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灯火の熱量(3)

 止まない雨音に加えて、バスルームからは別の水音が響いてきた。
 タオルとTシャツは用意してやったから、俺がそちらへ出向く用はもうない。つまり気にしてやる必要もないのだが、どういうわけか彼女が湯を使う音が耳にこびりついて離れない。というより、彼女がそこに、擦りガラスの戸を一枚隔てただけの距離にいて、シャワーやシャンプーやボディソープを使用しているという現実に思考が埋め尽くされ、他のものの入る余地すらなかった。
 なるべく冷静になろうと努め、俺も濡れてしまった服を脱いで別のシャツに着替えを済ませた。日が暮れ始めていたのでカーテンを引き、電灯も点けた。それから余計なことを考えないように、本棚から適当な本を取り出し、床の上に座って開く。読書でもすれば気が紛れるだろうという目論見だったが、よく響く水音のせいで読み進む速度は一向に上がらなかった。
 馬鹿馬鹿しい、何をそんなに意識しているのか。
 雛子が風呂場にいるくらいで何だ。風呂ぐらい人間誰でも入るものではないのか。そんな当たり前の行動が傍で行われているという現状にいちいち気を取られる必要もあるまい。考えなければいい、簡単なことだ。
 だがどうしても考えてしまうのは、彼女が他でもない柄沢雛子であり、そして今日が雨の日だからなのだろう。

 夕方に雨が降ると、決まってあの日の出来事を思い出す。
 ちょうど一年前の六月、俺は既に雛子と長い時間を共に過ごすようになっていた。だがその関係は今とは比べものにならないほどぎくしゃくしており、歪でもあった。
 当時の雛子は現在のような扱いづらさや口答えをするような生意気さ、少女らしい気まぐれさはほとんど窺わせず、いつもひっそりと息をしていた。俺の言葉に逆らうことはほとんどなく、呼び出せばいつでもやって来たし、命じればどこへでもついてきた。俺が創作や読書について意見を求めた際は真面目に応えてくれたし、それ以外の余計なことはほとんど口にしない、まさに俺が望んだ通りの理想的な話し相手だった。
 初めのうちは俺も、都合のいい話し相手を確保できたことに満足していた。大学に進んでからは文芸部に顔を出すこともできなかったので、彼女と個人的に連絡を取り合い、必要な時に会ってもらえるのは大変に好都合だった。彼女の従順さにも満足していた。
 だが次第に、雛子の従順さが不気味なものに思えてきた。
 俺は曲がりなりにも彼女に交際を申し込んだつもりでいたのに――客観的にはそう見えづらかったかもしれないが、少なくともこちらはそのつもりだった。だが雛子が俺に従う時、その行動原理は好意から来るものではなく、命じられたことを機械的に実行しているだけのように映った。俺の言うことに従うのは彼女の意思によるものだったはずだが、その意思はやや盲目的で、彼女がそうしたがっているというよりも『そうすべきだから従う』という姿勢が垣間見えていた。
 直に俺は彼女の気持ちが、なぜ俺の言うことに従うのかわからなくなり、次第に彼女が疎ましくなってきた。何を考えているのかまるで読めない雛子の不気味さを持て余し、邪険に扱ってしまうことも度々あった。しかし俺がどんな扱いをしても、長らく連絡を取らないことがあっても、一度電話を入れれば雛子は必ず応じたし、俺の態度を責めることもなかった。
 そんな日々が続き、迎えた雨の季節だった。俺はいつものように雛子を呼び出し、彼女を連れて図書館へと向かった。俺たちの関係に改善の糸口は見つからず、俺たちの会話は創作や読書以外の話題では弾むこともなかった。図書館で雛子が窓の外の紫陽花に見入っているのを発見した俺は、彼女にその花が好きなのかと尋ねた。だが返ってきたのは『嫌いではありません』という曖昧な回答だった。白けたやり取りに俺は落胆したが、見入るくらいだから好きな花なのだろうと思い込み、紫陽花のことは後日までよく覚えていた。
 図書館で用を済ませた後、俺たちは六月らしく雨に降られた。俺の鞄には借りたばかりの本が入っていたから、その本を濡らさないように部屋へ帰りたかった。そこで雛子に傘を持たせ、部屋へ戻るまでの間、本を濡らさないよう傘を差せと言い渡した。この時ほんの少し、彼女の従順さを試してやろうという気にもなっていた。およそ酷い命令にもかかわらず彼女は文句一つ言わずに従い、その役割を果たしおおせた。当然、俺の部屋に辿り着いた時にはそれこそ今日のようにずぶ濡れで、結んだ黒髪は水を吸い、重たそうに垂れ下がっていた。
 俺は雛子の相変わらずの従順さに苛立っていたが、彼女を試したことへの気まずさも同時に胸を過ぎった。すっかり濡れてしまった彼女を放っておくのも気が引け、玄関先で立ち竦む彼女にタオルを持ってきてやった。彼女はタオルの使い方も遠慮がちで、少し拭いただけで返そうとしてきたから、仕方なく代わりに拭いてやることにした。
 彼女の許可を得て、二つに結んだ髪を解いた。
 この時初めて、髪を下ろした彼女を見た。水気をたっぷり含んだ彼女の髪は解いた後も固まっていて、ちょうど首の後ろで二つに分かれたままだった。おかげで彼女の白い首筋が露わになっていた。
 雛子は元々日に焼けていない人間だったが、この時の彼女は雨に当たったせいか磁器のように白かった。濡れたままの髪が首に触れると、彼女は冷たそうに身を震わせる。俺がタオルでその髪を包むと、掴み損ねた数本の髪が彼女のなめらかな首筋に這うように張りついた。そうなると指で触れるのもためらわれて、俺は真っ白な肌から目を逸らした。雨に当たった後だというのに彼女の長い髪からはいい匂いが漂い、親切心から拭いてやろうとしたはずの俺を思いのほか困惑させた。
 濡れた髪を下ろした彼女は、寒いからか、それとも俺に髪を拭かれるのが怖かったのか、おどおどと心細げな顔をしていた。だから彼女を不安がらせぬよう、なるべく優しく扱ったつもりだった。
 その時、俺の中には奇妙な感情、もしくは信念か、強迫観念か、よくわからないような強い意識が生じた。
 今時、『男が女を守るべきだ』と思うのは黴の生えた古い考え方かもしれない。
 でも、俺は雛子に対してそんな思いを抱いた。彼女は守るべき存在だ。傍に置きたいと思うなら、大切に扱い、慈しみ、そして愛さなくてはならない。
 そうしなければ、今までのようなぞんざいな扱いを続けたら、いつかきっと壊れてしまうだろう。

 あの日、初めて、雛子を女だと思った。
 正確に言えばそれまでも異性だと思っていなかったわけではない。彼女が同性だったなら端から違う形での付き合いをしていただろうし、異性だからこそ交際を申し込んだのだ。だが当時の俺は男女交際をもう少し気軽なものだと思い込んでおり――言ってしまえば舐めてかかっていた。彼女との付き合いもあくまで形式的なもので、好きな時に呼び出せて傍に置いておき、同時に他の人間を遠ざけることができる画期的手段だとさえ思っていた。浅はかにも程がある。
 だが彼女の女らしさを目の当たりにして、俺はこの関係が形式的なものでは済まされないことを悟った。そして俺自身が彼女をどう想い続けてきたのかも知った。抗いがたい感情の渦に巻き込まれた挙句、俺らしくもない直情的な行動に出て、それからしばらく悩み苦しむ日々も過ごした。
 あの日の出来事は思い出すだけでなく、今でも時々夢に見る。そうして目覚めた後で彼女に対する意識を再確認しつつも、同時に頭を掻き毟りたくなるような罪悪感にも囚われる。それでも俺は雨の日を嫌いになれない。あの日の記憶は俺の中に根ざした価値観すら変えてしまったように思う。
 胸の奥に火が灯ったようだった。彼女のことを考えると温かい気持ちになれた。俺といない時でも彼女には、いつも幸せであって欲しかった。あの控えめな笑顔が曇ることがなければいいと願っていた。
 それだけなら至極真っ当な恋愛感情なのだろうが、時々余計なことまで考えてしまう。

 気がつくと、バスルームの水音が止んでいた。
 がらりと戸が開く音がして、彼女が湯浴みを済ませたようだ。換気扇のスイッチを入れるのがやはり物音でわかった。タオルを手に取ったのも聞き取れたが、それ以上は気にしてはいけないと持っていただけの本に視線を落とす。しかし本の内容どころか一文、一単語すら頭に入ってこない。
 仕方なく殺風景な自室を漫然と眺めているうち、ようやく雛子がこちらへ戻ってきた。
「先輩」
 呼びかけられただけなのに、心臓がどきりと高鳴った。
 無視するわけにもいかず視線を向けると、戸口に立った彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。白いタオルをフードのように被った髪は濡れていたが、それは洗った後だからだろう。湯で温まったのか頬をほんのり赤くした彼女は、俺が貸してやったグレーのTシャツと東高校の青いジャージのズボンを身につけていた。
「済んだか」
 わかりきったことを俺は尋ね、雛子は真面目に頷いた。
「はい。あの……どうもありがとうございました」
「気にしなくてもいい」
「でも、大変助かりました」
 そう語る雛子は雨に打たれていた時よりもずっと明るい表情になっていた。あの時は痛々しいほどに打ちひしがれていたようだったから、人心地ついたなら何よりだ。
 俺としては実に居心地の悪い一時だったが。
「こっちは心臓に悪かった」
 思わずぼやくと、雛子はきれいに拭かれた眼鏡の奥で目を丸くした。
「え? 心臓、ですか?」
 余程物騒な発言に聞こえたのだろう。彼女は詳細を尋ねたそうにしていたが、もちろん話す必要はない。俺は答える代わりに自分が座っていた床のすぐ近くを目で示し、彼女に告げた。
「座れ。髪を拭く」
 雛子は特に驚きもせず、それどころか妙に嬉しげに俺の目の前の床に座った。そして差し出すように頭を軽く下げてきた。
 俺はその頭に被せられていたタオルを取り上げる。そして彼女の髪を慎重に拭き始めた。
 彼女の髪はシャンプーの香りがした。俺が普段使っている安物の市販品で、その匂いも嗅ぎ慣れていたはずだったが、彼女の髪から香ると違うもののように感じられた。濡れた彼女の髪は真っ黒で艶があり、下ろしていると結構な長さがあるように見えた。タオルで包むようにして、なるべく優しく拭いてやった。
「先輩」
 されるがままになっている雛子が、ふと俺を呼んだ。
「どうした」
 拭きながら聞き返すと、彼女ははにかむような声で続ける。
「あの、以前にもこんなことがあったのを、覚えていますか」
「以前? 何の話だ」
 脈絡のない問いのせいで、何について問われたのかすぐにはわからなかった。水を撥ねられたことについてだろうか。それなら覚えはない。
 すると雛子は微かに笑ったようだった。
「以前にも雨の日に、先輩に髪を拭いてもらったことがあったんです」
 ――覚えていたのか。
 俺も少し前まで思い出していたことだったが、雛子の口から話題に上ると余計に気まずく感じられた。密かに息を呑んだのが彼女に聞こえていなければいいのだが。
 彼女は視線を上げてこちらを見ている。期待するような眼差しだった。しかし俺は思い出話に応じてやる余裕などなく、話を逸らす意味も兼ねて彼女に言った。
「元気そうだな」
 普段通りの雛子に戻ったようだ。俺に指摘されて、雛子は怪訝そうにする。
「外で会った時は大層打ちひしがれた様子だったから、本当は何かあったんじゃないかと思っていたんだが」
 こちらがどれだけ気を揉んだと思っているのだろう。俺がわざと大仰に溜息をつくと、雛子ははっとしてすぐに小さくなる。
「すみません……あの、本当に何かあったというわけではなくて」
「単に、水をかけられて、それで落ち込んでいただけか?」
「そうです。心配をおかけしました」
 彼女が詫びてきたので、俺は全くだとばかり深く頷いた。
 それで雛子は、ますます決まり悪そうに苦笑した。
「考え事をしながら歩いていたので、避けきれなかったんです」
「またぼんやりしながら歩いていたのか」
 物思いに耽りながら所在無く歩く雛子の姿はたやすく想像できた。俺は彼女を咎め、彼女は項垂れる。
「はい、すみません……」
 雨の日の水撥ねは注意していても避けきれない場合があるものだが、雛子は自身の非を認めている。ならばそういうことなのだろうと俺も納得しておくことにした。
「本当に、何でもないんだな?」
「はい」
 面を上げた雛子が、次に深く顎を引く。
 それで俺も少し気が抜けて、口元に笑みが浮かぶのが自分でもわかった。
「なら、いい」
 彼女のことを案じていた認識はあったが、どうやら思っていた以上に気がかりだったらしい。彼女の口からはっきりと語られたことで、ようやく肩の荷が下りた思いがした。
 胸を撫で下ろした後、俺は再び彼女の髪を拭き始める。
「一体、何を考えながら歩いていればそんな目に遭うんだ」
 迂闊な奴もいたものだと思いながら尋ねたが、彼女はそこで不自然に沈黙した。
 睫毛を伏せた表情を見るに、俺には打ち明けにくいことらしい。深刻な悩みでなければいいのだが、そう思いながら俺は更に問う。
「くだらないことなのか」
 それならそれでいいという思いもあったが、雛子はまだ黙っている。
 ただ無言の表情には逡巡の色が浮かんでおり、俺に話すかどうか、あるいはどのように説明するかを考えあぐねている様子に見えた。
 俺は雛子に思案の時間を与え、その間彼女の髪を拭き続けた。
「くだらないことでも構わない」
 そして迷う彼女に対し、言葉を重ねていった。
「話くらいは聞いてやる。どうしても我慢ならなければ口を挟むかもしれないが、とりあえず話してみろ」
 相談相手として、俺はおよそ不適格な人間だろう。気に入らないことには黙っていられない性分だし、余程のことでもない限り自らの価値観を曲げるつもりもない。彼女が日常生活において直面するような悩みは、友人関係にしろ家族関係にしろ、あるいは大学受験一つとっても俺が経験もしていないようなことばかりだろう。経験のない事柄に適した助言ができるとも思えない。
 だがこういうものは他人に話せば楽になるとも聞く。俺はそれを実感したことがまだないが、それが世間一般の常識なら、雛子にもまた当てはまるのではないだろうか。
 何よりも俺は――彼女を悩ませ、苦しめるような事柄について、俺が何一つ知らずにいるのが最も我慢ならないのだ。
「そのくらいの力にはなる」
 やがて俺は、彼女の頭からタオルを外した。そして乾きかけたその髪に触れてみる。
 癖のない彼女の髪は指で軽く梳いただけでも真っ直ぐになった。まだ水分が残っているせいか、絹糸のように指先に冷たく、柔らかく感じた。髪を梳きながらその顔を覗き込もうとすると、雛子はそわそわと落ち着かないそぶりで視線を下げた。意味もなく床を注視する彼女はどこか困ったような顔をしていて、それが俺には堪らなく可愛く見える。
 いつもこのくらい、わかりやすければいいのに。
「それとも、俺では頼りにならないか」
 俺が冗談のつもりで続けると、雛子は、今度は酷く驚いたようだった。大きめのTシャツを着た細い肩が、びくりと震えたのがわかった。
「そんなことないです」
 まだ俯いたままだったが、きっぱりと彼女は言ってくれた。
「だったら話せ」
 そこで俺は彼女に、改めて促す。
 雛子は自らの胸の前で小さな手を握り合わせると、少ししてから面を上げた。
 表情は思ったよりも明るい。だがそこに笑みはなく、潔癖なまでに生真面目な顔つきにも見えた。彼女の悩みは単純なものではなさそうだと、この時察した。
「話を、聞いてください」
 彼女の声は静かだったが決然と部屋に響き、雨脚が弱まったことを俺に気づかせた。

 カーテンを引いた部屋は薄暗く、夕方とも夜ともつかない曖昧な雰囲気があった。
 蛍光灯の人工的な光がその曖昧さに拍車をかけ、この部屋ごと時の流れから隔離されたような錯覚に陥る。
 実際に今が何時くらいかは時計を見ればわかる。左手首に巻きつけた腕時計の文字盤を覗き込むだけでいい。だが俺は時間を知りたくない気分になっていた。見て見ぬふりをしていれば、こうして過ごす時間がわずかでも引き延ばせるのではないかと、柄にもないことを思い始めていた。
 雛子は、俺の目の前に背筋を伸ばして座っている。
「焦りがあるんです」
 切り出した声はかすれていた。そういえば紅茶を入れてやろうと考えていたのにすっかり忘れていた。この話が一段落したらそうしよう。
「この間進級したと思ったら、いつの間にかもう六月です」
 彼女は心細そうな面持ちをしていた。そういう顔をしている時の彼女はとてもか弱く、小さく見え、守るべき存在であることを改めて思い知らせてくれるようだった。
「こんなふうに時間が、知らないうちに過ぎ去ってしまうのかと思うと、しなくてはならないことの全てがやり遂げられないまま終わってしまうような気がして……」
 俺は、ぽつぽつと言葉を紡ぐ彼女を黙って見守っていた。
「先輩もご存知の通り、私は今年度から文芸部の部長になりました。といっても、三年生が一人きりだからやむなく、ですけど。でも」
 ふう、と雛子が溜息をつく。
「部員は一向に増えませんし、現在いる三人だけでは活動も細々としてしまいます。私も秋には引退しなくてはいけませんから、せめてそれまでに形に残る活動をして、部員を勧誘したいと思うのですが、妙案も浮かばない状態なんです」
 どうやら彼女は文芸部の部長になったことを重大な責任だと思っているらしい。特に歴史があるわけでもない高校の部活動において、そこまで思いつめる必要もないだろうにと感じてしまうのは、俺があの部活動自体にさしたる愛着を抱いていなかったからだろう。
 雛子にとっては思い出深く、大切な場所なのかもしれない。
「受験勉強も……事実を言えば、あまり順調に進んでいないんです」
 俺の思索をよそに、彼女は尚も語る。
「どうしてもいろんなことを考えてしまって。高校生活が終わってしまうことが何となく、信じられなくて、現実のことのように思えなくて、どうしても行き詰まってしまうんです」
 焦りを滲ませてか、時々小声になりながらも訴えてきた。
「私、このままだと何もかも成し遂げられないような気がするんです。このままでは、全てのことをやり残したままで卒業してしまうような気がして、ならないんです」
 そこまで話すと彼女は、何かを堪えるように色艶の戻った唇を結んだ。
 やはり、彼女の悩みは俺の経験し得ない事柄ばかりだった。俺は文芸部自体がどうなってしまおうと関心もないまま卒業してしまったし、大学も推薦で入った為、彼女ほどの受験勉強は必要としなかった。
 そもそも心構えからして異なるのだろう。俺が傍らに置いておきたいのはごくわずかなものばかりだけだった。だからその為の努力も最小限で済んだ。だが彼女の目標はおよそ高すぎる。部活動で成功を収め、受験もくぐり抜けた上で、残り一年を切った高校生活に何の瑕疵も、心残りもないように過ごしたいと考えているのだろうが、そこまで完璧にやり遂げられる人間などそう多くはない。
 全てをうまくやり遂げなければならない、といった使命感は、恐らく全能感の裏返しだろう。自分が最大限、たゆまずに努力すればそれが叶うと思っているからこその、言ってしまえばただの自惚れだ。彼女は自らの実力を客観的に見られていないのだ。
 だがその自惚れは俺にとって共感できるものでもあった。
 俺もかつては、自分の意思と力でどうにでもできると思い込んでいた事柄があった。
「身の程を知ることだな」
 だから、俺は彼女の悩みにそう答えた。
 雛子が瞬きをする。
「身の程……ですか」
「そうだ」
 俺は頷いて、耳を傾けようとしてくれる彼女に続きを話す。
「できもしないのに何でも完璧にやり遂げようと思えば、必ず失敗する。できないことがあるのはおかしなことじゃない。むしろ、自分が何を求められているのかを把握して、それだけは確実に成し遂げられるようになるべきだ」
 その時、彼女は心当たりがあるかのように身を竦めた。
「例えば文芸部のことだ。お前は三年が一人しかいないから、やむを得ず部長になったんだろう。なら、誰もお前に上等なことを期待していないはずだ。欲張らず、部長として最低限すべきことだけこなしていればいい」
 高校の部活動でできることなんてたかが知れている。一人の生徒にできることは、更にわずかだ。彼女が望む最高の結果を出すことはほぼ不可能だろう。それを望まれて部長に選任されたのでないなら、そこまで結果を追い求める必要はないはずだ。
「……はい」
 雛子が神妙に顎を引く。
「大切なのは、優先順位を忘れないことだ」
 何かと背負い込みがちな人間には、それは何より必要な心構えだろう。
「この一年を棒に振ったと後で悔やむことのないよう、まずは何を優先させるべきか、お前が今求められていることは何かを冷静に、落ち着いて考えろ」
 俺は釘を差すように彼女に言い聞かせた。
「他のことは余裕ができてからでもいい。誰もお前を完璧な人間だと思っていないだろうし、お前に対して完璧さを求めるはずもない」
 俺自身がそうだった。過去には彼女に完璧さを求め、その対応に不十分な点があると身勝手にも苛立つことがあった。
 だが今となっては彼女の不十分さ、対応の至らなさ、愚かさや弱さや不要だったはずの女らしさにも愛着を抱くようになっていた。
 俺とは違い、雛子は大勢に好かれている人間だ。そして彼女の周囲にいる人々も俺と同じように、彼女を完璧な人間だとは思っていないだろう。彼女の欠点も含めた全ての要素で柄沢雛子という人間を認識し、そしてその上で好いているのだろう。
 この思い込みがちな性格に困らされているのも、きっと俺だけではないはずだった。そのことが少し微笑ましく、少し寂しい。
「……私、身の程知らずでした」
 雛子は俺の言葉を聞き終えた後、いくらか意気消沈したようだ。力なくぼやいた。
「完璧でありたいと思っていたのは、本当に、先輩の仰る通りです。完璧にはなれなくても、限りなく完璧に近い人間でありたいと思いました」
 俺もすっかり手を焼いている。どうしてそこまで深刻に思い込めるのか、不思議でならない。
「理想が高すぎるな。お前の場合は」
 しかしそこで、雛子は急に微笑んだ。どちらかと言うと苦笑いに近い、照れたようでもある笑い方だった。
「そうだと思います。私の理想は、先輩ですから」
 聞き違えたかと思った。
 理想と言ったのか。彼女がその完璧さを追求する行動原理を、俺に見ていると言うのか。
「本気か?」
 ぎょっとして聞き返すも、雛子は何がおかしいのかわからないというふうにきっぱり答えた。
「もちろんです。先輩は、限りなく完璧に近い方だと思います」
 俺は思わず、そう断言した雛子の眼差しを眼鏡越しに観察した。目が悪いのだということは十分すぎるほど知っていたが、それにしても今の言葉は正しくないだろう。
 完璧な人間なら、たった一人に心を煩わされて何も手につかなくなるようなことなど、あるはずがないのに。

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