴたりと言い当てられたことには畏怖すら覚える。それともそう言い切れるほど、俺の顔にわかりやすい何かが表れていたということだろうか。
 視線の先、そして道の向こうに、今度は別の見覚えがある姿が現れる。明るい髪色をした小柄な男――大槻だ。こちらへ小走りで駆けてきた大槻は、そちらへ歩いていく教授の姿に気づき、急ブレーキをかけて立ち止まる。大槻が頭を下げ、教授が下げ返し、再び歩き出した二人がすれ違った直後、大槻は教授の背中に手を合わせる。
「ありがたや! ありがたや!」
 すると教授も心得たように立ち止まって振り向き、またベレー帽を外して叫ぶ。
「『髪は死んだ』!」
 途端に大槻は構内全体に響き渡りそうな笑い声を立て、腹を抱えてよろけながら俺のいるベンチまでやってきた。
「ちょ、鳴海くん今の聞いた今の! 仙人の新ネタ! 身体張ってきたよ!」
 大槻のげらげら笑いは聞いているだけで腹がいっぱいになりそうだった。
「やべえよ仙人、後期に向けてがっつりネタ仕込んでんじゃん! これはあれだよ俺らも負けてらんないよ鳴海くん!」
「何を張り合う気だ」
 俺は長く息をつき、それからもう一度だけ、遠ざかる教授の背に目をやった。
 三つ揃いを着込んだ後ろ姿が、木漏れ日を浴びて神々しく映る。
 大槻たちが拝みたくなるのもわかるような気がしてきた。

 笑い転げる大槻が完全に落ち着くまで、俺はベンチに座ったまま辛抱強く待ち続けた。
 大槻も最後にはぜいぜいと息を弾ませ、くたびれきった様子で俺の隣に座る。
「ああ腹痛い、あとほっぺたも痛い」
「笑いすぎだ」
「でもあれは笑うって! 仙人マジ半端ない!」
 これ以上教授の話を続けると大槻が再起不能になってしまう。俺は首を竦めて話題を変えた。
「で? 今日は何の用だ」
 珍しく朝早くに電話をかけてきた大槻は、肝心の用件については何も言ってこなかった。お互い出がけということもあって手短な通話になったせいもあるだろうが、普通は真っ先に言うものじゃないかと俺は思う。もっとも今日は特に予定はなく、雛子にもまだ会いに行ける身ではない。だからこうして外で待ちぼうけていられたわけだ。
「あれ? 俺言わなかったっけ」
 大槻は笑いすぎてすっかり声が嗄れている。軽く咳き込んでから満面の笑みを浮かべた。
「いいもん手に入ったから、今日は俺の部屋で飲まない?」
「構わないが、いいものとは何だ」
 俺は尋ねると、大槻は意味ありげに目を細め、すかさず俺に向かって人差し指を振る。
「何だと思う? 当ててみて!」
 そう言われても、いいものという単語だけで答えが導き出せる人間などいないだろう。
 あの教授であれば不可能ではないのかもしれないが――気恥ずかしさが蘇ってきたので一旦頭の隅に追いやっておく。
「わからない」
 正直に答える。
 大槻が勝ち誇ったような顔になる。
「じゃあヒント! 沖縄と言えば!」
 こんな茶番に付き合ってやる必要があるのだろうか。そう思いながら俺は俺の知りうる限りの沖縄情報を記憶から掘り起こし、思い浮かんだ単語を挙げる。
「シーサー」
「何でだよ! シーサーじゃ酒は飲めないだろ!」
 またしても大槻は笑い始めた。まずいと思い、俺は酒の飲めそうな沖縄らしいものを考える。
「海ぶどう」
「うーん微妙に違う! そっちじゃなくて!」
「どっちだ」
「食べる方じゃなくて!」
「飲む方か」
「そう! 大きな声で正解言ってみよう!」
 何をそんなに浮かれているのか。呆れた俺は大きくも小さくもない声で答えた。
「泡盛」
「正解っ!」
 大槻は先程までの疲労感もどこへやら、勢いをつけてベンチから立ち上がる。そしてこちらを振り返り、どこか自慢げに続けた。
「楽団の先輩が夏休み利用して沖縄行くって言ってたからさ、頼み込んで買ってきてもらったんだよね。本場だぜ。本場の泡盛だぜ。すごくね?」
「へえ。確かにすごいな」
 俺は泡盛の名前とアルコール度数の高さは知っているが、実際に飲んだことはなかった。飲み方すらわからないくらいなのだが、大槻はわかっているのだろうか。
「そんなにすごいものを、俺までご馳走になっていいのか?」
 そう尋ねると、大槻はなぜか少し照れくさそうな顔をした。
「いや、まあ、全然いいんだけどさ」
 すぐに軽く笑んで、
「何か君、最近元気なさそうじゃん。だから美味い酒でも飲んだら気分晴れるんじゃないかと思って」
「……顔に、出てるか?」
 戦々恐々としながら、俺は教授にも言われたことを尋ねた。
 大槻がためらわず頷く。それから俺に立ち上がるようジェスチャーで促し、急かしてくる。
「とりあえず話は飲みながら聞くからさ。まずは買い物行こ、買い物」
「話したいとは言ってない」
「まあまあそう言わずに! つか今日は沖縄料理縛りだからね、ゴーヤ買わないと」
「おい、大丈夫か。沖縄料理なんて作れるのかお前」
「作ったことはないけど。ネットで調べれば何とかなるだろ」
 こちらが不安になるほど楽観的に言い切った大槻が、立ち上がった俺の背中を押した。
「ほら行くよ! 柄にもなくしょんぼりしてんなよ!」
 しょんぼりなんて確かに柄にもない形容だ。背を押されてつんのめりそうになりながらも、俺はそっと息をつく。

 全く、周りにまで心配をかけて、一体何をしているのやらだ。
 だが悩みもまた果てしなく胸の内に広がり、出口の見えない日々がずっと続いていた。
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