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嘘はつけない(5)

 話が済んだ後、俺たちは手を繋いで来た道を戻った。
 雛子とできるだけ歩調を合わせて、隣に並んで歩いた。帰り道で俺たちは全くと言っていいほど口を利かなかった。海沿いの道を黙って歩くと片側から繰り返す波音が聞こえてきて、そういえば、海を眺めるという口実で彼女を連れ出したのだと思い出す。用意しておいた口実すら忘れてしまうほど、俺は彼女のことばかり考えていた。
 だが、ともかく、目的は果たした。
 俺は彼女に話したいことを話し、打ち明けるべきことを打ち明けた。この旅の目的もこれで八割方は片づいたと言えるだろう。残りの二割は明日、電車に乗って向こうへ戻り、彼女を家へ帰してやることで完了する。今日のところは彼女を、明日に備えてなるべく早く寝かしつけてやるだけでいい。
 そうして彼女が寝ついたら、俺はあの書室で改めて本を読もう。
 隣の部屋で雛子が眠っている、という現実を忘れられるくらい没頭できるかは怪しい。だが彼女が眠る隣で寝つこうとするよりは遥かにたやすいだろう。
 それに今なら、小さな頃とは全く違う気持ちで、晴れ晴れとした気持ちであの部屋にいられるような気がする。

 漆喰の壁が月明かりに浮かび上がる、白く小さな澄江さんの家は、今もひっそりと静まり返っていた。
 俺たちも音を立てないように玄関を開け、素早く家の中に入った。居間の照明を灯すと、懐かしささえ覚える蛍光灯の光が辺りに降り注ぐ。壁掛け時計の時刻が嫌でも目に入る。
 午後八時半を過ぎている。
 思いのほか、長い散歩をしてしまったようだ。
「雛子」
 俺が彼女を呼んだ時、ちょうど彼女も時計を見ていた。呼ばれて振り返る顔は眩しそうに目を細めていた。
「お前はなるべく早く寝ろ。明日の朝も早いぞ」
「ええと……そうなんですか?」
 俺の言葉に雛子が、身構えるような顔をする。電車通学の彼女は毎朝早く起きる必要があるはずだが、今は夏休みの最中だ。彼女も早起きの習慣を忘れかけているのかもしれない。
「五時に起床することとなっている」
 更にそう続けると、雛子の目が丸くなる。
「五時、ですか? 何かご予定があるのでしょうか」
「いや。澄江さんがいつも起きる時間だ。年寄りだからな、無闇に早い」
「わかりました」
 彼女もさすがに慣れてきたのだろう。腑に落ちたという顔で応じた。
 俺としても異論がないのなら問題ない。すぐさま次の指示を与える。
「わかればいい。それでは、風呂に入ってから休め」
 ただそれは彼女を、先程以上に驚かせて締まったようだ。
「え? も、もうですか?」
 雛子は居間に響くような声を上げ、俺はその声を無言で咎めた。すぐに彼女も慌てたように自分の口を押さえる。
 襖で閉ざされた奥の部屋の気配をしばらく窺った。だが澄江さんが目覚めた様子はなく、襖の向こうは静まり返ったままだった。
「もう就寝時刻になりますか、先輩」
 改めて、彼女が小声で尋ねてきた。
「そうだな。明日のことを考えたなら、夜更かしは勧めない」
 俺が答えて、ついでに諭してやると、雛子はそれが不服だとばかりに食い下がってきた。
「まだ九時前ですよ。さすがに早過ぎます」
 彼女がいつも日付が変わる頃まで起きていることは知っている。自室で読書をしたり、近頃は受験勉強にも取り組む彼女に、電話をかけることがあるからだ。
 大抵の場合、雛子は午後十時頃には自分の部屋に引っ込んでいる。それより早く電話をかけると出ないことがある。そういう場合はチャンネル権争いに競り勝って居間でテレビを見たり、皆で風呂上がりのアイスクリームを食べたり、はたまた洗面所でドライヤーの順番待ちをしたりしていると言っていた。彼女が語る何気ない日々の生活にはいつも家族の影があり、俺はそういうふうに家で過ごす雛子も想像してみたことがあるのだが、どうしても上手くいかなかった。
 しかし彼女の普段の生活がどうであれ、今日は随分歩かせてしまったし、そもそも旅先では気も休まらないだろう。就寝時刻もいつもより少し早いと思うくらいが適当ではないだろうか。
「早くはない」
 俺は断じた。そして逆に尋ねた。
「そんなことを言って、お前は明日、ちゃんと起きられるのか」
「大丈夫です。目覚ましをかけますし、そもそも今くらいの時間なら夜更かしとは言いません」
 雛子は雛子で不満を顔いっぱいにあらわにして、
「それとも、先輩はもうお休みになられるおつもりですか?」
「いや。俺はこれから読書をする」
「読書ですか……先輩は夜更かしをなさるご予定ですか?」
「多少はな」
 彼女はしきりに俺の予定を確かめてくる。恐らく今後の反論の材料にするつもりなのだろう。俺も正直に答える必要はないはずだが、こんなことで彼女に嘘をつきたくはなかった。
「私の夜更かしは駄目で、先輩は夜更かしをしてもいいなんて、おかしいと思います」
 案の定、雛子はこちらの予定を盾に反論してきた。
 子供みたいな理屈だと俺は思い、そしてこれも正直に言ってやった。
「俺は二十歳だからいい。お前は子供だ、夜更かしはさせられん」
「そんなの、ずるいです」
 雛子が淡い色の唇を尖らせる。そういう顔をすると本当に子供にしか見えない。俺が高校三年の時はこんなにも幼かっただろうかと、たまに思う。
「ずるくはない。大体、お前は夜更かしをして何をするつもりだ」
 問い質せば。今度は少し言いにくそうに口ごもってから、
「あの、それは……その、先輩のお傍にいたいなって」
「は?」
 話が見えない。また本を読む俺の隣で、ぼんやり過ごしたいということか。それは夜更かしをしてまですることではあるまい。
 彼女自身もそれだけでは分が悪いと察したのだろう。すぐに言い直した。
「お話がしたいんです。まだ話し足りない気分なんです。先輩の傍にいて、もう少しだけお話がしたいんです。他愛もないお喋りだけでいいと思っています。せめて、もう少しだけ」
 俺と雛子は頭一つ分近い身長の差があり、直立した状態で近くから向き合うと彼女はいつも上目遣いになる。彼女がかけている銀縁眼鏡のトップリムの更に上、黒目がちな彼女の瞳がじりじりと焼きつくような視線を向けてくる。彼女が眼鏡なしでどれほど物を見られるのかは知らなかったが、遮るもののない眼差しにはどきっとした。こうして見ると眼鏡のあるなしで随分と印象が違うようだ。
 その眼差しと必死の追い縋りに俺は、ひとたまりもなく狼狽した。
「俺は読書をするつもりだ」
 斟酌してくれというつもりでそれだけ言い渡したが、雛子は引かない。
「では、邪魔にならないようにしますから、お傍に置いてください」
 はっきり言ってしまえばそれは不可能だった。彼女がいれば多かれ少なかれ邪魔になる。特にあんな時間を過ごした後に迎える夜ともなれば――。
 俺は先程、彼女に話したいことを話し、打ち明けるべきことを打ち明けた。
 だがそれらは全てではない。
 彼女には言いたくないこと、言わなくてもいいことがまだ、俺の中には残っている。ここ最近ずっとわだかまっている。
 これ以上二人で過ごしたら、心の奥深くに潜めておきたいそういうものまで、勢いに任せて飛び出してしまうかもしれない。
「どうして、そこまでこだわる」
「どうしても、先輩と一緒にいたいんです。今夜はそういう気分なんです」
 俺の問いに雛子が即答する。それこそ打てば響くような素早さだった。
 その速さと彼女の言葉の強さに思わず目を逸らせば、彼女はわざわざ背伸びをしてまで俺の視線を追ってくる。
 顔が近づく。彼女の前髪が俺の鼻先をかすめる。距離を詰める彼女は眼差しは強いのに唇はいやに無防備で、そんなところに目が行く自分に嫌悪感すら覚えた。
「お願いです。もう少しだけ、夜更かしを許してください」
 無理な姿勢を取ってまでの懇願に、仰け反りそうになる俺はいよいよ追い詰められている。夏の蒸し暑さのせいだけではなく、頭が朦朧としてきて上手く回らない。いつにも増して頑固な彼女に押し切られそうになっている。
 一体何と言えば、彼女は諦めてくれるのだろう。
「明日、起きられなくなったらどうする」
「そうならないようにしますから。先輩、お願いです」
 もはや雛子はただの子供ではなく、手に負えない駄々っ子だった。
「わがままな奴だ」
 俺がそのことを指摘すると、雛子はやはり子供じみた得意顔になる。
「でも、そういう私のことが嫌いではないって、言ってくださいましたよね?」
「……それとこれとは話が違う。早く寝た方がいいから、お前の為に言っている」
 嫌いではないのだ。彼女に話がしたいと言われて、もう少し傍にいたいと言われて、嬉しくないわけでは断じてなかった。
 ただ、俺がどう思うかということと、それが正しいかということは全く別の話だ。
「先輩の意地悪」
 仕返しのように雛子が俺を非難した。
 俺は彼女に追い着かれないよう、あえて高い位置に視線を逸らした。
「意地悪で言っているんじゃない」
「では、どうしてですか」
「それは俺の方が聞きたいくらいだ」
 彼女は何がしたいのだろう。夜更かしをしてまで俺の傍にいて、本を読んだり他愛ない話をしたりして――そんなものは夜更かしをしなくても、旅先でなくても、いつもやっていることではないのか。
 何も今夜、こんな気分の時に望まなくてもいいのに。 
「今は眠れる気がしないんです」
 雛子は言う。俺が思っていたこととまるで同じ思いを口にする。
「絶対に寝つけないと思います。眠ってしまうのがもったいないくらいなんです。だからもう少しだけ、先輩のお傍にいたいんです」
 だが、同じはずがない。
 彼女は子供だ。俺はそのことを十分すぎるくらい思い知っている。彼女の言う『眠れない』は、例えば遠足の前の晩に興奮しすぎて寝つけない子供の言うそれだ。好きな相手と旅行に出かけてそれが思っていた以上に楽しくて、だから眠るのがもったいないと思っている。せいぜいそんなものだろう。いざ布団に入ってしまえばものの数分で寝こけてしまうところまで推測がつく。
 俺はそうではないのだと、いっそはっきり言ってやった方がいいのだろうか。
 俺は子供ではないし、幸せな一日の終わりに、楽しい夢だけを抱きながら眠りにつけるような純粋さは持ち合わせていない。それどころか。
 言えば、彼女に軽蔑されても仕方のないような夢さえ見ることがある。
 そして俺は彼女に軽蔑などされたくなかった。むしろ模範的な人間でありたかった。彼女の好意と尊敬の念に報いるだけの人間でなければならないと思っていた。
 だから、結局、こう言った。
「わかった。お前がそこまで言うなら仕方あるまい。お前が寝つくまで、傍にいてやる」
 顔を背けたままで告げると、少しの間を置いてから雛子が曖昧な声を漏らす。
「え……? ええと、あの」
「今日は蒸し暑いからな。扇いでやってもいい」
 それが最善の策に思えた。このまま一人で寝ろと放り出しても雛子は意地になって起き続けるかもしれないし、真夜中に突然起き上がって隣の部屋に侵入してくるかもしれない。彼女を寝かしつけ、寝つくのを見届けてからでなければおちおち本も読めない。
「やっぱり、夜更かしは禁止ですか」
 雛子は承服しかねるという態度だった。ちくちくと針で刺すような不満を唱えてきたので、俺もいい加減くたびれてきた。
「そうだな。子供は早く寝るべきだ」
「私、先輩が思っていらっしゃるほど子供ではありません」
 よくそんなことが言えるものだ。本日の押し問答のうち、彼女の意見はどう見ても駄々っ子の論調だった。
「わがままばかり言う奴が威張るな」
 俺は彼女の反論を捻じ伏せた後、しかし、思い直して言い添える。
「もっとも、わがままを言うだけならいい。ただ、あまり困らせないでくれ」
 さっき、押し切られていたらどうなっていたか。
 今の彼女にはそんなこともわからないのだろう。
 だが、わからないでいてくれた方がいいのだとも思う。
「お前が子供でいてくれないと、俺も……扱いに困る」
 念を押すように口の中で呟いた。
 子供のくせに、眠れないなどと簡単に口走るものじゃない。雛子はそれすらわかっていないのだ。

 俺がこれ以上は譲歩しないという意思を見せたせいだろう。最終的に雛子も俺の案を不承不承受け入れた。
 そして彼女が風呂場へ行っている間、俺は二階に上がり畳敷きの部屋に布団を用意した。押入れには布団が二組しまわれていたが、当然一組しか敷かなかった。
 時刻は午後九時を過ぎ、家の中は静まり返っている。
 階下の水音もここまでは届かない。ただボイラーが稼働する低音だけがぼんやりと聞こえる程度だ。おかげで以前よりは落ち着いていられた。
 だが頭からは彼女のことが離れなかった。一人でいる間もずっと考えていた。
 海沿いの道で話をした時、彼女は俺を好きだと言った。
 帰ってきたこの家の居間で、彼女は俺の傍にいたいのだと言った。
 その意味を深く考える必要などない。額面通りの意味に違いないのだ。雛子は嘘をついていないだろうが、口にした言葉に別の意味を込めたりもしていないだろう。
 なら、俺もそう思えばいい。彼女の言葉をそのまま素直に受け取っておけばいい。そして彼女の想いに報いるだけの幸いを、いつか、彼女に捧げればいい。
 それだけのことなのに。
 彼女の深い意味もないわがままが、俺の中にある余計な感情まで曝け出してしまったように思う。
 幸せな気持ちで迎えた夜なのに、今頃になって急に胸が苦しくなった。

 やがて階下で動きがあった。ドアの開く音の後で階段のすぐ下にある居間に微かな足音がした。かと思うとその足音は直に階段を上り始め、やがてはっきりとした気配となって俺の背後に現れる。
 戸口を背にして畳の上に座る俺の真後ろに、どうやら、雛子がいるらしい。
「先輩、済みました」
 雛子の声がそう言って、部屋に入ってくるのがわかった。足が古い畳を踏みしめる、軋むような音がした。
「布団を敷いてくださったんですね。ありがとうございます」
 そう言って、雛子は俺のすぐ横に座ったようだ。今度は音よりも確実な匂いでわかった。
 石鹸の匂いだ。
 湯上がりだからだろうか。彼女の体温が直接触れなくても、この距離から感じ取れるように思えた。身体の右半分、彼女が座っている側の腕や脚にほんのりと熱が宿る。
「別に大したことじゃない。それより、早く寝ろ」
 俺は振り向かずに応じた。
 湯上がりの彼女を見てまたよからぬ考えが浮かぶようでは困る。それに今、彼女が何を着ているのかという点も懸念の一つにあった。
 俺はまだ、彼女のそういう姿を見たことがない。
 想像をしてみたことはある。だが絶対に上手くはいかなかった。
「そうしますけど。先輩、おやすみなさいを言わせてください」
 雛子が俺に言葉を投げかける。そんなものいちいち断らなくてもいいのに、なぜ申し出てくるのだろう。
「言えばいい」
 そう返事をしてやると、雛子は少し笑った。
「顔を見て言いたいんです」
 その後、右横から顔を覗き込もうとしてきたので思いきり背けてやった。すると雛子は俺の前に回り込もうとする。慌てて俯く。
「今は見られたくない」
 落ち着いているといってもあくまで、以前と比べてという話だ。彼女が風呂場にいる間はやはり気持ちが浮ついていたし、こうして湯上がりの姿で傍にいられている今もそうだった。おまけに視界の端にちらりと見えた水色のパジャマは明らかに女物で、かろうじて残っていたなけなしの平常心すらあっさりと奪い去っていく。
 いくら想像しても思い浮かぶことのなかった彼女がここにいる。俺と別れた後、電車に乗って家族の待つ家へ帰ってからの彼女が。いつも、このパジャマを着てテレビを見たり、美味しそうにアイスクリームを食べたり、長い髪にドライヤーをかけたりしているのだろう。部屋で本を読む時も、机に向かって勉強をする時も、俺と電話をする時も、これを着ているのかもしれない。
 見てみたいと思う反面、見るべきではないと思っていた。
「嫌ならしょうがないですね」
 雛子が、どこか寂しそうな声を立てる。
「……おやすみなさい、先輩」
 その声は俺の心苦しさを一層駆り立てた。元はと言えば俺が一人で余計なことを考えているだけなのに、彼女にまで寂しい思いをさせる必要はない。ましてあれほど温かい言葉をくれた彼女を冷たくあしらうなど、どうかしている。
 俺は、面を上げた。
「あ、先輩――」
 こちらの動きに雛子がいち早く反応する。相変わらずよく見ている奴だと思う。
 だがこれ以上は見せたくなく、そして俺も彼女をじろじろと眺めてしまうことのないように、片腕を伸ばしてすぐ傍の彼女を抱き締めた。
 彼女は拍子抜けするほど造作もなく、俺の胸に身体を預けてきた。もっともそれは彼女にとっても意外なことだったらしい。
「ど、どうか、したんですか」
 腕の中から聞こえてきたのはくぐもった、およそ冷静ではない声だ。顔は上げられないように力を込めて抱きすくめている。腕や手のひらに湯上がりの熱っぽい体温と、夏物のパジャマのさらさらした肌触りを感じる。いい匂いがした。
「別に、どうもしない」
 俺はそう答えた。
 それが嘘なのか本当なのか、自分でもわからなかった。
「そうですか……じゃあ、どうして」
 たどたどしい雛子の問いを遮るように、
「顔を見られたくないからこうしたまでだ」
 俺は言って、しばらく目を閉じた。
 海の傍で話をした時も、抱き締めたいと何度も思った。思い留まったのは、あまりにも贅沢な気がしてならなかったからだ。
 だがいざ抱き締めてしまうと、幸せな気持ちと同じくらいの苦しさが胸いっぱいに広がった。
 同じ気持ちだと言えたらよかった。
 俺も本当は、お前に、もう少し起きていて俺の傍にいて欲しいのだと言いたかった。
 今日が、今夜が終わってしまうのが寂しくて、惜しくてしょうがなかった。
「……先輩が好きです」
 腕の中で雛子が、かすれた声で呟いた。
 その声は俺が着ているシャツを通り抜けて胸に突き刺さり、一層募る感情に、自然と身体が震えた。
 抑えが利かなくなる前に振り切ろうと、俺は黙って彼女の身体を抱え直した。物語の中ではよく『羽根のように軽い』などと書かれる女の身体が、実は決して軽くはないことを俺は既に知っていた。しかし運べないほどではなく、彼女の身体を敷いておいた布団に横たえるのにはさほど手こずらなかった。覆い隠すように上からタオルケットをかけてやり、その後で立ち上がった俺は部屋の明かりを消す。
 急に訪れた暗闇に俺の目はすぐには慣れなかった。だがその後でふと、眩く、小さな明かりが足元に点った。雛子が携帯電話を操作しているようだ。それはすぐに終わり、足元の明かりも消え、彼女が眼鏡を外して畳む金属的な音が聞こえる。
 俺は布団の脇に再び腰を下ろし、用意していた団扇を目を凝らして探し当てる。そしてそれを掴み、しっかりと握り、横たわる彼女を扇ぎ始める。
「本当に扇いでくださるんですね」
 暗闇の中、雛子の驚いたような声が聞こえた。
 なぜ驚くのか、俺は少しむっとした。
「嘘だと思ったのか」
「いえ。でも、冗談だったのかなって思ってました」
「そんなくだらん冗談は言わない」
 言いながら俺は団扇を動かす。
「もしかして、私が寝入るまで扇ぎ続けるつもりですか」
 雛子がこちらを向いたのが、うっすらと見えるタオルケットの動きと物音でわかった。心配そうな問いを、俺はあえて一蹴する。
「いいからとっとと寝ろ」
 もちろんそのつもりだったが、そう言えばまた押し問答が勃発しそうだ。俺に気を遣うより、気にせず寝入ってしまうがいい。
「先輩」
 しかし雛子はまだ寝ようとしない。彼女の顔は見えないが、声は明るかった。
「私、本当に先輩が好きです」
 何度それを口にすれば気が済むのだろう。
 それを言われた側の人間が何を思うか、彼女は深く考えていないのかもしれない。
「知っている」
 俺が苦し紛れに応じると、雛子がまた笑った。少女らしく、朗らかに。
 そしてまた繰り返す。
「本当に大好きです」
 胸が軋むように痛くなる。
 その言葉をもっと聞いていたいと思う。
「わかった。わかったから、いい加減寝ろ」
 内心とはまるで違う警告を俺が発すると、雛子は呼吸を整えるように大きく息をした。
 それから、
「おやすみなさい、先輩」
 そう言った時の彼女の声は、心なしか疲れたようにも、眠気を堪えているようにも聞こえた。
 思った通りだ。こんな遠くまで連れてこられて、散々歩かされて、疲れていないはずがない。俺は彼女に見えないのをいいことに軽く笑んで、しかし寂しい気持ちは押し隠したまま返事をした。
「ああ、おやすみ」
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