menu

嘘はつけない(4)

 夕食を済ませた後もしばらくの間、俺たちは居間で過ごした。
 澄江さんは夕方になっても機嫌がよく、疲れたそぶりもみせなかった。俺たちの為にお茶を入れてくれたので、それを飲みながら三人で他愛ない会話を続けた。
 刻一刻と暮れていく空は燃えるような色をしていたが、暑さは日中よりもはっきりと和らぎ、どこからか涼やかな虫の声が聞こえ始めた。夜の気配がにじり寄ってくるような時分だった。

「この間、五月の終わり頃だったかしらね。送ってくれた冊子も楽しく読ませて貰ったわ。あなたの書いたお話、面白かったわね」
 澄江さんが弾んだ声で話題に出したのは、春に送ったサークルの冊子のことだった。こうして手放しに誉めてくれるのもいつものことだが、雛子の前でされると少々面映い。
「ありがとうございます」
 俺は礼を述べた。
 実を言えば澄江さんが件の冊子について触れるのはこれが初めてではなく、既に何度かこうやって誉め言葉を賜っている。一度話したことをうっかり忘れてしまうのも、この人には――というよりこのくらいの年齢の人にはよくあることだ。気にしていない。
「文章の良し悪しなんて私にはわからないけど、あなたの書くものを読むのは好きなの。また何か書いたら読ませてちょうだいね」
 ねだる澄江さんの言葉に俺は頷く。
「わかりました」
 頷きながらも、あと何度、俺が書いたものを読んでもらうことができるだろう、とも思う。
 澄江さんは既に若くない。いつまでこの町での暮らしを続けるのか。続けられるのか。こうやって元気な姿を見ていられるのはいつまでだろう。そういうことを、時々考える。
「そういえば、雛子さんも文芸をなさってるのよね」
 俺の内心は知らない澄江さんが、黙って話を聞く雛子に水を向けた。
 いきなり名前を呼ばれて、雛子はきょとんとしている。澄江さんはそんな彼女に問いかける。
「よかったら今度、あなたの書いたものも読ませてくださらないかしら」
「わ……私のですか?」
「ええ。若いお嬢さんの書かれる文章、とっても興味があるの」
 屈託のない澄江さんの笑顔を見つめて、雛子は逡巡するような表情を浮かべた。
 仮にも文芸部に所属している、しかも部長ともあろう者が、作品を読みたいと言われてためらうのもおかしな話だ。俺はすぐさま口を挟んだ。
「何をためらうことがある。お前だって、人に読ませる為に書いているんだろうに」
「それはそうですけど……」
 雛子は俺に顔を向けると、弱々しく微笑んだ。
「先輩の書かれるものと比べたら、私のは、読んで楽しんでいただけるかどうか。自信がなくて」
 彼女からは以前、部活動についての悩みも打ち明けられていた。今の言葉を聞くに、その悩みは未だすっきりとは解決に至っていないようだ。
 とは言え、その時に俺がかけた助言を忘れてしまったわけでもあるまい。
 俺は迷う雛子の背を押しておく。
「澄江さんは、お前の作品を批評しようとしてるわけじゃない」
 どうせ雛子が慌てふためくほど、手放しで誉めてみせるに決まっている。その点は安心していい。
 雛子が書く文章はいかにも多感な少女らしく、絶え間なく揺れ動く感情がそのまま書き連ねられているような荒削りさがあった。彼女の気まぐれな感性は、時になぜそんな瑣末なことにこだわるのかと首を傾げたくなるほど近視眼的であり、時に誰もが見落としがちな本質を突いたものでもある。俺は彼女の書いたものをそれなりに興味深く読んでいるが、男には理解できない世界だと思うこともたまにある。
「ええ。私にできるのは、読ませていただけるお話を隅々まで味わうくらいよ」
 澄江さんが俺の言葉を継いだ。
「それに、あなたにもあなたにしか書けないようなお話があるのでしょう?」
 温かく雛子に対して語りかけるのを、当の雛子も真面目な顔つきで聞いている。
 俺もそれには心中密かに頷いたが、
「近頃ね。寛治さんの書く文章が変わってきたと思っていたところだったの」
 ふと、澄江さんが俺の話を持ち出したので、今度は内心ぎょっとした。
「先輩が……ですか?」
 聞き返す雛子に、澄江さんはこくりと頷く。
「ええ。以前よりも柔らかくて温かみのある言葉を使うようになったと思うの。だからきっと、誰か女の人の影響を受けたんじゃないかと思っていたんだけど」
 そうだろうか。俺はやはり心の中でだけ眉を顰めた。
 雛子の影響を受けたという自覚はない。確かに、彼女と交流を持ったことで異性に対する様々な認識に変化があったのは事実だ。それまで心に思い描く異性と言えばほぼ想像の産物ばかりだった俺にとって、柄沢雛子という実在する少女から得た影響は良くも悪くも測り知れない。だが、それが自らの書く文章に、しかも読む人にまでわかりやすく影響するものなのだろうか。何が変わったのか自分ではわからない。
 それとも、澄江さんだからこそわかった、ということなのだろうか。
 ひやりとする俺をよそに、澄江さんは尚も続ける。
「今日ようやくわかったわ。それは、雛子さんだったんでしょう」
 雛子は一瞬だけ俺を見てから、すぐにまた視線を戻した。
「だからね。寛治さんに影響を与えてくれた人の書いたお話も、是非読んでみたいのよ。もしよかったら、今度読ませてちょうだい」
 穏やかな口調の裏にも熱意を隠さず、澄江さんが頼み込む。
 それで雛子も心が決まったのだろう。
「では、何か書けたら読んでくださいますか」
 やや気負いも感じる口ぶりではあったが、真剣にそう問いかけた。
「ええ。楽しみにしているわね、雛子さん」
 澄江さんが笑んで、頷く。
 俺は二人の会話を聞きながら、改めて先程の、澄江さんの言葉を思い返していた。
 雛子と接することで、俺自身が変わったという自覚はある。だがそのことが、文章や言葉の使い方をも変えたというのなら、それは一体どうしてだろうか。

 他愛ない会話を続け、時計の針が午後六時を差した頃、澄江さんが席を立った。
「さてと」
 テーブルに手をつき、腰を庇うようにゆっくり立ち上がる。その動作を俺は黙って見守った。
「私はそろそろ、休ませて貰おうかしらね」
 澄江さんもこちらを見る。
 目が合うと少しだけ頷いたようだ。俺も目礼を返した。
「明日は何時の電車で帰るの?」
「正午前です。夕方までには向こうに着くように帰ります」
「そう。じゃあ、お昼ご飯はお弁当でも用意しようかしら」
 いくらか名残惜しそうにしながらも、澄江さんはさすがにくたびれていたようだ。短い会話の後で奥の部屋へと向かう。一階にある和室は澄江さんが寝室として使用している部屋だった。
「では、お先に失礼するわね。お休みなさい」
「は、はい。お休みなさい」
「お休みなさい、澄江さん」
 澄江さんの挨拶に、雛子はどこか畏まって、俺はいつも通りに返事をした。
 奥の部屋の襖が閉まり、やがて物音もしなくなる。
 俺たちも少しの間、特に意味もなく黙り込んだ。澄江さんが寝つくのを待った、というわけでもないのだが、俺は何となく口を噤んでいた。しかしずっと黙っているつもりもなく、雛子にどう切り出そうか、そのことだけは頭の中にあった。
 雛子は気遣わしげな顔つきで、閉ざされた奥の襖を見つめている。彼女なりに心配してくれていたようで、少ししてから切り出してきた。
「先輩。澄江さんはもしかしてお疲れだったのでしょうか」
「いや、いつもこの時間だ。年寄りだからな」
 俺が答えると、彼女は安堵の息をつく。
「そうでしたか……」
 彼女のそういう優しさを温かく感じて、俺も胸を撫で下ろした。
 ここへ雛子を連れてきて、澄江さんに会わせたことは正解だったようだ。少なくとも俺にとっては幸せで、充実した時間を過ごせた。澄江さんも喜んでくれたようだし、言うことはない。
 ただ、雛子の方はどう思っているのだろう。この時間を楽しく思ってくれただろうか。ここへ来てよかったと、後から思い出を振り返ってもらえるだろうか。
 これから俺が打ち明ける話を、彼女はどんなふうに聞き、どう思うだろうか。
「先輩」
 静かな居間で雛子が、再び口を開く。
 彼女の声は夜の気配に溶けるように、しんと響いた。
「澄江さんは、こちらにお一人で暮らしていらっしゃるんですか」
 どうやら雛子にも聞きたいことがあるようだ。今の問いも彼女の疑問の、ほんの一端にしか過ぎないのだろう。
 俺はその疑問に答えなければならない。
「そうだ」
 彼女の問いを肯定してから、俺は唇を引き結ぶ。
 それを見て雛子もまた黙る。表情が強張ったようにも見えたが、俺が答えを避けたと捉えたのかもしれない。俯く表情は申し訳なさそうに見え、こちらの焦燥をも駆り立てる。
 ベランダから覗く空は闇に閉ざされ始めている。夕焼けは夜の色に飲まれようとしていて、もう燃えるような赤さは薄れかかっていた。代わりに見えるのは小さな星の光だ。
 頃合いだと思った。
「散歩でもするか」
 俺は立ち上がり、彼女に告げた。
 ずっと俯いていた雛子が勢いよく顔を上げる。口を半開きにしたその表情は、まさに虚を突かれたといったふうだった。
「せっかく海まで来たのに、あまり海を見ていないようではもったいないからな」
 頭の中で用意したもっともらしい口実を読み上げる。我ながら、気の利かない台詞だと思う。
 だが雛子は異を唱えることもなかった。
「はい、ご一緒します」
 そう答えた後、彼女が立ち上がろうと腰を浮かせかけたので、俺もすぐに居間を出た。
 玄関で靴を履きながら、雛子が追い駆けてくる足音を背中に聞いていた。

 海岸を辿る道を歩き始めて間もなく、夕焼けの色は完全に空から消え失せた。
 満天を照らすのは丸い月の光、地上を照らすのは岸壁沿いに、等間隔に立つ水銀灯の光だ。もっともそれらの光をもってしても迫る宵闇を追い払うことはできず、水銀灯の間にはぽつぽつと暗がりがわだかまっている。
 この田舎町は夜になると人気がほとんどなくなってしまう。道を走り抜ける車もなく、静かな波の音が繰り返すだけの海岸はひっそりと不気味だった。
 小さな頃はよく、この道を一人ぼっちで歩いた。日が暮れてから歩くこの道は、明かりがいくつあっても、月の光が海を照らしていても怖くて、いつも自然と早足になって歩いた。海の果てしない広さと、田舎の空の驚くような高さは、あの頃抱いていた寂しさをいつも際立たせてくれた。
 だが今は一人ではなく、雛子を連れて歩いている。振り向かずに歩く俺を、彼女は少しだけ距離を置いて追ってくる。黙ってついてくる足音を心強いと思う。今更夜道を怖がる気持ちはないが、それでもここを一人で歩きたいとは思わなかっただろう。

 外気にはまだ炎熱の名残りがあり、しばらく歩くとやがて汗が滲んでくる。
 着衣が張りつく肌に潮風が心地よい。俺は息をつき、水銀灯の光を避けて暗がりの中で立ち止まる。
 少し遅れて雛子が、同じように足を止めたのがわかった。振り向けばその顔を見られるのだろうが、今はそうする気になれなかった。
「雛子」
 呼吸を整えながら彼女の名を呼ぶ。
「はい」
 打てば響くような返事があった。
 いつものように、雛子は俺の話を聞いてくれている。そのことが少しだけ気を楽にしてくれた。
「お前に、話しておきたいことがある」
 俺はなるべく感情を込めずに続ける。
「いや、話さなくてはならないこと、かもしれない。俺はずっと、お前にその話をしなかった」
 現実の話は、本の中の物語よりも悲惨で救いがない。雛子が好むような幸せな結末を、俺はまだ彼女に話すことができない。
 そもそも幸せな結末など、本当は存在しないのかもしれない。想いが通じ合おうと夢が叶おうと何かを成し遂げようと、それは全て人生という道の半ばに起きた出来事であり、結末ではない。そして人生の結末に訪れるのは、誰にも平等なある事象一つきりだ。それが幸いなものかどうかはその時になるまでわかるまい。
 だが、結末がどうであれその時まで幸いでありたいと思うのも、誰もが等しく抱く願いに違いないだろう。
 俺もそうありたい。
 だからこそ、彼女に話をする。
「しかし永遠に秘密のままにはしておけないから、今から話すことにする。先に言っておく。あまり面白い話ではない。むしろつまらない話だ」
 俺は彼女に念を押す。
「だが、次はない。二度は言わない。だから最後まで聞いてくれ」
 つまらない話を繰り返す必要はない。そう思い、俺は彼女の顔を見ずに告げる。
「……わかりました」
 雛子が返事をした。
 次に聞こえたのは深呼吸の音だ。寄せては返す波の音が傍にあっても、はっきりと聞き取れた。彼女が居住まいを正すのが、そちらを見なくてもわかった。
 ずっと欲しかった話し相手が、今、俺の傍にいる。
「澄江さんは……」
 おかげで俺も話ができる。ずっと胸の内に溜めていたものを、素直に口にできるほど消化しきれてはいなかったいくつもの事実を、紙やペンや作り話を通さなくても吐き出すことができる。
「あの人は、俺の祖母ではない、ことになっている」
 澄江さんは今日、俺を孫だと称した。
 だがそれは事実ではない。俺が生まれるよりずっと前にそうではなくなっていた。
「血の繋がりは確かにある。しかしあの人と、俺の父方の祖父は遠い昔に離縁している。だから俺もあの人を、祖母と呼んではいけないことになっている」
 話しながら足元に目をやる。
 ひび割れたアスファルトの道の先には、水銀灯が放つ楕円の光が広がっていた。潮風が舞い上げる砂埃や、光に集まる小さな虫をぼんやりと浮かび上がらせている光は、だが俺の足元までは届かない。
「だが、俺はそうは思っていない。思いたくなかった。あの人は、俺にとって特別な人だった。あの人こそが俺にとっては唯一の、家族だ」
 そこで一旦、唇を結んだ。
 胸の内に溜めていたものから感情を切り離すのに、少しの時間が必要だった。これまでの人生で俺が味わってきた理不尽さへの恨みつらみ、悔しさ、やるせなさなどは、あえて口にするほどのものでもない。今夜、ここへ全て捨てていけばいい。
 この先の未来に持っていくものだけを、彼女に渡せばいい。
「恐らく、血筋なのだろう」
 心を落ち着けてから、俺は話を再開した。
「俺の両親もかつて、俺が幼い頃に別れている」
 あの家はずっとそうだった。平穏が長続きしたことはない。
 唯一の例外がまさしく今なのだろうが、それもいつまで続くかわかったものではない。父親の不品行さを知っている身としては、家庭を大切にする父の姿をまだ呑み込めぬところもあるのだ。澄江さんが持つ温かな思いやりが、今になってあの男の胸に芽生えたと、そう思ってもいいものだろうか。
「行くあてがなかった当時の俺は、厄介払いのようにここへ送られた。澄江さんも面倒を押しつけられたものだが、あの人は不平一つ零さずに俺を育ててくれた。それだけのことだ。俺にとって澄江さんが特別で、それ以外の人間がそうではなかった理由は、ただそれだけの話だ」
 俺にとってはあの家のことも、いつか、関わりのないものになる。
 だが血筋、遺伝情報だけは、あの父からも、何年も会っていない母からも、ろくに口を利かなかった祖父からも、澄江さんからも受け継いで、この身体の中にある。こればかりはどうしても捨てられない、俺がこの先も持っていかなければならない代物だった。
「俺の祖父母も、両親も、皆が同じことを繰り返している」
 祖父と澄江さんが別れた理由を聞いたことはない。恐らくこの先も尋ねることはないだろうし、澄江さんも俺には話してくれないだろう。
 聞いたところでどうなるわけでもない。既に起きたことを取り返す術はなく、俺が辿ってきた人生ももはや変えようがないのだ。
「あの家では家庭も、夫婦の情愛も、親子の間柄さえ酷く脆い。何もかもが長続きせず、やがて終わりが来てしまう。何が原因なのかは判然としないから、俺はずっと、血筋なのだと考えていた。同じ過ちを繰り返し、得たものを自ら壊して、普通の人間ならば当たり前の関係さえ続けられない血筋なのだと」
 俺を思いやってくれたのは澄江さんだけだった。
 父は金をくれたが、新しく築いた家庭に俺を加えてはくれなかった。
 母は俺を捨てていき、今も父にだけは関心があるようだが、俺自身には何の興味もないらしい。
 祖父からは温かい言葉どころか、眼差し一つ貰った記憶がない。
 そういった血を受けて生まれ育った人間が、その血に逆らい生きていくことなどできるだろうか。
「今もやはり、そう思う。だから――」
 視線を上げた。
 同時に俺は、彼女を見た。ずっと黙って俺の話を聞いてくれた彼女に、ようやく視線を向けた。そうすることで今の、俺自身の表情を晒すことにもなるとわかっていたが、あえてそうした。
 雛子が吸い寄せられるようにこちらを見て、息を呑む。
「だから、もしかすると」
 俺はそこで言葉を止めた。
 その先を口にするべきかどうか、波の音を聞きながらしばし迷った。

 俺の心はとうに決まっている。
 これからの人生は彼女と共にありたいと思う。できる限り幸いな人生を送りたいと思う。その為の努力は何であれ、厭わぬつもりでもいる。
 だが、それを阻むものがあるとすれば、俺の身体に流れる血ではないかとも思う。
 終わりが来るとは考えたくもない。今のこの想いと幸いがいつまでも続けばいい。そう願うからこそ俺は彼女に過去を打ち明けた。彼女と共に未来を目指したいからだ。
 あとは捨てきれない荷物さえなければ、些細な不安だと笑い飛ばすこともできただろうに。

「先輩」
 沈黙と海のさざめきを打ち破るように、雛子の声が俺を呼んだ。
 いつになく強く、はっきりとした声だった。俺が彼女に目を向けると、雛子は黒い瞳で俺を見つめ、更に唇を開いた。
「大丈夫だと、言ってください」
 心底まで見透かされたような気がする。不安がっているのは俺だけだと、言い当てられたような気さえした。彼女はきっと、そうではないのだ。
 だから俺は彼女の願う通り、その言葉を口にした。
「大丈夫だ」
 彼女が願ってくれたことを、俺も心から願っている。嘘偽りなく言えた。
「同じ轍を踏むつもりはない」
 血筋と遺伝情報がいかに抗いがたいものであろうとも、所詮は形のないものだ。
 形ある思い出を彼女はくれる。彼女と出会ってからというもの、俺の胸の内を埋め尽くすような勢いで降り積もりつつある。いつか、俺の心は彼女全てで占められてしまうかもしれない――既に、とっくにそうなっていると、誰かは言うかも知れないが。
 俺は目を伏せた。
「昔は……違った。壊れてしまうにせよ、長くは続かないにせよ、どうでもいいと思っていた」
 これも、彼女にとってはつまらなくて面白みのない話かもしれない。
 だが俺にとっては違う。とても大切で思い出深い話だ。
「初めのうちは、単に話し相手が欲しかった。それもできるだけ従順な奴がいいと思った。自己主張をあまりせず、それでいて馬鹿ではなく、趣味は合うが可能なら俺とは違う意見を言えるような感性の持ち主。それからあまり騒がしくなく、必要のない時には滅多に口を利かないような奴。――その条件に、お前は合致していた。そういう奴を、傍に置こうと思って、そうした」
 自然と口元が綻んだ。
「もっとも、傍に置いてみてからわかった。その他の条件はともかく、お前はあまり従順な女ではなかった。それどころか時々、子供のようにわがままになる」
 彼女の、文学少女然とした見かけにすっかり惑わされていた。こんなにもややこしく、扱いづらく、手を焼く女だとは思ってもみなかった。
 そして彼女のそういう扱いづらさが、時として俺の心を捉えて離さず振り回すのだ。
「だが、お前にわがままを言われるのは嫌いじゃない」
 雛子と出会うまでは知らなかった感情だった。
「お前の笑う顔も、嫌いじゃなかった。控えめで、誰かに遠慮でもしているような笑い方をする。初めはその顔も鬱陶しくないからいいと思っていたが、ある時、それは違うと気づいた」
 彼女の笑顔は印象深かった。彼女と話すようになり、だがそういう気持ちが何を表すのか俺自身が知らなかった頃から、彼女の控えめに笑う顔だけはよく心に残った。
「好ましい、のだと思った。お前の笑う顔が」
 今でも、その笑顔の裏で何を考えているのか、わからない時がある。
 控えめに笑いかけられて、こちらがうろたえてしまいそうになることもある。
 だがそうして幾度となく心を乱されても、彼女の笑顔には惹きつけられるものがあった。少なくともその笑みが浮かぶ時、彼女が俺のことを考えてくれていると、わかるからだろう。
「お前の幼いところも、あまり従順ではないところも、いくつかの事柄に関しては驚くほど無知なところも、いささか落ち着きに欠けるところも。お前の欠点すら、今は、好ましいと思う」
 直して欲しいと思う箇所がないわけではない。
 しかし、欠点を含む全ての要素によって構成されている柄沢雛子という人間を、俺はひとかけらも失うことなく傍に置いておきたいと思う。
 今となっては彼女の全てがいとおしい。
「そのことに気づいた時、初めて失いたくないと思った。だから、俺は」
 話しながら、俺は再び雛子を見た。
 目の前にいる彼女は、今も変わらず俺を見ている。銀色のフレームに囲われた黒々とした瞳が、尚も真っ直ぐ俺を捉えている。その眼差しに恥じない自分でありたいと、この時思った。
「お前を失わずに済むように、お前を、ずっと傍に置いておけるように、できるかぎりのことをする。その為には何が必要かも考えている」
 風が吹いて、彼女の二つに結んだ髪を揺らした。彼女の小さな手は胸の前で握り合わせられている。俺がその手に自分の手を重ねると、手のひらに彼女の温かな熱が伝わってきた。
 彼女の手を包むようにして握る。雛子が一歩こちらに近づいて、互いの間に空いていた距離がなくなる。
「お前を失いたくない」
 何にも屈したくはなかった。形のない不安にも、過去にも、どんな負の感情にも。
「お前を離すつもりもない。これからも、俺の傍にいろ。ずっと、俺から離れるな」
 そうして要らないものを排してしまったら、後に残ったのはこんな、不器用な言葉ばかりになった。
 俺の言葉は本当に変わったのだろうか。それならばもっと上手く、今の気持ちを言い表すことができるだろうに。浮かんでくるのはまるで懇願のような、角の取れていない言葉ばかりだ。
 だが雛子は顎を引いた。
「はい」
 答えてから、あの控えめな笑みを浮かべてみせた。
「私も、先輩が好きです」
 好ましいと思う笑みに気を取られていたせいだろう。雛子が口にした言葉自体が胸裏に染みとおるまで、少しの時間が必要だった。
 その言葉を人から貰ったのは初めてだった。これまでは誰も、俺にその言葉をかけてはくれなかった。俺もそんな言葉を口走るのは、それこそ嘘をつくような、ごまかしでしかないような薄っぺらなものに思えて、これまであえて避けてきた。
 彼女がそう言ってくれたことに、喜んでいいのか、戸惑っていいのか、わからなすぎて目眩を覚えた。だが混乱する思考とは裏腹に、じわじわと込み上げてくる感情が胸に広がり、再び俺の口元を綻ばせる。
「だから絶対に離れません」
 雛子は澱みない口調で言い切った。
 そういう答えが聞きたかったくせに、そう言ってもらいたくて打ち明けておいておきながら、いざその答えを聞くと俺はどうしていいのかわからなくなる。今までこれほどに幸せだと思えたことが果たしてあっただろうか。そしてその幸福感を、どう表していいのかもわからない。どうせ隠し切れてもいないだろうに、彼女から見た俺は似合いもしない笑みを浮かべているに違いないのに、それをどう扱っていいのかまるで判断が利かない。
 彼女を抱き締めてしまえばよかったのかもしれない。
 だが、そうすると彼女の顔が見えない。俺を見て柔らかく、控えめに微笑んでいる雛子の表情を、目に焼きつけておきたかった。
「後悔するなよ」
 俺の確認を聞いた雛子は、そのままの表情で答える。
「後悔なんてしません。これまでも、一度としてしたことはありません」
 それは本当だろうか。俺が彼女をぞんざいに扱い続けた数ヶ月の間も、六月の冷たい雨にわざと当たらせたあの日も、つまらない行き違いから距離を置いた日々も、それ以降の様々な思い出のどの瞬間も、全てにおいて後悔したことがないと、彼女は断言できるのだろうか。
 だとすれば、
「お前は本当に物好きだ」
 そうとしか言いようがない。
 彼女はどうして俺なんかが好きなのだろう。そう思わなくもない。
 それでも、彼女のその気持ちが今日、今夜の俺をこの上なく幸せにしてくれている。俺にとってはそれだけでいい。
「だがお前のような物好きがいるから、俺の気も変わった」
 俺は雛子をじっと見下ろし、言った。
「……感謝している」
 握り締めた彼女の手は温かく、彼女が傍にいることを深く実感させてくれた。
 雛子は俺を見つめ続けてくれていて、その笑顔を見下ろす間中、抱き締めたいと何度も思った。それが容易くできるだけの距離にもいたが、これ以上の幸福は俺の手に余るような気もしてたから、やめておいた。
 俺は、雛子を幸せにしなくてはならない。
 これだけ多くの幸せをくれた彼女に、返さなければならないものがたくさんある。
 その時に貰いすぎているようでは、返しきれなくてきっと困ってしまうだろう。
top