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嘘はつけない(2)

 海際の道を、先程見えた漁港の方向へとしばらく歩いた。
 道の傍には点々と民家が立ち並んでいる。この辺りは今でこそひなびているが、かつては漁で栄えていたと授業で習った。そのせいだろう、海岸線に沿って建ち並ぶ瓦屋根の民家は、どれも栄華を極めた頃を偲ばせるような立派な構えをしていた。
 そうした漁師町の住宅街の中において、澄江さんが暮らしている家はごく小さい。周囲を大きな家々に囲まれているからか、いつも肩身が狭そうに、萎縮しているように見える。目が痛くなるほど白い漆喰の壁が次第に近づいてくると、その家の前に立つ、腰の曲がった小さな姿が目に留まった。
 澄江さんは打ち水をしているようだ。柄杓で水を掬い、家の前にそっと撒いている。会う度に小さく縮んでいくようなその姿を見ると、懐かしさよりも早く、言いようのない寂しさを覚えた。
 近づいてくる俺たちに、澄江さんもすぐ気がついたらしい。ふと顔を上げたので、俺も足を止めて頭を下げた。
「お久し振りです、澄江さん」
 澄江さんも軽い会釈を返してくれた。
「ええ、お久し振りです、寛治さん」
 その後で澄江さんの視線は、俺の隣へと流れた。年齢を反映して落ち窪んだ瞳は、雛子を見るなり一瞬大きく見開かれた。
 俺は澄江さんの一挙一動を見守っていた。雛子について、最も肝心な説明をしておかなかった点については俺に責任があり、澄江さんもさぞかし驚いたことだろう。この場で何か言われるのではないかと思っていたが、意外にも澄江さんの驚きは直に影を潜め、その表情がふっと和む。
「あなたが柄沢さんね。お話は聞いています。初めまして、福場澄江です」
 そんなふうに、澄江さんは雛子に声をかけた。
 俺の隣に立つ雛子は、見るからに緊張しきった面持ちをしていた。声をかけられるとぎくしゃくとお辞儀をする。
「は、はい。初めまして、柄沢雛子です」
 頭から飛び込むような大きなお辞儀だったが、束ねた彼女の髪は乱れることもなく、面を上げた時には自然と肩の上に乗っていた。もしかするとこういう時の為に髪を結んできたのだろうか。
「ええと、あの、この度はご厄介になります」
 何とか挨拶らしい挨拶を捻出しようとしてか、雛子は妙にたどたどしい口調になっている。
 そんな彼女に俺よりも早く、澄江さんが笑いかけた。
「そんなに畏まらなくてもいいのよ。自分の家だと思って、楽に過ごしてちょうだい。いつもうちの孫がお世話になっているようだしね」
 雛子の緊張を解こうとしたのだろう。優しい声で言った澄江さんは、その後で背後に建つ小さな家を手で示す。
「どうぞ、上がって。中の方が幾分かは涼しいわ」
 その言葉通り、開け放たれた玄関の戸口には簾が風に揺れていた。こうして潮風の通り道を作ってやると、あの家は夏でも涼しく、過ごしやすくなる。
「ほら、入るぞ」
 俺は雛子を振り返り、家へ入るよう促した。
 だが彼女の顔は強張っていて、俺に向けた目もまるで縋るようだった。借りてきた猫、という言葉はまさに今の彼女の為にあるのだろう。その様子が俺にはおかしくてたまらず、つい笑ってしまう。
「そんなに硬くなるな。肩が凝る」
「……はい」
 頷きながらも、雛子はまだ不安そうにしている。俺よりはるかに社交的な彼女でも、やはり目上の人間と顔を合わせる際には緊張するものらしい。ましてそれが交際相手の親族ともなれば尚更だろう。
 とは言え、俺の方にも多少の戸惑いはあった。澄江さんは雛子を見てそれほど驚かなかったようだが、さすがにこのまま『後輩の柄沢』が女であったことをすんなり受け入れてくれるとは思えない。後々何かしらの追及があると見ておくべきだろうし、その覚悟もした上で雛子を連れてきたのだ。せいぜい自白するしかない。
 そして、澄江さんが俺について『孫』と語ったことについても、少なからず驚かされていた。
 それは正しい説明ではないし、正しくないと俺に教えたのは他でもない澄江さんだ。見るからに幼い雛子に対して、事実を聞かせるのは尚早と踏んだのかもしれないが、気を遣われたようでいささか落ち着かなかった。

 港町の風景と同じように、澄江さんの家の中も以前とまるで変わりがなかった。
 狭い台所に立ち、まずは食器棚からグラスを三つ取り出した。普段使いのグラスは手入れがされているのかまだ輝きを失っておらず、そういうところから澄江さんの壮健ぶりが窺えてほっとする。木製の丸いトレイは昔と変わらず炊飯器の横に置かれていて、俺がそれを引っ張り出すと、澄江さんが冷蔵庫の戸を開けて、冷たい麦茶入りのポットを用意してくれる。
「ありがとうございます」
 礼を言いながらポットを受け取ると、澄江さんはにっこり微笑んだ。以前会った時よりも皺が増え、少し痩せたようにも見える。だが顔色は悪くない。
「お元気そうで何よりです」
 俺はそう告げて、グラスに氷を入れてから麦茶を注ぎ始める。
 澄江さんはくすっと笑い声を立てた。
「寛治さんもね。しばらく会わないうちに顔つきが変わったようよ」
「そうでしょうか」
 確かに澄江さんと会うのは久し振りだったが、変わったと言われるほど大きな違いがあるものだろうか。俺は首を捻った。
「ええ。何だか自信がついたような顔をしているわ」
 更に澄江さんが言うので、俺はいよいよ訝しく思う。
 これといって自信がつくような山を乗り越えた自覚はない。それどころか近頃では些細なことに迷い、思い悩むばかりの日々を過ごしている。これはいつもの澄江さんらしい買い被りだろう。そう思いながら麦茶を注ぎ終えた俺に、澄江さんは囁くように言った。
「前から思っていたのよ。最近は電話の声が随分幸せそうだって」
 麦茶を注ぎ終えた俺が思わず視線を向けると、澄江さんは意味ありげに目配せをしてくる。
「今日、ついさっきね。ようやくその理由がわかったところよ」
 はっきりと言われたわけではない。だが内心ぎくりとして、俺は台所から居間を振り返る。
 涼しい風が吹き抜ける居間に、雛子は一人で座っている。テーブルの前で背筋を伸ばし、足を崩すなんてことは考えも及ばないというように行儀よくしている。きょろきょろしては失礼だと思っているらしく、だが初めて立ち入る他人の家への興味も隠しきれず、眼鏡の奥で瞳を忙しなく動かしているのがこの距離からでもわかった。
 この家に彼女を連れてくる日が本当に訪れるとは――今更のように感慨に耽りたくなる俺を、澄江さんは楽しげに現実へ引き戻す。
「さあ、寛治さん。可愛いお客様に飲み物を持っていって差し上げないとね」
 俺はどう返事をしていいのかもわからず、とりあえず言われた通りにする。

 トレイにグラスを載せて居間へ持っていくと、雛子が待ち構えていたように顔を上げた。
 俺は黙って彼女の目の前にグラスを置き、次に澄江さんが座るであろう向かい側にもう一つ、グラスを置く。俺の分は雛子の隣に置いて、そのまま彼女と並んで腰を下ろした。知らないところへ来て心細そうにしている彼女を一人で座らせておく気はなかった。
 すぐに澄江さんも台所から姿を現し、テーブルを挟んで向かいに座る。それから俺へと尋ねた。
「暑い中を歩いてきて、疲れたでしょう。道に迷いはしなかった?」
「いえ、ちっともです。この辺りはいつ来ても、何も変わっていない」
 正直に俺は答えた。
 この町を誉めたつもりはなかったが、澄江さんは安堵したように微笑む。
「そうでしょう。相変わらずの、のんびりしたところでねえ」
 そしてグラスに手を伸ばしたところで、俺の隣にいる雛子が、身じろぎ一つせずにいることに気づいたらしい。
「どうぞおあがりになって。冷たい物で一休みなさいな」
 彼女に目をやり、改めて勧めた。
「い、いただきます」
 勧められた雛子はグラスを両手で持ち上げ、まず一口めを控えめに飲んだ。借りてきた猫のような態度は相変わらずで、見ているこちらがこそばゆくなる。
 澄江さんは何かと気遣うそぶりで、雛子がお茶を飲むのを見守った後は、テーブルの下から籐編みの籠を取り出した。籠の中には常に数種類の茶菓子が入れられており、大半は澄江さんが好きな和菓子で占められている。
「若い人たちが来るって言うから、何か用意しておこうと思ったんだけど、何がいいものか全くわからなくってねえ」
 そう言って、澄江さんは籠を雛子に差し出す。 
「こんなものしかないけれど、よかったら召し上がって。若いお嬢さんなら甘い物は好きでしょう?」
「え、あの……よろしいんですか?」
 雛子は戸惑い気味に籠を見下ろした。中身はせんべいなどもあるにはあったが、やはりほとんどが甘い和菓子ばかりだった。きんつばに羊羹、どら焼きに甘納豆などなど、俺にとっては食指の動かない品揃えだが、幸いにも雛子は甘いものならば際限なく食べられる人間だ。大分歩いて疲れているだろうし、昼食も軽めに済ませただけだ。ここで甘い物を食べておくのもいいだろう。
 彼女が遠慮するそぶりを見せたので、俺は口を挟んでやった。
「いいから貰っておけ」
 そして籠の中から雛子の好きそうな菓子を二つ三つ取り出して、彼女の手の上に載せていく。
 途端、雛子の表情がほんの少し緩んだ。好物を前にして緊張が解れたのだろう。
「ありがとうございます、いただきます」
「ええ、どうぞ」
 澄江さんが頷くと、雛子はすぐさまきんつばの包みを解き、一口ぱくりと齧りつく。今度ははっきりとわかるくらいに口元が綻んだ。
「美味しいです」
 彼女がようやく笑顔を見せてくれたので、俺も胸を撫で下ろしていた。雛子はやはりそうやって笑ってくれている方がいい。
「そう、よかった」
 どうやら澄江さんもほっとしたようだ。溜息混じりの声で言った。
「若いお嬢さんが来るって聞いていたら、もっとお菓子をたくさん用意していたのにね」
 その言葉の後、麦茶を飲もうとグラスを持ち上げた俺の方をちらりと見る。
「大体ねえ、寛治さんも一言、女の子を連れていくからと言っておけばいいのに」
 麦茶と一緒に息を呑んだせいだろう。麦茶が気管に入り、俺はむせた。
「肝心なことは何も言わないで、ただ『後輩を連れていく』とだけ言うものだから、私はてっきり男の子を連れてくるものだと思って」
 咳き込む俺に澄江さんの正論が追い討ちをかけてくる。いつかは言われるだろうと思っていたが、何もこのタイミングで、雛子のいる前で言わなくてもいいのに。
 雛子が背中をさすってくれようとしたが、気恥ずかしかったので断った。しばらくして落ち着きを取り戻してから俺は反論した。
「言うまでもないことかと思ったんです」
「あら、大切なことじゃない。あなたがうちに男の子を連れてくるのと、女の子を連れてくるのでは、全く意味合いが違うでしょう」
 非常に耳が痛い。
 だが『全く意味合いが違う』からこそ、言い出しづらかったというのも事実だ。澄江さんに対して『交際相手を連れていきます』と宣言するのは何だか軽薄なようにも思えたし、かといって『結婚を前提にして付き合っている相手です』と言えるような間柄ではまだない。せめて後輩が女であることだけでも触れられたらよかったのだろうが、それだけ言ったら言ったで澄江さんはどういう間柄なのか詳しく尋ねてこようとしただろう。結果、騙し討ちのような形になってしまったのは申し訳なかったと思っているが、ではどう言えばよかったのか、現段階でも俺には皆目見当もつかなかった。
「それにしてもねえ。あの人見知りだった寛治さんが、ちゃんと女の子を連れてくるようになるとはね。長生きはしておくものね」
 澄江さんはしみじみと呟き、真向かいに座る雛子を眺めた。
 幸いにして雛子は、こうして誰かに紹介するには申し分ない存在だった。いつも品のいい笑い方をするし、姿勢もいい。櫛を通したばかりのようになめらかな髪はきちんと二つに束ねられ、夏だからと言って必要以上に肌を出したりはせず、襟元までボタンを留めたブラウスを着ている。俺は彼女の今日の服装を旅装らしくないと思っていたが、それもやはりこういう場面の為だったのだと今頃気づいた。
 そういう気の回し方はいかにも彼女らしい。俺が感心していると、
「可愛らしいお嬢さんね」
 澄江さんもまた、ほうっと息をつきながらそう言った。
 たちまち雛子が頬を赤らめる。慌ててかぶりを振っていた。
「え? い、いえ、そんな、それほどでも……」
「あら、可愛らしいわよ。ねえ?」
 すると澄江さんはどういうわけか、俺に水を向けてきた。
「可愛いお嬢さんでなければ、わざわざここになんて連れてきたりはしないでしょう、寛治さん」
 それもまた正論ではあるし、事実でもあるのだが、だからといって面と向かって言うのは抵抗があった。
 大体、そんなことがすらすら言える人間なら、雛子のことだって事前に詳しく説明できたはずだ。言えないのをわかっていて、あえて澄江さんは尋ねてきたのだ。俺にとってこの人は育ての親も同然であり、恩人でもあるのだが、こうして冷やかすようなことを言われたのは初めてだった。澄江さんもまた浮かれているのかもしれない。
「いえ、……どうでしょうか」
 俺はかろうじてそれだけ答えた。
 澄江さんが相手でなければ一蹴するところだが、さすがにこの人の前で、別に可愛くはありませんなどと大人気ない照れ隠しをする気にはなれない。しかし正直に言おうものなら今以上に冷やかされることだろう。それは火を見るより明らかだ。
 やむなく視線を彷徨わせていれば、隣に座る雛子も照れたように俯き始めた。自分が聞かれたわけでもないのにもじもじと恥じらう様子は、この場を切り抜けようと必死になる俺の思索を甚だしく阻害するものだった。そういうそぶりは確かに、可愛い。もちろん普段からそう思っていないわけでは決してない。だがそれを口にするのはどうしても憚られた。事実として可愛いというだけではない、単純な誉め言葉ではないようにも思えたからだ。それを自覚すると、悲しいわけでもないのに胸が痛くなり、同時にいてもたってもいられない気分になる。そういうものを、口に出して事細かに説明すべきではないと俺は思う。
 だからこそどう答えていいのか――。
 最終的に、俺は逃げを打った。
「すみません、雛子に部屋を案内してきます」
 立ち上がるなりそう告げると、澄江さんは苦笑を浮かべる。
「ええ、どうぞ。案内するほど広いお家ではないけどね」
 許可をもらえたので、俺は大急ぎで二人分の鞄を持ち上げた。それから、こちらを見上げる雛子についてくるよう目配せをする。
 狭い階段を上り始めたところで、居間からは雛子と澄江さんの会話が聞こえてきた。
「では、ちょっと失礼します」
「どうぞごゆっくり。自分の家だと思って、くつろいでちょうだいね」
「ありがとうございます」
 雛子の緊張はすっかり解れてしまったようだ。いつもと何ら変わらない口調で、澄江さんと言葉を交わしている。
 むしろ俺の方が緊張し始めている。澄江さんにいろいろ言われたせいかもしれないが、雛子がこの家にいることを、今更妙に意識してしまう。
 彼女が後から階段を上ってくるのが足音でわかり、どういうわけか心臓が高鳴った。

 二階には部屋が二つある。片方は畳敷きの六畳間で、俺がこの家で暮らしていた頃に居室にしていた場所だった。
 足腰が悪いというのに、澄江さんはこの部屋をきれいに掃除しておいてくれたらしい。室内はすっきりと片づいて塵一つなく、木製の机の上まで磨かれていた。窓からは階下よりも強く風が吹き込み、かけられたレースのカーテンをはためかせていた。押入れの襖は閉ざされていたが、この中に布団があるのはわかっている。寝る時になったら敷いてやればいい。さすがにこの時分では必要ないだろう。
 俺がその部屋の隅に雛子の旅行鞄を置くと、ちょうど彼女も二階まで辿り着いたようだ。物珍しげな顔つきでこの部屋を覗き込んできた。
「お前の部屋はこっちだ」
 俺は簡潔に告げた。先程の会話のせいで非常に決まりが悪かった。
「はい、わかりました」
 雛子も心得たように短く応じ、それからふと聞き返してくる。
「先輩はどちらでお休みになられるんですか」
「俺は向こうだ。書室で寝る」
 答えながら、二階にあるもう一つの部屋を指し示す。
 廊下を挟んでちょうど向かいにある板張りの部屋が、俺の祖父が書庫として使っていた場所だった。祖父が何を思って本を集め、この家に保管しておいたかは定かではないし、今となっては尋ねようもない。だが室内には収めきれず、物置にまで詰め込まれた古書の数々は、幼い頃の俺にとって宝物であり、心の拠り所でもあった。
 正直なところ、隣の部屋で雛子が寝ているという尋常ならざる状況下で、俺が安眠できるとは思えない。それどころか寝つけるかどうかすら怪しいものだ。ならばいっそ寝ようとするのは諦め、向こうで夜通し読書に耽ってやろうと考えていた。どうせ一泊の旅行だ、睡眠は自分の部屋に戻ってからたっぷり取ればいい。
 雛子が書室の中を窺おうとしたので、俺も素早く室内に足を踏み入れた。鞄を床に置いて本棚に近づくと、廊下から流れ込む潮風に混じって、郷愁を誘う古い本の匂いがした。その匂いを嗅いだ途端、ここへ来たら読もうと思っていた本があったのを思い出す。早速覚えていたものを数冊、棚から引き出した。
「随分たくさんの本がありますね……」
 俺の後を追うように、雛子もこの部屋に立ち入った。溜息をつきながら壁面に並ぶ本棚を見回している。
「そうだな」
 彼女の言葉に俺は頷く。
 この部屋を、雛子にも見せたいと思っていたのだ。
「この家は蔵書が豊富だ。ここに入り切らない分が、まだ物置にもある」
「へえ……素敵ですね」
「来る度に読み進めているんだが、全て読了するのは当分先だろうな。数ヶ月は滞在しても退屈しそうにない」
 特別珍しい本があるわけではない。ここにある本を同じように買い揃えるのは莫大な費用と手間がかかるだろうが、新装版が出ているものもあるし、読みたいだけなら手段はいくらでもある。
 だが俺は、この部屋で本を読むのが好きだった。好きというよりも、幼いころから繰り返してきた記憶がそのまま、心の奥深くに焼きついているのだろう。この部屋で本を読む澄江さんの傍に座って、穏やかな時間を過ごした。やがて自分でも本を読むようになり、一日のほとんどをここで過ごすこともあった。たとえ外が荒れ狂う嵐でもここにいれば怖くはなかった。本に囲まれて過ごす平穏な時間こそが、あの頃の俺にとっては何よりの幸せだった。
 もっとも、今回はそういう感傷に浸るつもりで来たわけではない。
 いつぞやの雛子の願いを叶えてやろうと思っていた。
 旅先から送られてきた絵はがきに添えられていた一文を、俺は未だに、一字一句漏らさずに覚えている。何度も読み返しているのだから当然だろう。
 隣室の窓が開いているおかげで、波の音も微かに聞こえてくる。二人で本を読むにはまさにお誂え向きだ。

 雛子が本棚の前に立ち、本の背表紙を眺め始めたのを横目で確かめてから、俺も読書を始めた。
 澄江さんの言葉ではないが、俺のような人間に、こうして同じ時間を過ごしてくれる相手ができるとは。
 今の俺にはそのことが、何よりも幸せだった。
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