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古書に埋もれた夏の話(4)

 雛子と電話をしてから数日もしないうち、アルバイト先の古書店には大きな変化が起きていた。

 店内の棚の約半分の整理を終えると、そこには図書館に勝るとも劣らない美しい本棚ができあがった。
 棚に整列した本は出版社ごと、作者名の五十音順にぴしりと並んでいる。もちろんその棚はNDCに則って分類され、さらには上部にラベリングをすることで客にも探しやすいようになっている。もちろんどの本もきちんと背表紙をこちらに見せており、間違っても横倒しにされたり上に別の本を積まれたりといった状態にはなっていない。一部シリーズ物にところどころ抜けがあるのは残念だが、古書店という特色上やむを得ないことではあるし、何にせよ仕事の進捗状況に手ごたえを感じ始めていた。
「おお、やるな。何だか本物の本屋みたいだ」
 船津さんも満足げに俺たちを誉めてくれた。
「こんなに店がきれいになったの、それこそこの店始まってから初めてかもな」
 俺はその言葉に驚いたが、実は『古本の船津』はもう何十年も前から――要は船津さんの祖父の時代からこのような乱雑の限りを尽くした酷い有様だったということらしい。理由はその時々で異なり、ぎっくり腰の頻発、取り置きの増加、他店の店じまいに伴う大量の在庫引取り、あるいは仕入れミスなど多岐にわたっていたが、この店の本棚に分類や整理整頓といった概念が存在しなかったのは事実だそうだ。船津さんのだらしなさは店と同様、三代受け継がれてきた筋金入りの代物だったというわけだ。
「そんなの受け継がなくていいですよ!」
 当然のように大槻が指摘したが、俺も同じ気持ちである。
 しかし船津さんもまた同じ気持ちだったようで、
「だよなあ。俺もそう思うよ。親父も自分が店やってた時は散らかし放題だったくせに、俺に店譲ったらうるせえのなんのって。あいにくこっちは親の背中見て育ってんだよ、って言ってやったぜ」
 と誇らしげに語るのを聞き、俺は内心で溜息をついた。世の中にはいろんな親子がいるものだ。
 ともかくも成果は上々、『古本の船津』にはようやく整理整頓の概念が根づこうとしている。
 いるはずなのだが。
「また散らかったらお前らに頼もうかな」
 ふと、船津さんが不穏なことを口走った。
 せっかく整い始めているこの店が、また元の木阿弥では困る。俺は控えめに進言した。
「今後はなるべく散らかさないようにする、というのではいけませんか」
「俺だって散らかしたくて散らかしてきたわけじゃない。『なるようになる』って言うだろ。なるようになった結果があれだったんだよ」
 全く悪びれることなく言い放った船津さんは、呆気に取られる俺と大槻の顔を代わる代わる眺めてから、鋭敏さのまるでない顔に満面の笑みを浮かべた。
「ところでお二人さん、冬休みの予定はどうなってる? ああ、九月の連休あたりでもいいな」
「な……何で、そんなこと聞くんですか?」
 わかりきっていることを大槻が尋ねると、船津さんはあっけらかんと言った。
「もし空いてんだったらいいバイトがあるぜ。多分な」
 それは『多分』ではなく、今から『確実に』と言っておいても何ら問題ないように思えた。
 上機嫌の船津さんは俺たちの肝を散々冷やした挙句、開店準備もそこそこにまたふらりと行方をくらました。
「あの人、俺らのこと清掃業者か何かだと思ってんじゃないかなあ」
 とは、大槻の弁である。
 その推測が事実であってもそうではなくとも、俺たちの仕事内容に変わりはない。店内の棚はまだ半分も残っている。本日も弛まず働かなくてはならない。
 しかし目に見えた成果が出てきたことで俺の気は楽になっていたし、やりがいを感じるようにもなっていた。

 ただしやりがいを感じているのは俺の方だけで、大槻はそうでもないらしい。アルバイト二週目も半ばを過ぎた頃とあってか、奴のモチベーションが明らかに下降しつつあるのが見て取れた。
「鳴海くん、満更でもないでしょ」
 早くも店主が消えた店の中で作業を始めながら、奴のお喋りもまた始まっていた。
「何の話だ」
 俺は棚に本を収めつつ、眉を顰める。
 大槻は作業と会話を同時にこなすということができない男だ。実際はできないというより、意図的にしていないのかもしれない。そちらの方が一層質が悪い。
「さっきの船津さんの話。冬休みもここにバイトに来ようかな、とか思ってない?」
「思ってない」
「嘘だろ。本にまみれて仕事ができるなんて、君にとっては楽園じゃん。俺はもう普通に地獄の三丁目ですけどね」
 奴は笑い交じりに応じた。この会話の間、奴の方から作業をする物音が全く聞こえなかった。
「本は好きだが、どうせなら客として来たい」
 正直に俺は答えた。更に正直に言うなら、俺たちがせっかくきれいにしているこの店が、また乱雑で散らかり放題の店に戻ってしまうのを見るのは忍びない。できれば船津さんには、二度と俺たちが必要にならないよう努めて欲しいと思うのだが。
「そっか。てっきり俺は冬休みも働く気でいるのかって思ったよ」
 ひょいと、大槻が本棚の陰から顔を覗かせた。手を休めるなと睨みつけてもどこ吹く風だ。
「とりあえず仕事をしろ大槻。冬休みの前に、夏休みの確保が急務だ」
「何か俺の夏、本だけ見て終わるんじゃね? って気がするんだけど」
「本だけ見て終わらないように働けと言っているんだ」
「このバイトが終わったら俺、一切本と関わらない夏を過ごすんだ……」
「好きにしろ。ともかくそれまではきりきり働け」
「あ、そうだ鳴海くん、昼飯何にする? 俺は焼きそばと塩唐揚げ弁当かなあ」
 全くもって聞き耳持たない態度に呆れ、やむなく俺は切り札を持ち出す。
「……いい加減にしないと、お前が楽しみにしている漫画本と写真集の整理も俺がやるぞ」
 大槻がこの店で唯一興味を持った商品群である漫画本と写真集については、奴の地面すれすれを低空飛行しているモチベーションをすんでのところで墜落させぬよう残してある、まさに最後の切り札だった。大槻には店がある程度片づいたらそちらに手をつけるよう言い渡しておいた。にんじんを目の前にぶら下げられた馬のような扱いだが、大槻にはこれが思いのほか効いたらしい。
「わあ、やりますやります! それがなくなったらもう、俺の楽しみなくなっちゃうよ!」
 奴は大慌てで顔を引っ込め、本棚の向こうからだらけきった溜息が聞こえた。そしてのろのろと作業をする物音が再開された。俺もひとまずほっとする。
 リスト化され、更には店主の選別も経て店頭に並ぶことを許された本たちは、一旦プラスチックのケースにしまわれる。そこから俺と大槻の手によって店内に運び出され、店の本棚に収められる仕組みになっている。今日は遂に店頭のスチール棚にも手をつける段取りだった。そこに収められる本は店主が程々の価格で売り出すのを諦め、かといって他店などに引き取ってもらえそうにもなく、『一冊百円』で適当に売り飛ばそうとしている品ばかりだった。来なら今日の大槻はそろそろ外へ出て店頭の本棚を相手取っているはずなのだが、昼休憩の時間が着々と近づいてくる頃合いになっても一向に外へ出て行く気配がない。
「そう言や、君が薦めてくれた本、読んだよ」
 おまけにまたお喋りを始めた。もっとも今回は作業をする音もちゃんと聞こえていたし、何より大槻が口にした話題には俺も興味があった。
 ケース内の本を本棚に全て収め、新しいケースを店内に運び込んでから、俺は奴に続きを促した。
「読んだのか。どうだった? お前の好みに合ったか?」
「ああ、うん……。内容は大体、君の言った通りだったけどさ」
 大槻の声がそこで沈んだ。本をしまいながら耳をそば立てると、先程とは違った雰囲気の溜息が聞こえた。
「読み終わったら何か、すんげえ鬱い気持ちになったんだけど」
「最後まで読んだのか」
 活字が苦手だと言っていたのに読了するとは。俺は大槻を見直したが、もしかすると本人が言うほど苦手というわけではないのかもしれない、とも思う。あの本は活字を追いたくない人間が興味本位だけで読了できるような内容ではないからだ。
「読んだよそりゃ。最初の二話くらいまではまあ、にやにやしながら読めたよ」
 大槻はそう言って、また深く息をつく。
「でもあれ、そこまででいいよね。せいぜい志乃ちゃんに子供ができるとこまででさ」
「なぜそう思う」
「なぜって……だって暗すぎるじゃん。普通だったら子供が生まれてさあ幸せホームドラマだぞってところで何だよあれ」
 何だよと言っても、何があるというわけでもない。『忍ぶ川』という短編集の終盤で主人公たちに起こるのは、新聞にも載らない程度の小さな事件と、密やかに迫り来る暗い予感だけだ。
「やっぱ小説とかさ、いや漫画でも映画でもそうだけど、最後はハッピーエンドがいいよ」
 不意に大槻が、まるで雛子のようなことを口にした。
 雛子も物語の結末を、場合によってはストーリーそのものより重視する人間だった。できれば最後は幸せな結末がいいと事あるごとに話していたし、そういう物語を読み終えた後は彼女自身も幸せな顔をしていた。俺は結末そのものに重きを置く彼女の考え方には納得できていないが、くしくも大槻が似たようなことを言い出したのには驚いた。
「次に何が起きるかわからないのが人生だ」
 俺は大槻にそう言った。
「誰かの人生を描いた物語が必ずしも幸せな結末である必要はないだろう。むしろ暗い影が忍び寄る方がかえって自然だと思うこともある」
 俺があの物語に惹かれたのも、そういった人生の儚さ、無常観を見出したからかもしれない。死という避けがたい現象への捉え方、受け継がれてきた血の宿命、それを背負うがゆえに抱く子孫を残すことへの葛藤。そういったものを乗り越えた先に待っている未来が幸いではなかったとして、それをおかしいと言える者などいないはずだ。そういうこともまた、人生においては当たり前のようにあり得るからだ。
「そうかなあ。俺は何でもかんでも丸く収まるのがいいけどな、本読んでまで暗い気分になりたくないし」
 大槻は軽い口調で言った後、まるでからかうように付け足した。
「まああれですよね。鳴海くんはリアルが幸せいっぱいだから、暗い話読んでも平気なんだよねきっと」
「そんなもの関係あるか」
 昔から読書における嗜好が変わっていない俺は、半ば本気でその意見を否定した。
 だがそれが、大槻には違う態度に映ったのだろう。
「すぐムキになるんだからなあ君は。で、雛子ちゃんとは最近どう?」
「なってない! それに前にも言ったが、最近は会ってないからどうも何もない」
「夏休み中に一回も会わないってことはないだろ? 何か予定立ててんじゃないの」
 大槻の言葉は、今回ばかりは真実を正確に射抜いていた。
 俺が返答に詰まったのが気配でわかったのだろう。大槻は悪い魔女のような笑い声を立てる。
「ほほう。こいつは、どこにどういう日程でどんな目的で出かけたりするのか、尋問する必要がありそうですなあ」
 奴の芝居がかった口調は癇に障ったが、ここでは何を言っても旗色が悪い。よって俺は黙秘を貫くことに決め、大槻の戯言は全て『いいから仕事しろ』の一言だけで切り抜けた。

 ところで、朝の九時から昼の三時までがこのバイトにおける勤務時間だ。船津さんの帰りが遅くなった場合は店番がてら残業することもあったが、概ねこのような調子だった。
 そのうち一時間、午後十二時から一時まで、もしくは一時から二時までが昼食を取る為の休憩時間となっている。
 船津さんは俺たちの休憩時間について、特に指示をしてこなかった。好きに過ごしていいよ、などと曖昧かつ気の抜けた一言をくれただけである。アルバイトの勤務態度を少しは気にかけてもいいのではないかと俺は思うが、何分この手のアルバイトは初めての経験だったので雇い主の方針に口を挟むのは止めておいた。結局、バイト経験者の大槻が『こんなもんだろ』と一時間の昼休憩を提案し、俺もそれを承諾した結果だ。
 毎日の休憩は交代制で一時間ずつ、先に入る方が二人分の弁当を買ってくる。どちらの休憩が先かも平等に交代制。俺たちが取り決めたのはそういった曖昧なルールだったが、これまで特に揉め事もなくやってきた。幸いにして弁当屋は古書店から歩いて五分もかからぬところにあり、買いに行くのに不便はなかった。

 本日の休憩は大槻の方が先だった。奴は二人分の弁当を購入した後、店の奥にある船津家の居間で弁当を食べた。そして午後一時、休憩から戻ってきた奴と交代した俺は少し温くなった弁当を、やはり船津さんの居間で食べ始めていた。本日のメニューはなすの天ぷら弁当。この弁当屋は腕こそ悪くないが少々味つけが濃く、食べた後で喉が渇くのが困りものだった。
 しばらく黙って食べ進め、俺の箸がなすの天ぷらの最後の一つを摘み上げた、その時だった。
 店内の異変に気づいた。
 静かだ。やけに静かすぎる。
 無論、来客はごくわずかなこの店が静まり返っているのも珍しいことではない。だが店内にいるはずの大槻が物音一つ立てていないというのはおかしい。おかしいというより不審だ。疑わしい。
 俺は音もなく箸を置き、古めかしいちゃぶ台から離れて店へと続く戸口に歩み寄る。足音を殺しながら近づき、戸口にかかったのれんを手繰ってそっと店内を覗き見れば、本棚の陰にしゃがみ込んだ大槻の姿があった。まさか体調でも悪いのかとぎょっとする俺の目に、奴の手元の動きが映る。
 携帯電話のキーを一心不乱に操作していた。
「……何やってる、大槻」
 聞くまでもないのはわかっていたが、尋ねずにはいられなかった。
 俺が声を上げた途端、奴は弾かれたように立ち上がった。携帯電話を背後に隠してももう遅く、引きつった笑顔を貼りつかせた顔は誰がどう見ても怪しい。恐らくその内側では思考回路がフル回転してまともな言い訳を捏ね繰り上げている最中なのだろうが、決定的瞬間を見てしまった俺には通用するはずもない。
「な、鳴海くん……何してんの?」
「それは俺が聞いている。仕事もしないで何をしているんだ」
 一瞬、ほんの一瞬だけではあったが奴を心配しかけた後だけに、余計に腹が立っていた。
 大槻が気まずげに後ずさりをする。
「い、いや、仕事してなかったってわけじゃないよ、たださあ……」
「じゃあ休憩を済ませた後でどれだけ進んだか見せてみろ。信じてやる」
「わかったって! 今やる、今からやるから!」
 携帯電話をエプロンのポケットに押し込み、大槻は足元に放置していた本のケースを持ち上げた。そこにはまだみっちりと本が詰まっていて、一冊として棚にしまわれた形跡がなかった。
「やっぱり、サボりか」
 俺が嘆息すれば、大槻はこの期に及んで心外そうにする。
「何言ってんの、サボりじゃないよ人聞きの悪い! ちょっとメールしてただけだって!」
 実質同じことではないのか。いよいよ俺も腹が立った。思わず大きな声も出る。
「仕事中に電話を弄るな! 全く、静かにしていると思えばこれだ!」
「いや、だってお客さん来ないしさ、ちょっとくらいならいいかななんて……」
 弁解にもなりようのないことを聞かされたところでどうしろというのか。
「そういうことは休憩中に済ませておけ! そしてお前の休憩はもう終わっているはずだ!」
「あ、そうそう! 鳴海くんは休憩中じゃん、ほらほら早く中に戻ってほら!」
 大槻はさも人懐っこそうな笑みを浮かべて店の戸口を目で示す。
「誰のせいでゆっくり休めないと思ってる!」
 全く、七月の真昼間に声を荒げるなんて馬鹿げている。だがそうやって、俺に見つかれば確実に注意されるであろうことをしでかす大槻もまた馬鹿げている。
 結局奴はろくに反省の色も見せず、俺をおざなりに宥めすかした後、 
「じゃあ俺、外の本棚整理してくるから!」
 ケースを抱えて眩しい店外へと飛び出していった。
 俺もぐったりと余計な疲労を抱え込み、足早に居間へと戻る。残りわずかな弁当を片づけ、残り三十分の休憩時間で怒りを静めておこうと試みた。しかし荒れ狂う感情はなかなか落ち着かず、むしろ募るばかりだ。
 大槻が店の外に出たせいか、店内はまたも静まり返っていた。
 ――が、どこかから話し声がした。恐らく店の外からだろう。
 何気なく耳を澄ませてみると、声の主はまたも大槻だった。メールに飽き足らず今度は電話をしているのではないかと俺は勘繰ったが、そうではなかった。大槻の言葉に返事をする誰かがいた。
「先輩の邪魔をしないって約束だったんです。だからこれで……」
 微かにだけ、女の声がした。
 その声の主が誰かはすぐにわかった。これだけ距離を置いても、大槻の辺りを憚らない声に掻き消されそうになっていても、耳に馴染んだ彼女の声は不思議と判別がついた。
 雛子が、店に来たようだ。
 だがおかしい。雛子には邪魔をするなと言っておいたはずだ。それだけ言っておけば彼女も店には近づかないはずだと踏んでいたのだが、近づかないどころか店の前で大槻と話をしているようだ。
「いいからいいから。入ってきなって」
「え、でも……」
 どうやら大槻は雛子を店に招き入れようとしているらしい。雛子が遠慮がちな態度を取っているのは俺との約束を覚えているからだろう。その点は感心だが、大槻に捕まっている時点でもはや何の意味もない。
「邪魔って言っても要は、可愛い彼女が傍にいると気が散るとか、集中できないとかって意味だろ?」
 おまけに、大槻がそんなことまで言っているのが聞こえた。
「それは雛子ちゃんのせいじゃない、鳴海くんに邪念があるってことだ」
 さっきまで仕事をサボっていた奴に言われたくはない。
 だが俺がどう思おうが、事態は既に回避不能、すぐ眼前まで迫っていた。
「はい、じゃあお客様、店内にご案内いたしまーす!」
「えっ、あの、やっぱりいいですよ、先輩に――」
「平気平気。可愛いお客様相手にいちいちうろたえてんな、って言ってやればいいよ!」
 大槻に押し切られて、雛子は遂に店の敷居を跨いだようだ。二人の声がより近くで聞こえ、俺も覚悟を決めて立ち上がる。
 顔を合わせたら何を言ってやろう。そんな考えが脳裏をかすめたが、どうせ顔を見たら気分が変わってしまうこともわかっている。それよりもむしろ、大槻との会話が妙に親しげに聞こえることの方が気に食わない。
「鳴海くーん、可愛いお客様が来てるよー!」
 店内からこちらに呼びかけてくるのは、あからさまに浮かれた大槻の声だ。
「……叫ばなくても聞こえる」
 俺は返事をすると、戸口にかかったのれんを再び引き開けた。
 にまにまと意味ありげに笑む大槻の隣に、確かに柄沢雛子がいた。今日は長い髪を下ろし、白い襟がついた袖のないワンピースを着ていた。例によってその服も水色だった。この暑い最中に帽子も被ってこないのは気にかかったが、彼女の顔や手足はまだほとんど日に焼けておらず、文学少女然とした姿に変わりはなかった。
 七月中に一度顔を合わせていたが、こうして古書店の中で会うのは新鮮だった。彼女はおずおずとした表情を浮かべており、俺の反応を気にしているのが一目でわかった。
 相変わらず迂闊な奴だ。大槻なんかに捕まっていないで、振り切って逃げればよかったものを。
「客で来いと言った覚えはないが」
 俺が声をかければ、雛子は眼鏡越しに申し訳なさそうな目を向けてくる。
「すみません……。ご迷惑なら、すぐ帰ります」
 迷惑は迷惑だ。だがこうなった手前、ただ帰れというのもさすがに酷な話かもしれない。仕事の邪魔は断じてされたくないが、しかし少し涼んでいくくらいなら許してやってもいい。
 と、俺が考えをまとめている隙に大槻が言った。
「そんな怖い顔するなよ、彼女相手に! わざわざ来てもらったたんだろ?」
 先回りをされたような気がして腹立たしかった。俺は八つ当たり気味に大槻を睨んだ。
「大槻。外の本棚の整理はもう終わったのか」
「あ! いや、これからやりますけど!」
「さっさとやれ。とっくに終わっていてもいいくらいの時間だぞ」
「はーい。じゃあ雛子ちゃん、遠慮なくゆっくりしてって。俺もすぐ戻るから」
 大槻は雛子に声をかけると、まるで逃げるような速さで店の外へ出て行った。
 頭を下げてそれを見送った後、雛子が改めてこちらを向く。申し訳なさそうにしている割には俺をじっと見上げている。このまま帰されるにしても、もう少し言いたいことがあるのだろう。
「こちらにわからないようにする、という約束じゃなかったか、雛子」
 俺が先日の約束を確認すると、彼女はすぐに詫びてきた。
「本当にすみません。先輩のお邪魔をするつもりはなかったのですが……」
「当たり前だ。説教をする時間も惜しいからこれ以上は言わんが、わかっているな?」
「はい……」
 雛子は俯いたが、あいにく俺の気分は既に変わっていた。
 大槻の目論見通りにするようで癪でもあったが、彼女がどういうつもりで来てくれたのかということを思えば――そしてもし立場が逆だった場合、俺も同じようなことをしただろうと考えれば、このまま追い返すなどできるはずがない。
「本を見ていくなら好きにしろ。うるさくするようなら追い出すぞ」
 俺は、彼女にそう告げた。
 たちまち雛子は顔を上げ、何事かというくらい大きく目を瞠った。彼女の驚きようにこちらまで驚かされたが、恐らく意外なことを言ったと思われているのだろう。
「客で来たということなら、そうむげにもできまい」
「い、いいんですか? 私がいたらお邪魔なんじゃ……」
「来ておいて今更何を言う」
 もう既にペースは乱されている。
 あとは集中力が削がれないことを願うばかりだが――邪念などと酷い言い種をされた以上、是が非でもそんなものがないことを証明してやりたくもなった。
「それに、ここでお前を帰したら大槻が喧しいからな」
 奴なら恐らく聞き耳を立てていそうだと思い、俺はあえてそう言った。
 雛子は少しの間瞬きを繰り返していたが、その目がやがて輝いた。零れんばかりの笑みを浮かべて、しかしこれだけは忘れてはいけないというふうに口を開く。
「ありがとうございます、先輩」
 彼女の言葉と笑顔から、なぜか目を逸らしたくなった。
 どうしてこんなことくらいで、そんなに嬉しそうにするのか。この程度で喜んでくれるのなら、旅行に連れ出したら、どんな顔を見せてくれるのだろう。俺は彼女の為にこのアルバイトを始めたようなものだが、勤労の日々の先にこんな素晴らしい笑顔が待っているというなら、何だか――何だかすごく、幸せなことだ。
 そしてこういう気持ちは、邪念には当たらないと思う。

 ともあれ俺は残りわずかな休憩時間を放棄し、予定よりも早く仕事に戻った。
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